林檎と苺
高田れとろ
第1話 詩人
詩人になりたい。
彼はそう言うと、無理だろ、分かってる、と言いたげに笑って目を伏せた。しかしその純粋は僕の胸に大きく居座り、彼を見るたび、彼が詩人になった時の姿を想像し意識するようになってしまったのである。
そんな僕の想いとは裏腹に、彼は早々に詩人になることを諦めたようであった。その証拠に目の前の彼は必死に小説を書いていた。原稿用紙の束を机の上に広げ何やら書きなぐっている彼のこだわりは、文字の重なりから綴られていく物語ではなく、彼の手元で、休むことを許されないボールペンであった。その、一見重厚そうなボールペンのボディは、実は古い酒樽が素材となっているんだよ、と彼は自慢げに見せてくれた。
それが彼の魅力であり、まさに彼こそ詩人であると思わされる感覚なのだ。しかし、そうとは思っていない所こそ彼自身も気づいていない芸術的なセンスでもある。時に残酷に彼に襲ってくるある種の頭痛が、それを告げているのかもしれないと僕は思っていたのだが、その痛みに関して彼は非常にのんびりと構えていた。僕が、頭痛薬を飲めよ、と促すが、持っていないんだ、とか、どうせ効かないんだ、と逃げるようにして飲まずにいた。才能からの警告すらも、恐らく無意識に避けようとしているのではないかと、こちらが余計な勘ぐりをしてしまうほどであった。
ある日を境に、彼はみるみる痩せ始めた。痩せたと言っても、もともと太っていた訳ではない。どちらかと言えば痩せ気味であった。だが、その痩せ具合が気になった。
「ダイエットでもしてるの?」
「え?」
「痩せたんじゃない?」
「何もしてないけど」
と彼は答えた。
「病気じゃないよね?」
「そうかも」
と涼し気で平気な顔をしている。僕がしつこく心配するので、彼はこう言った。
「痩せた理由は分かってるんだ。今日は話す気分じゃないから、また今度ね」
彼の言葉は、いつも柔らかくさりげない。そして遠慮がちであった。
彼との接点は、大学に居る間だけだった。実は彼がどこから来てどこへ帰っていくのかも知らない。その点は、知らずにいた方が良いのだろうと察し、自分もまた彼と同じように居場所を知らせる事はなかった。いや、そのタイミングが来なかっただけなのかもしれない。消えそうな程の接点だったが、僕たちは重なり合う交点に居る間だけ言葉を交わし、分かり合う努力をした。
夏休みが終わり、久しぶりに彼と会った。
休み中ずっと髪の毛を切らなかったのか、彼の頭髪はかなり長く伸びていた。しかし、彼の髪の毛は癖もなくサラサラであったため、どこにも不潔感は感じられない。言ってしまえば、さらに芸術家らしくなっていた。鼻の高さが際立つ横顔を、つい凝視してしまう。
しばらくぶりの再会であるはずなのに、彼は昨日も会話をしたような感覚で僕に話しかけてきた。
「今日は二限から?」
「うん」
「僕も。後期は出来るだけ一限からの講義を受けない様に考えたんだ」
「僕もだよ」
「考える事同じだな」
「朝は苦手だし」
「僕もさ」
彼はちょうど陽が陰った場所に据えてあるベンチに座っていた。
「暑いね。ここは少し涼しいけど」
「そうだね。でも僕、普通の人よりも体温が低くて、平熱も三十六度あるかないかくらいなんだ。夏でも寒い時が時々ある。クーラーが効いた教室は地獄さ」
「君らしいね」
「僕らしい?」
「深い意味はないけど」
「そう」
「だからいつも羽織るものを持ってるんだ」
「うん。夏でも寒いんだ」
彼が半袖の服を着ている姿をあまり見た事がないような気がした。その日も薄手の長袖シャツを着ていた。
「夏休みはどうだった? 小説は書けた?」
彼は相変わらずの作家活動をしているようだった。いつも手元に小さめの手帳を持っており、小説のネタを綴っていた。僕と話をしながら手元のボールペンを動かしたり止めたりしていた。
「君は?」
「実家暮らしだからさ、色々あって嫌になるよ」
「色々って?」
「まあ、いいじゃん。あんまり思い出したくもないんだ」
「そう。僕は一人暮らしだけど、それでも色々あったよ」
「何?」
彼は以前よりも明るい様子に見えた。久しぶりに会ったからだろうか。見方によっては無理をしているようにも見えた。時々疲れたように表情を曇らす。
「夏休みにね、S学部のM君の家に遊びに行ったんだ。M君のことは知らないよね?」
「うん、全然」
「興味ないよね」
「いや、聞くよ。時間あるし」
全く知らない人の話など実は興味はなかったが、彼が僕以外の人間とこの大学で交流を持っていることに驚き、さらに複雑なのは、僕の心に瞬時に芽生えた嫉妬の存在であった。普段は感じたことのない顔の火照りまで感じるほどだった。しかも、僕とはそこまでの交流を求めない彼が、別の人間とは可能だという事に僕は裏切られたような気持ちになり、切なくもなった。僕のその時の顔は、恐らく必死であっただろう。あらゆる表情を隠すのに。
彼は至ってマイペースであった。手元の手帳に何やら書き物の続きをし始めた。その様子を伺いながら、彼が話す時が来るのを待っていた。しばらくのち、一息つくように彼は手元の手帳をゆっくりと閉じ、それを大切そうに膝の上に乗せ話し始めた。
「S学部のM君とは、教室で会えば時々話したりしていたんだ。夏休みに入る前日、教室を出たところでM君が、明日、暇? って声を掛けてきたんだ。僕にそんな言葉を掛ける人間はいないからさ、心臓が飛び出そうになったよ。しかも、家に遊びに来ない? 頼みがある、って言うんだ。M君は軽い気持ちで声を掛けてきたんだろうと思うけど、僕のような人間にしたら拒絶反応を引き起こすだけだよ。だけど、その時はどうしてだろう、持っていたこの手帳に何か書けるような、新鮮な経験ができるかもしれない、なんて思ったんだ。今考えたらおかしいよ、そう、おかしかったんだ」
彼の苦悩は、きっとM君には届かないだろう。
「誤解しないで欲しいけど、M君と仲良くなりたいなんて、くだらない事だけは考えていなかったよ。人の家に遊びに行くのなんて、実は初めてだったんだ。子供の頃からそんな事したことはなかったから。どうするものなのかと考えたけど、M君は一人暮らしだったから少し気は楽だった。一応、コンビニでスナック菓子を一つ買って。最寄り駅まで行ったら、M君は迎えに来てくれてた。M君はね、君よりも背が低くて、ちょっと肉付きが良い。大学生にしては老けて見えるんだ。今度遠くからでも見てみると良いよ。笑うよ。後ろ姿なんて中年のおじさん。あ、話が逸れた、悪い」
彼の全く悪気のない悪口であった。
「駅から二人でM君の部屋まで歩いたんだけど、それがかなり遠くてさ、三十分近く歩いたかな。M君が、ここ、って指差した場所には、古びた二階建てのアパートが建っていて、入り口玄関には共同の下駄箱が置いてあった。いかにも古くからある下宿って感じ。その時すでに後悔していたよ。来るんじゃなかったって」
僕は彼の話す姿と、その言葉の並びに小さく吹き出した。
「笑うだろ」
彼はそう言って僕を見た。ちら、と前髪の間からの大きな黒目。彼が事細かに説明し続けようとしているのを察知して、続けて、と両手でジェスチャーして合図した。
「その場で帰るなんて言えないから、仕方なくアパートに入ったよ。まず、玄関で靴を脱いで、古くて掃除なんてろくにしていないみたいな下駄箱に靴を置いてさ、M君が出してくれた玄関に備え付けのスリッパを履いて彼について行ったんだけど、そのスリッパもまた、誰が履いたのか分からないやつで、不潔。参ったよ。もう本当に帰りたかった。M君の部屋は二階で、また小汚い階段と廊下を歩くんだ。廊下の両側には部屋が三つずつ並んでいて、右側の真ん中がM君の部屋だった。その扉も茶色い木製のもので、もう玄関じゃない、ただの部屋のドアさ、薄っぺらくて防犯なんか考えていないんだなって思ったけど、そういえばこの建物にはすでに玄関があったのを思い出して、別に問題はないか、って一人で納得してた。次は部屋だよ。ここまで来て、何も期待できないだろ? 扉を開けたら眩しい光でも射しこんでくると思う? 扉の向こうには、当たり前だけどそんなものなかった。トイレも風呂も共同。M君はアルバイトもしていないようだし、仕送りだけで過ごしているらしくて、家賃は一万円だって。僕はそれでも高いと思ったけど、あの辺りの他の部屋はもっと高いから、住みたい人は居るんだね。空き部屋はないみたいで。M君はその小汚なくて何もかもが共同の住まいが気に入ってるんだろうな、居心地が悪いとは思っていないみたいだった」
「へえ、それで?」
長くなりそうな話に、僕は相槌を続けた。
「M君の様子を見ていたら、あの住まいには何の不満もなさそうだったけど、なんとなく彼の態度はおかしかった。なんというか、怯えてるというか、不安を隠せないというか。頼みって何だろうと思って聞いてみても、はっきりと言わないんだ」
「え、もしかしてお化けが出るとかそういうこと?」
「するどいね。そういう感覚、僕は無くて。その現場で、そんな想像はできなかったよ。でも、建物は古いし、部屋は北側に小さい窓があるだけで本当に薄暗い。はっきり言って、部屋に入ったら汚いというよりも、気味が悪かった」
「天井にしみとか?」
「そんな心配も僕はしなかったよ。でも実はそんな話じゃなかったんだ」
「何?」
「M君が、もう少し待って、って言うから、大人しく待ってた。何もないM君の部屋だったけど、本だけは異常な程たくさんあって、部屋のいたるところに狭そうに積み上げられてた。本棚はなくて、畳の上に無造作に置かれていたけど、その冊数はかなりのものだったよ。手持ち無沙汰で、M君に許可をもらって、気になる本を数冊ペラペラと見てた。どれも大した本じゃなかった。ページを繰るたびに埃臭くて、目に見えない何か体に悪そうな物が飛散しているような気がして、息を止めたりしてた。M君は慣れない手つきで麦茶を出してくれたんだけど、生ぬるくて味も薄いし、飲めたもんじゃない。でも、M君はその麦茶をとても美味しそうに飲み干して、僕の持って行ったスナック菓子もバリバリと食べ始めて。味覚って不思議だよな。視覚とも関係しているんだと思ったよ。M君はあの部屋の生活が身に染みていて自然なんだ。そんな場所だから、とても大切で。それで、問題解決のために僕を呼んだんだ」
「なんだったの結局、やっぱり幽霊?」
「そうだったらどんなにいいかって今は思うよ。幽霊みたいな、そんな気持ちだけが遊ばれるようなことに、僕を誘ってくれたのならどんなに楽しかったかって。でも、話は全くの現実だった。とてもくだらない事だったんだ。M君にしたら、その時最も真剣に向き合うべく問題だったんだろうけどね。もうそろそろかな、こっちに来て、ここ見てて、って僕を呼ぶんだ。それで隣の部屋との境目にある小さな隙間を指さした。そこには幅一センチ、高さは五ミリくらいの、よく見ると大きな穴とも言えるほどの空間があって、いつも大体この時間なんだ、あれが出てくるの、って、M君は僕が履いてきたスリッパを手渡すんだよ」
「スリッパ?」
「初めて腹わたが煮えくり返るのを味わったよ。分からない? 不潔な部屋、適度な穴、スリッパだよ、もう一つしかないだろ?」
「えっ、何?」
「分からない? ゴキブリだよ。もうすぐそこから出てくる時間なんだ、見ててくれない? って。僕は片手にスリッパを持ったまま。情けないだろ」
「君にゴキブリ退治させようとして部屋に呼んだってこと?」
「その程度のものさ。どうせそんなものさ、この世の事すべてはね」
彼の話はそこで終わった。彼がスリッパを手渡された時の気持ちは落胆という簡単な熟語では済まされないだろう。煮えくり返った彼の腹わたは、いつ常温に戻ったのだろうか。想像してみたが、まだ常温には戻っていないかもしれない。僕に話すことで恐らく少しは落ち着いたのではないか。スリッパ片手に彼はどうしたのか気にはなったが、それ以上聞くのはやめておいた。話したければ、然るべき時に話してくれるだろうと思った。ゴキブリ事件が起きる前に、彼がM君についてどう思っていたのかは知らない。しかし、彼に何らかの期待をさせたM君を、僕は心の中で許せなかった。
「ごめん、煙草吸ってくる」
彼の口から出た言葉が意外で僕は驚きを隠せなかった。
「え? 煙草吸うの?」
「うん」
彼は俯きがちにそう言い、膝の上の手帳を黒いくたっとした鞄の中へしまい、抱えるようにして持つと立ち上がり歩き始めた。
「体に悪いよ、煙草なんて」
と慌てて彼の背中に向かって叫んだ。
「そんな心配要らないよ、母親か」
「いや……」
「じゃあまた」
彼はそう言うと、僕を残して学内の喫煙場所へ向かって歩いて行った。夏休み前まで彼が煙草を手にするのを見た事はなかった。ゴキブリ事件が発端とも思えなかったが、僕が知っている彼に関する情報から推察すると、喫煙に至った原因はゴキブリしかなかった。しかし、僕の知らない彼の何かがそうさせていたのかもしれない。
僕は他人に関して、自ら知ろうとする事に恐怖を感じる。どこに住んでいるの? 家族は? 年齢は? 学校は? サークルは? 好物は? 彼女は? 質問事項は山程ある。その質問を投げかけることで得られる情報は、その人を構成する重要なパーツとなり、その構成は自分の好みで脳内に書き換えられる。同じ情報を得てもどうせ脳内で書き換えられるのなら、必要ではないのではないか、無防備に情報が飛び交う中で、僕は一人恐怖しているような気がしてならない。知らなくても良い事は、恐らく知らずにいられるはず。そして、きっとそれは本当に知らなくても良い事だ。知る恐怖を世間の人間たちはそもそも知らない。
喫煙所に消えていく彼の背中は少し丸まっていて、不健康そうに見えた。背丈はそれほど高くはないのだが、かと言って低くもなく、ちょうどいい具合に作り上げられていた。離れて見ると非常に整った姿が際立つ。しかしそれを隠すように、だるっとした服装が彼の体を覆っていた。足元は、いつも同じ黒の革靴だった。所々擦れた痕があったが、大切に履いているのだろう、綺麗な光沢が常に保たれていた。踵部分は木製のようで、彼が歩くたびにカツカツと軽快な音を立て、彼の為に、自らの命を少しずつ削っているようにも聞こえた。
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