第5話 葉子さん
季節はどんどん進んだ。彼は相変わらず外の机で空いた時間を過ごしていた。
「冷えるね」
僕は彼の背中に声を掛けた。
「おはよう」
寒そうな彼は、社交辞令のように礼儀正しい言葉を返した。
「風邪引くよ」
彼には必要のない言葉だとは分かっていたが、その言葉しか思いつかなかった。
「いいよ、引いたら引いたで」
「結構、厚着してんのな」
「背中とお腹にカイロも貼ってる。それでも寒いけど」
「小説は出来た?」
「なかなか、難しいよ」
「出来たら読ませてよ」
「考えとく」
彼の目元は相変わらず良く見えなかったが、寒さのせいか少し目が小さく見えた。
「もうすぐ講義始まるけど、一緒に行かない?」
僕にしては珍しく彼を誘った。
「うん、行こうかな」
呆気ないほど簡単に彼は返事をした。
「次どこ? 僕は北館だけど」
「技術棟。ここから一番遠いとこ」
「ふーん、僕には関係ない建物だな」
「だろうね」
彼は、大学では一番頭が良いと言われている理工学部に在籍していた。僕はそこそこの法学部である。彼の言う技術棟は主に理工系の実験を行う場所であり、僕は四年間立ち寄ることもないだろう建物である。
北館が近づき、
「じゃあまた」
僕が建物へ入ろうと重たいガラス戸を開けた時、背後から彼の声がした。
「あのさ」
「なに?」
「二限が終わったらもう帰るの?」
「ああ、今日は次で終わりだから帰るよ」
「だったら、さっきの場所で待ってるから来てくれない?」
「いいよ」
人を誘うという事は、大変な緊張を伴うものである。それを彼がしたわけであるから、その行動にはちゃんと応えなければならない。
教室に入ると、すでに僕の座る場所は確保されていた。同じ学部で成績も良く、いかにも大学生という風貌の八神くんという人物は、何故か僕の受ける講義には必ずいて、僕の席を取っておいてくれるのであった。
「おーい、尚、ここここ」
気が付いているからいいのに、八神君はいつも大声で僕を呼ぶ。すると、教室内のほとんどの目がこちらを向き、その視線を浴びながら僕は八神君の隣に座るのであった。
「ありがとう」
八神君には感謝している。彼が席を確保してくれているせいで、どこに座ればいいのか迷う事はないからである。
「遅いよ、いつもぎりぎりだな」
「ごめんごめん」
僕がそう言っている間に、
「尚君、いつも八神の隣じゃん。こっちも席空いてるよ」
という声が背後から飛んでくる。
「ありがとうね、でも、ここでいいよ」
このやり取りは平日一日置きくらいのサイクルでやってくる。何故だろう、何故みんな、僕を放っておいてくれないのだ。
「八神のバーカ」
高校生気分が抜けきらないのか、何だか幼いやり取りだが、我慢してやり過ごす。僕は振り向き、声の主へ優しく笑い掛けるのだ。
法律の講義は最初は興味深かったが、僕はすでにこの大学に入ったことを後悔していた。地元で言えば、下位レベルの高校に通い、その中で、僕は常に上位の成績を収めていた。この大学の推薦入試制度は、得意教科の現代文のみ、面接なし、という僕のために準備された奇跡のような方法であった。僕はそれを知り、この大学こそ僕を求めている、僕の行くところはここしかないと、それ以外の大学の名前が頭によぎることもなく、推薦入試を受け、呆気なく合格したのであった。
当時は大学生活とはどんなものなのか、想像はしていたが全く現実味は無く、蓋を開け現実の中に身を投じてみれば、高校の頃よりも大学は居心地が悪かった。かといって、高校がそれほどいい環境であったわけでもない。
「尚、この後、すぐ帰るの?」
「ああ、そのつもりだけど」
「カラオケ行かない? サービス券があるんだ」
「ごめん用事があって」
「マジかよ、つまんねーなー」
「悪い」
八神君とそんなやり取りをしていると、
「八神、私たち暇だよ。連れてってよ、カラオケ」
と再び背後から声がしてくる。
「嫌だよ!」
面倒臭そうな八神君の表情が彼女たちに向けられ、
「なんでよ」
と甲高い声が響くのだった。
八神君はそれ以上彼女たちに取り合わない。僕は振り返り、許してやって、と言う意味の素振りをし、彼女たちの気をなだめた。八神君の尻ぬぐいは常だった。不器用なのだ。彼女たちは何やらブツブツと文句を言っていたが、八神君は全く気にもしなかった。自分の事で精一杯過ぎるため、人の事を思いやれないだけなのだ。僕にも時々イラついた様子を見せるが、別に相手が気に入らないからやっている訳ではない。彼女らはそれを理解していないため、こうなるたびに嫌な思いをしている。八神君を理解しようとすればいいのだ。それだけだ。
八神君は講義中、指先でシャープペンシルを器用にクルクルと回すのが癖だった。一周するたびに、かすかにカチャカチャと芯が揺れる音がする。僕はその芸当が出来ないから、いつもその華麗な手捌きを尊敬の目で見ていたのだが、その日に限っては妙に気になり、しかも、何故か不快に感じてしまっていた。八神君はそんな事お構いなしに、いつまでもクルクルクルクルと続けていたが、たまたまその日の座席は講師との距離が近く、八神君のクルクルが講師の目に留まったようで、
「君、気が散るから、それ、おやめなさい」
と、不機嫌そうな表情で言った。
注意を受けた八神君は、無言でクルクルを止めたが、その時の講師を見る目が異常なまでに恐ろしく、その横顔は隣の僕だけが見えた。
講義は予定より三十分も早く終わった。八神君はすぐさま席を立つと、ろくに僕の方も見ず教室から出て行った。
「さっき注意されたの八神でしょ? ご機嫌損ねちゃったね」
「うわ、やばーい」
講義後、先ほどの彼女たちが僕の席まで来てひと騒ぎ、キャキャと笑った。
「しょうがないね」
僕は適当な相槌しかしないのだが、彼女たちにとっては十分満足らしい。それは恐らく、僕がサービスで添える笑顔のお陰だろう。
「ねえ、尚君、もう帰るんでしょ?」
「うん」
「私たち三限までなんだけど、お昼一緒に食べない?」
「食べよ食べよ! 学食行こう!」
「ごめん、無理」
「えー」
「用事があるんだ」
僕は講義が予定よりも早めに終わったのを気にもせず、彼と別れたさっきの場所へ急いだ。途中でいつもより人気が少ないのに気が付き、まだ講義中の時間であったと歩くスピードを少し緩めた。しかし彼はすでに定位置に腰かけていた。まだ多少の太陽が照っていて、そんなに寒さを感じなかった。
「あれ? 早いね」
いつものように書き物をしている彼に近づき声を掛けた。
「途中で抜けたんだ」
「へえ」
「君も早いね」
「僕は講義が早く終わったんだ。ズルしてないよ」
彼との会話には無駄を感じる事がない。まるでもう一人の自分と話をしているような気持ちになるから不思議だ。
「で、何か用事だった?」
「そういう訳でもないけど、何となく」
僕たちはしばらく並んで座っていたが、特に話しはしなかった。彼があまり話したい様子でもなかったから、あえて話さない様にした。
遠くから聞き覚えのある声。
「尚くーん」
まただ。僕の名前を大声で呼ぶ奴。誰だ、つい最近聞いたような。
「尚くーん」
どんどん近づいてくる。いい加減、さすがに振り向いた。
「これ見て見て、この間言ってたミスターコン、エントリーしてきたよ」
小さな紙をヒラヒラさせて近づいてきたのは、葉子さんだった。彼女は、快活、という言葉がまさにお似合いの、ハキハキとして大変滑舌の良い女性である。全く嫌味はないのだが、自分が人にどう見られているのかを常に意識しているような人である。その分、人に対しても優しさを与えたりもするが、基本的には、自分が一番可愛いので、時に本心とは裏腹に、自分勝手な行動に移ってしまう時がある。それが葉子さんの残念な所でもあった。
「やることが早いね、葉子さん」
「ありがとう」
褒めたわけじゃないのだが。
「ねえねえ、でね、これ応募した写真! 尚くんの意見聞かずに勝手に出しちゃったけど、良かった? いいよね? って言っても、もう手遅れなんだけど。ほら、入学してすぐに一緒に撮った写真だよ、懐かしいでしょ、あ、で、締め切りが今週末で来週からツイッターで一般投票するんだって、楽しみだね」
「ああ、そうなんだ」
「もー、もうちょっと乗り気になってよ!」
「そうは言ってもさ……」
葉子さんの表情が急に変化した。少々頬辺りが高揚しているようにも見えた。彼女の視線の先には、彼が居た。
「ねえ、その人誰? お友達?」
今まで彼の事を知られずにいたのが奇跡のように感じた瞬間だった。
「え、ああ」
吐息のような言葉しか出てこなかった。
「え? 初めて見たよ。こんにちは! 何学部なんですか?」
僕は彼を守るために必死になってしまった。
「ちょっとごめんね、葉子さん、こいつ今日ちょっと調子が悪くてさ、今から一緒に帰るんだ」
必死だった。彼の存在を知られたくなかった。自分でも驚き、心臓の鼓動も聞こえるのではないかと思うほどに激しくなった。
「あら、そうなの。ごめんなさい。わあ、すっごく肌が白くて綺麗なんですね!」
「だから悪いけどごめんよ」
葉子さんのしつこい態度を何とかしようと思ったが、僕の口はくだらない言葉しか吐き出さなかった。
「あ、あの、せめて名前だけでも教えてください」
彼を守り抜くことは無理であった。焦る僕を、逆に彼が助けてくれた。
「僕は理工学部の久能といいます」
「初めまして、西馬葉子です。やだ、すごく、なんていうか、綺麗な人ね、ごめんなさい、失礼ですね、男の人に綺麗なんて」
彼女のフルネームを初めて耳にした。いつもよりも増して滑舌の良い葉子さんであった。
「いいですよ、気にしませんから」
彼は誠実な対応をした。そんな彼を初めて目にした。まるで、別人のよう。
「尚くん、三人で写真撮らない?」
遠慮のない葉子さんは、何か企んだようであった。
「だからさ、僕らもう帰るから」
「いいじゃない? 撮ってもらおうよ」
僕が彼を葉子さんから引き離そうとしているのは、はっきりと分かっていただろうが、彼は優しく葉子さんの提案に賛成した。僕の立場を考えてくれていたのか、葉子さんに対する配慮なのかは分からなかった。
「やった!」
葉子さんはそう言うと、鞄の中から伸縮性の自撮り棒を取り出し手際よくスマホをセットすると「はい、チーズ!」と言って、さっさと写真を撮った。
「あの、恐縮ではありますが……」
葉子さんの使い慣れない言葉に対して笑いそうになったが、何とか抑えて様子を見ていた。
「あの、久能さんもエントリーしませんか? ミスターコン、ほら候補が多い方が盛り上がるじゃない?」
「もう、やめろって」
僕はさすがに我慢ならなくなり、ちょっと声を荒げた。
「いいですよ、エントリーでもなんでもして下さい」
冷静な彼の返事であった。僕らはまるで対照的であった。
「やった! いいんですか? では、早速もう一枚だけ、久能さん一人の写真を撮ってもいいですか?」
葉子さんの無茶な要求をあっさりと受け入れ、彼は素直に写真を撮られていた。葉子さんはその後、ひと騒ぎして、満足したのだろう、大人しく帰っていった。
「良いの?」
葉子さんが完全に視界から消えてから、僕は彼に聞いた。
「だって、ああしなきゃ、あの人帰らないだろう?」
彼の、口元だけが笑っていた。
「そうだけどさ、断ろうと思えばできたし」
「いいよ、気にしなくても」
「どうしようもないな、悪い、代わりに謝る」
大学には、広げ過ぎて戻らなくなった羽を何年も大切そうに背負っているような奴らばかりである。いつか使うその羽を、いや、使う日など来ないかもしれないのだが、使おうとした時には、羽を動かす力などどこにも残ってはいないのだ。
その日は、葉子さんのミスターコン騒ぎのせいで、彼とはろくな話もせずに帰宅した。
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