第4話 湿布
夏が本格的に始まろうとする頃、学年はある話題で持ち切りだった。あの、天野紬が青木先輩を振ったというのだ。
青木先輩は、一つ上の学年で、サッカー部のキャプテンをしていた。日に焼けた精悍な顔と歯科矯正された白い歯が爽やかそうで、知らない生徒はいない。学校の有名人だった。
青木先輩が、一年から付き合っていた彼女と別れて、紬に告白した。
絵莉奈は部活の朝練中に聞かされて、心臓が早鐘のように打った。紬は告白を断ったらしいと、憤慨した友人の声など聞こえなくなっていた。
紬が先輩に呼び出されたりしたらどうしようと、そればかり考えていた。常に従者のように傅く男子達に囲まれている紬。大丈夫だろうか。
そんなことばかり考えながら、朝練から戻ってくると、教室はそわそわと落ち着かない雰囲気が充満していた。みんなチラチラと紬の方を、好奇心と同情が入り混じった目で見ていた。
彼女はいつも通り静かに椅子に座って、授業の予習をしていた。ピンと伸びた背中と、さらさらした黒髪が時折揺れて、頬の湿布が見えた。絵莉奈は絶句した。
「呼び出されたんだって~。青木先輩の彼女に」
クラスメートが、興奮気味に話してくれた。目の前の獲物に食いつくチャンスを、今か今かと待ちわびる猛禽類が、紬を包囲していた。
「えー凄い。ドラマみたい」
「天野さんって、どうせ青木先輩に守って貰えるんでしょ?ずるーい」
「ビンタとか、女ってマジでこえー」
授業と部活に平凡な家を往復する一日。退屈で変わり映えしない毎日に、突如現れた非日常。ドラマチックなストーリーの一コマに、自分達はクラスメートとして、登場している。
異質な紬は、皆をわくわくさせてくれる?ふざけるな。紬は人間だ。頬を引っ叩かれれば、痛みを感じるクラスメートだ。それなのに、紬を心配する声は、教室から聞こえてこない。
「絵莉奈?」
名前を呼ばれたが、気にならなった。絵莉奈はつかつかと紬に歩み寄った。ゆっくりと顔を上げた紬と目が合う。純粋に驚いた顔をしていた。
つむぎ。
絵莉奈は心の中で、名前を呼んだ。入学式で目が合って以来、絵莉奈は紬の名前を、苗字で話しかけたことも無かった。見つめ合っていれば、十分だったからだ。
肩にかけていた、部活動名入りのスポーツバッグから、絵莉奈は湿布を取り出した。部活動柄、打撲や擦り傷はしょっちゅう付けていた。
湿布の小箱を、机に置いた。紬の視線が、小箱に貼られた会計済みシールに注がれる。
「使って」
「ありがとう」
紬が小さく笑った。桜貝のような唇が動いて、八重歯がちらりと見えた。壊れ物を扱うように、紬は慎重に小箱を手に取った。絵莉奈はほっとして、踵を返した。元居た場所に、足早に戻ると、呆然としたクラスメート達に迎えられた。
「え……天野さんと仲良かったっけ?」
絵莉奈は頭を振って、無言で席に着いた。
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