第10話 一つだけ

 その日から、珈涼の意識は切れ切れになる。


 気が付けばお風呂場にいて、いつの間にかベッドの中に戻っている。


「タワシでご自分を擦っていらっしゃったんです……」


 部屋には看護師と女性の医者がいて、看護師が青ざめながら何か話している。


 珈涼は自分の手を目の前に持ってきて、その腕が包帯で巻かれているのに気付いた。

 肩も、お腹の周りも、足も包帯だらけだった。


 珈涼の目が覚めたことに気づいたのか、枕元に誰かが近づく。


「珈涼さん。痛いところはありませんか?」


 ベッドに座って、月岡が珈涼の髪を撫でる。視界の隅、珈涼の頬にもガーゼが当ててあることに気づく。


「痛み止めを打ってありますが、どこか痛んだらすぐに言ってくださいね」


 何が起きたんだろう……と、珈涼はぼんやりとした意識で月岡を見上げた。


「お嬢さん。こういうことをされては困ります」


 看護師がかみつくように言いかけたが、月岡は彼女に冷ややかな目を向けた。


「珈涼さんのなさることに文句をつけると?」

「そ、そういうわけでは」

「不自由があるなら私に言え」


 有無を言わさない調子で看護師を黙らせると、月岡は看護師と医師を部屋から出した。


 珈涼の意識は水面を漂うようで、月岡が目の前にいるのもまるで現実味がない。


 月岡は珈涼をみつめていた。先ほどの看護師のように珈涼を責める素振りもなく、ただいつもそうするように珈涼の頭を撫でている。


 珈涼はふっと意識を失った。


 またお風呂場にいる。ベッドに戻っている。


 包帯の数が増えている。


 そして鈍い意識の中で、月岡が痛いところはありませんかと問う。


 何度かそういうことが繰り返された内に、看護師が入れ替えられた。


「珈涼さん。混乱されているようなので、一時的にこれをつけさせて頂きますが」


 月岡が屈みこんで、珈涼の手足を白いベルトのようなもので拘束する。


「でも外したくなったら仰ってください。いつでも外しますから」


 珈涼が食事を飲み込めなくなった時も、月岡はチューブを取り付ける前に告げた。


「外したい時は仰ってくださいね。珈涼さんの嫌なことはなるべく取り除きますから」


 珈涼は日に日に痩せて、意識も朦朧としてくる。


 それでも月岡は変わらない。珈涼の頭を撫でて、母のような優しい眼差しでみつめる。


 もしかしてこれは甘い夢で、自分はとっくに月岡に捨てられて朽ち果てていく最中にあるのではないかとも思う。


 月岡は珈涼にいろいろな見舞い品を持ってきてくれた。花や装飾品だけでなく、食べられないとわかっていながら食べ物をあれこれと用意する。


 口元に運ばれても、珈涼はそれが食べ物だとは認識できない。異物を押し付けられたように怯える。


 刺激にも弱くなった。テレビの光や、大きな物音だけでもおろおろとして落ち着かなくなる。


 ある時目が覚めると、部屋がほんのりとした光で満ちていた。無機質な白い光ではなく、赤茶色の淡い灯りに入れ替えられていた。


 珈涼が瞬きをしていると、枕元に誰かが座った。

 見上げると涼やかな目鼻立ちの男の人で、誰だろうと珈涼は首を傾げる。


「今日でここにいらっしゃってから一か月です」


 珈涼の手足の拘束具を外すと、彼は珈涼を抱き上げてテーブルに連れて行く。


 テーブルの上を見て驚く。そこには色とりどりの飲み物が満ちたグラスが二十ほどと、動物の形にカットされた様々な果物が並べられていた。


「こういったものなら、少しは口にできるのではないかと……」


 彼は珈涼を膝に乗せると、手元の果物を珈涼の口元に運ぶ。


 珈涼はやはり、不思議そうな顔をするばかりで口を開かなかった。その代わりに、子どものように笑いだす。


 きゃっきゃっとはしゃぎながら、目を輝かせてグラスと果物をみつめる。


 それを見て、青年が微笑んだ。


「どれがお好きですか、珈涼さん」


 彼が一つ一つ指差しながら問いかけると、珈涼は真っ先にうさぎの形をしたメロンを指差した。


「そうですか。それがお好きなのですか」


 青年は嬉しそうにうなずく。


 珈涼は何も食べようとしなかったが、青年はそれで満足なようだった。珈涼の髪を梳きながら、うさぎ型の果物を玩具のように弄ぶ珈涼に優しく笑いかける。


 やがて珈涼は、青年の腕の中がとても心地よいことに気づいた。だから膝の上で方向を変えて、青年を抱きしめる。


 そうすると青年は、壊れ物を扱うようにそっと抱きしめ返してくれる。珈涼はそれに安心して、瞼が重くなった。


 何か忘れている、何か……。


 でもそれを思い出すのは辛くて、この安息の中で眠りにつきたい。


 その時、青年の足元に置かれた鞄が珈涼の目に映った。その外ポケットに無造作に入っている小さな袋が、珈涼の目に焼き付く。


 どうしてそんなに早く動けたのか、珈涼にはわからない。


「珈涼さん?」


 膝を下りて、吸い寄せられるようにその袋の口を開いていた。袋を破いて、中に入っていたクッキーを一口かじる。


 久しぶりに喉を通る固形物の感触に、珈涼はむせた。青年は慌てて床に膝をついて、咳き込む珈涼の背を擦る。


 それに構わず、珈涼はクッキーを二口三口とかじる。

 まるで禁断の果実をかじったように、珈涼の体に戦慄が走る。


「今、召し上がりましたね? 珈涼さんが、食事を」


 青年は驚きに声を震わせて、珈涼の手から袋を取り上げた。その途端、珈涼は悲鳴を上げて袋にしがみついた。


「申し訳ありません。これは猫元氏から頂いたもので、どこの店のものなのかは把握していないのです。だからこれ以上珈涼さんに差し上げるわけには」


 珈涼は首を横に振る。それが欲しいと、懇願するようにみつめる。


「すぐに出所を調べて代わりを差し上げますから」


 床にうずくまった珈涼の頭を撫でて、青年が優しく告げる。


 珈涼は床をみつめたまま動かなかった。だから青年は、珈涼の目に正気が戻っていたことに気づかなかった。


 口にしたクッキーは確かに、珈涼の母の作ったものだった。それを包んでいたのも、珈涼の母がいつも手作りで作っていた紙袋だった。


――珈涼。望むのなら、一つだけにしておきなさい。


 クッキーの甘さを感じると、母の言葉が蘇る。


――そして望んだのなら、何においてもやりとげるだけの強さを持つのよ。


 行方をくらます前に、母は確かに珈涼に告げた。


 珈涼は自分が嫌いだった。父に望まれず、母にも置き去りにされた自分を好きにはなれなかった。


 だけど月岡は珈涼を望んでくれた。愛人だろうと愛玩物だろうと、確かに珈涼を求めてくれた。


 そのことが珈涼にくれた喜びで、生まれ変われないだろうか。


 自分の汚れを自分ごと消し去っても、月岡が責められるばかりで何も彼のためにならない。


 そして珈涼がここにいる限り、月岡のくれる安息の中で静かに朽ちていくだけだ。


 意識は不安定にぐらついて、正気が煙のように消えてしまいそうになる。


 ……変わらなければ。どうにかして、殻を破って。


 その決意は今までのどんな望みより、珈涼を強く突き動かした。

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