第6話 ありがとう


 三限目の体育に備えて、絵莉奈達のグループはぞろぞろと更衣室に向かっていた。他愛も無いお喋りで盛り上がっていた集団は、息を揃えたように、一斉に口を閉じた。


 前方にスーツ姿の飯島と、その横にはプリントを両手で持った紬の後ろ姿があった。二人は並んで廊下を歩いていた。



 グループで意味ありげな視線が交差する中、絵莉奈は意識を前方に集中させた。じりじりと距離が縮まる中、飯島が腕を伸ばして、紬の肩から二の腕を撫で上げた。


 うっとりと満足そうに目を細める横顔。そのままぐっと捕獲するように、肩を抱く。紬の体が重心を失くしたように、ぐらりと揺れた。



 近くで小さく悲鳴が上がった。


 絵莉奈は内側から、かっと熱が放出されたのを感じた。堤防が崩壊し、どくどくと勢いよく、何かが体を駆け巡った。


 絵莉奈はグループから飛び出し、走り出した。



 さわるな!さわるな!さわるな!おまえもわたしも、だれも紬に触れたらいけないんだ!



 絵莉奈はどんっと飯島に体当たりをした。顔を瞬時に、教室で大口を開けて馬鹿笑いをする絵莉奈の顔を作った。



「たもっちゃーん。はっけーん!!」


「――っお前、園田。危ないだろぉ」


「もー、うちのことは絵莉奈って呼んでって、この前言ったじゃん。忘れちゃったの―?」



 数歩よろけたが、体制を立て直した飯島に、絵莉奈はすり寄っていく。上目遣いで飯島を見上げた。


 そこにはもう、紬を前にして見せる、あの万能感に酔っているような表情は無かった。代わりにあるのは、心底うざったそうな、侮蔑の表情。



 ああ、こういう奴だよな、と絵莉奈は冷え切った感情を押し殺し、「ねーねーうちら、これから体育なんだよー!」と絡んだ。


「ちょっとー絵莉奈、辞めなって」


「絵莉奈、たもっちゃんのこと好き過ぎでしょー」



 グループがぞろぞろと追いついてきて、口々に囃し立てる。絵莉奈は満面の笑みで


「うち、たもっちゃんの彼女候補ですから!」と大声で宣言した。



 周囲が笑いだし、飯島も仕方ないなと苦笑いを浮かべていた。こいつを殺せたらな、と絵莉奈は願望が成就しないかと、一緒になって笑い声を上げた。



 紬にさわった。教師という立場がありながら。こいつのせいで、紬の立場がますます悪くなった。こいつの、こいつの全てが許せない。でももっと許せないのは、こんな方法でしか、紬を守れない絵莉奈自身だった。



 ちらりと視線だけ動かすと、紬はいつもの微笑みが顔から消えていた。目だけがしっかりと絵莉奈をとらえていた。ほんの数秒だった。小さな唇がゆっくりと、一文字一文字噛みしめるように、動いた。



 あ・り・が・と・う



 絵莉奈は顔を見られないように、頭を下げた。どんな顔をすれば良いのか、分からなかった。ただ今は、泣き出しそうになる自分の顔を、紬に見られまいと、必死になった。



 絵莉奈は飯島先生が好き。



 吹聴されて、広まるのはあっという間だった。廊下を歩けば、応援するよーと声援を送られ、数学の授業が始まれば、口々に囃し立てられた。そのたびに絵莉奈は



「彼女になりたいんで、プリント配ります!」


「絵莉奈、たもっちゃんが大好きで~」



 と間延びした声を出した。お約束のように、教室は笑い声に包まれた。一緒になって笑いながら、絵莉奈はさりげなく紬を伺うのを、忘れなかった。



 紬は常に黒板を向き、絵莉奈の方を振り向くことはなかった。


 教室が盛り上がるたびに、紬は教室の隅へと追いやられていく。絵莉奈は胸を撫で下ろした。



 飯島はうんざりした顔をしながら、生徒達の相手をしていた。


 絵莉奈がわざと小テストで0点を取るので、絵莉奈を注意しないといけない。小テストが特別悪かった生徒は、飯島の授業道具を運ばせられており、その役目を紬から絵莉奈に指名せざるおえなくなった。



 飯島の手が、紬の体を這い回ることは無くなり、あの気色の悪い目が出てくることも無くなった。


 紬の噂話より、絵莉奈の方がネタにしやすい空気が学校中に充満した。廊下を歩くたびに、声を掛けられた。イベントがあるたびに、周囲は飯島と絵莉奈の話題を取り上げた。



そして受験が終わり、体育館の床が居心地良くなってきた頃、卒業の日を迎えた。

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