第3話 容姿

 金木犀の次の季節は毎年僕を憂鬱にさせる。

 夏の暑さ以上に、寒いのは嫌いだ。朝、家から出る前に、姿見の前で何度も気にする首元に巻くスカーフやマフラー、軽く羽織っているように見えるが暖かさを重視しているカーディガンや、できるだけ厚みが出ないように見えるコート。しかし、どれだけ寒くても手袋はしない。すべてトータルで考える。手袋はどんな素敵な装いをしたって、しっくりくる部品ではないのだ。どれだけ高級でスマートなデザインでもだめである。

 彼は冷え込むその季節を楽しんでいるかのように、好んで外の机を使っていた。それは芝生広場の一番奥手、隅っこにある大きな木の下で、いつも決まった場所のものだった。

 彼の定位置の机まで行き、声を掛けた。

「寒いのに」

「寒いの好きなんだ」

と彼は少し鼻をすすりながら言った。

 本当に寒いのが好きかどうかは分からない。一見、彼はかなりの厚着をしているように見えた。真っ黒のタートルネックに真っ黒のコーデュロイのパンツ、首にはグレーのストールを緩く巻き付け、厚手のカーディガンも真っ黒。黒いニット帽を被っていた。彼の全身は完璧に締めくくられていた。センスは抜群であるし、スタイルも洗練されている彼の服装は少し癖があった。その癖は、見る人によって映ったり映らなかったりする。彼が生きるのに必要なこだわりは、人を選ぶのが最大の特徴であった。埋もれたり輝いたりする性質のものだ。

「好きって、変わってるな。風邪ひくぞ」

「寒い中で、暖かい服を着ているのが好きなんだ」

「どういう意味?」

「だから、そのままの意味だよ」

 寒い中で暖かい服とは、道理には合っていた。時に彼の説明は、僕のような凡人には届かない時がある。だが、理解しようとする努力は惜しまないでいたつもりだ。

「どれだけ暖かくしても寒いだろ」

「そりゃ寒いよ。寒い中に居ることに意味があるんだ。分かる?」

「分からない」

「なら、いいよ。君の方こそ、僕に付き合ってると風邪ひくぞ」

 遠まわしにここから去れと言われたような気がして、僕は素直に従ったが、しかし非常に寂しい気持ちが残った。その日は晴天で、日向なら少しは暖かさも感じたが、風も吹いており、じっと座っているには寒いだろうというような天気であった。


 彼の自由を邪魔する気は全く無い。間違ってそんな事にでもなったなら、彼との接点を見失いかねない。そして、僕が毎日この大学に来ている意味すら失くしてしまいそうで、常に警戒していた。金木犀の香りが終息した頃、彼の中の詩人が一瞬活発になった。

「少し前にさ、金木犀の事で、君を馬鹿にしたみたいに言っただろ、あれ、悪かった。ごめん」

「え? ああ、いいよ、別にそんな事。っていうか、忘れてたし」

 僕はできるだけ明るく答えた。

「よく考えてみたらさ、なんでもそうだと思ったんだ。例えば、君が美味しいと思う食べ物を僕も美味しいと思って、具体的にどんな味で、どんな部分が美味しいかを言葉で表現し合っても、感じた味が全く同じなんてあり得ないだろ。それを確かめる事だってできない。出来たと思えても、それは勘違いだ。それと同じで、香りだって僕が良いと言って、君も良いと思っても、それは違う香りで、何も不思議はないんだ。むしろ、それが自然で当たり前なんだ」

「ああ、そう」

 彼の言う事は分からなくもないが、非常にややこしく面倒で疑問が残る。しかし彼はいつでも真剣であった。その純粋が素晴らしいのだし、今まで僕は、そのような純粋とは出会った事がなかった。もっと彼の話を聞きたいと、声のする方向へ耳を傾けるのだが、構えた時にはすでに、彼の意識は別の次元に行っていて、僕はいつも置いてけぼりになっていた。


 大学内に一匹だけ、かろうじて追い出されずに住み着いているキジトラの猫がいた。彼と金木犀の木を見に行った時に視界の端に入ったその猫を、二人で同時に見つけた。猫は大学内では結構知らた存在で、学生それぞれが名前を付けたりして、可愛がられている。追い出そうと思えばすぐにでも追い出せる程の軽いものであることは確かだった。それこそ首元をつかんでつまみ出すことは簡単であろう。

 僕たちが猫の存在を確認してから数週間後、学内の至る所に小さな貼り紙が貼りだされた。「猫に餌を与えないでください」と書かれたその紙には、大学の名前がきちんと記されており、大学側は猫がこの敷地に立ち入ることを公認していると宣言していた。あり得ないだろう。苦情もあるのではないか。猫が嫌いな人間だっているだろうに、猫が受け入れられているこの世界を疑ったりもした。それでも非常識なこの大学の優しさを感じて悪い気はしなかった。

 しかし、それ以上に考えてしまうのは、猫そのものの在り方であった。オスのキジトラは常に控えめで、自分から人に近寄ったりはしない。猫はそういう生き物だとは思うが、知性的だった。人間との距離を保ち、自分の世界をきちんと確保していた。怯えている訳ではない。媚びたりもしない。余裕があった。野良ではなく、満たされた世界から少しの間逃げ出して、こののどかな世界をからかいに来ているだけなのかもしれないとも思った。整った両目に賢さがにじみ出ているキリリとした横顔、ピンとした尻尾。体はシュっと痩せていて、しかし下腹には命を守るための脂肪がきちんと蓄えられており、歩くたびにタプタプと横に揺れていた。体を覆う毛は、黒と茶色の縞模様が混じり合い、季節柄、毛の量も増えてモフモフとした風貌であった。鼻の頭だけ色が剥げて茶色くなっていたが、もともとはきっと真っ黒であっただろうと思われる。肉球は真っ黒、後ろ足を突き上げている踵部分の毛も真っ黒であった。

 大学構内には、猫以外にもさまざまな事象が渦巻く。音が鳴り響く。空きコマに、だだっ広い廊下に並べられているベンチに座っていると、LL教室から英語を話す声が聞こえてくる。講師はネイティブだが時々日本語が混じり、なんだかな、という気持ちになるのだ。隣の教室では、映画を見ているのか、先ほどから悲鳴に近い声が鳴り続け、言語がよく聞き取れず分からなかったが、アジアの安っぽいアクション映画のようにも聞こえてきた。効果音ばかりが大きい、品のない映画であるということは、漏れてくる音からでも分かった。いかにも大学っぽいそういう場面は、一人で過ごす静かな時間にしか訪れなかった。


 僕には、実は多くの友人、実はそうとも言えない、いわゆる知人がいる。僕は好んで一人で行動しようとしているのだが、どうやら僕の容姿が原因で、周りには男女問わず常に数人が存在していた。高校卒業までは気にもしていなかったが、制服を脱ぎ、私服で過ごす大学での僕の服のセンスは、かなり上位レベルであった。皆が、起きたばかりの髪型に、着替えたのか? と思うようなスウェットの上下、足元は流行りのサンダル姿で大学に来るのに対し、僕の服装は雑誌から出てきたように見えるらしい。

「かっこいいね」

 面と向かって言ってくれる人は良いのだが、僕の背後、あるいは視界に入る少し離れた位置からコソコソと話しているような人たちには閉口する。

「あの、何学部ですか?」

 歩いていて突然そんな質問もされたりする。全く知らない顔である。答えるか答えないか、どちらにしても、何かに悪影響を及ぼすものでもないので、常に正直に答えるのだが、それで終わりなのである。

 入学した翌日、僕に声を掛けてきた同じ学部のN君とは、ずっと友達のような付き合いをしているが、N君と居ても僕はさっぱり落ち着かない。それはN君のせいでもある。N君には、もれなく数人の人間がくっついてくるからだ。つまりは、N君が僕の側にくると、自然に数人のグループになり、その中でも僕は、N君と同等な立場を与えられる。それは、まるで冷めかけた風呂のような体感であった。温まっているような気はするのだが、そこから出た瞬間、寒くてたまらないのである。しかし感情をあからさまに出したところで、なんらの変化はないと知っている。自分が損をするだけなのだ。我慢し、解放された時には、彼の元へ歩み寄る。

 

 彼が詩人になりたいと言って以来、僕らの関係はさらに強固なものになったと僕は勝手に思っていた。彼には俗な質問をしない。決めている。僕の中の彼の存在は特別なものであった。彼の話はいつも面白く、切なくもあった。詩人故の、苦悩がもたらすものなのかもしれない。

 大学生活はただ時間だけがのっそりと過ぎていくようで、もうすぐ冬休みだと気が付いた時にはなぜか、ぞっとした。まだ卒業までには三年もあるというのに、彼との時間はおそらくもっと少ないのではないかと感じていた。彼の繊細な体はいつまでもここにはないような気がしていた。ふわり、とどこか遠くへ行ってしまいそうな、儚い人であると最初に彼を見た時から体のどこかで感じていて、だから離れられなかったのかもしれない。理由はなく、確信はあった。

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