安定限界

姫乃 只紫

01『波の干渉』

 潮のにおいというものがわからない。


 従兄いとこが久々に家へやって来たとき、この町はやっぱり潮のにおいがすると何故だかちょっと嬉しそうに言っていたのを思い出す。僕には──どうもピンとこない。生まれてこの方、奴借家ぬかりや町を離れて暮らしたことがないからだろうか。もちろん浜辺に足を運べば、住宅地にいるときとは違うにおいを嗅ぎとることもできるのだけれど、あれは潮というより磯のにおいであると思う。正直なところ、従兄とてそれほど深く考えて口に出したわけではないのだろう。

 それとも──僕も一度ここを離れれば、潮のにおいがわかるのだろうか。

 夕方で放課後だった。校門へ続く道を一人歩く。遠くには運動部のかけ声が聞こえていて、多分潮のにおいはしていなかった。

 校門の前で足を止める。身を乗り出すように柱の影を覗けば、桐宇治きりうじしずかさんが表札のついた方の柱を背にして立っていた。足をクロスさせて、左手をブレザーのポケットに突っ込んで、手元の携帯に集中している──ように見える。それから、つかの間僕の方を見て、また液晶に目線を戻してから改めて僕を見た。下手くそな二度見だった。

「あれっ、キヨモリじゃん」

「あれもなにも待ってたんじゃないですか」

 わざとらしく目をみはってみせる桐宇治さんに、内心今日も彼女がここにいた事実にほっとしながら、僕は苦笑いを返す。彼女が髪を耳にかけると、携帯から伸びる明るいピンク色のイヤホンが露わになった。

「何聴いてるんです?」

 そう尋ねると、桐宇治さんはイヤホンの片方を外して、しばしそれを注視したあと、ふうと強めに息を吹きかけてから、

「キヨモリって潔癖?」

 と言って、眉を小さく八の字にした。

 僕はかぶりを振って、桐宇治さんから差し出されたそれを手に取ると──周囲に視線を巡らせた。いや、流石に全く誰も見ていないなんて状況はあり得ないだろうが。一応形ばかりの警戒は怠らない。

 リスじゃんと桐宇治さんがしっくりくるようでこないようなツッコミを入れる。まあ、警戒心の強い生き物ではあるのか。

 僕は、イヤホンを耳に着けた。


 ──さざなみが聞こえた。


「おかしいでしょ」

 つい不躾ぶしつけな感想が口をついた。

「どうして? イイじゃん、波の音」

「いや、一五分も歩けば本物聞けるじゃないですか」

 携帯の液晶に映るのは、常夏のリゾートを思わせる砂浜と青い海の静止画。まあ、僕の言う"本物"はこれほど綺麗ではないけれど。

「そりゃそうだけどさぁ。ほらっ、これ途中からループしてるでしょ」

「はあ」

「だからなのかな。聴いてるとすんごい落ち着く。胸のへんがザワザワしないの」

 再生されている動画のタイトルに「ループ」の文字を見つけて、僕はその構成を理解する。正直ループの繋ぎ目はよくわからない。聴き込んでいればわかるのだろうか。そして、漣が途中からループしているこれをはたして自然音と定義してよいのだろうかと、一瞬でも考えてしまう僕は誠に狭量な人種なのかもしれない。

 にしても──。


 ループすると、すんごい落ち着く。


 そのあたりが、どうも共感しづらい。

「ほら、砂時計って見てると癒されるでしょ。アレと一緒!」

 声の弾みっぷりからして良い喩えを閃いたつもりなのだろうが、残念かな僕には薄い笑みを返すことしかできない。砂時計を眺めて、ヒーリング効果を実感した憶えがなかったからだ。

「なるほど、一緒ですね」

 我ながらとびきり雑な相づちを添えて、イヤホンを返却した。

 桐宇治さんは、イヤホンのコードをホルダーに巻き付けてゆく。それは、言うまでもなくきちんと巻きさえすればコードが絡まる悲劇を防止できるグッズなのだが、彼女は中途半端に巻き付けただけで、カバンの中へ突っ込んでしまった。それじゃ絡まりますよ──とやんわり指摘しようとして、止めた。


 僕の役目ではないと考え直したからだ。


「ね、帰ろうよ。キヨモリ」

 桐宇治さんにそう促されて、僕は先行く彼女の斜め後ろをついて歩く。

 彼女は隣のを見て、それから肩越しに僕を見て。どういうつもりか目だけで笑った。

 どうして隣を歩かないの──とは訊いてこなかった。

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