『杯中花』

 初めて会ったとき、彼はレンズの青いサングラスをかけていた。

 彼はそれを外して──私が注視していることに気付いたのだろう。

 自らの薄ら青みを帯びた白目を指差して、これは骨の病気のせいなのだと、この似合わないサングラスは注目されるのが恥ずかしいからつけているのだと、そう流暢に教えてくれた。淀みがなかった分、それはきっと彼の中であまりにも言い慣れた文句だったのだろう。

 当時無知だった私は、頷く他なかった。それから目を伏せて、別に似合ってないことないわ──なんてちょっとだけ可愛げのある台詞を口の中でもごもご転がすしかなかった。

 否、あのときそれが嘘だと気付いたところで。

 私が、無知ではなかったところで。

 今の──この状況が変わっただろうか。

 愛する人のために、愛する人たちの命を手にかけなければならない。

 そんな状況を、一変させることができただろうか。

 

「鏡花ってさ、どういう男がタイプなんだ?」

 シャープペンシルの芯が、ぽきんと折れた。つい手に力が入り過ぎてしまった。肩越しに振り返る。

 晶はベッドにうつ伏せになったまま、携帯型ゲームに興じていた。目が合うことはない。イヤホンを片方だけ外しているのは、こちらの返事を聴き取るためだろう。開きっぱなしのファッション誌が、肘の下敷きになっていた。マルチタスクここに極まれり、見ているだけでIQが十五ポイントは下がりそうな絵面だと鏡花は思う。

「いや、やっぱ玲一兄みたいによ。民族学とかに詳しいヤツがタイプなのかと思って」

 ──玲一兄。

 思わず口許を押さえ、苦笑した。

 晶が、睨むような目つきで鏡花を一瞥いちべつする。

「別にいいだろ。たとえ私らだけでも、この家にいる間アイツは玲一兄だ」

「箱庭での暮らしも板についたものね。本当に──お上手だこと」

 皮肉が、混じっていないと言えば嘘になる。しかし、全くの嘘偽りというわけでもない。事実、大野木晶は演技派だろう。少なくとも自分よりかは、ずっと。

「うっせー三百代言さんびゃくだいげん。で、どうなんだよ? 好きなタイプとかさ、そういうのいねぇの?」

「いないわ」

 即答した。机に向き直って、作業途中だったルーズリーフをファイルに仕舞う。

「いないって──」

「言葉通り、異性の好みなんてないわ。私が好きなのは玲一だけ。好きになっていいのは玲一だけ」

 好きになっていい──そこで罪悪感を露わにした晶の横顔に、つい口の端が歪む。気の毒がる必要など微塵もない。この女にとって、自分はまだ可哀想な被害者もとい"犠牲者"なのだから。

「私、彼と約束したのよ。私が最後の独りになる。鬼姫おにひめの座に着いてみせるって」

「お前、それは──」

「言ってる意味をわかってるのかって? もちろんわかってるわ。貴女だって内心ココと自分さえ生き延びられればそれでいいと思っているのでしょう? 他を犠牲にして、ココだけでも幸せにできるならそれでいいと思っているのでしょう? ひなもささめもつくしも当然私のことだって」

 ──どうなってもいいと、そう思っているのでしょう?

 と、ドアが控え目にノックされた。

 晶はゲームの電源を切ると、やや乱暴にイヤホンを外した。ベッドから降りて、ドアを開けた。

「あ、あの──」

 ひなが立っていた。ドア越しにも伝わるものがあったのか、それとも晶の剣幕を見て何かを察したのか、明らかに怯えたような目をしていた。

「なーんだ。ヒナヒナじゃん」

 晶は、肩の力を抜いた。

「あっ、

「あー、はいはいストップストップ」

 晶はひなと目線を合わせると、遠慮のない手つきで彼女の頭を撫で始める。

「この面子だからって気ぃ遣わなくていいから。ってか、ユキンコが聞いてたらドン引きだろ? 私は晶お姉ちゃんで、あっちのおっかないメガネは鏡花お姉ちゃん。オッケー?」

「は、はい」

 ひなが頷いた。遠慮がちにちらちらとこちらを見ている。胃の痛むポジションだと鏡花は思う。だが、思うだけだ。同情まではしない。少なくともこの鬼姫を巡る戦いにおいて、大野木ひなは大野木鏡花の味方ではない。限りなく晶寄りの存在だからだ。

「そんで? どーした」

「うん。一階でおかあさんが呼んでたよ。ちょっと手伝ってほしいことあるって」

「ふーん。うっし、わかった──って、内容は言ってなかったのか?」

「うん。手伝ってほしいから呼んできてって。それだけだったよ」

「マジか。中身わかんねぇ辺りがチョー怖え。まっ、どうせヒマしてたんだけどな」

 ひなが晶に抱き抱えられる。きゃあっと弱々しい悲鳴が聞こえた。

「や、やめてよ。晶さ──お、おねえちゃん!」

「うるへー。これは私のことをうっかり『晶さん』と呼んじゃった罰ゲームだ。このままリビングまで行って、いやぁひながウルウル眼でおねだりしてくるもんだからついね、こりゃ将来は男殺し確定ですなぁアハアハとか何かそんな感じのことを言いまくってやる」

「えっ、ええっ!?」

 鏡花は頬杖をつき、眉根を寄せる。

 騒々しい。だが、不快の理由はそれだけではない。ココとささめが晶と一緒にいられるのはわかる。あの二人は何も知らないからだ。晶が過去にしたことも、自分たちが過去に晶から強いられたことも、自分たちがこの先辿ることになる運命も。

 でも、ひなは違う。あの娘は全てを知った上であっち側にいる。向こう岸で晶やあの娘たちと一緒に笑っている。

 ──共感できないし、したくもない。

「なあ、鏡花」

 呼ばれて我に返った。晶の背中を見ると、幽かに笑った気配がした。

「私さ、今は皆のことが好きだ。ユキンコも、ヒナも、ささめんも、つくしも、まこ姉に玲一兄も、もちろんお前のことだって。大野木の家が、私の家族が大好きだ。私がやったことは決して許されることじゃないし、お前に許してもらえるとも思ってない。だから──お前は今のままでいいよ。私のことを恨んでていいし、呪ってていいし、私のやろうとしてること、どうしても信用ならないっていうんなら、好きなだけ邪魔してくれたって構わない。それでも──」

 それでも──。


「私が、何とかしてみせるから」


 晶がそっとドアを閉めた。最後まで振り返ることはなかった。

 椅子にもたれた。ちらと本棚を見遣れば、スクラップファイルが並んでいる。自ら手掛けた妖怪図録──そのほんの一部。玲一に近付くためというのは、所詮表向きの動機だ。これもまた布石の一つに過ぎない。自分が生き残るために、彼と共に新たな一歩を踏み出すために。

「信用出来ないなら、好きなだけ邪魔してくれたって構わない?」

 胸に手を置く。脈打つたぎりを感じる。

 それは黒雲を纏い、雷鳴とともに地上へ来たる幻獣。

 六本の脚を持つ我が〈心の臓〉。

「言われなくても、そうさせてもらうわ」

 ──貴女の手で生かされたいだなんて言った覚えはないのだから。

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