第一幕)突然と言えば突然
自室のベッドに横になり、ぼぉおおおー。っと、天井を見つめながら。清水坂は自身の現状について、そして自身の未来について考えを巡らせていた。
「………」
現在、今、この時、自身がその身を置いている現状、立ち位置………それは。もう数日後には学校であれば新学期が、会社であれば新年度がそれぞれ始まりを迎えるといった時期その頃。で、ある。それなのに、そうであるのにも関わらず、何も決めないまま数日前に高校を卒業し、何も決めないまま時間を浪費しているという有り様だった。しかし、何かをしなくては何一つ始まらないという現実をこれもまた漸くといった有り様なのだけれど実感してはいるので、それならば一刻も早く浪費を止め、何かしなくてはなるまい………の、だけれど。と、こうして悩んでいるのだった。
「………」
さてさて、問題はその何かである。スポーツで短期間の内に稼いでしまおうとか、学歴社会を比較的楽に生き抜く為に勉強に勤しもうとか、つまるところそういった考えを持って計画的に生きてきた筈もなく。何かについて、才能らしき片鱗を発見するという機会にも恵まれず。たぶんその内に何か見つかるだろうと思っていたけれど、蓋を開けてみれば何の事はない何一つ見つからないまま、あれよあれよとこのような現在に至ってしまった。それは結局のところ、何も見つからなかった場合はどうするのかという事を……いいや、この場合においてはただ単に自分の将来を真剣に考えてこなかったというだけなのだけれど、それについてはもう過ぎた事。何をどう足掻いても時間は戻らないし、例え戻せるとしてもその戻す術を知らない。過去の自分の足跡を辿ったところで、問題の解決にはならない。回答を得るべき問題は、これからどうしようかという事なのだから。
故に現在、
その為の道しるべを模索中なのである。
………、
………、
………、
デンワですよぉ~。
デンワですよぉ~。
もうどのくらいの時間が過去に流れた頃であろうか。清水坂にとっては突然と言えば突然に、愛用しているスマートフォンが着信音をそのボディーから鳴り響かせた。敢えて言えば震えてもいた。
デンワですよぉ~。
デンワですよぉ~。
「………」おーい、電話ですおー。と、そののんびりとした声色とは裏腹な実直なる働きぶりでもって、小さな身体いっぱいに、そして懸命に、一心不乱に、脇目も振らず、生真面目に、渾身のアピールで、全身全霊でお知らせしようとしている………と、表現すると。なんとなく、そこはかとなく、健気な気がしないでもないなぁー。
と、徒然なるままにそんな事を考えながら。
「お、浜本からだ」
その愛機を左手に取って、ぽつり。サブディスプレイに視線をやり、『浜本 茜』と、表示されているのを視認した清水坂は、実のところ着信音を決め打ちにしてあったので鳴り響いた時点で既に浜本だと判っていたのにも関わらず、そう呟いた。
ぽちっ。
「もっすー」
と、清水坂が応対した途端。
『よっすぅー! アレもコレも気兼ねなくでお馴染み独り暮らしを満喫中の所をすみませんが、お電話にてお邪魔しちゃいまぁ~す♪』
浜本は楽しそうに話し始めた。
「親父殿達が出掛けたのは今朝だし、まだそんなの何も変わんないって」
清水坂は両親と姉の四人で暮らしており、一昨年ほど前から独り暮らしをしている兄を含めて五人家族。今から数日ほど前に清水坂の卒業祝いという名目で家族旅行が提案され、名目の主である清水坂がそれを辞退すると、仕事が忙しくて泣く泣く断念した兄を除く三人で仲良く京都旅行へと出掛けてしまい、よって今朝から独りでお留守番役となっていたのだった。
『まだ、ですと? あ、そっか。なるほど。ねぇ、ダーリン今からそっち行ってハダカにエプロ』
「激しく遠慮します」
独りで居るというだけで何を納得したのかめくるめく桃色な世界へと誘う提案をする浜本に、その意を読んだ清水坂は速攻で辞退の意を表明した。
『ん、がるる! 少しくらいは目眩く桃色仕立てな妄想をしちゃう時間を挟めコノヤロぉおおおー!』
「で、その後に鬼の弓道部主将と恐れられた浜本の尻に、並の剣道部部員だったオレが尻に敷かれるという末路を、か?」
複雑な乙女心を、ちらり。と、垣間見せる浜本に清水坂は過去から現在、そして未来においてもきっとそうであろう如実な力関係を言葉にした。
『え、あ、そ、そそそそうよ勿論、清水坂は未来永劫この私の魅惑のお尻に………って、いつもエスな事すんの清水坂の方じゃんかよぉー!』
「でも、それは浜本が」
『それ以上は声にするなぁあああー!』
まるでイニシアチブの奪い合いといった感のするいつものコミュニケーションではあったのだけれど、結局のところ今回もいつものように、出だしは痛み分けドローのような結末を迎えたようだ。
「………そうします」たしかに、エスかもしれないな。
と、思いながら。清水坂は続ける筈の言葉を自重した。
『んもぉ………清水坂のバカ。あう、う、そ、そんな事より剣道と言えばさ、道着が似てるからってだけで弓道の稽古に来るからレギュラーから外されちゃうのよ』
脳裏に浮かんでくるあれやこれやの恥ずかしさから逃れる為に、浜本の方から話題を少しだけズラす。
「だって、弓道もヤッてみたら楽しかったんだもん。それに、弓道も所作とか振る舞いとか格好イイしさ」
『たしかに楽しそうだったけど………でもさ、どっちかに絞ってキッチリと取り組んでたらたぶんきっと清水坂ならさ、うん。絶対にもっともっともっと、かなり上達してたと思うんだけどなぁ~。ほら、先生も実のところ期待してたし。だからもっと真面目に取り組んでも良かったんじゃないかなって思うよ? ま、部活も一緒に居れたから楽しかったけどね。まる』
「ありがと。全国大会上位入賞常連レベルの浜本に言われると嬉しいよ。でも、強くなりたいとか勝ちたいとかが目的じゃなかったからさ、やっぱりアレ以上は上達しなかったと思うよ」
『でもさ、いや、その、う~ん、そだね。清水坂はたしかにそういうタイプとかじゃなかったもんねぇ………あ、思い出した! ねぇねぇ、知ってる? またバンパイアが出たらしいの!』
いつも話題がころころと変わる二人なのだが、浜本がハマッていたという理由もあって最近はもっぱらこの話題になる事が、いいや。この話題が会話の大部分を占める事が多かった。
「見間違いだよ、そんなの。吸血鬼さんがこんな田舎に何の用事があって来るのさ………だろ?」
こういった話に水を差すと浜本は怖いと既に充分に心得ている清水坂は、吸血鬼の存在は否定せず、その目撃のみを否定するように努めてそう言った。
吸血鬼の女。
バンパイア。
何やら。このあたりで行方不明になった人がいるとか、見た人がいるとか、襲われそうになった人がいる等々、ここ一カ月ほど前から急にあちこちで噂になり始め、それが話題になっていく内にその噂話が巡り巡って、私も聞いた事があるとか、僕も何回か聞いた事があるとか、そういった流れを作り出し、それによって噂話は情報と名を変えて如実に信憑性を増していき、遂には清水坂が住むこの町では今ちょっとした騒ぎにまでなりだしていた。メディアもそろそろネタにするのでは………と、いうくらいに。
『そこら辺は、さ。アレだよ。きっと、私達には判らない深ぁ~い深ぁ~い理由とか事情が、さ………あぁ~あ、一度でイイから私もバンパイアに会ってみたいなぁ~』
吸血鬼が実際に存在する怪異の者だと仮定して、昔に流行った古典ホラーとしての吸血鬼ではなく、最近の流行りであるところの所謂コメディーやロマンス的な吸血鬼を思い浮かべているのか、浜本はまるでアイドル歌手にでも会いたいかのような気楽さでそう言った。
「会ったら吸血鬼にされちゃうぞ?」目視した瞬間に脱兎の如く駆け寄って、サインしてくださいとか、握手してくださいとか、メル友になりませんかとか、お茶しませんかとか、浜本なら言いかねないな………。
と、清水坂は言いながら思う。
『あ、そっか。でも、いや、ううん。そうだよね。血を吸われて奴隷に………ん? じゃなくて、食べられちゃうんだったっけ? でもさ、そのバンパイアって赤くて長い髪の凄い綺麗な女性だって噂だしさ、こっそりでイイから見てみたいよぉー』
清水坂に苦言を呈された浜本は何かしら言いたげな様子を見せたのだけれど、それを飲み込んで素直にホラーとしての吸血鬼の方を連想してみたようだ。そしてその結果、山奥のお城で棺桶の中にいる伯爵を思い浮かべ、それでその想像力のほぼ全てを使い果たしてしまったらしい。だからなのだろう、すぐにその目撃情報とやらに修正し、その思いを馳せる。年代的にとか時代的にと表現するのは些か短絡的ではあるのだが、少なくとも浜本にとっては昨今のアニメ等でお目にかかる吸血鬼の方がしっくりくるのだろう。
「だから、さ。危ないって………」
清水坂はそう即答したものの、会いたいから見たいに変わっていたので少しだけではあるが安心した。
『清水坂は気になんないの? 見た人の話しだとさ、凄い綺麗な女性らしいよ? しかもさ、ボンでキュッでボンらしいよ?』
「うーん。興味ないなぁー」
浜本の問いかけに、清水坂は即答で返した。けれどそれは綺麗な吸血鬼にではなく、そんな現実離れした噂話には、という意味で。
『そっか………うん。安心したよ』
ボンでもキュッでもないのが実は相当なコンプレックスである浜本は、清水坂が即答した事に安堵しているかのように、ぽつり。と、そう呟いた。
「それにしても、女性の吸血鬼、ねぇ………」
しかし、清水坂はそれに気づかなかったようだ。
『やっぱさ、凄い怖いのかな?』
その話題そのものは続けたかった浜本は、吸血鬼という存在についての方向に話をもっていこうとした。
「ん? やっぱ、そうなんじゃない?」
町で話題の情報………いいや、噂話によるとその吸血鬼とやらは、人間で言うところの女性のような姿で、腰まで届くサラサラの赤い髪、顔は小さく卵型、見る者を凍らせてしまうような視線を送る赤い瞳、聞く者を凍らせてしまいそうな冷たい声音、真っ赤な唇、透けるような白い肌、スラリと伸びた長い腕と足、バストとヒップはボンとしていて、ウエストはキュッとしている………のだそうだ。それは例えるならば清水坂にとっては、北欧から来た少しパンクな美女と言われてイメージしてしまうような外見でもあり、オプションでボンテージと鞭が追加されたら女王様とお呼びといった感じでもある容姿であった。
「うーん………」
なので清水坂は、目撃証言が事実だとしても実際に北欧辺りから観光に来た女性だったりするのではないかと思いつつ、そんな詳しく観察できた者が吸血鬼に発見されずに生きて帰れるものだろうかとも疑問に思い、更にはその容姿から吸血鬼と断定するのは何を見たからなのだろうかというそもそもな事にもやはり疑問を覚え、けれど北欧からわざわざ観光に来るような風光明媚なモノなんてこの町にも近辺にも一切ないんだよなぁ………と、その可能性についてつらつらと思考を巡らせ。
「それよりさ、あの仔猫は元気してる?」
が、しかし。やはりさっぱり興味がないようで、さりげなくを装いつつ話題を変えてみる事にした。
『えっ? あ、うん! 今ね、何してるのかにゃん? って感じでコッチを見つめておりますよ♪それにしても人見知りしないよね、警戒心限りなくゼロみたいな。懐くの早いしさ………あ、変わる?』
浜本はその話題に乗った。
「うん。お願いしようかな………って、無理だろ。あ、そう言えばナゴヤに行く準備は十全?」
清水坂は更に話題を変える。
『うむ、勿論ですとも! いつでもサクっと行けますよマジで、あ………でもさぁ~』
浜本は変わらずその話題に乗る。
そして………。
清水坂が浜本の暇つぶしという名目の実のところはいやそのあははからその身を解放されたのは、それから軽く二時間程が経過した後の事であった。
………。
「吸血鬼、かぁ………」
と、ぽつり。呟いた清水坂は、やっぱりそういうの興味ないんだよなぁーとは思いつつも、吸血鬼と言われて思い浮かぶイメージを、つらつらと頭に並べてみた。
・吸血鬼は人間の血を好んで吸う。
・吸われた者は吸血鬼の下僕になる。
・生き血を飲まないと喉が焼ける。
・生き血を飲まないと苦しくなる。
・太陽の光を浴びると燃えて灰になる。
・白木の杭で心臓を貫かれると死ぬ。
・銀製の物で受傷すると大ダメージを負う。
・銀製具で首を切り落とされると死ぬ。
・蝙蝠と狼と鼠に変身が可能。
・十字架と大蒜が苦手。
・山奥にある誰も居ないお城に住んでいる。
・男はテールコートとシルクハット。
・女性はドレスが定番の衣装。
・中がフワフワの棺桶で眠る。
・鏡に映らない。
-おまけ-
・語尾にざますを付けた話し方をしがち。
・ふんがぁーさんと同居していたりもする。
・がんすさんとも同居しているかもしれない。
・ならば、ぼっちゃんとも同居しているだろう。
・トマトジュースを血の代用品にしていそう。
・スネ夫と声が似ている気がする。
「あとは翼とか尻尾………は、違うか。それだと格闘ゲームのキャラとかにいた、えっとたしかそれは、サキュバスだったかな………インキュバスだっけ?」ま、とにかくそれは吸血鬼ではなくて淫夢に出てくる妖魔だからここでは却下して………あ、そうだ! 基本的には不老不死の怪異とかだったよな………だったか? 実のところ怪異モノって作品によって設定がガバガバって言うか、作者によって微妙だからなぁ………。
アレやコレやと思い浮かべてはみたものの、それ等は全て小説や映画や漫画などに登場する架空の物語の吸血鬼像であり、実際に出会った経験なんてこの先も皆無であろう筈の怪異の者を思い浮かべてみても、やはり現実味はかなり薄かったようだ。
「う~ん………」もしも実在していれば、今頃は人間なんてゾンビ映画よろしくその殆どが既に吸血鬼さんにされていたりするのではないだろうか? だいたい、ゾンビさんだってその身体は腐敗している筈なのにとことこ歩けるしさ、噛めるしさ、しかも目が見えるしさ、都合が良すぎなんだよなぁ………吸血鬼さんだってそうだよ。不老不死なら生まれた時からあの容姿とかいう意味不明な事になるしさ、逆に成長するにしても死なないならどんだけ老けていくんだって話しだしさ………う~ん、何か設定そのものを批判しているみたいな気分になってきたな。スペクタクルでエンターテインメントな発想に文句を言うなんて野暮だよな………ま、噂になっているその殆どって吸血鬼さんである必要がないような気もするし、何よりもまず実際に怪異という存在が現実として闊歩しているワケがない。「もはや空の彼方と海の底にしかファンタジーはない世の中だからなぁー」
と、考えていると。
ばたん!
どたん!
「ん? ん? 何?」
清水坂にとっては突然と言えば突然に自室のベランダで何やら大きな物音がしたので、驚いて反射的に跳ね起きた清水坂はそのベランダに通じるガラス戸にそっと近づき、そしてカーテンを少しだけ開けて外の様子をおそるおそる窺った。
「何、っ………ええっ!」
で、確認した途端。清水坂は驚きのあまり大きな声を出してそのまま、視線の先にある視界にある光景に愕然とした。そのベランダに、二階である筈の部屋のベランダに、ぼろぼろのドレスを纏った傷だらけの女性が蹲っていたからだ。
「ウソ、だろ?」
しかも、長く赤い髪で、白い肌で、多分ボンでキュッでボンの女性がそこにいる。
「どう、し、て」女の人が、ベランダに?!
茫然となりつつもそう呟きながら、そして反射的なのか清水坂がガラス戸を、がらがら。と、少しだけ開けたその時。ベランダで蹲っていた女性が、がばっ! と、その身を起こした。
「「あっ………」」
なので、それによって目と目がばっちりと合ってしまった。その女性は卵型の小さな顔だった。真っ赤な唇の奥に牙らしき犬歯が見えたような気がした。しかしながら凍てつくような視線ではなく、今にも泣いてしまいそうなくらいに弱々しい表情だった。
「あの、助けてくださいなのです………」
「ん、えっ………」
「カットベル=ハートネクスト・ネロキアスティルと申しますです………」
「ますですって、いや、あの………」
「追われているです………」
その女性、カットベルは凍てつくような冷たい声ではなく、弱々しく話しかけてきた。しかも、日本語で。少し開いたガラス戸越しに聞こえるそれとその様子があまりにも不憫な様子だったので清水坂は慌てて、がらがら。と、ガラス戸を開けて中へと促した。
「あの、えっと、清水坂幸太郎です。次男ですけど、幸太郎です………いやその」
そして、場違いな自己紹介をした。
「コータロー………」
すると、
「アリガトウなのですよ、コータロー」
よろよろ。と、這うように部屋に入ったカットベルは。
「………」
床に、ぱたり。と、力尽きてそのまま。
「………」
ぴくりとも動かなくなった。
「えっ、えっ、ええっ?」
カットベルのそんな様子を見て驚いた清水坂ではあったのだが、追われているという言葉が頭から離れていなかったので慌ててガラス戸を閉め、急いでロックをし、乱暴にカーテンを閉め、大慌てでカットベルに駆け寄り、
「ああああの、大丈夫ですっ、か………?」
と、話しかけながら。ベッドに運ぼうと大わらわで抱きかかえようとした。
が、しかし。
「んん………」
どうやら、眠っているだけのようだ。
「………んっ」
すやすや、と。
「んんっ………ん」
何とも無防備な表情で。
「可愛い、かも」
清水坂はおもわずそう呟きつつ、けれど裏腹に大小傷だらけの痛々しい姿に胸が苦しくもなりつつ、さてどうすれば良いかと固まっていると、カットベルを包んでいた所々大小切り刻まれたぼろぼろのドレスが、はらり。と、床に落ちる。それにより、それまで視認不可だった至る所までが大小傷だらけの白い肌が完全に露出した。
「わっ、あっ………」
ほぼ………いいや、不可抗力とはいえ完璧に完全に十全に全裸と言える状態となった姿で眠るカットベルは、間違いなくボンでキュッでボンであった。
「えっと………いや、落ち着こう」
反射的にその脳内で目眩く桃色な世界へと繋がる扉が開きかけたものの、苦しむ素振りや痛がる様子はないものの見るからに大怪我の女性に対して何を邪まな妄想を膨らませているんだ俺は………と、その心で激しく反省した清水坂は、傷だらけのカットベルを抱きかかえたまま立ち上がり、ベッドに移動して優しく寝かした。
「さて、と………ええっ?」
そして、さてさて今度こそこれからどうしたものかと思案し始めた矢先、カットベルの身体にある幾つもの傷がそれぞれ徐々に小さくなり、ついには塞がり、何もなかったかのように綺麗さっぱり消えてなくなっていくという信じられない光景を目撃した。
するとその途端、
あるキーワードが頭をよぎる。
「た、たしか、吸血鬼は不死身、だったよな………」
人間であれば有り得ないであろうそんな状況をもっと見ていたいという欲求が芽生えた清水坂ではあったのだが、女性だし全裸だし許可とっていないし見ているだけで抑える自信がなかったし変態だと思われるかもしれないし今ここで目を覚ましたら警察沙汰かもだしいやそのつまり不謹慎だから我慢するべきだと思い直し、カットベルの身体にシーツをかけて部屋の灯りを消した。
「………」
次第に。部屋にある時計の針が二つ、ぼんやりと発光し始める………時刻は、深夜の二時をまもなく過ぎようとする頃。
「吸血鬼、って………マジか?」
ベッドから一番遠い位置になる壁際に座った清水坂は、つい先程から今に至るまでのまるで作り話のようなこの出来事を、頭の中で整理して落ち着こうと考えた。
「………」いや待て。それにしても、だよ。今、目の前にあるベッドですやすやと眠るこの女性は、吸血鬼と称されている噂の女性そのとおりの容姿っぽい。それに、目立って大きいという程ではないのだけれど、牙のような犬歯があった気もするし。それと、この目ではっきりと見た尋常じゃない………自然治癒力? そんな人間なんて、いるのか? ただ単に知らないだけで、実のところ普通にいるのかな………いいや、それこそ小説だよ。映画や漫画の中にいるキャスト達だろう。でも、だからと言って吸血鬼だと認めてしまっても、はたしてそれでイイのだろうか? そもそも、吸血鬼って本当に存在するんだろうか? もしも本物なら、このまま傷が癒えて目を覚ましたら襲われるのかな………俺に、って言うか人間にあんな弱々しい表情と声で助けを求めるような女性が、所謂ところのあの吸血鬼なのか? 吸血鬼ってたしかもっとこう、頗る尊大な性格だったような気がするんだけど………あ、もしかしてこれは、浜本が仕掛けてきたドッキリ大作戦か? あ、あ、うん………あり得るぞ!「いや待て。落ち着こうよ………とにかく、とにかく落ち着こう。まずは落ち着こう。落ち着こうよ、オレ………」
この状況を現実だとは認識しているのだが、するしかないのだが、受け入れるにはあまりにも非現実的といった感じであった。元来が楽天的な性格の清水坂であったので、大真面目に考えれば考えるほど現実離れしたサスペンスやホラーの世界に迷い込みそうで、それはまだ恐怖と言うよりも不安ではあったものの、即座にパニックに陥りかねないという精神状態になりかけてもいた。
「………って、無理だ。落ち着けない!」
つまるところ、そういう事のようだ。
自身との闘いは続く。
………、
………、
がばっ!
「うわっ!」
そうこうしてどのくらいの時間が過去となった頃であろうか、清水坂にとっては突然と言えば突然にカットベルが上半身を勢いよく起こしたので、清水坂はおもわず驚きの声を出した。
「んっ………ん?」
ゆっくりとだがきょろきょろと何かを探すように顔を動かしたカットベルは、その視界に清水坂をはっきりと捉えると、ぴたり。と、そこで視線を止めた。
「う………」
暗くてはっきりとは判らなかったものの、少しは暗闇に目が慣れてはいた清水坂は、カットベルのそんな様子がおぼろげに見えた途端、聴こえてしまうのではないかというくらいに強く、鼓動が脈打ちを変え始めたのを自覚した。
「コータロー?」
カットベルは、柔らかに微笑みながらゆっくりと清水坂に近寄る。
「えっ?」
カットベルに呼ばれた清水坂は不意に、動かなければ生物だと認識されずに済むのではないかと思った。が、そんなワケがない。今更ながらではあったが、恐怖という感覚に襲われていった。眼前にいる相手は噂の吸血鬼かもしれず、更には本物の吸血鬼かもしれないのだから。
「………寒い、ですか?」
清水坂の眼前すぐまで来たカットベルは、ゆっくりと身を屈めて清水坂と視線を平行に合わせると、震えている理由を訊いた。
「さ、ささ、さ………」
それはアナタに怯えているからですよと正直に告げたら見逃してくれるかなとか、部屋に入れただけだけど助けたみたいだから大目に見てくれるかなとか、鬼が付くだけにだるまさんが転んだ理論で動かなければセーフかなとか、清水坂の脳は有意義かどうかは別として活発に働いていたのだが、身体は今更ながらの恐怖にただただわなわなと震えるだけだった。言葉も満足に発せない程に。
「さ? あっ………寒い、ですね?」
震えているのは怯えているからで、更には怯えている対象が自分だとはどうやら全く気づいていないらしい様子のカットベルは、そう確認するように言うと清水坂の首に両腕を、するり。と、回して抱きしめるように優しくその身を合わせていった。
「?!!!」
清水坂の顔のすぐ横に、カットベルの顔。
「………」
カットベルの顔のすぐ横に、清水坂の顔。
「「………」」
清水坂はもう動悸と表現しても間違いではない程に鼓動が速くそして強くなっていたが、実はこの時、カットベルも自身の鼓動が速まるのを感じていた。それは、いつものよりも格段に強い感覚だった。いつもは遠巻きに眺めているだけだったから。触れるのは初めてだったから。
「うぐっ!」
カットベルに抱きしめられた清水坂は反射的に、このまま殺されると思った。恐怖以外の何物でもない感覚が、自分という自分を支配している。何故ならそれが、血を吸われる体勢だと思ったからだ。しかし何も出来ず、どうする事も出来ず、何一つ抗えず、その身を強張らせただただ戦慄するのみであった。
の、だけれど。
「あの、コ、ココ、コータロー………温かいですか?」
「………えっ?」
カットベルが何やら恥ずかしそうに訊いてきたその言葉があまりにも予想外で意外だったので、清水坂は我が耳を疑った。
「あの、えっと、その………温かくないですか?」
「え、あ、あああの、えっと、えっ、と、その、大丈夫です、はい………ゴメンなさい」
やはりカットベルは恥ずかしそうで、その意図が全く判らない清水坂は、違和感を深めながらもとりあえず返す言葉が他に浮かばないのでといった感じで謝った。そしてそのあまりにも予想外な言葉に、それまでたしかにその身を支配していた恐怖心が、所在なさげにふわふわと漂い始めるようになっていった。
「あの、先程はアリガトウなのです」やっぱり思ったとおりでした。
「先程………って」えっと、襲ってこない感じなの?
「コータローは、命の恩人様です」やっぱり、優しい人でした。
「そ、そんな事は………」襲われない感じ、なの?
「あの………」甘えてみようかな………あの子みたいに。
「はい?」やっぱり殺すの?!
「「………」」
ぎこちない会話を数度続けた後、カットベルは清水坂の正面に自分の顔を持っていく。そして、再び清水坂を見つめる。すると清水坂は、その瞳にも捕らえられたかのように、何も発せず見つめ続けるだけになった。
「傷が癒えて再び夜となるまで、せめてそれまで………此処に居てもイイですか?」
カットベルのその声に威圧感はなく、その表情は懇願に満ちている。
「え、あ、はははい………イイですけど」
激しく意外に感じながらも、清水坂はカットベルによるそのお願いを受け入れる事にした。あまりにも意外な展開すぎて、恐怖心が疑問符を伴って浮遊しているような感覚になっていた。
「はううぅ、アリガトウなのですぅー!」
清水坂が自分を受け入れてくれた事が嬉しかったカットベルは途端にその表情が晴れ、その感情を解放するかのような勢いで、いいや。高揚する感情を爆発させるかのように清水坂を再び抱きしめ直した。と、言うよりも………抱きしめるその力に歯止めがなくなった。
それはつまるところ、
人外な力そのままに。
と、いう事である。
「えぐっ、ぐはっ!」
それが尋常ではない力だったので、清水坂は握りつぶされていく苦痛を感じながら、呼吸できないほどの圧力に全身が否応なく包まれていった。
そして、
それは一瞬の出来事であった。
何故なら、その直後。
ミシミシッ! と、何かが軋むような。
バキバキッ! と、何かが砕けたような。
グワチャッ! と、何かが破裂したような。
↑
感覚をその身に覚えたからである。
「ぐ、ふ………」
激しい痛みと苦しみを覚えてすぐ朦朧となり、更には急激に薄れゆく意識の中で清水坂は、この女性は吸血鬼ではなくてフランケンシュタイン博士渾身の作品であるところのアノ有名な人造人間さんなのでは………と、思った。
「はう? あ、ああ! あの………ゴ、ゴゴ、ゴメンなさいなのです!」
暫しして自身の多大なるミステイクに漸く気づいたカットベルは、慌てて力を緩めて清水坂を窺った。
「………」
それにより、時すでに遅しではあったものの尋常ではない圧力から解放された清水坂は、時すでに遅しであったが故に、こぽこぽ。と、口から血を溢れ出しながら、よろよろ。と、力なく床に崩れていく。
「ど、どど、どうしましょう………こんなつもりでは、その、ゴ、ゴゴっ、ゴゴゴゴゴメンなさいなのですよコータロー!」
清水坂にとっても自分にとっても痛恨の一撃となったこの顛末に激しく動揺したカットベルは、我が身のこの身体能力を忌々しく思いながら、許してくださいと心の中で何度も何度も何度も謝りながら、殆どパニック状態に陥りながら、清水坂の口から溢れる血を舌で掬うように受け止め続けた。
「………」
けれど、でも。その挙動はこの事態の何の改善にも繋がりはしていない。当然と言えば当然なのだが、もう清水坂は先程からずっとぴくりとも動かない。意識も消失しているようだし、呼吸もしていないように見える。
「あう、うう………あ、そ、そそそ、そうでした!」
清水坂を抱き締めたつもりが自分の首を絞めた形となってしまい、天国から地獄へと転がり落ちたカットベルではあったのだけれど、突然と言えば突然に何かを思い出したらしく、ただただぐったりとしている清水坂を軽々とベッドまで運び、更に衣類を剥いで全裸にし、胸部から腹部へかけて、すすーっ。と、清水坂の身体を軽くそして短く切り裂いた。
どくどく、どく。
判然と言えば判然。
その途端に、
清水坂の体内から鮮血が溢れ漏れ出てくる。
や、否や。
「はむっ、じゅる、んぐ」
カットベルはその血液を舐め掬い、それを吸い上げ、そして飲み始めた。傷口から次から次へと流れ出る清水坂のそれを一滴残らず、まるで取り憑かれたかのように、一心不乱に、飲み干してしまう勢いで口に含み続けた。
「んぐ、ふうっ、ぐうっ」
の、だけれど。暫しその動作のみを続けた後に、なんとカットベルはそれと同時に鮮血が飛び散らないよう注意しながら、自身の腕をずたずたに裂き始めた。そして痛々しいまでに血まみれとなったその腕を、清水坂の胸部から腹部あたりに作った傷口にあてがう。
「ううっ、んぐ、はぐっ」
そして。傷口から滴る血を掬っては飲み干し、そして自身の血まみれの腕をその傷口にあてがう。と、いう反復動作を何度も何度も。何度も、何度も、何度も。何度も繰り返し繰り返し続けるのであった………。
………。
………。
………。
………。
………。
………?!
えっ、と。
此処は何処でしょうか?
柔らかで心地よい感触に包まれながら意識が戻った清水坂は、現在自分が置かれている状況を把握しようと、まだ存分には働いてくれない脳で思考を始めた。
「………」たしか、うん。そうだ。いつものように浜本から電話があって………あ、その後、そうだよ。ベランダに女の人が居たんだっけ………あの女の人は、えっと、カットベルさんだっけ。やっぱ北欧から来たのかな………って言うかどうしてベランダにいたんだろう………って、も、もしかして、ドロボウとか………な、ワケがないか。だって、助けてくださいって言ってたもんな。それに、身体中が傷だらけだったし。って、大丈夫なのかな。あんなに怪我だらけ………あ、そうだ! あんなに傷だらけだったのに、アッと言う間に、こう、何て言うか………人間なのかな。人間みたいな姿なのに、実は人間ではない………まさか、ホントに噂の吸血鬼さんなのか?
アンドロイド?
妖精?
天使?
悪魔?
モンスター?
地球外生命体?
地底人?
未来から時間旅行してきた人?
バンパイヤ?
って、それは吸血鬼か………う~ん、映画や漫画とかになら普通に登場するのだけれど、流石に現実離れした答えだな………でも、そういうキャラクターしか思い浮かばないし………俺のボキャブラってさ、ちっともアカデミックじゃないのな………ちゃんと勉学に励んでいたらこういう時にだってもっと少しはマシな、こう、現実的な、論理的な………ま、実際に見たのはたしかなんだから、きっとその内のどれかなんだろうけれど。だって凄い力だったし。あ、たしか俺、ぎゅっ。と、抑えつけられたんだっけ。それでその後、血を吸われたような………と、いう事は、ホンモノの吸血鬼なのか。そう言えば、鋭い犬歯みたいなモノが見えたような気もするし………そっか。吸血鬼っているんだな。浜本に何て言おう………いや待て。でもまだ確定したワケじゃないし………あ、そっか。だから血を吸われて………いいや、そう思ったけれど違ったんだっけ。たしか………そうだ、抑えつけられたって言うよりも、抱きしめられたみたい感じで、こう………あ、いいや、それも違うな。何かこう、そうだ。たしか、もの凄い強い力で、ぎゅぎゅっ。と、されて………あっ。たしか俺、それで気が遠くなってったんじゃなかったっけ………じゃあ俺、もしかして死んだのかな………じゃあ、ココは何処なんだろう………ん、ベッドか………俺、ベッドで横になっているんだな。あ、そっか。なるほどね。死んだから横たわっているのか………死んでもこうして色々と考えたりとか出来るんだな………意外な発見だ。まさにこれこそが、経験してみないと判んない事だよなぁ………って俺、案外と冷静なのな。それの方がよっぽど意外だよ………あ、そう言えば。今、何時なのかな。って、何の予定もないけど。あ、暗いから夜なんだろうなぁ………って、俺はサイコパスかよ………考えが支離滅裂だよ………ん、待てよ。暗いから夜って事は………目を開けて見ているって事、に、なるよな………目を開けてんだな、俺。ん? と、いう事は。これって、まだ死んでないという事なのかもしれないぞ。そうか………だからこんなに色々と考えたり出来るのかな。じゃあ、まずは起きてみるとするかな………あ、なんか見える。見えてるんだな、俺。って事は、やっぱり生きてるのか。何か変な気分だよ全く………で、えっと、目の前にあるのは………ティッツ、か。これは浜本のではないな。だってアイツ、こんなにボンじゃなくて、ほら、小さ、いやその、かなりカワイイ感じだもんなぁ………あ、そういえばカットベルさんもボンだったなぁ………うん。そうそうたしか、こんな感じでボンで、それでキュッでボンだった、よ、うな………………なぬ?
「………」え、っと。
清水坂、暫しのフリーズ。
「………?」これは、もしかして。
更に清水坂、暫しして脳内検索。
「………!」まさか、の?
そして。
「どぉおおおーっ!」
思考の先に到達した視界の答えに、漸く事態の大凡を把握した清水坂は、かなりの驚きをもって跳ね起きた。
びくん!
がばっ!
と、いう感じに。
「え、っ、と………」
そして、思ってもみなかったこの状況を経験している事で完全に目が覚めた。どうやら、全裸のカットベルに抱きしめられていたようだ。覆っていたシーツが捲れたので、眼前のカットベルが全裸だという事も容易に判った清水坂は、この光景を更に深く飲み込む変わりに座りかけの姿勢で、付け加えるとすれば色んな意味で、その場で固まるに至った。
「んんっ、ん………」
清水坂が、びくん! と、なってそしてその僅か後に、がばっ! と、目を覚ました事により、カットベルもその振動と音で反射的に目を覚ました。
「んんっ………目を覚ましたですねコータロー。ご気分は悪くないですか?」
目を覚ましてすぐだったのでまだその声はかなりむにゃむにゃさんではあったのだけれど、清水坂が意識を回復したのが判って安堵していた。
「え、あ、う、うん。はい。大丈夫です………」
清水坂が座りかけの姿勢から座位の姿勢になると、
「それは十全です。では、痛いところはないですか?」
カットベルもすぐに身を起して対座した。
「うん。どこも、どぉおおお………」
「良かったですぅ………」
部屋は暗いのだがカットベルの白い肌が、ボンでキュッでボンな肢体が、はっきり。と、網膜から脳へと届いたので。清水坂は途端に、目のやり場に困ってしまって視線を逸らした。
「あの、オレ………ずっと寝てたのかな」二度目の丸見えだよ………。
「はい。成功したです♪」
「えっ、せいこー?」セイコー。って、時計?
「はい。成功なのです♪」
「セイ、コ………うっ!」もしかしてまさかして、それはつまり、性交………の事ですか? たしかに裸だし。一緒に寝てたみたいだし。いやでも今時、性交なんて言葉は使わないよな………だよな、そうだよ、うん。と、なると。成功、精巧、星光、あとは何かあるかな、ボキャブラ足りないな。でも、確率が高いのは成功かな。って、何を成功したのか判んないけど。でもさ、まさか性交ってそんなワケがな、
「はい。良かったですぅ………」アタシのせいでどうなる事かと思いましたですが、御様子を拝見するにとりあえずは大丈夫のようなのです………とりあえず、ですけど。
「え、良か………」い。えっ、性交が? いやまさかそんな………って、ヤバい俺も丸見えだよ!
今更ながらに気づいて激しく動揺した清水坂は、眼前の光景に反応してしまっていた正直すぎる腹部から下を中心に、まずはシーツで慌てて隠した。そして次に、懸命に思い出そうとした。気持ちを整理する為にも思い出したかった。しかし、目眩く桃色な世界を目の前の美女と満喫したという記憶は何一つ見つけられなかった。どうやら、カットベルが全裸で自分も全裸だという事実が清水坂から冷静な判断という術を忘れさせ、本来であればきっと聴き間違える事はないであろう筈の事態を招くに至ってしまったようだ。
「良くなかったですか?」もしかしてコータロー、痛いのを隠そうとしているとかですか? 失敗してしまったですか? それならそうおっしゃってください! この身でなんとかしてみせるですよ!
「い、いい、いえ、そんな事はないと思います………」あの、覚えてないんですけど。
清水坂の誤解は続く。
「そうですか、良かったです♪ あ、その、実はとても緊張したですぅ………ですが、そんなに難しくはなかったですし、ですが、ですが、初めてでしたので、その、入れる時はやはり、不安でした」吸血族の血液が自然治癒力に優れていて良かったです。
「そう、ですか………」
その誤解が確定へと向かっていく。
「良かったですぅー♪」アタシの血が入っても拒否反応は見られないようですし、これでとりあえずは大丈夫な筈です………とりあえず、は。ですけど。
「ど、お、お………」まさか、気を失っている間に目眩く桃色なイタズラをされた、とか………そ、そんな………いいや、そんなワケがない。相手はたぶんきっと吸血鬼さんだ。イタズラするより殺す筈………あ、でも、襲われていれば今頃は死んでいるのか………ならば、これからとか。捕食動物はお腹が減ったから襲うんだし、今のところはまだ空腹ではないというだけの事なのかもしれないぞ。そ、そ、そうだとするなら………しかもカマキリのオス的な展開だったら、どうしましょ!
「あああの、コータロー?」どうしたのでしょうか、コータロー。先程から俯いたままなのです………あ、きっと御自身が置かれているこの状況が呑み込めなくて混乱しているですね。そうですよね………自身の過ちと償いを素直に説明し、なんとか安心してもらわなければいけません。
「え、あ、はははい………」これからどうなるんだろう、俺………特にこの相棒のこの状態はなんとかしないと。それにしても、この状況でも俺は………これが、若さ故の過ち。って、ヤツか? いやその、冷静なのか焦燥してんのか自分でも判んなくなってきたよ。
「あの、カラダの何処かが折れていたりですとか、裂けていたりですとか、砕けていたりしていたら大変だと思いましたので、その………アタシが剥いでしまいました。ゴメンなさいなのです………」そうでした。コータローの裸、もっとちゃんとよく観察しておいても今後の為に良かったかも………いえその、アタシはなんて事を考えているんでしょうか。こんな事になってしまいましてゴメンなさいなのですよ、コータロー。
「え………」あ、えっと………服、の、事ですか?
「ですが、良かったですぅー」とりあえず、ですけど。
「あ、気にしないでください………」
目眩く桃色な筈の世界を何一つ思い出せない分だけ違和感がハンパなかったものの、カットベルの言葉によって自身が気を失うに至った経緯をまだ依然としてぼんやりとではあったが思い出した。
「あは、は………」
が、しかし。それでも誤解は完全に継続の最中であったので、吸血鬼のみなさんは随分と荒っぽいエッチをするもんなんですね………と、折れる・裂ける・砕けるという言葉をそちらの方に向けて繋げてしまうに至っていた。
「それで、一緒に………寝てたんですね」
だからそう続けるにも至ったのだけれど、そう言ってすぐ。それはオマエを逃がさない為だよ! と、豹変されたらどうしようと清水坂は思った。途端に、びくびくしている方の自分自身に気持ちが向く。
「はい。父殿と母様がそうしておりましたので、そうするのかと………」
そう言って、もじもじ。カットベルは恥ずかしそうに俯いた。勿論の事、清水坂が思っている事とは違う意味で、である。
「あ、あの、それと、アタシのせいでシーツを汚してしまいました………ゴメンなさいなのです」
そして、次の説明へ。これもまた申し訳なさそうにそう呟いた。そしてそれは心からの詫びであった。
「………え?」
けれど、その意味が判らず清水坂は戸惑う。
「ここ………なのです」
そんな清水坂を知ってか知らずかおそるおそるといった感じでシーツをベッドの足側に押しながら、カットベルは更に小さく呟いた。
「………ん?」
話しが見えないまま、清水坂はその辺りに視線を移す。
「あ………」
と、シーツに血のような大きな染みが付着していた。
「あああの、アタシ、いつも独りでしたので、その、そういう事はですね、初めてで………」
勿論の事これもまた、孤独に生きてきたが故に例え自身の失態とはいえ誰かを看病するという機会も添い寝で見守るという機会もただの一度もなかったという意味である。
「え、そ、い、いつもは独りで………そ、そうですか」
しかしカットベルのその説明によって、吸血鬼=血ではなく初めてのエッチ=血を連想してしまった清水坂は、いつもは独りでするとか吸血鬼のみなさんにとっては大胆な告白ではないんだな………と、その心の中で驚きつつ、目眩く桃色な世界をカットベルとすごした事がその脳内で思い出せないまま確定となったので、身に覚えがありませんと正直に告げたらそれこそ殺されるかなと思った。
「上手に出来なくて、ゴメンなさいなのです………」
何度も言うが勿論の事、上手く処置する事が出来なくて申し訳ないという思いでカットベルは謝っている。
「あの、それはそそその、気にしないでください………ほら、初めてなら仕方がないですし」
しかしこれもまた清水坂の中では、大いなる誤解が揺るぎない決定事項となっていく。
「いや、あの、こちらこそ全く気づかなくて、いやその、そ、その………えっ、と、痛かったですよね」
申し訳ないのは全面的に此方の方ですと思いながらも、吸血鬼ってもっとこう頗る尊大ないつでも上から目線な性格だったような気がするんだけどなぁ………と、強い違和感を覚えた清水坂であったが、カットベルがあまりにも沈んでいるので、なんとか笑顔にしたいと思った。
「そんな、痛いのは我慢しました。そのような事は平気なのです。だってアタシが悪いですから………ホントにゴメンなさいなのです」
我が身のせいで生死の境を歩ませてしまったという自責の念に苛まれてもいるカットベルは、痛かったという意味をそのまま自分で自分の腕を裂いた事だと受け止めた。なのでそう答えたのだけれど、自身の血の自然治癒力を活用する為にそうした事を説明していないので、この時点では清水坂はまだそれを知らないという事には気づけないでいる。
「そ、そんな、こちらこそゴメンなさい………あの、ホントに大丈夫だから、その、気にしないでください」
なので、こうして会話が綺麗とはいかないまでもキャッチボール出来てしまっていた。それゆえに清水坂は、アタシが悪いという言葉に疑問を持つ余裕なく、痛いのは我慢したという言葉に気を取られていた。
「………はい。アリガトウなのです」やっぱり優しいですね………あの夜に見たまま、思ったとおりの人なのです。この人なら、コータローなら、もしかしたら………。
「あ、あの、さ………ヒトツだけ、その、訊いてもイイですか?」何か、イメージが………違和感ハンパないな。ホントに吸血鬼さんなんだろうか? そう言えば何も知らないままだったっけ。なにもかも知らないのにこんな事になるなんて、しかも覚えていないだなんて、同じ鬼でも俺の方は鬼畜だな………。
「え、あ、あ、はははい! 何でしょう?」質問されてしまいますた………ますた? いえその、そんな事より何を訊かれるのでしょうか。何を知りたいのでしょうか。何でも訊いてくださいコータロー、全てお答えしますよ。
「カットベルさんは、吸血鬼さん………なんだよね?」一応、確認しとこうかな。見間違いって事もあるし。バイリンガルな北欧のパンクな女性という線も、
「はい。この国ではそのように呼ばれておりますね」ゴメンなさいなのですよ、コータロー。アタシは、ではなくてアタシも。に、なってしまったかもしれませんけど。どう説明したら良いでしょうか………受け入れてもらえなければ、掟に従うしかありませんね。
「あ、そ、そうですか………」
カットベルが、さらり。と、肯定したので、やっぱりそうなんだと改めて思い直した清水坂は、ここにきて漸くと言うべきか吸血鬼=血を連想するに至った。
「人間の、血を、その………す、吸うんですよね?」そっか………本当にいたんだ、吸血鬼って。じゃあ俺、吸血鬼さんと………って、覚えてないんだけどさ。
の、だけれど。勘違い進行中の身なので我が身に起きた事を冷静に考えるという余裕は一切なく、連想がシーツに染みついた血の真実に繋がる事もない。
「え、っと………はい。あ、そ、その、それは2つの理由で………そうなのです」あ、この流れでお願いできるかもしれません。説明するのは恥ずかしいですけど、説明しなければ運命は拓けません! 自分勝手なのは承知しております。ですがアタシは、コータローを………。
「ふた………っ、あ、あのさ、此処にはどうして?」
二つの理由とやらが凄く気になった清水坂だったが、食事の為と下僕にする為なのかなとすぐに思いついたので、この話題を掘り下げるのは止めて話題を変える事にした。
「え、あ、そ、それは、ですね………父殿と母様の仇討ちです。あの、コータロー。昨夜は助けていただいて、ホントにアリガトウなのです」
思いもよらぬ絶好の機会を得たと思ったカットベルだったのだけれど、清水坂による突然の変化球に若干の意気消沈を覚えた。が、しかし。想いのままに上手く話す自信がなかったのも事実で、なので少しばかりの安堵も同居していた。
「コータローのお蔭様で、このとおりアタシは完全復活なのですよ」
そんな複雑な心境から生まれた思いは、清水坂に助けてもらえたからこそ、そしてその清水坂が優しい人だったからこそ、今こうして自分は何年かぶりに笑顔でいられるという事実への感謝であった。なので清水坂のお陰様だと明るく告げてすぐ、嬉しそうに胸を張った。ボンが更にボンとなる。
「それは、その、良かったです………」
清水坂はつられて微笑んだが、さらり。と、聞こえた仇討ちという言葉におもいっきり意識を取られていた。
「コータローはアタシのお蔭様で、命の恩人様なのです」
カットベルは続けて嬉しそうに言う。
「そ、そんな、大袈裟な………」
仇討ちという言葉が気になったのでもう少し触れてみたいと思った清水坂だったが、あまり易々と触れてはならない内容でもあったので、逡巡しながら様子を窺う。
「あの、さ………」
しかし、あまりに感謝されて気恥ずかしくなったので、話題を変えようとも思った。
「はい。何でしょう?」
カットベルは素直に従う。何でも聞いてくださいといった感じだ。
「えっ、と、その………あ、カットベルさんってさ、この国の言葉が上手だね」
清水坂は思いつきでそう言った。何か話題を変えようとは思ったものの、実は何も考えていなかったので。しかしながらそうは言ってみたものの、その言葉遣いにはずっと違和感を覚えていた。頗る流暢ではあるのだけれど時折、語尾が変だったからだ。最初のうちは母国語ではないのだろうから仕方がないと思っていた清水坂ではあったのだけれど、でもそれならそれで流暢ではない筈なんだよなと、そう感じたのだ。伝わるので問題ないのだけれど、なんだか不自然だという思いは拭えないていったところか。
「アリガトウなのですよコータロー♪」
清水坂に褒められたカットベルは、親に褒められた子供のように、心の底から喜んだ。
「いえ、そんな………」
そんなカットベルの様子を間近で見た清水坂は、これまでのカットベルの様子も合わせ、もしかしたら自分はとんでもなく重大な過ちを犯してしまっているのではないのだろうかと感じるに至った。自身が抱く吸血鬼像を優先し、目の前に存在している実際で現実の吸血鬼であるところのカットベルから感じるイメージの方を疑っていたからだ。
「実は、この国の言葉は得意なのです! 母様から教えていただいたですよ♪」
清水坂に褒められた事があまりにも嬉しかったカットベルは、そう言って再び胸を張った。
「………」
一方で清水坂は、自身の勝手な想像に当てはめようとする行為は愚劣な偏見でしかない………と、その胸の内で深く反省した。
「………?」コータロー? なんだか急に顔色が重くなったですね………もしかしてアタシ、コータローに褒められて舞い上がりすぎたのでしょうか。何か気に障る事をしてしまったのかもしれません………どうしましょう! 謝れば許してもらえるでしょうか? 折角こうしてお近づきになれて、更には………それなのに、アタシのバカぁー!
「………」吸血鬼さんにもいろんなタイプがあるよな、うん………アニメや映画や漫画や小説のキャラだって様々で色々なんだし、俺達だって悪いヤツもいれば良いヤツもいるし。改めなくちゃ、だよな。うんうん。
「………?」コータロー、頷いているみたいですけど。どうしたんでしょうか? なんとなくですけれど、怒ってはいないようなのです。あ、これはアタシのターンというヤツなのですか? 待っている、ですね! それならば、何か話さないとですね………あ、そうです!「あああの。実は、昨夜も教団のハンターやら賞金稼ぎやらに追われていまして、あ、あの、追われる事につきましては父殿や母様の仇もいるですから都合がイイのですが、ですが、教団の連中はタチが凄く悪く、ついついカーッとなってしまうです。ですから、その………昨夜はそれで、罠にかかってしまったです」
清水坂が黙ったままでいたので、カットベルは昨夜の経緯を感情を込めて話し始めた。実を言うと清水坂家の幸太郎の部屋のベランダには、偶然では決してなくある確信を持って自発的に向かっていたのだが、その事については伏せておく事にしたようだ。
「え、そうなんだ………」
両親の仇という言葉を再び聞くに至って胸が苦しくなった清水坂は、それと同時に地球上の至るところにある紛争地帯を思い浮かべてみたのだが、正直なところそれはまるで映画や小説の中の話しのようで、確固たる現実感を得る事は出来なかった。それもあってか、先程も耳にした昨夜という言葉もキーワードとして残っていた。どうやら、丸一日近く経っているらしい。
「ですから、今度はズタズタのメタメタにするですよ」こう見えてアタシ、強いんですよ? って、自慢にはならないですけど。でも、必ず仇を討ってみせるですよ。コータローに危険が及ぶようにはしませんから、絶対にしないですから安心してくださいなのです!
「え、っと………いや、その」
「ギタギタですよコータロー」
「そう、ですか………」
物騒な事を笑顔で、さらり。と、言ってのけるカットベルを見た清水坂は、ある程度より以上はたぶんきっと自身の勝手な想像や思い込みと同じかもしれないと、自身の考えを少しだけ軌道修正する事にした。
「はい。バキバキなのです!」
「うん、いや。あのさ………」
「はい。どうしましたです?」
「仲間とかはどうしてるの?」
「仲間、ですか………それは、お友達さんという事ですよね? それは、その、ずっと独りぼっちなのです」
と、ぽつり。清水坂の問いにカットベルはそう答えた。先程まではたしかにあった明るさが、この時はあきらかに消え去っている。
「え、そうなの? じゃあ、独りで大勢となんだ………」
集団vs集団の闘いを勝手に思い描いていた清水坂は、驚きつつも感心した。
「アタシに勝てるような者なんてこの世には殆どいないですが、すぐに感情的になってしまうというこの性格を利用されてしまうと危ないです。特に昨夜は………コータローに助けていただけなかったら、きっとアタシは殺されていたです………」
そう言って、カットベルは更に肩を落とす。
「ずっと独りって、さ………寂しい時とかない?」
この部屋に通しただけなのだけれど、それが助けた事になるのだろうかと清水坂は思いつつも、話しの流れを遮断させて沈黙が続いてしまうのは気まずいと感じて話しを進める事にした。
「それは………はい。とても寂しいです。凄く退屈ですし心細いです。こうして穏やかに楽しくお話しするような機会など、父殿と母様を亡くしてからは全くありませんでしたし………優しくされたという事もなかったです」
そう言うと、カットベルは清水坂をジッと見つめる。
「そうだったんだ………あ、カットベルさんってさ」カットベルさんはどのくらいの年月を孤独に生きてきたのだろうか………それって凄く、ツラい事なんだろうなぁ………。
と、思った清水坂は、無性に心が痛くなった。のほほんと気ままに生きてきた自分はなんて恵まれているのだろうと心から感じると共に、世の中は不公平だなとも感じた。
「あう、あ、あの………」コータロー………!
「ん? どうかしたかな」カットベル、さん?
「アタシの事は、もう呼び捨てにしてください」
カットベルは、もじもじ。と、恥ずかしそうに訴えた。
「でも、まだ」
しかし、清水坂が断る旨の何かを告げようとすると。
「いいえ、もはやそうお呼びください!」
今度は清水坂を真っ直ぐに見つめながらそう訴えた。
「え、っと………じゃ、じゃあ、その、カットベルは、仲間を作ろうとか思った事はなかったの?」もはや、って。それは………つまりその、そういう事なのかな。吸血鬼のみなさんは一度でも関係を結ぶと………って、本来はそういうものなんだろうけどさ。
カットベルの訴えに依然として逡巡していた清水坂ではあったのだけれど、結局のところは気圧されたような形で受け入れ、そして話しを進めた。
「仲間だと信じていた者達によって、父殿と母様は殺されたです………高額の賞金首でもありましたから、どうやらその機会をずっと狙っていたようです。アタシはどうにか生き延び、仇を探そうと決めたですが、探し出して見つけ出して討つという毎日を生きている内に、様々なカラクリも見えてきたです。そして、アタシにも高額の賞金がかかるようになり、今や殆どの者が恐れるような存在へとなり果ててしまったです………そのような敵だらけのこんなアタシなんかの仲間になろうなんて者はおりません。そんなアタシですから、手を差し伸べていただけたのは、コータローが、その、初めてなのですよ………」
清水坂を見つめたまま、カットベルが告げる。
「そんっ」
「うぐ!」
「えっ?」
そんなアタシ、の部分はたった今こうして知り得た事なんですけどぉ………と、思わず言いそうになったその時。カットベルが身体を、びくん! と、震わせた。なので清水坂は、その挙動に驚いて意識をとられた。
「………くっ!」
カットベルの表情が、途端に。みるみるうちに、あっと言う間に、瞬く間に、険しくなっていく。
「あああの、ど、どうしたの?」
清水坂がおそるおそる訊く。
「ヤツ等がこの辺りをうろついている気配がするです」
そう説明するや否や。カットベルは、すくっ! と、立ち上がった。そして、ベランダに向かって真っ直ぐに、とことこ。と、歩みを進める。
「ヤツ等、って………えっ、ま、まさか、そのままで行くの?」
人間にとっては非現実的な世界の住人であるカットベルに、清水坂は人間にとっての現実的な疑問をぶつけた。
「はい? えっ………と、お着替えでしたら、此処から少し行った先にある丘の上の仮の寝床としている所にあるですが、このままではダメですか?」
何故? と、いった感じでカットベルは訊いた。
「いや、その………あ、オレの服を着ていきなよ。うん。そうしよう!」
外は寒いしやはり服を着るべきですと思った清水坂は、そう言うと収納してある自分の衣類を取りに歩いた。少し行った先の丘にある寝床とは、もしかしてかなり先にある丘の上の廃校の事かなとも思いながら。
「イイのですか? コータローからそう言ってくださるのでしたら喜んでそうするですけど、でも、闘いになるですから、その、ボロボロに汚してしまうかもです………」
とても嬉しそうに、けれど申し訳なさそうに、カットベルはそう言った。それと同時に、初めて清水坂を見た夜の事が、清水坂を見初めたあの夜の事が、その脳内に思い浮かんだ。
「ん? イイよ、そんなの。どれにする?」
それでも服を着ていくべきだと思った清水坂は、箪笥の引き出しを開きながら言った。
「………ホントに、イイですか? ホントにアタシでイイですか?」アタシを貰っていただける、ですか? そうなのですか?
その言葉とは、裏腹に。とても嬉しそうに清水坂に駆け寄ったカットベルは今度は、もじもじ。と、恥ずかしがりながら黒色のタンクトップを指差した。
「え、それはどういう、って、それ?」
アタシでイイですか? の、意味を知ろうとしたのだけれど。カットベルが意外な方向に指先を向けたので、その事に面喰らった清水坂はそれをそのまま言葉にした。
「はい。これがイイです………」だって、これこそが、その………そういう意味なのですよね? アタシ、テレビで見ましたですよ。誓いの証、なのですよね?
カットベルが望んだのは箪笥の中の衣類ではなくて、昨夜のあの時に清水坂から脱がして床に置いておいた黒のタンクトップであった。
「でも、それは」俺がさっきまで着てたヤツだけど?
「こ、ここ、これがイイです! あう、う、ああう、あああの………やっぱり、アタシではダメなのですか?」やっぱりイヤですか? やっぱりそうなのですか? アタシみたいな怪異の者とはダメなのですか………やっぱりそうですよね。でも、でも!
使用済みではない服の方が良いのではと言おうとした清水坂であったのだが、カットベルはそのタンクトップを胸に抱え、懇願するかのように言葉を重ねて訴えた。
「いやその、イイ、けど………」
アタシではダメなのですか? の、意味が判らないまま清水坂が肯定の意を示すと。
「イイ、ですか? アタシでイイですか? ホントにホントですか? はうう、嬉しいです! アリガトウなのですよ、コータロー♪」
そうとは知らないままのカットベルは嬉しそうに、にっこり。と、微笑む。そして興奮を抑える様子なく、そのタンクトップをいそいそと着た。
「ん………コータローの匂いがするです♪」やった、なのですよ! 遂に、遂にアタシ………コータロー、アリガトウなのです。
幸せそうな微笑みを浮かべながらそう呟いたカットベルは、あらためてベランダに向かい、しゃか。と、カーテンを開け、がらから。と、ガラス戸を開け、とことこ。と、軽やかにベランダに歩み出た。途端に、月の灯りがカットベルを僅かに照らす。
「あっ………」
その姿がとても綺麗でおもわず見惚れてしまった清水坂は、下も何か穿くべきですよという思いを声にするのを忘れてしまった。タンクトップでぎりぎり隠れているといった感じだったのに、である。前屈みになったり、腕を空に向けて伸ばさなければ………ではあるが。
「コータロー………一夜を共に明かした女性は、殿方の上着を着るのが証となるですよね?」
くるり。と、振り向いて清水坂にそう訊くカットベルのその表情はとても柔らかで、その声はとても優しかった。
「あかし………って、証?」
どうやら、カットベルは人間の世界のたぶん恋愛モノの映画かTVドラマ辺りを観た際に、それが恋人となる為の条件だと勘違いしたようで、もっと言えばそれは結婚を意味する大切な儀式の一つとまで大きく勘違いしているのだけれど、それを知る由もない清水坂は清水坂で誤解したままでいるので、服を着る事と何らかの証の因果関係は判らないまでも、一夜を共にしたというカットベルの言葉に誤解を増幅させてしまっていた。
「アタシは幸せなのです………」これが、運命。と、いうモノなのですね。母様………。
大きく勘違いしているカットベルは本当に心の底から幸せそうであったし、現に本当に心の底から幸せを感じていた。清水坂の服を着てもOKと清水坂から言われたという事は、つまるところそういう事だと思い込んでいるのだから。
「い、いやその………」あの、さ………これはもう覚悟を決めなきゃいけないのかな。って言うか、全く覚えてないんだけどなぁ………うん。大変な事になっちゃったな。親父殿達に何て言おう? 無職なのにお嫁さん出来ちゃったよ、俺………。
激しく誤解している清水坂は心の底から戸惑いを覚えつつも、身に降りかかった現実から逃れようとは思わなかった。それは初対面ではあるものの惹かれてしまったという心持ちもあっただろうし、身に覚えがないものの責任という気持ちも少しはあっただろう。しかしその心に一番大きくそして強く重く去来していたのは、あんなに嬉しそうなのに知らないなんて言えないよなぁー。と、いう思いだった。
「これより先は、いついかなる時もコータローに尽くします」アタシなんかを………アリガトウなのですよ、コータロー。アタシは幸せなのです。
完全なる勘違いを訂正及び説明してくれる者など、カットベルの周りにはいなかった。
「えへへ………♪」頑張りますよぉー! あれれ? コータローどうしましたですか? 先程からまた黙ったままなのです。
ずっと、独りぼっちだったのだから。
「いやその………」実は、覚えがないんですけど。なんて今更………言えないよなぁー。
自分の事を完全に恋人だと思っているんだろうなと、だからこれからどうしようかと、この場合まずはどうすればイイんだろうかと、清水坂はたしかに戸惑いを覚えてはいる。しかし、その戸惑いの中に後悔の念はない。
「あう、う、何も言ってはくださらない、ですか?」もう伴侶気取りかと思われるかもしれませんが、やっぱり何か言ってほしいです………ワガママでしょうか。
清水坂が然したる言葉すら返してくれないので、カットベルは寂しい表情でそう甘え、清水坂からの言葉を待ってみる。
「あっ、その、えっと。あ、心と身体を、大切にしてください………」あ、そっか。今から闘い、じゃなくて殺し合い? に、行くんだよな。あんな傷だらけなカットベルはもう見たくないし、御両親の仇って言ってたけど出来れば平和的な解決を………平和ボケの戯れ言、だな。
昨夜のカットベルの様子を思い出した清水坂は、気をつけてねという意味でそう告げた。
「はい! 必ず、そうするですよ♪」コータローがアタシの身を案じてくれているですよぉー♪ えへへ………コータローは優しいですね。アタシは幸せなのです。アリガトウなのですよ、コータロー。
清水坂のその言葉を、無事にここへ帰ってきてね。と、いう意味だと捉えたカットベルは、途端に幸せそうな柔らかい表情に戻ってそう返した。
「それでは、まいります!」さっさと片付けて早くコータローのもとへ帰ってきますから、沢山優しくしてくださいなのですよ♪
そして、そう言うや否や。ベランダの柵に、ぽん。と、跳び乗り、軽く屈伸した後に、たたん。と、跳躍し、空を舞うようにたん、たん、たたぁーん! と、飛ぶように跳ねていった。
「………」怪我しませんように………。
その姿を視界に映しながら清水坂は、その場に暫し立ち尽くす。そして清水坂の大いなる誤解と、カットベルの完全なる勘違いは微妙に繋がったまま、夜は朝へとその姿を変えていくのであった。
見惚れながら、
戸惑いながら、
夢ではないのかと疑いながら、
思い出しながら、
そして、案じながら。
現実なのだと受け入れながら。
………、
………、
………。
第一幕) 完
第二幕へ続く
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます