第7話)最後の晩餐
つい先程まではたしかにあった朗らかな空気があからさまに急展開を見せ始めたのは、二人が揃って遅い夕食を済ませた夜の八時を随分と過ぎた頃であった。夜を迎える頃には強い雨になるでしょうというTVプログラムの天気予報どおりに、家の中に微かに雨音が漏れ聴こえ始めていた。
「………」
つい先程、遅い夕食を食べ終えた優矢は、奈美が予め用意しておいた白色のトレーナーと黒色のカーゴパンツというラフな恰好で、一階にあるリビングの革製ソファーに昨夜と同じように………いいや、昔と同じように腰掛けていた。
「………」
一方、優矢とお揃いの衣類に身を包んでいた奈美は、優矢と共に遅い夕食を終え、洗い物をしていた。そしてそれを終えると、昨夜とは違って優矢の後ろに立ち、長い深呼吸をしてから優矢を見据えた。
その表情から、
穏やかさがスーッと消える。
「ねぇ、ユウヤ………」
そして、優矢に呼びかけた。
「うくっ………」
その声にいつもの柔らかさが全くもってなかったのでビクンと反応してしまった優矢は、振り返るのを躊躇ってそのまま、奈美の次の言葉を待った。その声に違和感を覚えた途端に不安感が芽生え、アッと言う間に恐怖に変わる寸前のイヤな予感めいた思いがよぎり、振り返って奈美の顔を見る事を躊躇ったのだ。
「あのさ」
「………」
今朝から今に至るまで奈美はあからさまに上機嫌で、高熱が出てしまうのではないかと心配しながらも優矢は確信の始まりを敢えて待っていたのだが、いざそれが遂に訪れたのかもしれないと思うに至ると、待っていたのにも関わらず凄い速さで緊張を増していった。
「三億円もあればさ、アタシ達の事を誰も知らないトコにだって行けちゃうし、そこでそのまま、ずっとずっと、ず~っと二人でさ、二人きりで、二人だけで暮らせちゃうよね………でしょ?」
奈美のその言葉を合図に、リビングの空気が重く沈んでいくスピードを速めていく。
「っ………」
実は優矢も、同じ事を考えた事があった。更に言えば、そんな現実逃避を心の中で思いながら宝クジを購入してきたのだ。しかし、それでは再び奈美を傷つけてしまう事に繋がってしまうだけだとも思っていた。充分に思っていたし、存分に思っていた。だから優矢は、それは決して願ってはならない事なのだと思っていたのだが、その考えを奈美の口から聞けるとは思ってもいなかったので、奈美の意図………いいや、真意が判らなくて逡巡した。
「アタシは此処でもイイよ。だってさ、此処ならすぐに思い出してもらえるし、忘れないでいてくれるかもしれないでしょ? 沢山あるユウヤとアタシの大切な想い出を、ね」
優矢の反応を冷静に窺いながらそう告げると、奈美はその後は沈黙してそのまま、優矢の言葉を待とうとした。そう決めていたから。
「う、く………」
優矢は返す言葉を懸命に探した。此処には奈美が忘れたいであろう記憶も沢山あるし、その傷をつけたのは俺自身なのだと自戒しながら。
沈黙は続き、
空気は重さを増し続け、
そして、凍り始める。
「………」
奈美は、優矢を深く愛していた。だからこそ、諦めたくなかった。そして、諦めるつもりのないまま今日という日を迎えた。
「………」
優矢は、奈美を強く愛していた。だからこそ、諦めようとした。しかし、諦められないまま今日という日を迎えた。
「………」
けれど奈美は、まだ優矢が強く愛してくれているという事を知らない。それどころか、本心では面倒だと感じているのではとさえ思っていた。何度その身を委ねても、その思いは小さくはならなかった。
「………」
優矢も同じく、まだ奈美が深く愛してくれているという事を知らない。それどころか、本心では怨んでいるのではとさえ思っていた。何度その身を重ねても、その思いは決して消えなかった。
「「………」」
それでも奈美は優矢を諦めず、諦めるつもりがないのに離れたままでいるという矛盾を抱え、だからこそ優矢は奈美を諦めようと決心して離れたのに、それなのに諦めたくないという矛盾を抱え、二人はそれぞれに今日まで来た。
「「………」」
二人がそれぞれこの想いは決して許されない想いであると自覚する頃には、既に力強く芽生え更には実ってしまっており、やがて自覚しながらも目を背けて結ばれてしまい、そのまま深く、強く、育み続けてしまった。
「「………」」
そんな二人の行く先にあったのは、そんな二人を容赦なく否定し、宿ったモノのほぼ全てを根こそぎ排除するかのような現実だった。
「………」
その時の奈美を思うと、優矢は今も心が締め付けられ、思う度にもう二度と傷つけたくないという気持ちを大きくしていき、それはもうトラウマと表現しても間違いではないであろう程に、いつだって優矢を苦しめ続けていた。
「………」
一方で奈美は、再び二人で暮らす為に必要なアイテムをずっと求め続け、願い続け、遂に現実逃避に充分なアイテムに出会い、それを神様が許してくださった証だと思い込み、喜び、現実にしようと動き始めた。
「「………」」
このようにして、諦めないのに伝え合わないでいた結果、現実を受け入れようと少しは考えていた優矢よりも先に、現実を受け入れようとは少しも考えていなかった奈美の方が多く、そして確実に早く壊れていった。
「ねぇ、どうして何も言ってくれないの?」
優矢の返答に期待していた奈美は、始めの一歩で沈黙されてしまうとは思っていなかったので動揺しつつも、それでもまだ優矢の返答を待っていたのだが、この沈黙に耐えられなくなってそうきりだした。しかしながら、その声に動揺を乗せない事にはなんとか成功したようだ。
「………」
優矢は何も言えなかった。
「ねぇ、ユウヤ………どうして?」
優矢の出方次第でその都度展開を考えていかなければ、目的地には到底辿り着けないという事は心得ていたので、奈美は冷静に一つずつ一つずつ次の手を打っていこうと気を引き締めながら優矢に求めた。
「………」
優矢は何も言えず、ただただ背中を晒す。
「アタシ達って、もうダメなのかな。無理なのかな。アタシ………そんなのヤダよぉー!」
奈美は徐々に感情が高まっていったかのような雰囲気を装いながら口調を強くしてそう告げると、優矢からキッチンの方へとクルリと振り返り、シンクの方に向かってゆっくりと歩き始めた。
「え、あっ、アネキ?!」
奈美が歩くパタパタというスリッパの音が聴こえたのでガバッと振り向いた優矢は、その途端に奈美以外には何も見てはならないという制約を自らに課したかのように、遠ざかる奈美を目で追い続けた。
「………」
優矢が振り向いた音でその視線を背中に存分に感じながらシンクまで行くと、奈美はそこにある方の刃物を手に取り、そしてゆっくりと振り返り、優矢に視線を合わせながら悲しい表情を作った。
「アネキ、あのさ」
そんな奈美を見て息を飲みながら立ち上がった優矢は、確信の結末は確実に近づいていると思いながらも、奈美がキッチンにある方の刃物を手にした事に違和感を覚えながら奈美へと歩み出た。
「ユウヤがイケナイんだよ?」
ポツリとそう呟きながら、奈美は優矢に向かって歩き続ける。
「ううっ………」
奈美の呟きを耳にした優矢は、奈美にかけるべき言葉とかけたい言葉の狭間でどちらにすれば良いのか決めかね、その足が止まってしまった。
「アタシに飽きたの? そうなのかな………だから他に、カノジョを作ったの?」
優矢にかける言葉を頭の中で決めていた奈美は、悲しい表情と震えた声でそう訊いた。その足は止まらない。
「アタシにシテくれた事、シテあげたの? それって、他にも居るの? その人達、幸せだったろうなぁ………だってさ、だってアタシはさ、いつだって幸せだったもん!」
そして、決して優矢を責めるのが目的ではなかったのでトゲを含まないよう努めながらそう続けた。
「そ、それは、諦めなきゃダメなんだって、そう思ったからで………でも、あの時はまだ」
奈美の言いたい事が判った優矢は、その事を説明しようとした。
「何を諦めようとしたの?」
が、しかし。奈美は優矢の言葉を鋭く遮り、更なる質問を被せる。
「アネキの事」
「どうして?」
再び、間を置かずに。
「そうしないと」
「しない、と?」
促すように。
「きっと………また」
「またどうなるの?」
踏み込むように。
「アネキが周りから悪く言われるのがイヤだったんだ」
「アタシが?」
「うん。だから、オレが女性とか家に連れてこれば、何も言われなくなると思って、それで、その、だから、何もシテないよ。ホントにシテない」
いつからだろうか、姉弟で淫らな関係になっているのではと近所で噂されるようになっていた。特に奈美は、露骨に聞こえるように陰口を叩かれていた。優矢は、それをどうにかしたかったのだ。
「それなら、抱いてくれなくなったのはどうしてなの?」
優矢が徐々に吐露し始めたので、奈美は更に踏み込んでみる。
「そ、それは、諦めなきゃ中傷は終わらないんだって、思ったから………」
優矢の試みは逆効果に終わった。奈美に酷く非難が集中してしまったのだ。姉の横恋慕だったのだとか、弟は迷惑しているんだとか、姉は身体がではなく、頭がおかしいんだとか。なので優矢は、自分が奈美を傷つけてしまったと深く後悔し、諦めるしかないと思うようになったのだ。
「そっか………それで、離れて暮らそうって言ったんだね。ゴメンとしか言ってくれなかったから、判んなかったよ」
「そ、それは、その」
「そうだったんだね」
奈美はこれで、知りたかった事の三つを知る事が出来たと思った。
・他にカノジョを作った理由。
・避けるようになった理由。
・離れて暮らそうとした理由。
この三つだ。
決して優矢に嫌われていたワケではないという事が判り、更には優矢なりに考えて守ろうとしてくれていたんだという事も知った奈美は、そんな優矢の不器用な優しさを嬉しく思うと共に、愛おしく感じた。やっぱり優矢は誰よりも優しいと、心の底から強く感じた。その安堵感が、次へと進む為の勇気を大きくした。
「ユウヤ………」
優矢の僅か先まで進み終えた奈美は、そこで静かに立ち止まる。
「ゴメンね、アネキ………」
優矢は謝ると、僅か先に立っている奈美の右手首を見つめた。そこには、今も残る傷痕があった。離れて暮らそうと告げたのは、決定的な理由が他にあったから。
「結局はアネキを傷つけてしまった」
そして、項垂れながらそう言った。
「ううん。そんな事ない。そんな事ないよ、ユウヤ」
奈美は微笑みながら返した。
「アネキ………」
優矢はそれを、奈美の優しさだと感じた。なので、心が更に苦しくなっていった。
「アタシは、ユウヤだけだよ。ユウヤしか知らないままだし、これからもずっとそうだよ。だって、ユウヤ以外なんて考えらんないもん」
自身の想いを優矢に告げた奈美は、ここで次に出る為の賭けに出る事にした。
「だから、アタシね………ずっと前から考えてた事があったの」
言いながら奈美は、気が触れたような表情を見せる。
「ず~っと、ね」
そして、刃物を両手で持ち直して頭上に振り上げ、そこでピタリと止める。
「っ?!」
優矢は、再び息を飲んだ。
「こうすれば、さ。ユウヤはもう何処にも行かなくなる」
奈美は、そう言って微笑む。気の触れた表情を残したまま。
「そうすれば、ユウヤはもう誰とも会わない」
次に、微笑みだけを静かに消す。
「これで、ユウヤは………永遠にアタシのモノになるの」
そしてそのまま、優矢だけを見つめ続ける。
「アネ、キ………」
優矢は、奈美が完全に壊れてしまったと思った。ずっと気丈に振る舞っていたけど、その精神は壊れてしまう程に苦しみ続けていたんだと思った。本当は凄く責めたかったんだと思った。今朝確信した展開とは少しだけ違う形ではあったけど、ほぼそのとおりだったから。
「ゴメンね、アネキ………」
全ては自分のせいだと改めて痛感した優矢は、それを受け入れようと覚悟を決めた。それによって奈美の手が汚れてしまう事になるけど、奈美の手でそうしないと、その心は決して晴れないだろうから。
「ねぇ、ユウヤ?」
「ゴメン………っ」
「またゴメンって………他には? 他に言う事は何もないの? ねぇ、ユウヤ! こんな事しなくてもずっと傍に居てあげるよって、どうして言ってくれないの? アタシ、本気なんだよ? ねぇ、本気だよ? ユウヤ! どうして言わないのよぉー!」
予想外の沈黙に耐えきれず、奈美は絶叫に近い声で叫んだ。
「今まで苦しかったでしょ? 苦しいだけだったよね、ゴメン………」
優矢はもう一度奈美に詫びた。その表情は、その声は、とても穏やかだった。
「どういう、意味?」
奈美は完全に戸惑ってしまった。それもまた予想外だったから。
「全部、オレのせいだ」
「ユウ、ヤの、せい?」
「その傷………」
優矢はそう言って、戸惑う奈美の手首に残る傷痕へと視線を上げた。
「そ、の? あっ」
優矢の視線に気づいた奈美は、おもわず小さな声を出した。奈美は知らなかった。長年の自戒の気持ちで、優矢も奈美と同じように徐々に壊れていたという事に。
「ゴメンね、アネキ………」
告げながら優矢が、どんどん思い詰めた表情に変わっていく。
「この傷に?」
この傷にどんな意味があるというのだろうと怪訝に思いながら、奈美は自身の傷痕をチラリと見た。
「アネキがそう望むなら、きっとそれが正解なんだと思う。ホントはオレを殺したかったんだよね?」
優矢は、穏やかに言った。
「えっ………」
優矢が何故そう結論づけたのか全く判らなかった奈美は、戸惑いを通り越して激しく動揺した。
「どうして、そんな」
「ゴメン。傷つけて」
「ユウヤ………」
優矢がこれ程までに思い詰めるに至る理由が知りたいと思いつつも、奈美は自分は何か言い間違えただろうかと自問自答した。
「アネキは何も悪くないよ。だから、好きにしてイイ。オレを殺してイイよ」
優矢は再び穏やかに、けれど今度は促すように言った。
「えっと、さ………」
奈美は、心が苦しくなっていった。しかし同時に、右手首に今も残る傷をつけるに至ったキッカケに対して、優矢は何故か強い自責の念を抱いているという事は痛い程に伝わってきたので、もしかしたら自分が思っている事と優矢が思い続けている事は違っているのではという考えが浮かんでいた。奈美は独り占めしようと企んではいるが、怨みを晴らしたいワケではないし、そもそも怨みに思った事がない。憎んでもいない。優矢を心の底から愛している。その想いに嘘や偽りはない。
「その………」
しかし、今の奈美は壊れていく途中にある。冷静に判断しているようでいて、実は不安と隣り合わせでもあるのだ。自身の優矢への愛情の深さに、逆に足元を掬われてしまう可能性は充分にあった。
「「………」」
いつの頃からか。本心を伝え合わなくなっていた二人は、いつの頃からか自分自身の考えだけで勝手にどんどん答えを作り上げていた。傍に居ない時間が多いと、愛されているという安堵は簡単に小さくなっていき、それが相手への不信感からではなく自分自身の自信のなさから生まれた不安だった場合、相手への想いが深ければ深い程に悲劇的な結末を選んでしまうという危険性は如実に大きくなるだろう。
「「………」」
今の二人は、まさにそんな状態であった。伝え合っていれば、伝え合えてさえいれば、とっくに違う答え、つまり真実に到達出来ていたかもしれないのに。
「ユウヤ、あのさ」
振り上げていた刃物の落ち着き先を見つけるべく、奈美は優矢にかけるべき言葉を急いで探そうとした。
「オレのせいで、ゴメンね」
思い詰めた表情のまま奈美を見つめ続けている優矢は、奈美が早く思いを達成できるようにとその場から動かずに刃物の落ち着く場所を促した。
「「………」」
再びの沈黙。何度目かのフリーズ。外から漏れ聴こえてくる雨音は、先程よりも確実に大きくなっていた。きっと、天気予報どおりの大雨なのだろう。家の中でどんなに騒いだとしても、そのどれもこれもを無かった事のようにかき消してしまえる程の。
「「………」」
誰にも知られずに、誰にも邪魔されずに、当人達でさえ気づかない内に、取り返しのつかない結末を迎えそうな、そんな危険な気配が漂っている。想い出だらけの家で、二人はすれ違いに気づかないまますれ違っていたのだった。
………。
………。
第7話 最後の晩餐 完
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