4 港町・小さな世界の終わり

 二人は朝を迎えた。


 差しこんでくる朝日は暖かで眩しかった。久暁は、自分の隣ですやすやと眠る璃月の頬をそっと撫でた。おはよう、と優しく声をかけた。璃月は重たい瞼をゆっくりと開け、うーんと言いながら伸びをしつつ、体を起こした。


 久暁がこっそりと持っていた乾燥した野菜や飯を食べ、彼らは小屋を発った。


 ここは小さな山の上だった。少し歩いたところに、ちょうど山の下の様子が一望できる高い場所があった。久暁が言っていた港町が見えた。都ほどではないが、多くの人が行きかうのが見えた。


 また、海が見えた。璃月は海というものを初めて見た。深い青が空の境まで続いている。彼女は、わくわくした。


 ふもとの港町に向かうということで、彼らは山を下った。二人は手をしっかりとつないでいた。互いが離れてしまうことのないように、ぎゅっと強く握られていた。でこぼこした道や雑木林を潜り抜け、なんとか山を下りた。久暁はそれなりに体力のある方だったが、璃月はそうでは無かった。久暁は、彼女に気を使って度々休みを取った。おんぶをしてあげることもあった。


 山を下りてからしばらく歩き続け、港町へ到着した。町の建物の大半は、都と同じくらい、強固であるようだ。魚や異国の品を売る者が多いようで、璃月が見たことのないものがたくさんあった。


 久暁に手を引かれて歩いていた璃月であったが、今は違った。久暁の手をぐいと引き、あちらこちらを見て歩き回った。二人ともが、綺麗な宝石で彩られた装飾品に目を奪われた。細長い布を蝶のように結ったものや、薄く、端が波打つような形で切り取られている布であしらわれた、愛らしい女性用の衣装に、璃月は興味を持った。


 久暁も、璃月が気に入ったものをじっと見つめていた。ただ、到底彼らのような幼い子供が手の出せるものでは無かったため、実際にそれに触れることは出来なかった。


 しかし、短いながらこの上なく楽しい時間であると、二人は同じ考えを抱いていた。


 市場を見学していくうちに、港へ近づいて行った。各都市の使節の人間も集まるこの町には、久暁の知り合いがちらほらといるようだった。中には異国の人間もいた。


 璃月は今まで、両親、養父、久暁以外に深く関わりを持った人がいなかった。しかも両親と養父からは見放されている。唯一当てできて、信頼していて、大好きな彼が、自分の他の誰かと親しくしているところを見るのは、何となく、寂しかった。


 久暁が璃月の知らない誰かと話すたび、彼女は握った手をじっと見て、より強く握り直した。久暁はその様子に気付くと、申し訳なさそうに微笑んで、璃月の頭にぽんと手を置いた。


 港に到着した。潮の匂いがするといったところだが、璃月にとっては塩の匂いだった。海から吹く風は冷たかった。


「璃月」

「なあに?」

「急かもしれないけど、異国へ行けるよ」

「ほ、ほんと?」


 あまりの急な展開に、璃月は頭が付いていかなかった。声のひっくり返った、妙な返答をしてしまった。


「うん。君はもう、あのような目に遭わなくて済む」


 市場で楽しい時間を過ごしたが、それが損なわれることが一切なかったとは言えなかった。


 都のあの事件の噂は、こんな場所にも広まっていたのだ。有力な貴族の不可解な死をもたらした化け物は、都を脱走し、近隣の小さな村を襲撃し、山に逃げたとの噂を時々聞いた。


 幸い、疑いをかけられた彼女の容貌までは伝わっていないようであった。しかし、かの村、璃月の故郷だった村を襲撃したなどというありえない尾ひれを付けて泳がされていた。璃月はその話を聞くたび、むっとしていた。


 国政の要人であった養父を殺害したとなれば、まず間違いなく、死罪だろう。一思いに殺されてしまうのであればまだいい方だ。捕縛されてから処刑に至るまでどのような恐ろしい目に遭うのかは、想像に難くなかった。


 璃月はそれを想像するだけでも震えと涙が止まらなかったし、久暁は怒りで頭がどうにかなりそうだった。


 そうなることのない異国へ逃げることは、彼らにとって、最善の選択肢であった。さらに、久暁は異国へ行ったつてがあり、そのあたりの取り計らいには長けているようだった。


 港にある一つの建物に入り、知り合いだという異国の男性と久暁は話を始めた。何やらそのための準備の話が込み入っているようで、璃月は長い間待たされた。


 じっと我慢していた。握った手を何度も見返した。話が止まり、久暁は璃月の方を見て言った。


「璃月、長くなってしまうみたいだから、待っていてほしい」


 久暁は璃月の手を放した。


「外に出て、近くにある店などを見ていてほしい。ただ、何かあった時のために、あまり遠くへは行かないでね。この周辺は僕の知り合いたちが経営しているから、すぐに教えてくれると思う」

「……うん、わかった」


 離れた手を名残惜しく見つめながら、璃月は建物の外へ出た。彼女は、とぼとぼと歩きながら近くの出店の商品を見た。色とりどりで、いい匂いがして、活気のある声が飛び交い、良い場所なのだろう。でも、今の彼女にはそう感じられなかった。すすめられた食べ物を全て口にしたし、たいそう美味であるはずなのに、素直にそう思えなくなっていた。まだかな、まだかなと、彼を待つばかりであった。


 そうやって過ごしているとき、ふと、海を見つめてみた。何もなくただ横に真っ直ぐであっただけの海と空の境から、何かがこちらの町に向かってくるのが見えた。


 遠くにあったので、はっきりとは見えなくて、初めは点にしか見えなかった。だんだんこちらに近づいてくると、その形が分かるようになった。


 船だ。


 それも、いくつもある。港に泊まっている船とは少し形が違うようだった。璃月は気になって、それらを観察し始めた。その船は離れていても大きいのがよく分かった。作りは非常に丈夫そうで、嵐に遭遇しても容易に壊れてしまうものではなさそうだ。人も大勢乗っているが、どんな容貌、服装をしているのかは、よく見えなくてわからない。


 ただ、手に何かを持っているような人が大勢いた。船の上には積み荷らしくはないようだった。ただ、黒くて大きなものが規則正しく並んでいて、全てがこちらを向いていた。璃月は見たことが無いものだった。


 そのとき、どん、と海の方から大きな音がした。船から煙が出ているのが見えた。


 火事だろうか、あの上にいる人たちは大丈夫なのだろうかと璃月は思った。それを向けるべき真の対象は、彼女の背後にあった。町から人々が騒ぎ立てる音がした。


 これはまるで、あの日の都のようであった。璃月は振り返って辺りを見回すと、町の一部が大きな炎に包まれていた。再び、先程の大きな音がした。今度は、数回も同じ音がした。船に積まれた黒いものから何かが出て、それが町を火の海に変えているようだ。


 その黒いものは、故郷に帰った際に自分に向けられた銃を、そのまま大きくしたようなものだった。あの小さな弾が体に打ち込まれただけでも引き裂かれるような痛みを感じたのに、それがあんなにも大きくなったら、どんなに恐ろしいだろう。


 璃月はその場を急いで離れる。久暁のいる建物へ駆け込んだ。


 そこには誰もいなかった。


 璃月は目が熱くなるのを感じたが、今はそんな事をしている場合ではないと、ぐっとこらえ、町のどこかにいるはずの久暁を探しに走り出した。けれど、炎で崩れゆくこの町の中を駆けていくと、そうはいかなかった。


 怪我をして苦しむ人々が数多くいたのだ。璃月は、そんな人々を見過ごすことができなかった。一人ずつ、力を使って傷を治していった。久暁がいてくれたおかげでこの力を使うことはあまりなかった。久しぶりに力を使う機会であった。


 璃月は、この力が誰かのためになること自体は嬉しかったのだ。その目的が、何かを傷つけることに向かうことがなければよかったのである。彼女に手当てを受けた者たちは、不思議な目で彼女を見つめていた。


 忘れたころに、あの大きな音がした。璃月は瞬時に頭上に目をやった。黒い球だった。これに火薬が詰められ、着弾と共に爆発し、周囲を燃やし尽くしているのだろう。彼女は反射的に手をかざし、力を込めた。白い光が放たれた。


 それは彼女の近くにいる者たちを守る囲いとなった。黒い球はその守りにより害を与えることなく、爆発するだけであった。璃月も、周囲の人々も、何が起こったのか分からなかった。けれど、璃月はここにいる人たちを無事に逃がすことを決意した。


 自分の力が誰かのためになるのなら、それは、自分にとってもいいことだ。久暁がいない今、自分の価値をそうやって見出すしかなかった。


「みんな! 逃げて!」


 こんな小さな娘の言うことなど、普通は誰も信じないはずだ。けれど、砲撃を防いだのをこの目にしたのだ。何者かは分からずとも、信じるしかなかった。人々は、怪訝な顔をしつつも、彼女の声に従ってその場から逃げ出した。璃月も、この火の海に誰もいないことを確認してその場を立ち去った。あの船たちが来てから、安堵する余地などなかった。


 最悪の事態が起こっていた。


 人々が逃げた方向に進むと、先ほど助けた者たちの亡骸があった。まだ身体の温かさが抜けていないようだった。胸を一突きにされたもの、全身を強打し体があらぬ方向に曲がっているもの、四肢、もしくは頭部を切断されているものもいた。幼い子供と共に貫かれた親の姿もあった。それらの姿を見て、璃月の体の中にあったものが、全て口から外に押し戻されてしまった。


 ついさっき見た、船上にいた者たちがこの町に降りてきていたのだ。手に持っているものは、武器だった。刀とは違う、長い刃物を手にする者もいれば、棒の先に鋭い刃が付属するものを持つ者もいた。もちろん、璃月に向けられた銃のようなものを持つ者も数多くいた。


 しかし、あの時とは何かが違う。ただ、人の身を傷つけるものであるだけの気配を感じない。これは、そう、まさに璃月に似たような力の気配を感じたのだ。不思議な力を使える者同士は互いにそれを感じ取ることができるとでもいうのかと、朦朧とする意識の中で、璃月は思った。死んだ者は、いくらこの力があってもどうにもならない。璃月は泣く泣く走り出そうとした。


 異国の船から降りてきた者たちが、彼女を逃がしてくれるはずはなかった。彼女を取り囲み、武器を構えて襲い掛かる。彼らが何を持ってこのようなことをするのか、詳しいことは分からない。


 でも、どこかで聞いたことがある。人間は自分の住む国を強くしたいがために、他の国を滅ぼすのだと。そんな愚かな争いの中で命を落とすことだけはご免だと、璃月は思った。


 そして、罪のない人の命を無差別に奪うことが許せなかった。璃月は、この状況を潜り抜けるべく、決意した。


「どきなさい!」


 不思議な力を最大限に発した。


 こんなに強い力を人に向けたのは、初めてだ。凄まじい風圧により兵士たちは近くの地面に投げ出され、動けなくなっていた。それでも、彼らの数は尽きることは無かった。次々と向かい来る彼らを押しのけ、璃月は走り続けた。


 履物がいつの間にかなくなり、白く小さな足はいつの間にか汚れて赤く染まっていた。璃月はその痛みに耐え続けた。久暁さえ見つかれば。そう思って、走り続けた。


 町の端の方へたどり着いた。船が数多くある。遠くからやってきて、兵士たちを送りだした船とは違っていたことには安心した。それも、久暁が話をしていた場所の近くにあった船にどことなく似ていた。


 周りを見渡すと、兵士はいないようだった。この場は、逃げ切ることができた。璃月は人がいないか、辺りを探し回った。倒壊した建物の破片によって、怪我をして動けなくなった町の人が少しばかりいた。見つければ手当てをし、町を出るように伝えた。建物は全てあたった。


 けれど、久暁は見つからなかった。


 久暁の知り合いらしき人も見当たらなかった。あとは船だ。璃月は船というものには乗ったことが無かったが、この状況でそんなことは言っていられない。海の上に浮かんでいるというのが、少し怖いと思ったが、桟橋にかけられた船の乗降口から恐る恐る船の上へ進んだ。


 やはり、誰もいない。


 普通に考えれば、このような状況では、表へ出るのは危険である。璃月は当てが外れたかと残念に思ったが、一つのことに気付いた。乗る場所は船上だけではないということだった。船を見渡せば、下へと続く階段のようなものがあった。もしかしたら、誰かがこの中に隠れているかもしれないと思った。璃月は、そこへ足を踏み入れた。


 暗い階段を下りると、扉があった。自分の住んでいた場所とは違う戸のようで、ずらそうと思っても開かなかった。そこで、取手のようなものをつかみ、思い切って手前に引いてみたら、扉は開いた。


 そこには懐かしい姿があった。


「久暁!」


 彼の姿があった。あのとき街で見かけた異国の者たちに囲まれていた。久暁を含め、彼らはこの戦火に巻き込まれていないようだった。彼は異国の衣装を身に纏っていた。璃月は急いで彼の元へ駆け寄った。そして、彼の身体に思い切り抱き付いた。そして涙を流した。


「久暁……無事で……よかった……」

「こっちこそ、心配かけてごめんね」


 久暁も優しく彼女を抱きしめた。そして、久暁は言葉を続けた。


「璃月、喜んでくれた?」


 突然、彼は意味の分からないことを言い出した。


 ここに移動するまでの様子を見て気が動転していたのだろうか、と璃月は思った。きっと、この船の中という安全な場所にいることに対して言ったではないかと想像したが、念のため、璃月は彼にその意味を問う。


「え、ええと……この場所が安全だから……ってこと?」

「まあ、それもあるけど」

「違うの?」


 少しの沈黙の後、久暁は軽く口を開いた。


「この町が、この国がなくなるところ、良かったでしょ」


 璃月は顔をしかめた。来て数日しか経っていないこの町に強い思い入れがあるわけでは無い。けれど、こんな風になるのは見当が違う。久暁は、こんな人間であったのか。


「……何を言っているの」

「遠くからやってくる船がたくさん見えたろう。あれは、他の町にもやってきて、同じようなことをするように指示されている」

「どういう……こと?」


 久暁はめいっぱい心を込めて璃月に微笑みかける。


「僕はね、君を酷い目に合わせたあの男が自分のものとしたこの国は、もういらないと思ったんだ。だから、異国へ行ったときに向こうの者と手を組んで、こうするように計らってもらった」

「そんな……」

「璃月、君にとってはいいことだろう? 君を自分の都合の良い道具としか思わなかった馬鹿な男と、それに付き従った者たちが無惨に死んでいく様子を見られたんだから」


 璃月は久暁の発言に息を呑んだ。自分の信じた彼は、こんな者であったのか。


「もう気付いているよね。あの夜、あいつを殺したのは、僕だ」


 彼は自分のためとは言うけれど、そんなこと、受け入れられるわけがなかった。璃月の為になるどころか、彼女は濡れ衣を被せられている。


 そして、一つ気になったことがある。それなりに力のあった彼とはいえ、あのような、とても人間の技とは思えない、奇怪な殺害の仕方が可能なのであろうか。


「璃月、僕はね、力を取り戻したんだよ。それも、君とは少し違う力だ。気に入らないものは、全て壊す。そんなところだ」


 不思議な力を取り戻したというが、そうではなさそうだ。これは自分と似て非なるものだ。


 彼の紅い瞳がそれを物語っている。その名の如く、苛烈だった。


「璃月、この腐った国はじきに人の住めるところではなくなる。僕と一緒に行こう。そして、そこでずっと、ずっと一緒に暮らしていこう」


 久暁の周りにいる者たちもそれに同調するように話を聞いて頷いていた。璃月はそうは思えなかった。


「……久暁、私はそんなこと、してほしくない」


 久暁は悪びれる様子もなかった。あくまで、『璃月』のために行ったことであるのだから。他の者なぞ、どうでも良かったのだ。


「璃月、僕が手を放した時にひどく寂しがらせてしまったみたいだね。ほら」


 久暁は手を差し伸べた。


「今度はもう、いや、二度と放さない」


 彼は、半ば強引に、引き下がっていた璃月の手を取った。璃月の答えは一つだった。


「久暁とは一緒に行けない」


 璃月は彼の手を勢いよく振りほどいた。紫色の瞳は強く彼を睨み付けた。そして、入ってきた扉の方へ走って向かい、船の外へ出ていった。


「……残念だな」


 久暁は寂しそうな顔をして言った。けれど、焦りは見せなかった。


「追いかけるよ」


 璃月の逃げた方へ、仲間を連れて歩いて行った。


 璃月が暗い船の室内から外へ出ると、信じられない光景が広がっていた。火の海、瓦礫の山、人々の悲鳴、兵士の怒号、あちらこちらに散らばる死体、灰によって暗くなった空、それにとどまるものでは無かった。そんな様子は先ほどさんざん見せつけられたというのに、まだそれを上回ることがあろうとは思わなかった。


 空を飛びかう大きな生物が何匹もいた。都にいた時に、絵巻物で見たことがある。竜だろうか。ただ、絵とは形が少し違うようだ。絵で見たものはどちらかというと蛇のようで、長い体をくねらせて空を飛んでいた。


 けれど、今目にしているものは大きな翼を持っていた。絵で見た時には到底分かるはずもなかった、とてつもない雄たけびを上げていた。そして、口から炎を発した。それは凄まじい速度でこちらへ襲い掛かってきた。これは、人が扱う炎の類ではない。自分と同類の、それ以上の力だった。


 直撃はしなかった。しかし、白い衣はもう元の形を保っていなかった。彼女の身体を掠っただけの炎が、柔らかな皮膚を引き裂くような痛みで襲ったのだ。璃月は悲鳴を上げ、地面を転がり回った。普通の人間ならばとっくに死んでいるところであろう。


 璃月は、自分の持つ不思議な力が、全身に行き渡っていることを、身をもって知った。痛みで頭がおかしくなりそうであっても、そのようなことを考えられるほどの意識が保たれていたことを恨めしく思った。いっそ、瞬時に殺してくれればよかったものを、とさえ思った。


 久暁たちが船の外へ出てきた。彼らの耳に、あの巨大な竜の鳴き声が響いた。思わず、彼らは耳をふさぐ。それに、その竜を見て驚いていた。久暁も例外では無かったが、璃月の悲鳴を聞いてそちらに急いだ。


 久暁が初めて、焦りを見せた。


 しばらくして、痛みで泣き叫ぶことにも疲れ、ぐったりとうなだれる璃月の元に、久暁がたどり着いた。彼女の無惨な傷跡をじっと見つめる暇もなく、炎は久暁にも襲い掛かる。


 久暁は、璃月を庇った。そして、彼女同様の傷を受けた。彼は泣き叫ぶことはしなかった。けれど、口を思い切り噛みしめ、こらえていた。そして、震える声で発した。


「……話と違う! あいつら……ッ」


 遠のきそうになる意識をなんとか手繰り寄せ、璃月は久暁の言葉と姿を感じ取っていた。また、彼は自分の分からないことを言った。


 突然、先ほどの兵士たちがやってきた。そして、傷ついた久暁を取り押さえた。さらに、不穏な光が彼を包んだ。彼はそれに苦しんだ。炎で焼かれた傷に追い打ちをかけられたようだ。


 そして、璃月は背後からいきなり体を押さえつけられた。僅かな力で抵抗しようとした。


「離して! 嫌っ!」


 船の中で、久暁はもう、あの頃の彼ではないと分かった。でも、再び自分を守ってくれた。だから、彼の名を、叫ぶ。


 あんなに近くにいたのに、あの小さな小屋で、互いの想いを打ち明けたはずなのに、彼のことが分からない。でも、身体はそうはさせてくれなかった。彼の名が、助けを求めて自分の意思とは関係なく何度も発せられる。


「久暁……久暁っ! 助けて! 久暁……!」


 もう当てに出来ないことは分かっていても、そうするしかなかった。目からは涙がだらだらと流れ出て、声は枯れそうになった。男数人がかりの力と不思議な力で押さえつけられ、身体の節々はもう限界だ。


 久暁の仲間たちも、兵士たちに敵意を向けられていた。殺し合いが始まっていた。もしくは、竜たちの炎に焼かれる者もいた。久暁と、彼の仲間たちはもはやどちら側なのかわからない。


 けれど間違いなく、自分と久暁たちを害そうとするものがいることが分かった。


「璃月! 璃月を離せっ! ……璃月だけはと言っただろう!」


 傷だらけの久暁は苦し紛れにそう言った。そして、それは、璃月が耳にした、彼の彼女に対する、最後の言葉になり得なかった。


 彼女を取り押さえようとするうちに放たれた、頭部への打撲が、彼女の意識を完全に絶ってしまっていたのだ。


 青い海が揺らめいて見える、明るい港町はもうなかった。赤い炎が渦巻き、怪物と残骸の溢れかえる焦土であった。


 少女は闇の中へと置き去りにされた。視覚、聴覚、嗅覚、触覚、全てを閉ざされ、繋ぎとめていた筈の、残り少ない、かけがえのなかったものさえも奪われた。

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