第9話 束縛

 久しぶりに服を着せられた日、珈涼は月岡に連れられて外に出た。


 太陽が眩しく感じる。時間感覚がなくなっていたが、どうやら今日は休日らしい。月岡は珈涼を高級ブティック街に連れて行って、何でも好きなものを買うようにと言った。


 ここに来たということは、服を買ってもいいということだろうか。言い出せずにいると、月岡自ら服を選び始めた。


 珈涼は着たこともないような紺のワンピースドレス、汚れやすいからと敬遠していた白いスカート、珈涼はよく着るが値段表のゼロが二つほど多いブラウス、どれも月岡が「よくお似合いです」と言ったそばから次々に購入されていった。


 下着や靴も加えて二十セットほどが揃った頃、映画に連れて行かれた。


 暗闇の中、月岡はずっと珈涼の手をつないだままだった。


 なんだか恋人同士みたいだと思って、珈涼は胸がざわつく。


 昨夜月岡は、終わりにしてもいいと言った。だからこの優しさは、終わりの予兆なのかもしれない。そんなことを思う。


 映画が終わったら、宝石店に連れて行かれた。


「品は?」

「出来ております」


 月岡の前に差し出されたのは、大粒のダイヤモンドの指輪だった。中央はほのかに桜色を帯びたピンクダイヤモンドで、周りを透明なダイヤが囲んでいる。


 月岡はその出来栄えを確かめて、珈涼の手を取った。


「気に入らなければすぐに別の物を用意いたしますので」


 指輪が自分の左手の薬指にはめられるのを見て、珈涼は言葉もなかった。


 めまいがする。何か、おかしい。


 立っているところがぐらついた気がして、よろめいた。月岡はその肩を支えるようにして腕で受け止めると、また珈涼の手を取って歩き出す。


 それから月岡が連れて行ったのは、写真店だった。奥の洋室に通されると、そこに珈涼は馴染んだ顔をみつける。


猫元ねこもとさん?」

「久しぶりだね、珈涼ちゃん」


 白いひげを長く伸ばした柔和な表情の老人は、母の店の常連だった。幼い頃から珈涼がコーヒーを給仕しに行くと、いい子だねと微笑んでくれる優しい人だ。


「お願いします」

「うん、こちらこそ」


 月岡がきっちりと四十五度に礼をすると、猫元は微笑んで立ち上がる。

 それから月岡と猫元、そして珈涼の三人で写真を撮った。


「あの、これは」


 それがどういうことなのかまるでわからなくて、珈涼は撮影後に困惑の目で猫元を見る。


 猫元はちらと月岡を見た。それから珈涼に目を移す。


「私は、珈涼ちゃんと月岡君の結婚を祝ってほしいと言われて来たまでだよ」


 珈涼は言葉も失って立ちすくむ。


 珈涼と月岡が、結婚?


「私が……?」


 珈涼は首を横に振る。話が全く読めなかった。


 自分は月岡の愛玩物のようなものだと思っている。愛人という言葉すら当たらないほど、月岡に飼われるような生活をしている。


――多くを望んではだめよ。珈涼。


 母はよく、珈涼にそう教えた。

 大それた願いは身を滅ぼすから、自分のささやかな願いを大切にして生きていきなさい。母の諭した言葉を、珈涼はうなずいて聞いていた。


 結婚は、珈涼には大それた願いそのものだった。


 月岡を縛る。そんな願いは、珈涼には大きすぎて恐ろしい。


「わ、私……できません」


 血の気が引いて、珈涼は立っていることも覚束なくなる。


「結婚なんて、無理です」


 きちんと言葉にできていたかも怪しい。全身が強張って、そしてそれが一気に抜けるようにして珈涼は意識を失っていた。


 目覚めたらマンションの寝室で、月岡が覗き込んでいた。

 体が火照っていて、どうやら喘息の発作が起きた後らしい。


「具合の悪い時に無理にお連れして、申し訳ありませんでした」


 月岡は眉を寄せて謝罪して、珈涼の前髪をかきあげる。


「冗談ですよね。結婚なんて、私が」


 月岡さんと、と震えながら口にすると、その唇に月岡は指を当てた。


「約束は守って頂きますよ、珈涼さん」


 まさかこの間の夜の行為の最中、そんなことを言っていたのだろうか。

 珈涼は青ざめて瞳を揺らす。


「でも、あれは……」

「ご心配なく。結婚したからといって、珈涼さんに不自由させたりはしません」

「そういうことでは。一体どうして」


 言いかけた珈涼の口を、月岡は唇で塞いだ。


 貪るように口腔を蹂躙して、月岡はつと顔を離した。


 一拍の沈黙の後、珈涼の髪を撫でて言う。


「籠をね、新調しようと思ったんですよ。今の籠は頑丈さに欠ける」


 月岡は珈涼の口の端を指先で拭う。


「珈涼さんは大人しいから壊しはしないと思っていましたが、するりと抜けてしまうような不安さがある。もっと目が細かくて、温かく珈涼さんを守る籠でないと」


 違和感が膨れ上がった。頭が混乱して、言葉さえ出てこない。


 珈涼の頬に手を添えながら、月岡は珈涼の目を覗き込んだ。


「欲しいものなら何でも差し上げます。でも私はあなたが欲しい。それは譲らない。絶対に手放さない」


 そう言われているのが自分のことだとは、珈涼には信じられなかった。


 恐ろしさが悪寒となって襲い掛かってくる。


 月岡の愛玩物としてなら、何とかやってこられた。でも結婚は違う。とても自分は月岡と並び立てる存在ではない。


「う……」


 自分など横に据えたら、珈涼にとって月光のように輝かしい、美しい存在が汚れる。


 再び、目の前が真っ暗になった。


 今度の暗闇は長かった。その闇の中で、珈涼は膝を抱えて考えた。

 つと自分を見下ろすと、粘ついた黒い何かが這い上がってくる。


 恐怖に駆られてそれを振り払った。だがその汚れは落ちるどころか広がっていく。


 振り払って、逃げて、遠ざかろうとしても、無駄だった。

 まるで血が溢れるように、珈涼の中からその汚れは次々と生まれてくるのだ。


 ああ、そうなんだと珈涼は愕然とする。

 すべて自分の中から生まれた、汚れた願いのせいだ。


 月岡に気にかけてもらいたいという身の程を過ぎた望みが、こんなところまで自分を連れてきてしまった。


 早く、取り除かないと……。


 螺旋に巻き込まれていくように、珈涼の意識が収縮していく。

 そしてぐにゃりと意識が歪んだ。

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