第7話 マイクとテッド

 冬の訪れは、彼が外の机で過ごす時間を配慮しているのか、昼間だけどこかにひっそり様子を見ながら隠れているようにも思えた。

「今日は上着要らずだな」

 彼の定位置に訪れ声を掛けた。

 大学内は、もうすぐ二限が終わろうとしていた。外のテーブルは静かで彼の小説も随分と書き進められているような雰囲気であった。

「どう、最近は書けてる?」

「ぼちぼち」

「出来たら読ませてよ」

「分かってる」

「ついに今週末だな、学祭のイベント」

「そうだね」

「十時三十分からセンター棟の特設ステージだって、最終審査。当日、一緒に行かない?」

「ああ」

「何時ごろ来る?」

「その時間に間に合えばいいんだろう?」

 彼と別れ、昼ご飯を食べるため建物の中へ向かった。彼はきっと、大学祭を楽しむ事はしないだろうとは分かっていた。分っていたが残念な気がしたのも確かだった。自分が理解出来なかった。一体、何をどうしたいのだろうかと自身に問いかけたが、一向に解決はしない。満たされない変な欲求を持て余すだけで、どうにもならない自分がいた。

 彼が小刻みに動かすペンの先から溢れ出る細かい文字は、みるみる増えていて、形になっていないはずがない。彼の作り上げたものを読みたいと心から思っていたが、彼自身が許可する日は来ない気がしていた。

 

 彼と初めて出会ったのは一年前期、トーマスの講義だった。必修英語のその先生は、アメリカ出身の若い白人男性で非常にユーモラスな性格であるが故に、学生を笑わせようと必死になっているのが良く分かった。真っ白な肌は、講義中、常に赤く火照っていて、興奮しているようにも見えた。彼の冗談は、一〇〇%日本語で語られた。教室に占める大半の学生は、そのジョークに無邪気に笑っていたのだが、英語の授業なのだから英語で話せばいいのにと思うのは僕ぐらいのようで、

「トーマス面白い!」「日本語上手いよね」という言葉もあちこちから聞こえてきた。非常勤講師で、他にも二つの大学で仕事をしているらしく、その体験談のような話もユーモアを混ぜながら話したりした。昨日覚えてきた日本語を直ちに実践し、日本人に通じるであろうかと実験をしているような感じでもあった。勉強熱心なのだろう。

 トーマスの講義中は、必ず隣の人とペアにならなければならなかった。学生たちもそれを知っていて、大抵は友達同士で隣合い座ったりしていたのだが、それでは騒がしくなるばかりと、座席指定をされるようになった。教室へ入ると黒板に座席表が貼り出してあるのだ。トーマスの座席指定に何らルールはなく、全くのランダムであった。その講義が平穏無事に終わるか終わらないか、座席表にすべてがかかっていた。

僕は、密かにトーマスに感謝をしている。彼と出会わせてくれたことへの、限りなく訳の分からない感謝の念である。

 その日の課題はどんなフルーツが好きか、その名前を挙げて理由を言いましょう、というもので、僕たちは配られた用紙に好物の果物について記入した。そしてそれを相手に英語で教え合った。

 彼はリンゴが好きだと言い、僕はイチゴが好きだと言った。お互いに、中学生よりも下手な発音で、拙く間違った英語を操り、何とか好きな理由を伝えあった。初対面という事もあり、最初のうちはお互いに真剣な顔で言葉を追い合ったが、そのうち彼は僕の英語を、僕は彼の英語を、同じ様なレベルと判断しどちらからともなく笑い合っていた。

「英語なんてしゃべれなくても問題ないですよね」

 彼は先生に気を遣うように小さな声で僕に言った。

「そうですね」

 僕の同意の言葉が彼の耳に届いた。

「マイクもそう思いますか?」

 マイクとは、その授業でだけ使う僕の名前であった。最初の授業の時に、自分自身で名付けたのだ。僕の名前の最初の文字が「ま」から始まるので、同じ様に「マ」から始まる外人の名前を思い浮かべたら、最初に出てきたのはマイケルであった。だが何だか恥ずかしく、マイクにしておいたのである。ちなみに彼はテッドであった。彼も同様に自分の名前が「て」から始まるから、テッドにしたと言っていた。

「思いますよ。英語は勉強したくもないけど、この授業受けないと卒業できないから仕方がなく。テッドは何学部ですか?」

 といった具合に僕たちの会話は英語と果物からどんどん遠ざかった。その時彼が好物だと言ったリンゴの本当の意味を聞いたのは、その交流の日から二週間後くらいであった。

 僕たちはすっかりお互いの距離感を心地よいものにし始めていた。大学の四月の騒ぎが落ち着き、ゴールデンウィークも過ぎ去った頃。まだ毎日の生活に慣れ切らない時期で、大学までの道のりや教室を移動する時なども、何となく浮足立ち、常に不安と一緒に行動しているような日々であった。

 大学生という目に見えない制服を身に纏い、傍から見れば、恐らく僕は大変満足げに歩いていただろう。

「今年の夏は短いらしいよ」

 彼はマイペースで、僕の不安な毎日も案外そんなに気張るような事ではないのではと思わされた。

「そう? でも暑いんだろ?」

「猛暑とまでは言ってなかったけどね、梅雨も短いみたいだし」

「詳しいね」

「天気予報見るが好きなんだ」

 意外にも天気を気にする彼の性格を知り、僕は彼を天気予報士のように頼りにしていたりもした。

「そういえばさ、リンゴが好きって本当?」

 僕の質問もくだらない事が多い。聞いても聞かなくても良い事であった。

「好きだよ。君はイチゴ好きなの?」

「あ、うん、特別好きじゃないけど、あの時はイチゴしか思いつかなくて。ショートケーキのイチゴも、いつも最後まで残しておいて、結局食べないことが多いんだ。大抵それは、妹の口の中さ」

「へえ。それってさ、妹にあげようとわざと残してたりってこと?」

「そんな事考えてないよ。ただ、せっかくの甘いケーキに、ちょっと酸っぱいイチゴが合わないと思っているだけ」

「変わってるね。イチゴはわざと残しておいて、最後に食べるのが僕は好きだけど」

「ケーキとか、チョコとか、甘いものは基本的に好きじゃないんだ」

「僕は好きだけどね、甘いもの」

「君のリンゴは?」

「僕が好きなのは、食べる方じゃないんだ」

 彼の言ってるリンゴの正体は、手元にあるスマホの事であった。

「なんだ、それでリンゴね」

 彼のセンスの良さはそういう所に隠れていて楽しませてくれた。

「僕もあの時は何も思いつかなくて、スマホの背面を見てリンゴって書いたんだ。リンゴのね、味が嫌いなんだ。シャリシャリした歯触りもだめだな。というよりも、果物自体、僕の体に合わないんだ。特にメロンを食べると喉がかゆくなるから食べられないんだよ」

 里芋や長芋にもアレルギーがあると言っていた。彼の体質を知ってから半年が過ぎ、大学祭が目の前となった今、僕たちの置かれた環境は随分と変化し、彼との日々は時が勝手に増やし、どんどんと積み上げられていた。

 ミスターコンの本番も迫っていた。吹いてくる風は鼻の奥をくすぐるように冷たくなってきていた。

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