第二幕)必然と言えば必然
デンワですよぉ~。
デンワですよぉ~。
明けて翌朝。暫しの茫然の後、そこはかとなくベッドに潜り込んでいた清水坂は、突然と言えば突然に規則的に鳴り響く、スマートフォンの着信音によって起こされた。因みに、シーツに血液が付着したという部分にはその上にタオルを敷く事で、応急措置? と、したようだ。
「ん、んっ………もっす」
目覚めてすぐ、まだ虚ろな状態の清水坂ではあったが、その着信音が浜本からのコールを告げるモノであるという事はほぼ反射的に理解していたので、こちらの方が当然と言えば当然の事なのだけれどスマートフォンのディスプレイで確認する事なく応対した。
『よっす! おっはよー♪』
その確固たる信頼のとおり、よもやスマートフォン側がミスをするなどという事もなく、充分に聞き慣れていた浜本の声が耳に届いた。相変わらず今日も元気そうで何よりだ………と、清水坂はなんとなく思った。
「うん。おはよー」
『清水坂家の玄関先にて待機しておりまぁーす!』
どうやら、予告なしで訪ねてきたようだ。
「ん。判った………」
気だるさを全身に浴びながらベッドから身を起こした清水坂は寝ぼけ眼で、ゆらゆら。と、ベランダに向かう。
「………?」
そして、カーテンをシャッと開けた途端、不可解な脱力感に襲われる。
「んく………っ?」
寝起き直後の気だるさとはどこか違う、何かに例えるとすれば風邪などによる高熱時のような、けれどそのどれでもなく味わった事のない不可解な脱力感。
ぐらり。
その理由を模索する事なくベランダに出た清水坂は、その途端に更なる猛烈な脱力感に襲われてそのまま抗う余裕なく、ふらふら。と、柵にもたれかかった。
『えっ! ちょ、ちょっ、清水坂?!』
清水坂がベランダの柵にぐらりと倒れかかったのが見えた浜本は、その光景を目撃する直前まではたしかにあったワクワクでドキドキな期待感を一切合切あっさり捨て、清水坂に慌てて呼びかけた。その表情とその声には、心配と言う感情が如実に表れていた。
「急に目眩が………ゴメン。今、そっちに行くよ………」
震えを帯びた猛烈な脱力感を全身にくまなく浴びながらも、しかしながら浜本をこのまま待たせては申し訳ないと思った清水坂は、殆どの感覚が無くなりかけているかのように感じる身体をなんとか動かし、玄関へ向かおうとその足を前方へと出し続けた。
「………ん?」
すると、ベランダから部屋へと移り、更には廊下へとなんとか歩みを進め、廊下に繋がる部屋のドアを開けようとした辺りで、不思議に感じるくらいの勢いでスーッと脱力感が消失していくのが判った。まるで甦るかのように、全身の力が戻っていく。
『清水坂? 大丈夫なの? 無理し』
「何か大丈夫みたい………何だろ? あ、すぐ行くから待ってて」
心の底から心配している浜本にそう告げて電話を切った清水坂は、階段を下りて一直線に玄関へと向かった。力が漲ってくるような感覚だったからなのか、清水坂はなんだか身体が軽くなったような気がした。
がちゃ。
「ゴメ、ん?」
しかし、玄関のドアを開けて浜本に話しかけようとしてすぐ、つい先程感じていたモノと同じ強烈な脱力感が再び清水坂を襲った。
「あっ、清水坂!」
がくりと崩れ落ちてしまいそうになる清水坂に慌てて駆け寄った浜本は、持てる力を振り絞って清水坂を抱え、玄関から奥へと懸命に移動し、廊下に優しく寝かせた。
「………?」
すると再び、スーッと消失していったので、清水坂は逡巡する。
「大丈夫?! 救急車、呼ぶから!!」
玄関のドアを閉めて再び清水坂に駆け寄った浜本は、清水坂の様子を窺う。その表情とその声は、もはや心配し過ぎて泣く寸前という程に震えていた。
「え、あ、大丈夫だから………ゴメン。自分でもよく判んないんだけど、ホントに大丈夫みたい………あ、顔、洗ってくるから、浜本は部屋で待ってて」
怖いくらいに摩訶不思議な感覚に逡巡しながらも、清水坂は努めて明るくそう言った。
「う、うん………うぐっ、で、でも、ホントに大丈夫なの? ねぇ、清水坂? 傍に居よっか? ひんっ………」
浜本は既に泣いている。
「大丈夫。ゴメンね、浜本………」
清水坂は笑顔で謝る。
「ふぐっ、無理しちゃダメだよ? ダメだからね? ね?」
「うん。ありがと………ゴメンね」
「ひくっ………ううん。大丈夫なら、大丈夫………ふえっ、でも」
「すぐ行くから」
「………うん」
「ホントに大丈夫みたいだから、ね?」
「………うん、判った」
清水坂は不思議な感覚に襲われながら洗面室へと向かい、浜本は心配で何度も立ち止まっては振り向きつつ二階へと上がった………。
そして。
二人はその日を部屋の中ですごした。清水坂の元気な様子を見るにつれて徐々にではあったのだが安堵していった浜本のペースで二人きり、何も気にしなくて良い分だけいつもより開放的に………。
「じゃあ、また!」
「うん。またね」
アッと言う間に時間は流れていき、夜はすっかり更け、時刻は既に深夜と呼ぶに相応しい辺りにまでなった頃、清水坂は浜本を自宅へとバイクで送り届けた。結局、カットベルの事は話しそびれたようだ。いいや、話せなかったと言うべきか。
………。
「………」
「………あっ」カットベル………あれ?
そんな清水坂が自宅へと戻ると、家の前でなにやら怒ったような表情をして清水坂を睨みつけているカットベルが見えた。今夜は清水坂のタンクトップの上に茶色の厚めのサロペットを着ている。
「………」
「………?」
昨夜といい今夜といい寒くないのかなと思いながら清水坂が駆け寄ると、カットベルはスッと視線を外して玄関のドアのノブを見つめた。
「………」
「えっ、と、あのさ………」
「………」
「あの、さ………」
カットベルがドアノブを見つめて動かないので、清水坂は戸惑いながらドアを開けた。
「………」
「えっ、あのさ。カッ………」
すると、カットベルは何も言わないままスタスタと中へ入り、二階へと続く階段の前でピタリと立ち止まって再び、玄関先に立ち尽くしていた清水坂を睨む。
「………」
「えっ、と………」どうしたの、かな。
更に戸惑いながらも、清水坂はカットベルの元へと向かった。
「………」
すると、カットベルは清水坂の到着を待たずに二階へと階段を上がっていく。
「えっ………カットベ」ル………え?
最高潮にまで戸惑いを深めながら、清水坂はカットベルを追った。
「………」
すると、カットベルは清水坂の部屋の前でぎろりと清水坂を睨みつけながら立ち止まっている。
「えっ、と………」
最高潮にまで達して不安へと変わっていた感情に支配されながら、清水坂は漸くカットベルに追いついた。
「………」
「あのさ、カットベル………」
「………」
「あの………」
清水坂から視線を外して再び、カットベルがドアノブを見つめたまま動かないので、清水坂はおそるおそるドアを開ける。
「………」
すると、カットベルは無言のまま中へと入っていき部屋の中ほどで、ぴたり。と、立ち止まった。
「カットベ………」
清水坂は慌てて中へ入った。
「………」
と、殆ど同時。カットベルはくるりと振り返り、清水坂を睨みつける。
「ル………」
急にと言えば急に、くるり。と、カットベルが振り返ったので。清水坂は急ブレーキをかけて立ち止まり、そしてそのまま固まった。
「コータローのバカぁあああー!」
「えっ、え………えっ? えっ?」
「アタシという伴侶が居るのにも関わらず、あの女は誰ですか!」
「と………」
完全武装されたカットベルの嫉妬の叫びが部屋の隅々にまで轟いた直後、その顔がみるみる内に泣き顔へと変わっていく。
「あんなにくっ付いて! あれではまるで………」
「え、あの………」
「ひんっ………何故ですか? ひん!」
「いやその泣かないで! って………あっ」
カットベルが言うところのあの女の検討がついた清水坂は、それとほぼ同時にカットベルの瞳から涙が浮かんでは溢れ零れるのも見えたので、慌てて傍へと駆け寄った。
「ふえっ………えくっ、えぐ、こっ、ここ、このお洋服は、愛の証ではないですか? ふぐ、ひんっ………アタシ、アタシ、汚さないように頑張ったです! ふえっ、そ、それなのに、うぐっ………ひんっ! 破れたりしないようにも気をつけたですし、ちゃんとコータローの言いつけを守って、心、っも、っく、身体、も、ふぐっ、た、大切に、したですよぉおおおー!」
昨夜のタンクトップを着ているカットベルは、それを何度も引っ張りながら、何度も咽びながら、その胸の内を一途に叫んだ。
「いや、あのさ」
「どうしてですか? やっ、ぱ、り、うぐっ、アタシでは………ひんっ! そんなの酷いですよぉ………ひくっ、コータローはイジワルさんなのです! ひぐっ、ひんっうぐっ………ふぇえええーん!」
よろよろ。と、力無くその場に崩れ落ちたカットベルは両手で顔を覆うや否や子供のように泣きじゃくった。
「ちょ、いや、いやいやいや、ちちち違うから! アイツは、アイツはさ、えっと、うん! その、ほら、中学からの親友! そう、親友だよ親友! 親友だから! ね? ね?」
焦りまくる清水坂は、カットベルの肩に手を当てて懸命なる言い訳を試みた。
「ひんっ………えっ?」
清水坂による事情説明という名の言い訳を耳にしたカットベルは、ブンッという音が鳴るのではないかしらというくらいの勢いで顔を上げ、マジマジと清水坂を見つめた。
「………ホントなの、ですか?」
「うん………ホント、です」
「戦友、なのですか?」
真顔のカットベル。
「え、いや、親友なのですが………」
戸惑う清水坂。
「ホホホホントに、ホントに、そ、そそ、そうなのですか?」
顔が真っ赤になっていくカットベル。
「うん………」
頭の中が真っ白になる清水坂。
「………」戦友なのですか………それならば同志という関係性なのですね。そうでしたか同志でしたか………それならあのように仲が良いのは当然なのかもですよね。どうしましょうアタシ、とんでもない勘違いを、あう、う………。
「………そそっ、そ、そそそそうでしたですかあああのアタシその、えと、えと、勘違いしてしまいましたです。あの、あああの、で、ですからコータロー! あう、う、ゴメンなさいなので、す………」
清水坂の言い訳をあっさりと信じてしまったカットベルは、信じた分だけ取り乱した事を恥ずかしく感じ、顔から火が出そうになりながら謝った。
「あの、いや、そんな、えっと………あの、気にしな、んっ?」
つい先程まで一緒だった浜本と観ていたTVドラマと、昨夜のカットベルの言葉と、今夜のカットベルの様子がここにきて不意に見事に完全に繋がった清水坂は、だからそのタンクトップに拘っているのか………と、思った。なので、思考がそちらの方に集中してしまい、言葉が不自然に止まった。
「あの………アタシの事、キライになりましたですか?」
しかし、カットベルはその事に気づく様子もなく、我が身に巻き起きている危機に不安を感じながらおそるおそる訊いた。
「え、あ、ううん………」
清水坂にとってはそれは唐突と言えば唐突な質問であったのだが、戸惑いながらもそう言って顔を左右に振った。嫌いにはなっていなかったから。
「はうう、アリガトウなのです!」
途端にガラリと表情が笑顔に変わったカットベルは、その感情を素直に表へと解放させたかのように、ガバッとおもいっきり清水坂に抱きついた。
「うわっ、ちょ、あっ!」
突然と言えば突然にカットベルに抱きつかれた清水坂は、支えきれず堪えきれずその勢いのまま後方に倒れてベッドに重なった。不意にあの夜の事が思い浮かんだが、その圧力は人間のそれと変わらないような感覚だった。
「コータローは優しいです!」
「えっ、と………」
清水坂に抱きついたまま沸き上がる喜びに浸るカットベルにされるがまま、清水坂はその脳内と心の中で茫然と焦燥と安堵を行ったり来たりしていた。
「コータロー………っ! あ、あっ、あう、あうう………」
暫しして自身があまりにも感情そのままに行動してしまっている事に気づいたカットベルは、ガバッと跳ねるように後方へと跳び起きて清水坂から離れるとその場にぺたりと座りこみ、恥ずかしそうに俯いた。そして、もじもじ。
「………」
そんなカットベルを、可愛いなと清水坂は思った。
「………」か、かかか、顔から火が出そうです………。
「………」何を考えてんだ俺は。
「「………」」
ぎこちない空気が漂う中、暫し沈黙が続く。
「あう、う………」出ているかも………耳が熱いです。
「………あの、さ」
「っ! な、ななな、何でしょう?」
このままでは永遠にこの沈黙が続いてしまうかもと思った清水坂に声をかけられたカットベルは、それがカットベルにとっては突然と言えば突然だったので、それによって緊張の度合いが現時点よりも格段に強まっていく自身に気づきながらも、条件反射のようにブンッと顔を上げた。故に当然と言えば当然の如く、見つめ合う状態となる。
「あくっ、いや、その………質問してもイイ、かな?」
「はう、う………え、えっと、ああの、はははい! 勿論なのですよ」どうしましょう見ているですよ………顔から火が出ているトコ、見られているですよぉー。
「じゃ、じゃあ、さ………」何を言うのかサッパリ忘れた………どうしよう。
「あ、あっ、そ、もも、もももしかしてバ、バンパ、あ、えと、吸血族についてでしゅね?」ほらやっぱり火が出ているですからだからコータロー、フリーズしているですよぉー。
「えっ?」でしゅ?
「いえその! えと………ですね?」ここは何かお話しをして回避しなければなのですよアタシ!
「と、いや………」カットベルも緊張しているんだな………って、でも。
「そそそうですよね! アタシ達………その、ふ、ふ、ふふ、ふふふ夫婦! です、もんね。えと、えっと、もも、もっと、お互いの事を、ですね………はう、う、ココココータローはアアアアタシの事を、そ、その、しりっ、しし、し、し、知りたいですね? そうですね? ね?」どどどどうしましょう上手くしゃべれないですぅー!
「いや、その」夫婦って、その………いややっぱでもそう思われても仕方ない………仕方ないのか? って、吸血族の世界はそういうモノなのかな………。
「わわ、わわわ判りますた!」それでもこのままこの勢いに乗るです! それで誤魔化してしまうですよアタシ! それに………もしかしたら本当に、アタシの過去とか知りたいのかもですし。それはつまり、アタシを避けてはいないという事で、だからこそ火が出ていても指摘まではしないのかもしれないですし………コータローはホントに優しいのです。
「え、あ、あの、違」そうじゃな、く、
「では、こほん………」アタシ、その優しさに甘えてこのまま走らせていただきます、なのですよ。
「………」って、さ………。
訊こうとしていた事を緊張によって忘れてしまったものの、カットベルが提示した内容はたぶんきっと浮かんではいなかった事だとは気づいていたので、清水坂は修正しようと思って違うと何度か言いかけたのだが、自身に興味を持ってくれているのかもしれないと思い込んでしまったカットベルは、どんどん話しを進めていった。
「人間のみなさんはかなり誤解をしているですので、コータローにはまとめてお話しさせていただきますです」
咳払いを一つした後そう続けたカットベルは、その場で姿勢を正すように座り直した。
「………はい」
清水坂は飲み込まれた。
「………では。基本的に吸血族は、2通りの理由で血を吸うですが、生き血を飲まないと喉が枯れるように苦しいというような事はありません。喉を潤すのはお水が一番なのです。太陽の光を浴びてしまっても焼けないですし、灰にもならないですが、身体が痺れてチカラが半分以下ほどしか出せなくなるです。慣れないウチは………と、言っても慣れないですから変な表現なのですが、つまり、その、その感覚に慣れないウチは気が遠くなって倒れてしまうかもしれないです。で、ですね、えっと、あ、十字架は例えば虫がキライとかいう感覚と同じ理由で苦手なのですが、ニンニクはキライではないです。勿論、好みの問題なので他のみなさんは知らないですけど。それと、棺桶で眠るなんていう………習慣? は、ないですし、変身や飛行なんて事は出来ないです。あとは、ですね………あっ、白木の杭で心臓を貫かれたり、銀製のモノで首を斬り落とされたりすればたしかに死んでしまうですが、白木や銀製でなくてもそんな事をされたら致命傷ですから死んでしまうです。あっ、ですけど、銀製のモノで受傷しますと何故だかなかなか治らないです。アレルギーみたいなモノなのでしょうか? 判らなくてゴメンなさいなのです。えっと………ですので、その点はコータローもかなり注意してくださいね」
以前、そこかしこで読んだり観たりした人間による吸血鬼の小説や映画を思い浮かべながら、カットベルはカットベルなりの丁寧さで説明した。
「あっ、もう1つありましたです! 鏡にはちゃんと映りますので、お化粧は自分でするですよ」
そして、そう加えて微笑んだ。
「なるほど………えっと、参考になりました」
カットベルによる吸血鬼についての話しを結局のところかなり興味深く聞いてしまった清水坂は、小説などで知った事と実際とでは結構違うんだなと感じつつお礼を述べた。
「はい! コータローの望みでしたら、何でも言うとおりにするです!」
褒めてくださいと言わんばかりの表情で、カットベルはそう宣言した。
「そ、それはどういう」
「うぐっ!」
「………?」
清水坂が何か言おうとしたその時。
カットベルの表情が険しくなった。
………如実に。
どすん!
「………?!」
その僅か後、ベランダで大きな音がして部屋が揺れた。
「くうっ!」
既にもう立ち上がっていたカットベルは、清水坂を起こしてベランダから遠ざけるように下げると、その前に立ちはだかって軽く身構える。
「えっ、え、あ………え?」
カットベルの挙動に逡巡しつつも、そのカットベルの視線を追ってみた清水坂は、途端に我が目を疑った。その向こう、つまりベランダにどう見ても人間とは思えないたぶん男が、居たからだ。
「な、なな、ええっ!」
言葉にならない胸の内をただただ発する清水坂。
「………」
ベランダに現れた男を無言で睨みつけたままのカットベル。
「………おやおや。こんな所でお食事の最中ですか?闇夜の悪魔さん」
熊のような巨体を目一杯に屈ませた大男が、瞼の無い真ん丸い目で窮屈そうにベランダから覗きながらそう言ってカバのような大きな口をニタァ~ッと歪ませる。
「えっ? えっ?」
突然と言えば突然の怪異の者の登場にまだ対応しきれない清水坂は、ただただ逡巡する。
「………誰かは知らないですけど、お呼びした覚えはありませんが?」
実のところ清水坂と二人で居るところを邪魔されたという事で憤慨に駆られていたカットベルは、それでもまずは何よりも清水坂を守らなければと思い直し、怒りを幾分だけ抑えて冷やかな声でそう言った。
「どうぞ、ごユルリと。麗しきレディーのお食事の邪魔なんて野暮な事はしませんから」
ニタリと笑ったまま、大男は軽口を続ける。
「コータローをそんな風に呼ぶなぁあああー!」
すると我慢できず、カットベルは激昂した。
ひりりとした空気に変わる。
「え………」
予想を遥かに超えたカットベルの怒髪天ぶりに激しく戦慄した大男は、軽率すぎた自身の軽口を深く後悔した。
「今すぐギタギタにしてあげます!」またそういう戯れ言を………コータローは食事ではないです! アタシの夫なのですよ!
「ちょっ、ま、まま、待って! 待ってください! しゃ、しゃ、謝罪しますから!」
今にも跳びかかろうとするカットベルに、大男は手の平を前面に腕を出して懇願した。
「謝罪………それならば、死をもって償えば済む事では? コータローを侮辱し、吸血族を侮蔑した事、その身諸共激しく後悔しろ!」
凍りつかせるような冷たい声でそう宣告したカットベルは、スーッと一歩前に踏み出した。
「わわわわ悪かったです!」
「その後悔のまま、屍と化してあげるです!」
もう一歩、前に。
「あわ、わ、ちょ、ちょちょ、知ってんだぜ! そ、そそ、その、そその、そこの、そのお兄さんは、ととと、特別なんだろ?」
「そうですけど、それが何か?」
更に一歩、前に。
「あう! う、ううっ、こ、こ、こここんな所でドンパチしたらそ、そ、そそのお兄さんにめめ迷惑だろ? な?」
「たっ………しかっ」に、そのとおりですね………。
睨みつけたまま、ぴたり。と、止まる。
「ふぅ~、オレはただ、話しをしに来ただけだったんだよぉ………」
大粒の冷や汗を全身に出現させていた大男は情けない声でそう呟きながら、ギリギリで成功した命拾いに安堵した。
「………」
時間はかかったが冷静になれた清水坂は、それなら軽口を叩かなければイイのに………と、心の中だけで思った。
「………お話し、ですか? わざわざこの国の言葉で?」
大男の言い訳を訝しく感じたカットベルは、その感情そのままに訊いた。
「そ、そう、そりゃそうさ。だってよ、オレはそこの」
「○Δ×♯☆◎▽、□◇◎※▽♯○*△○☆!」
コータローに少しでも変な事をしたらすぐさま殺すわよ! と、カットベルは母国の言葉で宣告した。
「わ、わ、判ってますって………」
通じたようで激しく怯えながら、大男は答えた。
「………それで、お話しというのは?」
凍りつかせるような冷たい声で不承不承、カットベルは促した。
………。
「………」
この間、激昂するカットベルと途端に殊勝になる大男をただ黙ってジッと眺めていた清水坂は、そんなにカットベルが怖いのなら来なければイイのにと疑問に思いつつも、それなのにこうして此処へ来るという事は、この大男にとってどのような意図が隠されているのだろうと訝しげに感じていた。そして、自身の事で怒りを顕わにしてくれたカットベルに、感謝のような嬉しさとそれと同じくらいの気恥ずかしさも感じつつ、カットベルは怒ると怖いという事も心に刻んでおく事にしたのだが、勿論それは闇夜の悪魔という先程の大男の言葉と絡めてそのとおりだと思ったからではなく、清水坂にとっては初めて目にしたカットベルの一面という意味で、である。それと、カットベルが自ら言っていた、すぐにカッとなる性格という言葉も繋がっていた。
………。
「コータローに?」
「………え? えっ? オレ?」
カットベルが驚いたような声を出したので、清水坂は現在進行中の時間の中に戻った。
「そ、そうなんだよ。つまりオレは、そこのお兄さんに話しがあって来ただけなんだよ」
「コータローに何をするつもりですか!」
「いや、あの、あのよ………アンタ、さ。その、そこのお兄さんの事となると素直に気を解放しすぎだぜ。だろ? 昨夜だって今夜だってそれで此処に居るのが判ったんだし、それってさ、注意しといた方がイイと思うぜ。教団に知られたら面倒だろ? って、オレも今はその教団側だけどよ」
「………たしかに迂闊でした。それでしたら、そのような目立つ場所にそうやって置いたままお話しを聞くワケにもいきませんね………場所を変えるですよ」
たしかにそのとおりだと激しく後悔したカットベルは、沈んだ声でそう提案した。
「………」この大男が言っていた教団とやらは、カットベルが話していたタチの悪い教団の事なんだろうか………。
「OKだ。そうしよう」そうするつもりだったし、な。
「コータロー………」
大男がカットベルの提案に肯定の意を示したので、カットベルは清水坂に振り返った。
「………アタシのせいで、このような事態になってしまったです。ホントにゴメンなさいなのです。ホントに」
そして、ぱたぱた。と、清水坂に駆け寄ると。心の底から謝った。
「ううん。謝らなくても大丈夫だよ。何の問題もない」
優しい声でそう告げた清水坂は、更に微笑んでもみせた。勿論それは、カットベルを気遣っての事であったのはたしかだったのだが、まだこの状況を重く受け取ってはいなかったという理由も少なからずあった。自身もこの非現実的な舞台のキャストであるという意識が色濃かったからだ。清水坂にとって今この事態は詰まるところ、読者として小説の内容を鮮明に思い浮かべたり、観客として映画を観ているような感覚を上回るにはまだまだ時間が必要なくらいに非現実的な事であった。
「………はい。アリガトウなのですよコータロー」
清水坂の優しさに触れる事が出来て嬉しさと安堵を同時に感じるに至ったカットベルは、清水坂の胸に顔を寄せた。
「気にしない、気にしない。ね?」
「………はい」
「あの、よ………。どっか行くなら、早く行った方がイイんじゃねぇ~かな………」
健気で可愛らしい闇夜の悪魔を初めて目撃するに至った大男は、意外だと心の底から感じながら声をかけた。それと同時に、自身の知る範囲を越えても恐らくは初めての者であろうあの闇夜の悪魔がしおらしく謝る清水坂というただの人間族にしか見えない人物に対して、何やら得体の知れない畏怖にも似た感情を抱いた。そして、教団の者が言っていた事はどうやら本当の事だったらしい………と、思わざるを得ないとも感じた。
「コータローは、アタシが守るです」
「うん。ありがと」
清水坂を見つめながら告げるカットベルに、清水坂はそう言って微笑んだ。
「で、何処に行けばイイんだ?」
大男がカットベルに問う。
「此処からすぐの所です」
カットベルが大男に答える。
「判った………じゃあ、お兄さんはオレの背中に」やはり、そこか。
「アタシと行くです! コータローはあげないですよ!」
大男が続けて今度は清水坂に話しかけると、カットベルは清水坂の腕にギュッとしがみつきながらそう言い返して、ぎろり。大男を睨みつけた。
「い、いや、その、そういう事じゃなくてさ、つまり、アレだよ。ほら、男が女に掴まってってのはさ、あのさ、どうかと思うぜ? 一応は、その、配慮が足りないというか、なんというか、さ………だろ?」
カットベルによる剣幕に激しく怯えながらも、大男はそう説明した。内心、だからそうやって気を解放するのは気をつけた方がイイとさっき忠告したばかりなのに………と、思いながら。そしてそれと同時に、やはり教団が練った作戦は完璧だとも感じた。しかし、報酬に目が眩んだからとはいえ闇夜の悪魔とこうして対面しているのはやはり生きた心地がしない………とも、思った。その脳と心が、大きな体躯の内側で激しく揺れる。
「………コータローに少しでも危害を加えたら、すぐに殺すわよ!」
大男が言う事もたしかに一理あるのかもと思ったカットベルは、渋々ではあったが、イヤイヤではあったが、不承不承ではあったが、仕方なく受け入れた。そこには、嫉妬のような感情も多大に含まれていたからである。大男にさえ。
「判ってますよ………じゃあ、お兄さん。コッチに来てオレに掴まんな」
先程わざわざ母国語で宣告しときながら今度はこの国の言葉で? と、思いつつももうこれ以上の軽口は激しく厳禁だと悟ってスルーした大男は、清水坂に声をかけると背中を向けて清水坂を待った。
「………うん」
清水坂がよじ登る。
「よし、じゃあ行こうぜ」
清水坂が登り終えると、大男はベランダの端にギリギリといった感じで身を傾け、カットベルがベランダに出てこれるスペースを作った。
「………では、まいりましょう」
そのスペースからベランダに出たカットベルは、そう言うとターン! と、夜空に跳ねた。
「………よっ!」
大男もドン! と、跳ねてカットベルの背中を追った。
「コータロー………」
「大丈夫だよ、カットベル」
時折振り向いては、複雑な表情で清水坂の様子を窺うカットベルに清水坂はその度、微笑みを返した………。
………。
そして。
清水坂家からカットベルが取り敢えずの寝床としている廃校まで、人間で例えるならば徒歩で約一時間半といった距離を所要時間僅か三十分足らず。舞台はその廃校の屋上、月を中心に上を見ればちらほらと星が瞬き、この丘を中心に下を見ればちらほらと町の灯り、冷たい風がひゅんと流れている中を、ぽつ、ぽつ、ぽつ。と、三つの影。
「では、どうぞ」
その一つはカットベル。
「………」
もう一つは清水坂。
「お、おう………」
そして、大男。
「実はよ………教団の連中はそのお兄さんに興味があるみたいだぜ」
言いながら、大男は清水坂に近寄っていく。
「えっ?」
「………?」
いかにも重要な事を話していると言わんばかりの態度を醸し出そうとしている大男の言葉に、動揺するカットベルと戸惑う清水坂が目を合わせる。
「あの闇夜の悪魔さんが、かなりのご執心らしい………ってな」
充分に近寄った大男は、言いながら清水坂の肩をぽんぽんと叩く。
「うう………」
「………」
教団に言われたとおりにカットベルを揺さぶろうとしている大男の言葉に、動揺の中の焦燥のみが深まるカットベルと戸惑いが更に深まる清水坂が目を合わせたまま固まる。
「何度も訪ねては引き返し、引き返しては訪ねるのを、毎夜繰り返してる。あの闇夜の悪魔さんが、だ。しかも、自らの気を素直に解放しまくりながらな」
「ううう………」
見られていたと判って更に焦ったカットベルは、清水坂から視線を外し、俯いた。
「毎夜?」
清水坂がそこに反応する。
「あぁ、毎夜だ。暫く部屋の中を………いや、お兄さんを眺め、覗き見ては、何もせず帰る。まるで、そう。恋する乙女のように………な」
「うう………う、うるさい!」
動揺が激しさを増していくカットベルは、その所為で大男が清水坂のすぐ傍にポジションを移したというその意図に気づかないまま、大男を睨みつける。
「とはいうものの、だ。実はまだ、教団はこのお兄さんの住まいを把握してはいないし、オレも知ったのはつい昨夜の事だ。だから毎夜というのは推測だったんだが、その様子からしてどうやら結構な以前からそうだったようだな。ま、推測どおりというワケだ」
あきらかに動揺の色を見せるカットベルを見て、大男は心に幾らかの余裕を浮かばせた。
「うううぅ………」
図星だったので、カットベルは何も言えずに視線を落とす。
「………」
そうだったんだと知った清水坂は、少なくはない気恥ずかしさと妙な嬉しさを感じた。
「そして、今夜だ。どうやら、闇夜の悪魔さんの恋は見事に成就なさったご様子で」
大男は尚も続ける。その口ぶりは余裕が生まれたからか、頗る軽い。
「アタシは、その………」
「カットベル………」
カットベルがその表情に羞恥の色を見せているような気がしたのでどう声をかければ良いのか逡巡してしまった清水坂は、それによってすぐ後ろに立つ大男から完全に意識を外した。身の危険を意識して生きる事が皆無の毎日を生きてきた清水坂が、今ある自身の立ち位置に危機管理を持ち続けながら接するという事は難しい。そこに居るのが怪異の者であったとしても………いいや、そこに居るのが怪異の者であるが故に、自身をその舞台に立つキャストの一名だと意識せず、自分はその舞台を観ている観客だと認識してしまっているのかもしれない………この時までは。
がしっ!
それは、カットベル及び清水坂にとっては突然と言えば突然の事であった。
「うくっ!」
大男が清水坂を背後から羽交い絞めに捕らえたのだ。
「あうっ、コータロー!」
カットベルは初め、大男の挙動に激しく驚いた。しかしすぐに自身の失態に気づき、その事を激しく後悔した。しかしながら、時すでに遅しである。
「で、それがどれほどのものなのかを調べてくれっていう依頼がきた。と、いうワケだ………へっへっへへ! 最強のカード、この手に戴いたぜぇ!」
教団から授けられた作戦の一先ずの成功に更に安堵した大男は、ここまでの緊張を全て吐き出そうとするかのような大声で叫んだ。それは、自分自身に対してでもあったし、カットベルに対してでもあったし、まだこのステージ上にはその姿を現す予定ではない誰かに対してでもあった。
「望みは何なのですか!」
カットベルは大男に叫ぶ。
「アンタの首に決まってんじゃん!」
清水坂という最強のジョーカーを手に入れた事で身の危険から解放された大男は、得意満面憎らしげにそう返した。
………すると、
「判りました。それで済むならば、今すぐアタシを殺しなさい!」
そう、カットベルはさらりと言った。
「「えっ………」」
清水坂と大男は大いに面喰った。驚いた。唖然とした。戦慄さえした。
どくん。
「そのかわり、コータローにそれ以上の危害を加えるな!」
しかしカットベルにとっては、清水坂を救う為なら命を捨てる事に迷いなど欠片もなかった。言うなれば、当然と言えば当然………で、ある。
「ですから、早くコータローからその手を離せ!」
そしてどうしようもなく、それはもう悲しくなる程に、手も足も出せない事による焦燥と清水坂を危険に晒しているという自責の念が増幅されていく。
どくん。
「こんな状況で、唯一無二の生命線を手放せるかっつぅーの!」
清水坂を解放すればその途端………いいや、刹那ほどの時間も許さずに生きて帰る保証が消えるであろう事を自覚している大男は、幾ら余裕が生まれていたとはいえ、それを想像するまでもなく未だ怯えてもいた。なので、その反動もあってかそう強く叫んだ。
「コータローに危害を加えないのであれば、アタシの命など喜んで差し上げるです! す、す、すぐにでも差し上げるですよ! ですから、早くコータローを放せ!」
カットベルは、なおも胸の内を叫ぶ。
どくん。
「これ程とは、な………」
大男は恐怖している。たしかに恐怖している。自らが犯したこの展開ではあるのだが、それでも眼前のカットベルに恐怖している。しかし、その眼前のカットベルは今まで噂に聞いていたカットベルとはあまりにも程遠く、今まで目にしてきたカットベルともあまりにも違い過ぎていた。もしかしたら眼前のカットベルは偽物なのではないかと訝ってしまう程に、それほどまでに、聞いた事も見た事もないカットベルが眼前にいた。
「じゃあ、じゃあ、よ………」
大男の意識は完全にカットベルのみに向いていた。それはそうだ。ほんの少しでも気を抜けば、確実に殺されてしまう事を知っているのだから。その筈なのだから。今に至る今までは、そうだったのだから。
「そ、そこで、テメェー自身の首、バッサリとヤッてみせろよ………」
あまり刺激すると態度をガラリと豹変させてお構いなしに襲ってくるのではという考えが脳内に浮かんだものの、大男はおそるおそるそう言ってみた。しかしながら、自身が知るカットベルとはあまりにも違う眼前のカットベルに対して気を緩めてもいた。だからこそ、今までならば確実に命を落とす事に繋がったであろうこのような言葉を吐く事が出来た。
「判りました。ですから、コータローからすぐに離れなさい」
大男の注文を、カットベルは躊躇なく受け入れようとした。自身の喉元に、自身の手を這わせたのだ。
どくん!
「おい、マジかよ………」
この時それを見た大男は、恐怖のすぐ横で徐々に膨らんでいた余裕が油断へと変わった。カットベルの挙動に唖然としてしまった事により、清水坂を羽交い絞めにしていた腕の力が意識なく緩んだ。
どくん!!
「………!」
その瞬間、清水坂がまさかの動きを見せる。
「くっ?!」
両の腕を上げて後ろに肘を曲げ、大男の側頭部に手を添えると、大男の瞼の無い両の目にそれぞれおもいきりよく指を押し入れたのだ!
ぐりっ!
と、いう音がしたすぐ後、
ぶちっ!
と、いう音がした。
「うぎゃーっ!」
その途端、大男は断末魔の叫び声をあげた。それは、明らかな油断による当然と言えば当然の結果であったのだが、大男がそれに気づく事はなかった。大男はキャストの数を間違えていた。清水坂という存在を、カットベルを消す為のアイテムとしか思っていなかったのだ。間違いなくそれは、大いなる愚かさであったと言えた。後悔すら出来ない程の。
「ぐうっ! うう、う………」
「………」
苦悶する大男を意外にも冷静に眺めていた清水坂は、徐にといった様子でカットベルの元へと駆け出そうと体勢を整えた。
「コータロー! お怪我は?! どうです?」
しかし、その時カットベルは既に清水坂の元へと駆け寄ってきていた。
「うん。大丈夫みたい」
この時まで清水坂が静かにしていたのは、アイテムに徹しようとしていたワケでは勿論ない。しかしながら、恐怖で動けなかったワケでもなかった。実は内心では清水坂自身でも驚いていたのだが、清水坂はこの時まで、脱出ではなく攻撃するチャンスを冷静に窺っていたのだ。
「良かったです………」
清水坂の無傷の生還に安堵したカットベルは、膝を落として苦悶し続ける大男に視線を移すと、ゆっくりと歩みを進めて対面した。
スーッと、表情が変わる。
「うぐ、うぐぐ………」
その表情こそが大男が知っているカットベルであったのだが、残念ながらと言うべきか大男にはもうそれを視認する事は叶わない。その手立てをつい先程、自身の油断によって失ってしまっていたからだ。故に今はただただ、痛みにわなわなと震えているだけである。
「教団がコータローを………アタシのせいで、アタシの………」
ぽつり。カットベルはそう呟いた。そう呟いたその間だけ、カットベルの表情は悲しみを纏って暗く沈んだが、呟いたその後すぐ、再び表情が戻る。
「アタシのせいで………」
そして徐に………いいや、カットベルにとってはそうしようとハッキリ意識しながら、両手で大男の顔面を覆うように、がしっ! と、掴んだ。
「………あくっ!」
その途端、大男がびくんと震える。次の一手を実行する余裕などなく、脳の前面に留めておく余裕すらなく、逃れようのない死をどうしようもないくらいに意識したのだろう、わなわなと震えが強くなる。
「………苦しめ」
カットベルが、ぽつり。と、呟く。
そして。
「ひっ?!」
べりべりべりっ!
大男の顔面を掴んでいた両手を力任せに喰い込ませたカットベルは、そのまま力任せに下の方へと引き落とした。
「うぎぃあっ!」
残念ながらと言うべきか、大男の予想は外れたようだ。簡単に死なせてはくれなかったのだから。カットベルのそれにより、不快な裂音と共に顔面がグチャグチャに削げた大男は、不気味な断末魔を最後まで上げる事が出来ずに声が消え、つい先程まではたしかにそこには目も鼻も口もあった筈の自身の顔を両手で押さえながら、ただただわなわなと激痛に痙攣する大きな塊と化した………今のところは。
「………」
その一部始終を無言のまま静かに見ていた清水坂は、お気の毒に………と、思った。自身でも不思議なくらい冷静に。然したる感慨もなく。ただなんとなく、そう思った。そして、そう思ったまま夜空を見上げた。まるで、このまま汚れたモノを見ているくらいなら綺麗な月でも眺めていようとばかりに。
「………」
とりあえずの作業を終えたカットベルは、暫し塊を眺めた後、清水坂に視線を移してそのまま見つめた。まるで、汚らわしいモノを見ているよりも愛しい清水坂で視界を埋めてしまおうとばかりに。
「アタシのせいで、コータロー………」
そして、ぽつり。カットベルは自らの軽率さを自戒する。意識がどんどん清水坂に集中し、こうなるに至ってしまった事を清水坂はどう思っているのだろうという不安で胸が苦しくなっていった。どうして気づけなかったのだろう。こうなるのは簡単に予測できた筈なのに。教団の連中が清水坂を利用しようとしないワケがないのだ。カットベルを捕らえる為にこれほど有効な存在なんて、世界の何処を捜しても見つかるワケがないのだから。実際、教団はカットベルが清水坂に対してどんな感情を持っているのかという事を情報として掴んでいたし、カットベルが何度も清水坂と接触しようと試みていたという事もある程度は掴んでいたし、接触に成功したという事も掴んでいた。元・大男=現・大きな塊の言うとおり、カットベルは清水坂への気を解放し過ぎていた。やっと見つけたと思ったから。そう思ってしまうに至る事があったから。それを思えば思う程に、カットベルの意識はどうしようもなく清水坂のみに集中していった。
がしっ!
それは、唐突と言えば唐突な事であった。
「うがぁあああー!!!」
「なっ?! ううっ、くっ!!」
言葉にならない声で呻く塊が、カットベルを両腕で挟むようにしてしがみついてきたのだ。
ひゅん!
そしてその刹那だけ後、月からカットベルに視線を移そうとした清水坂のその視界に、頭上高くからカットベルめがけて刀らしきモノを突き下ろしてくる何者かの姿が映り込んだ。
「あっ! カッ………あっ」
もしかしたら、あの刀らしきモノは銀製なのかもしれない………と、直感した清水坂は、その持ち主とカットベルを交互に見やる。
どくん!
「うぐっ!」
その何者かが攻撃に移った事による殺気でカットベルもその存在にはすぐに気づいたのだが、塊に背後から渾身の力で掴まれているので容易には動く事が出来なかった。
「なるほど、ね………」
刃渡りはその塊と俺くらい、か。それでカットベルには届かないかな………と、殆ど無自覚に我が身をカットベルの駒とする事にした清水坂は、カットベルと塊の間に強引に潜り込み、塊の元顔面を両手で掴んでグイッと持ち上げた。
どくんどくん!!
「うぎぃやあがぁあああーっ!」
新たなその痛みに簡単に負けてしまった塊は、その痛みを少しでも軽くしようと素直に立ち上がる。
そして、その僅か後。
ずぶずぶっ!
ずぶ、ぶぶっ!
それは清水坂にとって初めて耳にする音であり、初めて経験する感覚であった。
「え………コー、タ、ロー?」
カットベルは茫然となった。何が起きたのか理解出来なかった。いいや………理解する事を拒もうとしたと言った方が正しいのかもしれない。
「うぐっ、かは………」
清水坂が嗚咽する。
「そ、そ、そんな………」
眼前に今、どうしようもなく起きてしまっているこの事態を、カットベルは強烈な悲しみと共に受け入れていく。
「うっ、く………」
清水坂の読みどおりだった。斜め上から突き下ろされた刀の刃は、塊の首元から胸へ、そして清水坂の胸から背中を貫き、少しだけ刃先を覗かせてギリギリ、カットベルの寸前で止まっていた。
「コー、タ、ロー………」
「ふくっ………」
俺を人質にしてカットベルの反応を観察しつつ、可能であれば大男で、隙あらば刀の主で、か。たしかに教団とやらはタチが悪いな………と、思いながら清水坂は、最後の力を振り絞って塊を共に左へと倒れ込んだ。
どさっ………。
「っ?! オマエかぁあああー!!」
間に空間が出来た事で、河童のような風貌の刀の主をその視界に捉えたカットベルは、清水坂から視線を移すや否やずいっと跳びかかってその顔面を掴み、そのまま力任せに地面へと叩きつけた。
ぐしゃっ!
それにより、刀の主の首から上はまるで地面に叩きつけられた水風船のように破裂し、事切れた塊と時間を同じくして身体中のあらゆる水分が蒸発していき、砂のようになって散っていった。
「コータロー!!」
事が済んで振り返ってすぐ、清水坂の元に駆け寄ったカットベルは、清水坂に突き刺さっている刀を注意深く引き抜いた。その刀は銀製であった。
ずぶ、
「うぐっ!」
ずぶぶ、
「ううっ!」
ずぶっ。
「あう、う………」
引き抜く毎に、清水坂が苦悶し痙攣する。
ぶんっ!
清水坂から引き抜いた忌々しい刀を放り投げたカットベルは、清水坂を抱きかかえた。
「コータロー! コータロー!」
そして、悲痛な声で呼びかける。
きんっ。
と、遠くで刀が鳴った。
「怪我っ………い?」
清水坂は上手く話せない。
「………はい。コータローが、コータローが助けてくれましたですよぉ………」
カットベルはそう答え、泣きながら頷く。
「銀、だとヤ、い………思っ………た………かっ、ら、良かった………うぐっ」
そう言って微笑もうとする清水坂だったが、もうまともに話せないどころか痙攣が激しさを増していく。
「あうう、コータロー!」
「………」
次第に、一つ一つの痙攣は大きいものの間隔も大きく離れていく。
「コータロー? コータローお願いなのですコータロー! コータロー!」
「………」
カットベルは何度も呼びかけるが、虚ろな表情の清水坂にはもう、声が出せなかった。そして、その視線も最早定かではなくなっていた。
「コー、タ………そんな、コータロー!」
「………」
一つ一つは大きかったものの間隔がどんどん離れていった痙攣は次第に緩やかになり、穏やかになり、遂にはチカラが抜けていき、どうしようもなく、どうする事も出来ず、どうにもならず、意識が薄れる。
「そ、そんな………コータロー? イヤですコータロー! コータロー!」
カットベルが叫ぶ。
「………」
清水坂は反応しない。
「コータロー………ひんっ!」
「………」
夜の雲が月を隠した、その時。
「いやぁあああああぁーーーーーー!!」
カットベルが泣き叫んだ。
「ああぁ、あ、あああぁーーー!!」
それは、悲痛の叫び声であった。苦痛の叫び声であった。実際、気が狂いかけていた。
「ひくっ、えぐっ、あぐっ、ふく、ううう、う、ひんっ………絶対に死なせないです」
カットベルは決心した。諦めたくはなかった。諦められなかった。助けたかった。
「絶対に………」
その方法は唯一つ。
「………絶対に!」
清水坂を優しく抱きかかえたカットベルは、廃校の中へと急いだ………。
………。
………。
………。
第二幕) 完
第三幕へ続く
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