第8話)最期の審判
漏れ聴こえてくる雨音は更に大きさを増していき、二人の間には沈黙が続いている。思ってもみなかった優矢の言葉に返す言葉を探している奈美と、次の言葉を躊躇ってただただ奈美を見つめ続ける優矢。
「「………」」
沈黙の時間は刻々と積み重なり、それに呼応するように息苦しくなる二人。
「ユウヤ、あのさ」
それに耐えられなくなったのは、ここでも奈美の方が先だった。
「どうして、ユウヤのせいなの?」
まずは優矢がそう思う理由を知ろうと決めた奈美は、努めて優しい声で促し始めた。
「オレのせいで」
「うん」
「アネキは、さ」
「うん」
「中絶、の」
「えっ?」
絞り出すように吐露する優矢の自責の念は、奈美にとってやはり思ってもいない事だったので、奈美はおもわず息を飲んだ。
「オペを、して」
「………」
「それで深く傷ついて」
「………」
「だから自殺を、考えたんだよね?」
「ユウヤ………」
途中から涙が溢れ出し、直後に声が震えていった優矢を、奈美は申し訳ない気持ちで見つめ続けていた。中絶するしかない妊娠を苦に自殺をしようとしたと、優矢はずっと今まで誤解しているという事を知ったからだ。
「そ、それはね」
奈美は訂正しようとした。早く誤解を解いて安堵させてあげなきゃと思った。
「あっ………」
が、しかし。ある考えが浮かんできたので、そのまま進む事にした。
奈美が妊娠を知って感じた事。
それは唯一つ、
多大な幸福感であった。
それ以外にはなかった。例え実の弟であったとしても、優矢は奈美にとって最愛の人である。どちらにしても気持ちは揺らがない。当時もう既に現実から完全に目を背けていた奈美は、優矢の子を産むつもりでいたし、このままでは優矢に捨てられてしまうと怯えていた時期でもあったので、妊娠する確率が高いであろうと予想できるあたりにそうなるように計画的に仕組んだ上での、作為ある妊娠だったのだ。子が宿れば、優矢の心は再び戻ってくると思っていたから。奈美にとっては、優矢の優しさを利用した妊娠だった。
しかし無情にも、元々が身体が弱かった奈美は、それが原因なのか早い段階で流産してしまった。そう、奈美が自殺を選んだのは、優矢を手繰り寄せる術でもあった妊娠に失敗して大事な子を亡くしてしまった為、これで優矢に捨てられると絶望したからだった。
そして、優矢はその事に気づけなかった。そういう理由で絶望している奈美の姿が、中絶するしかない妊娠をしてしまうというショックによってだと勝手に察してしまうに充分な様子だったし、当然だが誰にも聞けない事だったし、そもそも誰も知らない事だったし、何より奈美本人にはとてもじゃないが聞ける状態ではなかったから。
「怨んでないとしたら?」
奈美が望んで仕向けた事だったのに、それでも責任を感じてくれている優矢のその優しさを嬉しく思いつつ、優矢の赤ちゃんを中絶なんてするハズがないのにそれを選んだと思っている事を少しだけ不思議にも思いつつ、奈美はその誤解を次の展開に利用する為の手を打った。
「えっ………」
奈美へのこの想いを絶たなければ、いずれまた同じ事になって奈美を屑つけてしまうと思い込んでいる優矢は、それなのに昨夜から今日にかけて何度も奈美を抱いてしまった自分を含めて、より一層深く強く自戒を強めていた。自分の愛情は、奈美を傷つける事にしかならないんだと。
「そうだとしたら、どうなの?」
「………」
「ねぇ、どうなの?」
「………」
「どうして、何も言ってくれないの?」
しかし、奈美にはそれが判らない。
「………ゴメン」
「昨日だって今日だって、あんなに抱いてくれたのに?」
故に不安が大きく膨らんでいき、拒絶されたと簡単に思い込んでしまう。
「ゴメン………」
「それなのに!」
あまりにも悲しくて、簡単に思考が停止した。
「ゴメンね、アネキ」
「またそうやって………そんなの酷いよぉー!」
もはや感情のみでしか動いていない奈美は、昨日から積み重ねてきた事実やそれ以前の数々の大切な記憶を、バラバラに眺める事しか出来なくなっていた。
「ねぇ、どうして? ねぇ、どうしてなの? ねぇ、ねぇ、愛してくれてるからじゃなかったの?」
想いや行為は繋げて感じてみてこそ愛情であり、その一つ一つを一つずつ見てしまうと優しさになってしまう。更に、壊れゆく精神状態では、それ等を憐れみと感じてしまう事だってある。今も奈美がそうであるように。
「アネキ………ゴメン」
「もう愛してくれないんだね」ユウヤは誰よりも優しいから、アタシを憐れに感じて拒否しなかっただけだったんだ。やっぱりもう、愛されてないんだ。愛してくれないんだ。あ、きっと他に好きな女性がいて、アタシは邪魔なんだ。つきまとわれて、迷惑だって思ってるんだ。ホントはアタシの事が嫌いなんだ。あんなに抱いてくれたから、だからアタシは幸せだったのにそれは、言ってみれば最期の晩餐みたいなモノだったんだね。アタシに期待させといて、どっかに行っちゃうつもりなんだね。アタシは棄てられちゃうんだ。ううん、ずっと棄てられたままなんだね………こんなに愛してるのに。こんなに、こんなにユウヤの事、ユウヤの………」
こんなにも、こんなにも、
こんなにも愛してるのに。
愛してるのに!!
「アネキ、ゴメン」
「そんなのヤダよ」
奈美はこの時、今まで感じた事がくらいの喪失感と、今まで感じた事がないくらいの嫉妬心に襲われた。口を開くと奈美への想いが溢れそうで何も言わずにいる優矢を見ても、奈美は優しいから想いを告げてしまうと耐えてまた苦しんでしまうかもしれないと何も言わないでいる優矢を見ても、愛しているからこそ諦めなければと何も言わないでいる優矢を見ても、奈美が躊躇なく自分を殺せるようにと何も言わないでいる優矢を見ても、奈美は優矢がそれ等の感情と思考でいるとは少しも思っていない。
「ゴメンね………」
「………そんなの」
たった一つの答えの中にさえ、
幾つもの幾つもの答えがある。
「ゴメン………」
「そんなのって」
それなのに。
それを伝え合わないでいれば、
たった一つさえ、伝わらない。
「………」
「ヤダよぉ………」
優矢が黙ったままでいるのを見て、奈美は自身の心の叫びだけに耳を傾けた。
「………」
「イヤだよぉー!」
どんどん我を忘れていく奈美は、嫉妬に任せて刃物を持つ手に力を込めた。
「誰にも渡すもんかぁあああー!!」
そして、その嫉妬に任せたまま、優矢に刃物を振り下ろそうとした。
「うぐっ」
それを見て優矢は、目をギュッと閉じて更には身体を強張らせた。この結末は今朝から判っていた事。これで良かったんだと自分自身を納得させた。
「………」
「………」
「「………」」
「………」
「………」
が、しかし。
当然すぐに襲ってくるであろうと思っていた痛みや苦しみが全く感じられない。
「………?」即死? いいや、まだ立ってるし。力が抜けている感覚もない。経験したコトがないから知らないだけで、案外こういうものなのだろうか? そう言えば、誰にも渡すもんかって言ってたような気がする………どういう意味なんだろう? でももう死ぬんだし、考えるのはヤメよう。ゴメンね、アネキ………。
と、優矢は色々な思いを巡らせたものの、漸くというべきか、その後でそんなにアレコレと思い浮かぶ余裕がある自身を不思議に感じたので、おそるおそる目を開けた。
「………っ!」アネキ?!
「………」
すぐに奈美と目が合った。奈美は、涙を流しながら優矢を見つめていた。どこか複雑な表情で。けれど真っ直ぐに。
「どうし、て?」
呟きながら。優矢は奈美の手元に視線を流した。奈美が振り下ろした筈の刃物は、優矢の胸の僅か先で止まっていた。刃先が到達していないという事は、かなり早い段階でブレーキをかけていたのだろう。
「そんな………」
意外な程に冷静なのは、死を覚悟したからなのだろう。優矢はその意図が判らなくて逡巡した。奈美に何があったのだろうと思った。
「ユウヤ………」
実際そのとおりで、奈美は理性を再始動させる事に成功していたのだ。とは言え、間一髪だった。嫉妬心を上回るのがあと少しでも遅かったら、止める事は不可能だった。
「………アタシ、さ」
奈美が望んでいる事は、完全に確信した上での独占であり、嫉妬に任せた結果による独占なんかではない。その達成の為には、まだ重要な事が残っている。
「アタシ、ね………」
それを確かめるべく、奈美は改めて試みを始めた。
「アタシにはユウヤしかいないんだよ?」
呟くようにそう言い、更に弱々しく微笑んだ奈美は、握りを変えた刃物を自身の首元まで引き寄せ、刃先を向けて止めた。
「えっ、と、ちょ、アネキ待って!」
奈美が何をするつもりなのか察した優矢は、驚きつつ焦りつつ、慌てて奈美から刃物を取り上げようとした。
「来ないで!」
しかし、それを奈美は素早く後ろに下がる事で拒絶した。
「アネキ………」
今にもその白く細い首に刃先を深く突き刺してしまいそうな奈美を見るに至った優矢は、奈美から強引に刃物を取り上げようとするのは得策ではないようだと判断し、オロオロと奈美の出方を見守る事にした。
「アネキ、お願いだから」
思い詰めた表情を浮かべる奈美を刺激しないよう、努めて穏やかに話しかけようとしたが、優矢のその声は焦燥で震えていた。
「………待てばどうなるの?」
そんな優矢の様子を見て奈美は、悲しい表情に変えつつ優矢を睨む。
「アタシの事………面倒なヤツだって、そう思ってるんでしょ?」
そして、口調を強くする。
「ホントはさ、死ねばイイのにって思ってるんでしょ?」
更にキツく。
「ねぇ、そうなんでしょ?」
浴びせるように。
「でもね。でも、ユウヤが愛してくれなきゃ、生きてたって何の意味もないのよぉー!」
そしてそう叫び、それと平行して刃物を持つ手を中心に判りやすくギュッと力を込める仕草を見せた。
「そんなワケないだろ!」
優矢はおもわず声を荒げた。たしかにそんなワケがなかった。そんな事、思った事すらなかったのだから。
「あうう! うっ、うく………ひんっ」
その怒号に奈美は、まるで頭上すぐ近くで雷鳴が轟いたかのようにビクンと身体を強張らせた。
「あっ、そそその、ゴ、ゴメン!」
その様子を見た優矢は、その途端に慌てて謝った。
「ユウヤが怒った………ひんっ! ユウヤが怒ったぁー!」
奈美の両の瞳が、更に更に。みるみるうちに潤んでいく。
「いやあの」
「ひぐっ、ユウヤのバカぁー!」
優矢に謝られた奈美だったが、ありったけの声をあげて泣き出した。
「あう、うくっ、そそその、怒鳴ってゴメン。アネキ、あの、そ、ゴメン。ゴメンね?」
その様子を見て、優矢は激しく動揺したが、それでも刃物を取り上げる事が出来るかもと思い、ワラワラとではあったが奈美の元へと進み出た。
「ひんっ………」
が、しかし。実は優矢の様子をしっかり観察している奈美は、拗ねるように更に後ろに下がった。
「あああのさアネキ………オレさ、もうアネキの事を傷つけたくなかったんだよ。だから、さ、だからアネキ………も、もう泣かないでよ」
優矢はオロオロしながら言った。
「じゃあ、じゃあ、ずっとずっと傍に居てよ!」
ここが勝負所だと直感した奈美は、咽びながら叫んだ。
「明日も明後日も、もっと先も、もっともっと先も、ずっとずっと、ずーっと傍に居て!」
そして、更にそう続けた。
「で、でも、そしたら、また………」
優矢は口ごもりながら呟く。
「ひんっ………また、何なの?」
それを聞いた奈美は、泣き咽ぶのをピタリと止めて続きを促す。
「傷つけちゃう、から………」
優矢は苦しそうにそう言うと、奈美の傷痕を見つめた。
「アタシが傍に居たら、またこんな事しちゃうような事、ユウヤはアタシにするの?」
優矢の視線の先にある傷痕を見た奈美は、この傷は自分のせいだと優矢は誤解しているという事をふまえながらそう訊いた。
「だってオレ、アネキの事が好きだから」
優矢は弱々しく言った。
「好きなのに傷つけちゃうの?」
奈美は続きを促す。
「最後まで繋がってたいから、だからまた、アネキの、中に………オレまたいつか、ううん。すぐにそうしちゃうと思う」
優矢は恥ずかしそうに吐露した。
「ナカ、って………あっ」
その意味を理解した奈美は、自身の顔が真っ赤になっていくのが判った。恥ずかしさと嬉しさが同時に込み上げてきたが、後者の方が何倍も上回っていた。
「だから………」
「ユウヤ………」
いつだって優矢は避妊具を使用しようとするので、奈美はそれが不満だった。誰が父親かなんて事は二人だけの秘密にしておけば誰にも判らないし、例え露見したとしても大した問題ではないとしか思っていなかったからだ。なので、愛してくれているのならどうして膣内に放出してくれないのだろうと、優矢の愛情を不安にも思っていた。しかし今、それこそが優矢の愛情だったのだと判った。優矢が先程言っていた言葉も繋がった。だからこそ、妊娠させて傷つけたと自戒しているのだと。
「ゴメンね、アネキ………ゴメンなさい」
「アタシの、方こそ………ゴメンなさい」
避妊を望んではいないという事を優矢に伝えていなかった自分の責任だと思った奈美は、優矢がどんな想いで抱いてくれていたのかという事を知るに至った。
「ねぇ、ユウヤ………」
なので、嫉妬に任せて刃物を振り下ろすのを思いとどまって本当に良かったと心の底から思った。
「ん?」
「アタシの事………愛してくれてるの?」
奈美は祈る気持ちで確認した。
「………うん。勿論だよ」
優矢は一つ頷く。
「じゃあ、じゃあ、傍に居てってアタシが思ってるんだから、だから、だから、傍に居てくれるよね?」
奈美が誘導する。
「でも、それは………」
優矢は迷う。
「お願い、ユウヤの傍に居させて!」
奈美が言い方を変える。
「アネキ………」
優矢は今まで、奈美を諦める事だけが奈美の幸せに繋がると思い込んでいた。奈美に恨まれているとも思っていた。しかしそれでも、奈美を求めていた。諦められなかった。そして今、奈美の本心を知るに至った。それは、やっと伝え合ったからだ。
「愛してるのよぉー!」
奈美は心から告げた。
「オレ、ホントは………アネキを諦めたくない」
優矢も同じく。
「はう、う。ユウヤぁー」
奈美の心が大きく高鳴る。
「じゃあ、じゃあ、もうこれからは、アタシだけでいてくれる?」
遂に奈美は、一番知りたかった重要な事を訊いた。
ゴールまで残り僅かだ。
「………うん」
優矢は一つ頷いた。
「ずっとずっと、ずーっとだよ?」
奈美の心が再び高鳴る。
「うん」
優矢は再び頷いた。
「ユウヤぁ………」
遂に奈美は確信に至った。望んでいたゴールに、自らを導いたのだ。
「ウソじゃないよね?」
これで独り占めできる。
「夢じゃないよね?」
奈美は喜びに満ち溢れた。
「………うん」
そんな奈美を抱きしめたくて、優矢はズイッと前に出た。
「あっ、やんっ」
優矢にギュッと抱きしめてもらいたいと思っていた奈美だったが、
「危ないよぉー」
刃物を持っていた腕を慌てた素振りで逸らしながら、まだ思考する。
「………でしょ?」
イニシアティブを握ったままでいようと。
「あ、ゴ、ゴメン」
そのとおりだと思った優矢は、謝りながら半歩程下がると、刃物を渡してという意味で手を差し出した。
「はい。えへへ………ん」
素直に刃物を渡した奈美は、素直に預けたご褒美は?と、いった感じで目を閉じ、顎を上げて望むご褒美を待った。
「………」
その仕草が何を求めているのかすぐに判った優矢は、それをいなすように奈美の額に軽くキスをした。
「えっ、違うよぉー。もぉ………ん」
心を鷲掴みされた奈美は、拗ねた素振りでそう言い、唇を可愛く突き出した。
「っ?! んん、んく………」
すると、それとほぼ同時に優矢が唇を重ねてきたので、奈美はおもわずビクンと身体を震わせたが、そのすぐ後に幸せに包まれたので、途端に力が抜けていった。
「んっ、んぐ………ん」
その幸せの中で、こうして優矢に甘えるのはどの位ぶりだろうかと奈美は考えた。
「んはっ、う、う………」
が、思い出そうとしてすぐ、昨日や今日の事が脳裏から浮かび上がってきた。
「ユウヤぁ………」
しかし、それとこれとは違うと自身に言い訳した。心に不安なく甘える事が出来たのは、随分前まで遡らなくてはならないからだ。
「もっとぉ………」
そして今、漸く優矢を取り戻し、これからは望みどおりの人生を生きるのだ。
「もっと………シテほしい」
奈美は心の中で狂喜乱舞していた。神様のおかげだと思った。心の底から感謝した。神様が許してくださらなければ、この現実に身を置く事なんて出来なかったのだから。
「んんっ、ん、んっ、んぐ」
いつかきっとと思い込みながら毎日をやりすごすという日々を、この先もずっとずっとすごし続けるだけだったのだ。
「んん、ん、っ、はうう………」
優矢の唇が再び離れたのを寂しく感じた奈美が、名残惜しそうに目を開けた。
「これ、置いてくるね」
優矢はそう言って微笑むと、キッチンに向かって歩き始めた。
「うん」
完全に背中を向けた優矢は全く気づかなかったが、優矢の背中を見つめた奈美はこの時、奈美ではない表情で一つ頷いた。まるで、何者かに何事かを囁かれたかのように。
「………」ユウヤ………。
「………」アネキ………。
幸福感に包まれていた優矢は、
重大な事を完全に忘れていた………。
………。
………。
第8話 最期の審判 完
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます