第2話 金木犀

 自発的に人とは距離を保っているのに、その透明な壁を平気で壊す奴はどこにでもいる。ずかずかと侵入してきては平穏な心の中を荒らし、捨て台詞を吐きながら消えていく。時に傷つき自信を失う。小さな穴を掘り、許可もなく植え付けられるその種が大きくなるかならないか。それは人との関わりの本質である。実るものがあるのか、すぐに枯れ果てるのか。いや、根っこから腐るのか。思わぬ収穫が得られ、目が奪われるほどの紅葉や華麗な花が咲き乱れるのか。


 秋晴れの金曜日。金木犀の香りがする、という彼の言葉から、僕たちの接点が温まり始めた。

「僕、金木犀がどんな匂いか分からないんだ」

と彼に告げると、

「えっ? どうして?」

と驚いた風に僕を見た。

「どうしてと言われても、分からない」

と答えると、

「ほら今香ってきてるよ、ほらほら、この香り、分かるだろ?」

 彼は珍しく、長い前髪を右手で分けて僕を見た。僕は、彼の前髪から覗く大きな黒目に魅了され、金木犀の匂いなどどうでもよくなったのだが、彼はすぐに右手を下げてしまった。

「いや分からない。花の匂いでしょ、この匂いかな?」

 僕の鼻ではどれだけ頑張っても無理な気がしていて、教えてくれる彼にも申し訳なく、分かるふりをした方が彼との接点を失わずに済むだろうと思い「うん、分かる気がする」と答えた。

「多分それ」

 短く答えた彼は、立ち上がり、

「花を教えてあげるよ」

と歩き出した。

「大学にはたくさん金木犀の木が植わっているんだよ」

 植物博士のような彼の態度に、背後でくすっと笑った。

「え、何?」

彼が振り返った。

「何も」

慌てて僕は誤魔化した。

「ほら、この木だよ、大きいだろう、枝の先についている橙色の部分が花で、あれが香るんだ」

と指さした。

 僕たちは立ち止まり、金木犀の木を見上げた。高さにしたら三メートルほどであった。かなりの大きさで、想像していたものと全く違っていた。僕は膝の高さで咲いているくらいの花を頭の中で描いていたからだ。

 その木の葉は青々と茂り、目に飛び込んでくる緑色の葉っぱと、その間にチラチラと見えているオレンジは控えめで美しかった。そして、僕の鼻にもかすかに花の匂いがした、ような気がした。

「良い匂いだね」

 適当な言葉だったが、金木犀の木を教えてくれた彼への礼のように僕は言った。すると彼は、

「本当に分かった?」

 僕の感じた金木犀が、彼の大切にしている金木犀とは確実に違うのを見抜かれた。彼はもっと深く、僕の浅いところを攻めてきた。

「さっきから、金木犀の匂いって言ってるけど、それは間違ってるよ。金木犀は香るものなんだ。香りだよ。もっと、俗世とはかけ離れた場所にあって、気高いんだ」

 僕自身になんのセンスもないのに、彼の言葉の美しさだけは感じるのだった。

 それからあの大きな瞳の美しさについても、この大学で僕だけが知っている大切なものである。彼のあの瞳の中には、小宇宙が広がり、吸い込まれそうな程に澄んでいた。

 金木犀の香りを分からない自分の頭と鼻を呪った。彼のこだわりは相当なものであった。金木犀の香りについてのこだわり、さらに日常の、特に言葉遣いに関しては、彼なりの覚悟の元でこだわり抜いている感が否めなかった。時々、僕自身の言葉にさえ指導してくる時もあった。そんな細かい事どうでもいいじゃないか、と彼に何度も言いかけてはやめていた。言えば、彼のわずかにこちらに向いている興味を、削ぐような気がしていたからだ。


 僕は、詩人になりたい彼を応援するわけでも、彼と大学生らしい遊びをするわけでもなかった。ただ、彼の大きな瞳を一度でいいからしっかりと見据えたい、それだけは確かな思いであったが、それもなかなか許されない状況であった。彼がいつも閉じ込めている真っ黒で大きな瞳は、さも大切そうに守られていた。恐らく見たくない物が人よりもたくさんあるのだろうと勝手に解釈していた。

 

 彼は時々眼鏡をかける。もともと視力はあまり良くないようだった。眼鏡をかけた途端、彼の大きな瞳は、一回り小さくなってしまう。

「メガネやめて、コンタクトにしたら?」

「コンタクト?」

「使った事ある?」

「いやないよ。君は?」

「中学卒業してからずっと使ってる」

「良く見える?」

「もちろん。世界が変わるよ」

「そんなに?」

「うん」

 彼はその後もいつものように冷静な態度で僕としばらく話していた。金木犀の香りは、二人の間を行ったり来たり、その場から離れ難そうにずっと漂っていた。

「今日は昼までなんだ。君は?」

「僕は五限目まで」

「ご愁傷さま」

 たまに彼の言葉に笑わされた。彼の口から出るには似合わない言葉たちは、いつも急に現れ、僕を楽しませた。


 正門から学内に入ると長い登り坂なのだが、それを登り切ると、お疲れさま、と言うように緑の芝生が広がっている。そこには点々と木の机と椅子が設置してあり、そのうちの一つに彼は座っていた。

 昼過ぎの大学。パンを二つ、机の上に右左と並べ、まさにどちらから食べようかと迷っている様子であった。僕は、彼に気が付かれない様に近づき、後ろからそうっと、「こっちだろ」と右側のカレーパンを指さした。

 彼は振り向き、前髪の間から僕の顔を見据えると、

「知ってたよ、後ろに居るの。決めてもらおうと思ってたんだ」

 突然の僕の登場にそんな言葉で誤魔化した彼に胸の内で拍手を送った。確実に驚きを隠そうとしていたのは見て取れた。彼は即座にカレーパンを手に取り、ビニール袋を雑に破りながら、

「よくあんなもの目に入れてるね」

「あんなもの?」

「コンタクトさ」

 パンとは全く関係のない話であった。

「ああ、コンタクトね。なんで?」

「昨日、行ってみたんだ、眼科」

「お、コンタクトデビュー?」

「デビューは出来なかったよ」

「どうして?」

「あんな異物、目に入れていいわけないだろ」

「異物って」

 僕はまた吹き出した。

「視力計って、検診受けて、問題ないから、いざコンタクト入れてみましょう、って右目にね、入れようとするんだよ、白衣着たおじさんがさ、その手綺麗? って手でね、僕の瞼の上下を広げながら、指先がだんだん近づいてきて、ついに異物をさ、痛くて痛くて。あれはダメだよ」

「そうかな? 最初だからだろ。ちょっと我慢すれば慣れるさ。神経質だな」

「そうじゃないよ、入れてる方がおかしいんだ」

 彼は、自分がコンタクトを受け入れられない体質、いや、性格だと知り、多少残念な様子だった。

「合わないってことだね」

「そうだよな」

 彼はそう言って、すっ、と黙った。

「眼鏡も似合うよ」

 彼はすでに、僕のその余計な優しさから逃れたがっていた。彼の周辺にはカレーパンの匂いが充満していた。

「カレーパン、初めて買ってみたけど、美味しいな」

 小学生のような言葉を発し、ただ思い出したからだろう、急な昔話が始まった。

「初めてカレーパンを食べたのいくつの時?」

 そんな突拍子もない質問されたこともなかったが、僕は真剣に考えてしまった。

「ええと、いつだったかな? 小学生くらいかな、なんで?」

「覚えていないの?」

「覚えてないよ、そんなの」

「感動しなかった?」

「感動? カレーパンに? しないよ。したとしても記憶にはないよ」

「君は鼻も音痴だけど、味にも音痴なのか?」

「ひどいこと言うなよ」

 二人揃って笑った。

「僕は幼稚園の時だったよ、カレーパンの素晴らしさに驚いたのは。母が僕の昼ご飯に、カレーパンをね、一つくれたんだ。初めてだった。パンを一つ、はいどうぞお食べなさい、ってもらったの。すごく嬉しくて、喜んだのを覚えてる。庭に出て、あ、僕の小さい時に住んでいた家には狭い庭があったんだけど、そこで犬を一匹飼っててさ、仲良しで毎日遊んでた。全身真っ黒な毛をしててね、その頃は僕よりも大きかったかな。とても優しくて良い犬だったんだ。クロって名前で。そのクロの小屋の横に、僕専用の低いプラスチックの椅子が置いてあって、いつもそこに座って遊んでいたんだ。その日はカレーパンを持って、そこに座って食べようとした。当然、クロは僕が遊んでくれると思って、ワンワンワンワンうるさく吠えていたんだけど、僕はそれよりもカレーパンさ。あの袋を破った時のカレーの香りと、かじった時の初めての食感に夢中だった。ところが―」

 そう言いながら、彼は手元のカレーパンを口に運んだ。静かに口を動かし、残り少なくなってきているパンを名残惜しそうに味わっているように見えた。

「いきなりだった。クロがね、僕の手にしていたカレーパン目がけて飛びついてきたんだ。僕はびっくりして、カレーパンを離しちゃった。地面に落ちたカレーパンをクロはむしゃむしゃって、あっという間に食べちゃって。本当にあっという間だよ。僕の感動なんて知らないんだ。味わう事も知らない、僕に何の断りもなく、クロがカレーパンを食べつくす姿を僕はぼうっと見てた。あまりにも突然で、動けなくて。カレーパンを食べ終えたクロは、舌で口の周りを舐めまわし、すごく満足そうだったけど、それでもまだ僕と遊びたいようでじゃれてきたんだ。僕は椅子から立ち上がったまま、動けずにいたのに、足元でよだれを垂らしながら僕にすり寄ってくるクロを見て、だんだん腹が立ってきて。誰も見てないのを確認して、クロの横っ腹を思いっきり蹴った。クロはちょっと驚いたようによろめいたけど、すぐにまたしっぽをふって僕に近づいてきた。気が付いたら、右手の指先に血が滴っていた。飛びつかれたとき、クロが僕のここを引っ掻いたんだ」

 彼は自分の右手の袖を大きくめくり、結構な大さな傷を見せた。それは、手首から肘の方向に伸びており、傷痕は五センチほどであったが、当時の彼の体の大きさから想像すると、かなり大きな傷だっただろう。

「ひどい痕だね」

「隠そうとしたんだけどね、血が止まらなくて、怖くなって母に言ったら、何で外で食べるの、って叱られた」

「それで?」

「母がタオルを持ってきて、これでしばらく押さえてろって言うから、押さえてたんだけど、全然血が止まらなくて、タオルも血だらけ。どうしようって言いに行ったら、さすがに母も慌てた様子で、何より僕の顔色が相当青かったみたいで、慌てて病院に連れて行ってくれた」

「良かったね」

「まあね。傷は思った以上に深くて、しかも相手が犬だから、バイ菌が入っていたらいけないからって、傷をね、こう、皮膚をぐわっ、て開いて消毒液の付いたガーゼで拭くんだ。麻酔なんてしないし、すごく痛くて、その時、ひどく泣いたのを覚えてる。一通り消毒が終わったら、傷口が大きいからって十針縫われた」

「縫ったんだ」

 僕は見せられた傷を覗き込みながら言った。彼の傷痕は確かに残ってはいたが、すでにその深い傷は皮膚と同化し始めていて、縫った痕など分からない状態になっていた。

「右手は包帯でぐるぐる巻きで、まだ痛みも随分あって、そのうち肩まで痛くなってきてた。でも痛いとか言えなくて、母が怒っているのは分かってたから。家に帰ってから何言われたと思う?」

「何?」

「もう二度と、カレーパンはあげないわ」

「ひどいね」

「母はクロが大事なんだろうな、って思ったよ。僕よりもね。次の日にはね、犬小屋の横の僕の椅子は撤去されてた。探したんだ。その椅子、すごく気に入っていたから。とても綺麗な水色をしてたんだ。でもどこにもなかった。きっと捨てちゃったんだろうな」

 僕は、何一つ気の利いた言葉を掛けられず、いつもの相槌で終始してしまっていた。

「それ以来、僕はカレーパンを与えられなかったし、自分で買えるようになってからも買ったことがなくてね」

「そうだったんだ。でも今日のそれは?」

 彼の手元にあるカレーパンはあと一口でなくなるところだった。

「やっぱりどうしても食べたかったんだ。今まで生きてきて、満足に食べたことがなかったカレーパンをね」

「良かったね、今日食べれて」

「うん、良かった。君が決めてくれたからだよ」

「美味しかった?」

「すごく」

「また食べればいいじゃない、いつでも売ってるよ」

「そうだな」

 前髪に隠れた彼の瞳は、その時少し光ったような気がしたが、僕は見ていないふりをした。

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