告白

 何か悲しいことがあった時、僕にはいつも相談する人がいた。

 何か嬉しい事があった時、僕には一緒に喜んでくれる人がいた。

 休み時間も放課後も、文化祭も体育祭もそして修学旅行まで。

 僕には同じ時間を楽しむ友達春香がいた。


「はぁ……」


 だけど、今回は彼女に共有することができない。そう思うと、ため息がこぼれた。


 あの会話から一週間。

 その間、僕は春香と一度も話せなかった。

 タイミングや場面と、理由なら幾らでもつけることができる。だけど結局はただ彼女の言葉を消化しきれなくて、春香の前に立つ勇気を持てないだけだった。


「消化出来るわけがない……」


 --大学に行けば縁が切れるだろう。


「つまり僕達はその程度の繋がりだったと言うことか……」


 春香の言葉を思い出して、苦笑いを浮かべる。目の前に広がる無数の数列が滲んで見えた。


「はぁ」


 コチ……コチ……。

 放課後の静かな図書室に響く、秒針が時を重ねる音を聞きながら僕はもう一度ため息をつく。


「集中切れた……」


 勉強している間は春香を忘れられるのではと期待していた。だけど、それも上手くいったのは最初の方だけだった。


「しっかりしないと」


 高校三年の秋。

 いよいよ受験が視界に入っている。

 なのにこの体たらくでは先が思いやられた。


「もうこんな時間か」


 ぼんやりと目を向けた窓の外には、まだ夏色の残る景色が広がっている。

 --きっと散歩すると気持ちいいだろう。

 そんな考えが過って僕は目を瞑る。

 夕方の心地よい風の吹く湖畔、穏やかな陽射し。青い空に群青の湖を眺めながら歩く僕の右には………笑顔の春香。


「〜〜ッ!!」


 不意打ちに妄想が湧き上がってきて、僕は身じろぎをした。


「訳分からん! なんで笑顔なのこいつ!」


 春香の冷たい言葉に悩んでいるのに、頭に浮かぶのは彼女の笑顔ばかり。


「……駄目だ。このままじゃダメだ」


 危機感が溢れてきて、僕は立ち上がる。

 もう余裕はない。

 これ以上このモヤモヤに付き合うなんてごめんだった。


「春香と話そう」


 感情と荷物をまとめて席を立つ。

 春香はいつも教室で勉強をしている。きっと今日もいるだろう、と予想して。


「あ」


「よう」


 はたして教室のドアを開けるとそこには春香が一人、荷物を持ってエアコンの電気を切っていた。


「奏多くん、早いね」


「おう……」


 屈託のない春香の笑顔。

 胸の奥が締め付けられるように痛む。もっとこの笑顔を見ていたい、手放したくない……そんな思いが湧き上がった。

 そんな身悶えしたくなるような僕の胸の内も知らず、彼女は小首を傾げる。


「今から帰るつもりだったんだけど帰る?」


 願っても無いお誘いだった。


 一緒に帰れば、あの言葉の真意を聞き出すチャンスはあるだろう。あわよくば、これからも一緒にいたいと伝えることが出来るかも。

 ともかく一言「はい」と言えば良い。

 なのに……。


「……ごめん、今日はパス」


「え?」


 口から零れたのは、真逆の言葉。

 その事に、自分で驚く。

 やってしまった、と。

 だけどすぐ、「まだ終わりじゃない」と思い直す。

 そう。何も一緒に帰る必要はない。

 今ここで話をすれば……。


「もうちょっと居残るよ」


「あ、そうなの? 荷物持ってるからてっきり帰りかと」


「あ、あぁ。これな。教室に忘れもの取りに来たからさ、鞄だけ置いてたら不用心だろ?」


「そっか。残念。じゃ、頑張ってね!」


「ああ。気をつけて帰れよ」


「うん! またね!」


 手を振る笑顔が廊下に消え、響く足音が遠ざかる。彩度を失っていく部屋には温もりだけが残り、運転を止めたエアコンが最後の一声をあげて完全に沈黙した。

 その夕闇と静けさに沈む教室の中で、僕は握りしめた拳を胸に当てたまま立ち竦む。


 えてして人間は、こういう時に素直になることは難しい。つい不器用になってしまったり言葉足らずになったりして誤解を招くこともあるだろう。

 それは仕方がない。

 相手に向き合い、自分に向き合おうとするその意志は、例え望む結果にはならなかったとしても決して無駄になる事はない。

 だけど。


「だけど……僕はッ!これは違う!」


 誰もいない教室に胸の奥から湧き上がる僕自身への怒りが響き渡る。


「これは……僕がしたことは…………単なる逃げだ」


 あの日の彼女の言葉について、答えを聞いてしまったら。その答えが、僕たちの『これまで』を否定するものだったら……。

 そんな一抹の不安に、話をすることが怖くなった。

 そして、彼女と向き合うことから逃げ出した。


「……」


 行くあてもなくて、僕は教室のベランダに足を向ける。

 硝子戸を開けると、頬を撫でる風が心地よい。だけど身体とは裏腹に、心の方はちっとも爽やかにはならない。

 これはなんなのか。

 この胸にある重くて苦しい……今にも溢れそうで、だけどちっとも吐き出せないこれは、一体何なのか。


「あの!」


 胸に手を当てていると、不意に隣のクラスから声が聞こえてきた。


「私と付き合ってください!」


 告白らしい。

 なんとなく耳をすませていると、しばらくして別の声。


「ごめん。君のことは友達としか思えない……」


「……私は友達じゃなくて、君の『特別』になりたい」


『特別』。

 その言葉がやけに大きく耳に響いた。


「僕も君が好きだよ。でも、僕の『好き』は友達として、なんだ。だから……」


「……そっか。ごめんね。もう迷惑はかけない。ごめんなさい」


 それきり、沈黙が訪れた。

 その沈黙の中で僕は「とんでもない場面に遭遇した」という思いよりも、「モヤモヤの正体はこれなのか」という衝撃に心を強く揺さぶられていた。


「……ッ!!」


 --それは、「友達」のままだったら向き合う必要のなかった、向き合わずに済んでいた想い。

「一番近くにいる」というある意味で特別な関係にあることで気付けなかった、心の奥底で育っていた気持ち。


 --僕は春香の『特別』でありたい。


「でも……」


 だけど、一方で大切な友達であるという想いにも嘘はない。

 大切だからこそ、そんな不埒な考えを唯々諾々と受け入れたくはなかった。


「くそ……」


 気づいてしまった想いと捨て切れない想い。

 その二つの狭間で、僕はベランダから離れる事が出来なくなってしまった。

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