第三幕)当然と言えば当然

 辺り一面は静粛に包まれた暗闇。何も見えず、何も聴こえず、何も感じない………さて、此処は何処なのだろう? 噂に聞く黄泉の国という所なのだろうか。それとも、もう地獄に到着してしまったのだろうか。取り立てて良い行いをしたという記憶もないし、実感もないのだから、天国に昇ったという事はないだろう。あ、生まれ変わる為のスタンバイ状態なのかもしれないな………だとしたら、誰か迎えに来てくれたりするのかな。だってほら、道とか判んないし。場所も判んないし。教えてもらった事とかないし。そもそも何処に行くのか知らないし。それに、此処………真っ暗だし。うん、何にせよ暗いから何一つ判んない。とりあえずこのまま待ってればイイか。これといった用事もない事だし。あ、でも。誰か来るにしても、こんなに暗いのに見つけてくれるのかな………そう言えば、あの世にも朝とか夜とかあるのか? それとも、灯りを点す為のスイッチとかが近くに………暗いと何も出来ないよ。俺って結構、視力に頼ってたんだな。うん、これからはもっと………って、死んでるんだよな、俺。実はまだ生きてるなんて事は多分ないよな。刀で貫かれた感触も感覚もしっかり覚えてるし、あれでまだ生きてたとしたら今頃は激痛で苦悶してる筈だし。人生五十年、かぁ………随分と足りない人生だったな。半分にも到達してないよ。日本人の平均寿命を著しく下げてしまった事になるかもだし、誰かにめちゃんこ怒られたりとかするのかなぁ………って、案外と冷静だな俺。なんかもっと、アタフタしたりジタバタしたりオロオロしたりすると思ってたのだけれど、やっぱ実際に経験してみないと判んないって事か。ま、経験値が上がっても死んじゃってたら活かせないのだけれど、これはこれで仕方ないのかもな。カットベルが無事なら十全だ。お、十全と思う俺がいるとは、随分と成長したな。自分を褒めてあげたい気分だよ。ま、自身で判断した事の結果なんだし、人生は諦めが肝心だ。あ、死んでるんだっけ………それにしても、何をしたらイイのかさっぱり判んないよぉー。あ、人生を振り返れって事なのか? もしかしたら、今はその為の時間なのか? そうだとしたら、意外な事実。閻魔さん立ち合いじゃないんだな………いいや、待てよ。迎えに来る筈の誰かが遅れてるだけかもしれないぞ。いやぁ~どうもすいませんねぇ、なんせ道が暗いもんで………とか、さ。なんか俺、かなり余裕だな。イイのかこれで? って言うか、さ。実感がないんだよなぁ………だってさ、死んだ事ないんだもん。ん? え、誰か呼んでるような気がする………あ、カットベル? マジで? あれ? こういうの、以前にもあったよな。ま、ま、まさか………なの、かも。


 ………。


「ん………っ」

 まさか。と、思いながら清水坂がぼんやりと目を開けると、その視界はカットベルの顔で埋まっていた。

「えっ………」ほら、やっぱり生きてるよ。早く気づけよ、俺………でも、痛くないのは何故? てか、顔が近いよカットベルさん。


「あっ! あう、う………」

 清水坂が意識を回復したその時、清水坂の眼前にまで顔を近づけていたカットベルは、心配そうな、泣き出しそうな、嬉しそうな、恥ずかしそうな、そんな幾つもの感情を内包させた複雑な表情を清水坂に晒していた。


「ただい、ま?」と、とりあえず言っとこう。


「コ、コータロー!」

 清水坂から、びくん。と、離れたカットベルのその声は、安堵に満ち溢れ、涙で震えていた。


「あのさ、オレ………」

 清水坂は上半身を起こした。そして、気づいた。

「う………」

 全裸だった。

「うう………」

 これも二度目だ。

「また………」前回の時もそうなのだけれど、下半身にダメージを負った記憶はないんだよね………だから、さ。脱がすのは上半身だけでイイのでは?

「って、え………」

 そして、カットベルも全裸だった。

「っと………あっ!」

 が、以前の時とは違って痛々しい姿をしている事に気づく。

「カットベル、そ、その傷!」

 右肩口から胸の谷間を抜けて左腹部へと斜めにざっくりと、何か鋭いモノで激しく切り裂いたような深い傷があったのだ。


「あ、あの、こ、これは、その………吸血族は自然治癒力に優れておりますので、アタシの血をコータローの傷口から染み込ませたと申しますか、浴びせたと申しますか………少しずつでないと拒絶反応を引き起こしてしまうですから、少しずつ何度もする必要があったです」


「それって、さ………」俺の身体には銀製だったのにもかかわらずもう既に刀の傷痕すら見られないのに、カットベルのその傷はあまりにも深い………つまり、俺の傷口がほぼ塞がって更には意識も回復するまでになった段階になっても、カットベルはそれでも尚、自身の身体を深く抉り続け、その身に流れる血を溢れさせ、俺に与え続けてたって事だよな………ん? と、いう事は。


「コータロー、そ、その、拒絶反応は抑えましたですが、今回は瀕死の状態からの回復でしたので、これで殆どが、アタシの血に………あ、あの、こ、こうするしか方法がなかったです。ゴメンなさいなのです、コータロー………」

 カットベルは清水坂を窺いながら、おそるおそるそう説明した。


「いやその、カットベルの………」やっぱそういう事か。でもそれよりもカットベルの傷が心配だよ。


「あ、あああの、これはですね、その、す、すぐに治るですから、ですから、大丈夫なのですよコータロー」

 清水坂の視線にすぐに気づいたカットベルは、努めて明るくそういった。しかし、実際は酷い貧血状態で頭がクラクラしていたし、身体もフラフラであった。それはそうだ。今の今まで清水坂に掛かりきりで、睡眠や栄養補給など少しもしていないのだから。体内にある血液には限りがあるし、ストックも当然用意してはいない。それはつまり、相当な無理をしているという事だ。自身の生命維持さえ危うい程に。


「無理させたのかな………」

 カットベルがいくら明るく振る舞って見せても、その顔色の悪さを見れば体調が芳しくないという事くらい確かな医学の知識がなくても判るというものだ。当然それが見て取れたし、その事からカットベルがかなり無理をしてくれたと容易に推測出来た清水坂は、やはり死んでいてもオカシクはない状態だったんだなと再認識した。

「ありがと………」

 そして、死の淵から救ってくれたカットベルを優しく抱きしめると再び、そのままゆっくりと横になった。


「はうっ、えっ、と、ああう、コ、コータロー? あああの………」また顔から火が出てしまうですよぉ………。

 途端に、カットベルは顔を真っ赤にした。血液が充満したかのように熱くなっていくのが判った。清水坂が自分を強く気遣ってくれている事が判り、嬉しさを感じたからだ。


「ゴメンね、カットベル………」


「はうう、コータロー………」

 その昔まだ幼かったカットベルは、父と母を助ける事が出来なかった。救う事が出来なかった。いつだって守られてばかりだった。そして今、あの時のように再び大切だと思える者に守られた。守ってくれたのだ。それは、清水坂に流れるカットベルの血がそうさせたのかもしれない。しかし、カットベルは思う。あれは、清水坂が自らの判断で我が身を差し出してくれたのだ、と。カットベルを救う為に。カットベルはそう理解した。そう感じていた。父と母を失い、笑顔を忘れ、怒りや涙と共に生き、いつしか闇夜の悪魔と畏怖されるようにまでなり、そして、清水坂に巡り逢った。冷血なる吸血鬼。冷酷なる吸血鬼。しかしそれは、誰も温めてくれなかったから。温めてもらおうと思えなかったから。けれど、清水坂を見つけた。いいや、見かけたと表現するべきか。そして清水坂を見かけた時、カットベルの中で何かが芽生えた。勿論、それが何であるかという事はすぐに気づいた。


「カットベルのおかげ様でオレはもう大丈夫になったから、カットベルが治るまでこうしてるよ。それとも、他に何かした方がイイかな?」全裸を見られるのは平気っぽいのに、こうして抱きしめたりとかすると途端に恥ずかしがるのは何故なんだろう………。


「えっ、と………このままが、イイです」

 清水坂がしてくれている腕枕にそのまま顔を寄せていったカットベルは、嬉しそうにそう言って目を閉じた。元気に跳び跳ねる事さえ出来るのではないかというくらいに、チカラが回復したような気さえしていた。病は気からと思ったりもしていた。勿論、病ではないのだが。


「………」カットベル………。

「………」ドキドキするです。

「………」ホントは苦しいだろうに。

「………」ドキドキが止まらないです。

「………」凄い傷だし。

「………」コータロー………はうう。

「………」傷か………吸血鬼の血って凄いんだな。

「………」コータロー?

「………」でも、その血をオレなんかにあげちゃって………。

「………」静か、ですね。

「………」血を貰う、か………。

「………」寝ているですか?


 カットベルはちらりと窺う。


「ん、どうしたの? あ、もしかして病院とか行く?」何処かに専用のとかあるの?

 それに気づいた清水坂は、そう言って気遣った。心配してくれているのが、その声と表情で充分に伝わる。


「えっ、あ、いいいいえ、ここ、このままで大丈夫なのです」あうう、起きていたですか………ドキドキが大きくなってしまったですよ。ですが、心配してくれてとても嬉しいです。はうう………。


「………」ホントに大丈夫なのか? 顔色悪いままだし。


「あの、コータロー」このままだとアタシ、暴発してしまうかもです。


「ん?」やっぱ、病院とか行く?


「ななな何か、そそその、お、おお、お話しを、しししませんか?」

 このままだとドキドキが暴走発令圏内に侵入してどんでもない事をしでかしてしまいそうだという予感が妄想をふまえた予知の如く脳内を支配し始めたので、非常に名残惜しくはあったものの、カットベルはそう提案した。しかし、腕枕はキープ。


「え、あ、じゃあ、話題はどうする?」イイけど………静かにしなくて大丈夫なのかな。


「え、あ、う、そ、そこまでは考えていなかったです………」


「じゃあ、そうだなぁ………あ、吸血族の世界ってどんな感じ?」


「えっ? と、そうですねぇ………吸血族同士、吸血族の者と人間族の者、吸血族と元人間、吸血族とハーフ、ハーフと人間、ハーフと元人間などで婚姻を結んだり、子供を産ませたり、産んだり、チームを組んで助け合ったり、妬みや恨みや憎しみで争ったり、家族として仲良く暮らしていたり、独りで気ままに生きていたり。と、その生活は色々で様々なのですが、殆どの吸血族は人間族の世界に紛れて生活していますです。この星は人間の住処なのですが、外見は殆ど同じですから、そうする方が不自由しないですので。それに、人間は何処に誰が何人存在しているとかを厳しく明確に毎日調べ上げたりはしないですし、潜り込むのは案外と難しい事ではないです。それと、書類などがどうしても必要な場合とかでしたらコミュニティーが所々にあるですから、其処で偽造なりすればイイですし、元々から人間のフリをしている者も多いですので………殆どの者が人間と変わらない生活をしていると思いますです」


「そうなのかぁ………ねぇ、カットベル。あのさ、オレは、その………吸血鬼になったのかな」血を貰ったんだから、そうだよね。


「あう! う、そ、それは………」

 驚いたカットベルが口ごもる。


「兆候みたいなモノはいつから出てくるの?」その反応からすると………ビンゴ、か。


「あああの、そ、それはですね………少なくとも、既に思考パターンは変化していると思いますです」


「え、そうなの?」


「………はい。基本的な性格はそのままなのですが、状況判断ですとか心構えみたいな特定の条件への思考については、血が強く影響するようなので………あと、自然治癒力も。コータローはこれでその殆どがアタシの血になりましたので、使い方さえ知ればアタシと同等の能力を使えるようになるですし、それを発揮しても耐えうる身体にもなっていく筈です。それに、犬歯も………コータロー、アタシを助けてくれた夜の事を思い出してもらえますか?」


「ん、と、初めて会った時の事?」


「はい………実はあの時、アタシのせいでコータローは内臓を破裂してしまいました。骨も所々が折れていましたです。なので、多くの血を注ぎました………ですから、既にもう吸血族の血が流れていたです」


「そっか………」じゃあ………怪異の者との遭遇や、怪異の者との闘いに戸惑い少なく順応出来た事、浜本が来た朝の事、これ等はそれが要因だったのか………。

 清水坂はその理由の殆どを理解した。


「指摘を受けるまで隠していてゴメンなさいなのです………嫌いにならないでください」

 カットベルは懇願に満ちた表情を浮かべながら告げた。


「あの、さ。オレ、人間にはもう戻れないのかな………」


「えっ、と………」

 清水坂の言葉に、カットベルはビクンと反応した。


「………」戻れない、か………。


「………方法は、1つだけあります」


「ええっ、そうなの?」


「はい………」

 期待に満ちた表情の清水坂を見たカットベルのその心に悲しみが生まれたが、その期待に抗う事は出来ない。


「どうすればイイの?」


「それは………」

 抗う事は出来ないのだが、カットベルには清水坂への想いがある。


「………難しいの?」


「あの、コータローは人間として産まれたですから、このままでも今の環境で暮らす事は難しくはないです。ほら、見た目は殆ど変わらないです、し………ですから、このままで、その、共に生きてみる気はないですか?」

 想いが感情を支配して焦ってしまったカットベルは、もっと段階を踏むべきデリケートな願いを説明不充分なまま清水坂に告げてしまった。


「えっ………」

 清水坂は逡巡した。

「と………」俺の事を恋人だとカットベルは思ってる。そして、俺を助ける為にあんなにも躊躇なく命を捨てようとしてくれた。更に、俺を救う為に身の危険を顧みなかった。そのどれもはたしかに感謝を通り越した嬉しさを感じるに至る事ではあるけれど、親の仇、賞金首、教団、怪異の者………共に生きるという事はきっとたぶん、穏やかな暮らしは望めないだろう。吸血族の血を宿した今の状態でいれば、比べずとも非力でしかない人間でいるよりも足手まといではないのだろうけれど、かと言って吸血族が持つ能力を戦闘の際に存分に発揮できるのかは別の話しだ。人間として平和な環境を穏やかに生きてきた平和ボケの俺が、この先そう簡単に対応やら対処が出来るとは思えない。何より、その覚悟がない。経験が皆無と言って差し支えない俺には、その覚悟の仕方すら判らない。あんな大男が震えるくらいに恐れられてるカットベルの血を貰い、同等の能力が宿ってるらしい今の俺であろうと、生死に直結する闘いは怖い。凄く怖い。しかも、相手には怪異の者が含まれてる。あまりにも非現実的すぎて、楽観的な考えが何一つ思い浮かばないよ。住む世界が違いすぎる。経験もなさすぎる。怪異の者なんて、つい最近まで仮想で架空な漫画や小説の世界の存在でしかなかったんだから。


「………人間に戻りたいですか?」そうですよね………怪物になんて、なりたくなんかないですよね。でも、でも、ゴメンなさいなのですよコータロー………。

 長い沈黙の後、カットベルはぽつりと訊いた。


「………うん」やっぱ俺には無理だよカットベル、ゴメンな………。

 暫しの沈黙の後、清水坂はポツリと呟いた。

「ゴメン、カットベル………」そっか、俺はカットベルの初めてを………それも覚えてなくてゴメン。きっと、こんなに大切に想ってくれるのはそれもあるんだろうし、そもそもそれを何の取り柄もないただの人間の俺なんかに許すくらい………そう言えば、何でなのかな? って、そんな事………訊けるワケないよな。


「謝らないでくださいなのですよ、コータロー。人間として人間の世界を生きたいと願うのは当然の事なのです」


「助けてもらってさ、救ってもらったのにさ、ゴメン………」


「いいえ。助けてくれたのも、救ってくれたのも、どちらもコータローの方なのです。コータローがアタシを守ってくれたですよ」


「カットベル、ゴメンね………」

 カットベルに柔らかな微笑みを向けられた清水坂は、胸が苦しくなった。そして、その優しさが心に突き刺さっておもわず、カットベルを抱き寄せた。


「あうっ、コ、コータロー?」

 清水坂にギュッと抱き寄せられたカットベルは、少しの驚きのすぐ後に多大な喜びを感じた。しかしそれはすぐに、少なくはない悲しみで覆われていった。清水坂と共に生きるという事を諦めたくないと思ったからだ。


「ゴメンね、カットベル………」


「コータロー………」

 だから、しがみついて懇願しようかと思った。どうすれば叶うか考えた。


「ゴメン………」


「あの………」

 そう思ったのだけれど、そう考えたのだけれど、清水坂の願いを受け入れようと決めた。受け入れなければならないのだ………と、覚悟しようとした。


「アタシのせいで、ゴメンなさいなのです………」


「いや、それは………」

 自分が血を与えなければ死んでいたのになんて思いもしない。


「ホントにゴメンなさい………」


「違うから……」

 チカラづく腕づくで自分に従わせようなんて考えもしない。


「アタシのせいなのです………」大好きです、コータロー………。


「カットベル………」どうしたら、イイんだろう………。


「「………」」

 闇夜の悪魔と恐れられているカットベルは、たしかに恐れられるだけの能力を持ち、恐れられるだけの事をしてきた。しかしそれは、自分から進んで喜んで楽しんでそうしたくてそうしてきたワケでは決してなく、向こうから勝手に迫りくる火の粉から我が身を守る為に、向こうからの身勝手によって植えつけられた悲しみを少しでも軽くする為に、心を守る為に振り払い、抗い、蹴散らし、晴らしてきたが故の結果であり、見せる機会が無かっただけの本来の本当の本質は、愛する者と笑顔に満ちた毎日を生きたいと願う、健気な乙女であった………。



 ……そして。



 カットベルの傷が完全に癒えたのは、それから半日くらいが経った頃、すっかり陽も暮れた時刻となっていた。

 清水坂とカットベルは、清水坂の身体能力の変化とカットベルの体調の回復を確認する事を第一の目的として、廃校の壁を殴ったり蹴ったりして暫く遊んでいたのだが、やがて一息ついた頃には夜も深く深く更けており、哀れその廃校は外観の更なる劣化こそ目立たなかったものの中身は燦々たる空虚といった有り様になっていた。まさに私物化である。

 そしてその後、風を浴びに屋上へと移動すると並んで座り、空に浮かぶ月を眺めながらとりとめのない会話を楽しんでいた。

 その始まりは、生まれ変わりを信じますか? と、いうカットベルの言葉からであった。


「う~ん………たぶん、前世で顕著だった欲望を持つ何かに生まれ変わるんじゃないかなって思ってた事はあるよ」

 カットベルによる唐突な問いかけに暫しの逡巡を要した後、清水坂は以前ふと何かで感じた事を言葉にして伝えた。


「なるほど、です………つまりコータローは、欲望によって来世が決まるというお考えなのですね?」

 清水坂が自分なりの答えを持ち合わせているという事が判ったカットベルは、それならば清水坂の考えをもっと深く知りたいと思った。そこには、清水坂の事であれば何でも知りたいという純粋な欲求もたしかに色濃くあったのだが、自身が問いかけた事に答えを返してくれるという会話の楽しみを得る喜びに包まれていたいという気持ちもあった。長い間、そのような機会など無かったから。


「うん。あ、でもね、その逆もまた考えられるって言うか、同じように思った事もあるんだ」


「逆も、なのですか?」


「だってほら、オレ達ってさ、他の生き物と比べると自由に動けるでしょ? 状況進化みたいな、適応能力みたいな、その、何て言うか………」

 カットベルが以前、穏やかに話しをする機会など久しく無かったと言っていた事を思い出した清水坂は、彼女からの問いかけの対し、それを真摯に受け止めた上で、自身の考えを出来うる限り晒け出す事で応えようと思ったのだが、脳内に浮かぶ考えを言葉に変換して説明するという事が上手く出来ず、尻すぼみに口ごもってしまった。


「えっと、それはつまり、その………あ、作るとか、扱うとか、そういう器用さみたいな事でしょうか?」

 言葉にして懸命に伝えようとしてくれている清水坂の様子が見てとれたカットベルは、彼が言おうとしている事を想像してそう訊いてみた。唐突な問いかけに対して真剣に応えようとしてくれる清水坂に、感謝と嬉しさを感じながら。


「そうそう、うん、そんな感じ。前世で頑張れば頑張る程、来世は更に自由の利く何かに生まれ変わるの」


「たしか人間社会の宗教観に、ナントカの階層という教えがあるですよね………そういう感じの事なのでしょうか?」


「うん。そうかもしれない………でさ、それとはまた別に、例えばさ、女好きが過ぎると来世はセイウチになっちゃうとかね。ハーレム築けるけど死に物狂いで闘え! みたいなさ。欲望ってさ、耐えなきゃなんないワリにそこら中に罠が仕掛けてあってさ、穿った言い方をすれば耐えれるモンなら耐えてみろって感じだよね。もしかしたら、オレ達ってホントに試されてるのかもしれないよ?」


「でしたら、もしも、もしも欲を満たす事ばかりに溺れてしまったら、来世はどうなると考えます?」


「そしたら………岩になる、かな。そのゴツゴツした外見は、前世で償わなかった欲望のヒトツ、ヒトツであり、前世で耐えなかったヒトツ、ヒトツ。償わず、耐えなかった分だけそのゴツゴツは度合いを増して産まれ、逃げる事が出来ないように自らの意思では決して動けない。そんな中を、雨や風や川の流れとかによってゴツゴツという形で現れているその欲望を強制的に削られるという日々が、やがて砂となって風化するまで延々と続くの。身体を削られるという痛みを伴いながら、ね。前世の行いに対しての最上級の罰って感じ」


「それは………とても苦しそうな毎日なのです」


「うん。そうだよね………あ、カットベルは生まれ変わりをどう思うの?」


「アタシは………生まれ変わってほしくないです。父殿と母様が既に生まれ変わりを果たしてこの世にいらっしゃるとするならば、もうアタシには父殿も母様もいないという事になってしまうです。亡くなってしまう事で父と母という大切な役割を放棄されてしまわれたら、生きている側としましてはとても悲しい事なのです。ですからせめて、アタシが死ぬまでは父殿と母様でいてほしいですし、アタシもそうありたいですし。その後でしたら、そうですね、生まれ変わってしまったとしても仕方ないのかなと………って、こういう考えは我儘ですよね。アタシはきっと、信じられる誰かに甘えたいのだと思います。だってアタシには、父殿と母様しかおりませんでしたから。失ってしまってから今に至るまでの凄い長い時間を、ずっと独りぼっちで生きてきたですから………」

そう言ってカットベルは、寂しそうに微笑んだ。


「あのさ、物事という事象や行為ってマルとバツで構成されててさ、バツだけしかない事は沢山だったりするけど、マルのみって案外と無いでしょ? マルだと思った事でも、実は誰かを傷つけるバツだったりするから。勿論その逆もあるけどね。だからさ、結果としてのマルかバツより、どんな思いでそれを選択したのかが大切なんじゃないかな。カットベルの想いが愛情なのか欲望なのかは、どんな思いでいるのかによってガラリと違ってくると思うよ」


「どんな思いで、どんな思い………」


「うん。カットベルはさ、傷つけたいワケではなく、困らせたいワケでもないでしょ?」


「はい。勿論なのです」


「大切だと想ってるし、必要だと思ってるよね?」


「はい。そうなのです」


「だったらきっと、嬉しいと思ってくれてると思うよ。大切だと想われてて、必要だとも思われててさ、幸せを感じないワケがないもん。そう思わない?」


「コータロー………」

 清水坂がそう言って微笑むと、月の光に照らされたその柔らかな表情がカットベルの心を優しく包み込んだ。


「大丈夫。何の問題も無いよ」

 その心に笑顔が宿りますようにと願いながら、清水坂は力強くそう告げた。


「はい………アリガトウなのです」

 心の底から元気を取り戻したような気がしたカットベルは、安堵を宿した笑顔を見せた。


「オレさ、まだ大して生きてないし、だから人生経験なんて語る程のモノなんて何も無いんだけどさ………でも、思うんだよね」


「是非、聞かせてくださいなのです」

 つい先程までの穏やかな表情とは打って変わり、清水坂の顔つきや声までがキリリとなったので、カットベルは姿勢を正して次の言葉を待った。


「問題………って、たぶんいつだってそうなんだろうけど、自身の内にある汚れた欲望の達成の為に誰かを傷つけちゃう事なんだと思う。その誰かを傷つける事で満たそうとする。その誰かを傷つけてでも満たそうとする。問題と言うよりも、決してシテはならない事かな………」


「………はい」

 清水坂が発する言葉を、カットベルは真剣に受け止める。


「でもさ、こんな当たり前の事がさ、結構自粛出来ないんだよね。たしかにさ、それによって欲求が満たされるし、満足感とか充足感みたいな実感を得られるもんね」


「………はい」


「でもさ、そこには必ず恨みや憎しみという感情に変わる悲しみが産み落とされてて、表裏一体、ワンセット、切っても切れない間柄、それがまた違う誰かに降りかかったり、襲いかかったりしてさ、巡り巡って増えに増えて、争いに拡大してしまう。故にたぶん、傷つけるって事はさ、傷つく事へのフラグ立てでさ、傷つく事にしかならないんだよね………」


「………はい」

 清水坂が選びながら発したその言葉の中の幾つかは、カットベルにとっては難しい日本語であった。しかし、言おうとしている事がなんとなく理解できた。そして、その声が心地良かった。


「この世には様々な罪があるけど、ひっくるめて言えば罪はそのヒトツ。それさえしなければ、争いなんて悲劇は永久に無くなるかもなのにね………」


「………はい」


「争いをする為に産まれて来たんだとしたら、生きるって何だか悲しいね………」


「………はい」

 悲しい表情で呟くようにそう言う清水坂を見て、カットベルはなんとなく救われたような、癒されたような、そんな心持ちがした。


「そこが居場所だなんてさ、そんなの悲しすぎるよ………」


「………はい」

 カットベルは思う。こうして並んで穏やかな時間に身を宿すという幸福を、清水坂は与えてくれていると。清水坂の言う居場所という空間が清水坂の横であったら、傍であったら、何が起ころうと幸せが消えて無くなるという事にはならないだろうと。


「なんて、生意気に語っちゃいました」


「いいえそんな、生意気などではないですよ」

 自嘲する清水坂に、カットベルは身体ごと彼に向けて言う事で、そんな事はないという意を示した。自然に、肌が触れ合う距離になる。


「ありがと………でもね、正直に言うとオレさ、カットベルに偏見を持ってたんだ」

 至近距離と表現しても過言ではない程の眼前でカットベルに見つめられているという事に多大な照れを感じながらも、清水坂は真摯に晒け出す事で応えるという気持ちを更にもう一歩、形にしようとした。


「偏見? それは、どのような………」

 思惑なく至近距離に到達してしまって多大な照れを感じていたカットベルではあったが、かと言って手放したくはない状況であったので、そのまま続きを聞こうと思ってそう言ったのだが、その声色はまるで、偏見を持たれていた事に不安になっているようであった。


「ゴメンね、カットベル………」

 なので清水坂は、傷つけてしまったと思ってすぐに謝った。


「え、あ、いえ、その、こちらこそゴメンなさいなのです。気になさらないでください」

 それに気づいたカットベルは、余計な心遣いをさせてしまったと感じてすぐに謝った。


「でも………」


「ホントに気になさらず………あ、あの、それで、偏見というのはどういう?」


「え、あ、えっと………オレね、所謂ところの吸血鬼という存在をさ、実在する者だとは認識してなかったから、だから小説とか、漫画とか、映画とかドラマとかに見る架空の情報を当てはめようとしてたんだ」


「それなら、それは仕方のない事だと」


「ううん、違うよ。だって、目の前にカットベルが居るんだもん。実際の実在の眼前のカットベルから感じる事が真実なのに、架空の方を正解と決めつけて、それで身勝手に違和感を持ってたんだ。そうじゃなきゃオカシイ、だから間違ってる、ホントは絶対に違う筈だ、カットベルの言う事は嘘だ………って、ね。カットベル、ゴメンね………」


「いいえそんな………気になさらないでくださいなのです」

 言わなければ判らない事なのに正直に告げて詫びる清水坂に、カットベルは誠実さと優しさと不器用さを感じた。そして、心が温められた。


「オレ、気づけて良かった。間に合って良かった。傷つけるところだったよ………って、間に合ってない?」

 そう言って清水坂は、更に申し訳ないという表情を見せた。


「えっ、あ、そ、その、ま、まま、間に合いましたですよ。ですから気になさらなくてもイイですよ、コータロー。全然なのです」

 清水坂と出逢えて本当に良かったと、カットベルは心の底から思った。


「でも。ゴメンね、カットベル………」


「えっと、あ、何の問題もない、なのですよ」

 尚も謝る清水坂に、カットベルはそう言って悪戯っぽく微笑んだ。


「ありがと………カットベルは優しいね」

 その笑顔に、清水坂は救われたような心持ちになった。

「コータロー………」はう、う、こ、これは、いつか観たあのドラマの、あのお二人のように、ここで目を閉じたら、キ、キキ、キスという行為を、その、シテもらえるのかも………それで、それで、その後は、ギュッて、ギュッてシテもらえて、で、で、はううコータローみたいな展開になってですね………どどどどうしましょう! どうなるのかなアタシ、でも、でも、アタシはまだ、コータローの妻なのですから、それを望んでも望まれても、イイのですよね、はうう、う………キ、キキキスですよぉー。

 眼前すぐに清水坂が居るという状況をこの時改めて感じたカットベルは、見つめ合うこの状況に際していつか観たドラマを思い出した。


「………ん?」………カットベル?


「どぉおおおー」あうう何というはしたない事を………ですがアタシ、やっぱり、コータローと………恥ずかしいです。

 もうすぐフルスロットルですといった感じでめくるめく桃色な事を期待していく自身に気づいたカットベルが、そんな自身へ羞恥を感じて小さく叫びながら素早く俯いた。


「えっ?」何か言いたい事とか………あ、そういえば長居しちゃってるよね、俺。何か用事とかあるのかな。

 しかし、至近距離であった為に小さい叫びはさほど小さい叫びとはならず、清水坂はその挙動を見るに至って少し逡巡した。


「あう、う、う………」あ、これはもしかして、顎のあたりに指を添えられて、顔を優しく上げさせられて、それで暫し見つめ合った後、目を閉じて、それで、それで、はううう………そうですよね、コータローから望まれての事であれば、それならばアタシ、はしたなくなんかないですよね。

 キスの更に先まで期待しそうな勢いだという事を表情から清水坂に悟られたらそのどれもが泡と消えて終わりだと、大袈裟に推測したカットベルであったが、この体勢はそれはそれで違うドラマで観たシーンとリンクしてしまうに至った。故に自ずと期待が高まる。


「………」

 上目使いで清水坂を窺うカットベル。



 が、しかし。



「………?」

 清水坂は腕時計を見ていた。


「………え?」

 ブンという音が鳴るのではというくらいの勢いで、カットベルは顔を上げた。


「もうこんな時間なんだね………遅くまでゴメン。そろそろ帰ろうかな」

 続けてきた会話が平和な終息に落ち着いたので何気なく時刻を確認していた清水坂は、思惑なく期待をスルー、悪意なく雰囲気をブチ壊した。


「どぅおおおぉーっ!」

 カットベルがおもわず叫ぶ。


「え、ど、どうしたの?」

 驚く清水坂。


「え、あ、いいいえ、そ、その、なんでもないです………」

 非常に残念ながら清水坂にはその気はないようだと悟ったカットベルは、それはそれとしてそれにしてもまだ帰らなくてもイイのに………と、心の底から寂しく思った。


「あ、そうだ。カットベルも一緒に来ない?」

 と、何気なくといった感じで清水坂が訊いた。


「え………イイのですか? ホントにイイのですか? ホントですか?」

 その途端、カットベルは心の底から喜んだ。


「うん。たぶんなんだけど、今夜か明日あたりには親父達が帰ってくると思うんだ。だから、みんなに紹介するよ」

 それで、カットベルがウチで暮らせるように頼んでみようと清水坂は考えていた。教団からの刺客らしき怪異の者に襲われたばかりではあったが、ふと思いついた案だった事もあってか、その再びの危険性などは全く考えてはいなかった。


「はい! でしたら、あっ………」

 しかし、カットベルは違った。喜んですぐ、その危険性が脳を支配した。なので、表情もすぐに曇っていった。


「………カットベル、どうしたの?」

 突然の変化に戸惑った清水坂は、俯くカットベルを覗き込むようにしてその理由を訊いた。


「迷惑をおかけしてしまうかもしれないのです………アタシのせいでそうなったばかりですし。今はまだ知られてはいない可能性の方が高いとは思うのですが、きっと知られてしまうかと………」


「あ、そっか。でもそれなら………」

 身内に危険が及ぶかもという事に、清水坂は漸く気づいた。どうやらカットベルの事しか考えていなかったらしく、その案を却下するつもりもないようで、その対応策を考えようとした。


「とにかく、コータローを人間に戻す事が先決なのです。色々と準備がありますので、明日の夜まで時間をくださいなのです」


「………うん。じゃあ、また来るね」

 この廃校で寝泊まりするのは頗る大変だろうし、やはりウチで生活するのも一考なのではという考えから誘った清水坂ではあったが、カットベルの様子からして急にだったし色々と準備もあるだろうし、教団やらの対応策をしっかり考えて安心してもらった上で日を改めて進言しようと思い直し、その話題を収める事にした。


「はい。では明日、此処でお待ちしております」


「うん」


「あ、あの、コータロー」


「ん?」

「………アリガトウなのです」

「え、いや、そんな………こちらこそ、ありがと」


「では、また………」


「うん。おやすみなさい」


「………おやすみなさいなのです」

なんとか笑顔を見せる事に成功したカットベルではあったが、その心では、このまま清水坂に全てを打ち明けて甘えてしまいたいという思いがあった。しかし、それはあまりにも身勝手で我儘な事だと自身の想いを強く抑え込む。


 愛する者が吸血族である事を望まない場合、

 掟に従い死をもって償う事とする。


 カットベルにとって、清水坂を人間に戻すという事は、自身の命を引き換えにするという事であった。しかも、清水坂に殺されなければならない。行き掛かり上こうなってしまったとはいえ、カットベルは清水坂に恋をしている。ならば、掟は適用される。それに、その行き掛かり上とは自らが撒いた事である。故に、甘えてはならない………と、カットベルは自身を律した。命を要する事だと清水坂に告げれば、きっと清水坂なら途端に諦めてくれるだろう筈なのに。


「コータロー………」

 そんな過酷すぎる掟なんて守らなくても良いではないか………とは、思わなかった。清水坂の望みであったから。愛する者の望みであったから。そして、人間からしてみれば、怪異の者など憧れでもなんでもなく、忌み嫌う怪物だから。

「コータロー………」人間として産まれていたら………ううん。コータローは優しい人だから分け隔てなく接してくれるですが、だからといって甘えてもイイという事にはならない………諦めるです。諦めるですよアタシ………。


 こくり、一つ頷く。


「………コータローの、望むようにするです」これが、運命なのです。

 清水坂の後ろ姿を見つめながらカットベルは、ぽつり。と、自身に言い聞かせるように呟いた。



 ………。



「吸血鬼ってやっぱ、凄い能力を持ってんだなぁ………」

 清水坂はその頃、ハッキリと見える暗闇を自宅に向かって歩きながら我が身に宿る能力に改めて感嘆していた。ポンッと軽く跳ねてみただけで五mほど跳び上がり、少し駆けてみれば五十m先まで僅か三秒ほどだ。


 こんな身体能力が必要な生活って、何なの?


 と、あれやこれや考えながら、試してみながら、そして遊びながら歩き続けていると、何者かが暗闇の奥の方で此方を見据えて立っているのが見えた。


「………ん?」

「………あ!」


 清水坂がその気配に気づいたのと殆ど同時に、フードのついた黒衣を身に纏った小柄なその何者かも清水坂に気づいたようで、清水坂に向かってタタタタッと駆け寄ってきた。


「………?」

 その様子を見た清水坂は、その場に立ち止まり、ほぼ無意識に身構えた。


「夜分遅くに失礼します。貴方は清水坂幸太郎君ですか?」

 清水坂の正面すぐ先まで駆けてきたその何者かは、息が上がった様子なく穏やかに、そう言って右手を差し出した。


「………誰ですか?」

 差し出されたその右手には一瞥もくれず、清水坂は努めて冷静に質問を質問で返した。


「友好の証のつもりでしたが、そうですか………失礼しました。私はとある高名な教団に所属している者で、スフィア=ソラージュ・ミソラリフと申します。以後お見知り置きを」

 それはそれは残念そうに差し出した右手を黒衣の中に戻したスフィアは、仰々しく自己紹介をした。


「わざわざ駆け寄ってきた上でそんな大袈裟な態度を見せるって事は、オレが誰なのか確実に知ってんでしょ? で、夜分遅くに失礼するようなご用件とは何ですか?」

 とある高名な教団とは詰まるところ、あの大男が話していた教団の事なのだろうか………と、警戒心を強めた清水坂は、意識して冷やかにそう返した。見かけで判断するのは宜しくない事ではあるのだが、黒衣に身を包んでいるものの小柄できっと華奢なスフィアを、さほど脅威とは感じていなかった。


「尊敬の念を表現したつもりだったのですが、大袈裟でしたか………」

 悲しそうにそう言うと、スフィアは漸く黒衣のフードを後ろに捲くった。

「それは失礼しました………」

 そして、詫びの気持ちを表した。フードを捲くって露わにしたその顔は、ハリウッド若手女優のような、けれど幼くも見える、年齢不詳な可愛らしい外見の女性であった。


「ですが、あの闇夜の悪魔を手なずけたお方

「ですから」………用件はなんですか?」


 スフィアの言葉を遮って、清水坂が本題を促す。ですから、の部分が重なったが、清水坂の口調はスフィアのそれとは違って穏やかではなかった。闇夜の悪魔という言葉をカットベルに対する侮蔑だと捉えて不快に感じたのだ。


「そ、そそそ、そうですよね………」

 スフィアは気圧されて逡巡した。人間に圧倒されるとは………と、思いながら。


「………」

 一方で清水坂は、それ以上の更なる何かを考えていたワケではなかったので、静かに待ちの姿勢をとった。


「………」

 実はスフィアは、大男がカットベルと清水坂を連れ出したのを見ていた。そこまでは同行していたのだ。しかし、その後の連絡が途絶えていた為、こうして確認しに来たのだ。生存していた場合の任務を携えて。


「………」

 スフィアが未だ何の行動も起こさないので、もう少し待ってみてもこのままであれば帰ろうかな………と、清水坂は呑気に構える事にした。


「………」私が自身を教団の者であると告げても、清水坂君は然したる反応を見せない……けれど、こうして存命しているという事からしてもあの悪魔によって彼等の任務は失敗に終わったのは明白です。もしかしたら、眼前に居る清水坂君も何らかの活躍を見せたのかもしれません。幸いにしてどうやら、今この場所にあの悪魔は居ないようですけれど、私自身の行動次第ではこの先、同じ運命が待ち受けているかもしれませんね………ごくり。


「………あの、スフィアさん?」

 痺れをきらした清水坂は、止まった流れを進めようとした。


「………」ですが、清水坂君は非力な人間族の者です。そして、此処にあの悪魔は居ない。つまり、利は私にある。お見受けしたかぎり、清水坂君は優しそうなお人ですし………あっ、い、いいえ、騙されてはいけません! 彼はあの悪魔の仲間なのですから………。


「スフィアさぁ~ん?」

 反応がないので、清水坂はもう一度、今度は大きく呼びかけた。


「えっ? えっ?」

 清水坂の試みによって、スフィアは現在と再びスイングし始めた。


「………帰ってもイイですか?」

 待ちの姿勢を崩してはいなかった清水坂ではあったが、だからと言って待ち続ける理由も無かったので、おもいきって告げてみた。


「え、あ、い、いえ、あの、すす、す、すみませんでした! ふううぅ………あああの、その、直ちに本題に入りますから今しばらく!」利は私にあるというのに私はどうしてこうも………。

 自身の臆病ぶりを胸の内で嘆きながらも促されて漸くスフィアは、与えられた任務を実行しようとした。


「………そうですか」

 やっぱりそうだよな………と、思いながら清水坂は、待ちの姿勢を続けた。


「はははい………で、では、清水坂君。貴方は何故あの悪魔の、あ、いいいえ、その………そう、あの者の、味方をするのですか?」

 気持ちを切り替えたスフィアは、清水坂に問いかける。


「………」

 そんなスフィアを見て、タチの悪くない教団の者もいるのかも………と、清水坂は思った。


「どうしてですか? 清水坂君、お答えください」

 スフィアの表情と声色が、徐々に重々しく変わる。


「それは、どういう意味?」

 スフィアのそれを感じた清水坂は、ほぼ無意識に気持ちを引き締めた。


「あの者は人間の………いいえ、全ての者の敵なのですよ!」

 清水坂を見上げながら、スフィアが続ける。


「敵、ですか………」

 随分と急展開ではあるものの、その表情や声色からしてスフィアは何かしらのスイッチが入ったようだと感じた清水坂は、その先に何が待ち受けているのか逡巡しながらも彼女の挙動を視界に捉えておこうと一歩だけ後ろに下がり、彼女のほぼ全体をその瞳に映した。


「どうなのですか? さあ、お答えください!」

 清水坂が一歩下がったのを見て、気圧されて後ずさったと思ったスフィアは、イニシアティブは自分が握っていると感じた。

「どうなのですか!」今度こそ失敗しないぞ。私は無能なんかではないんだ。褒めてもらうんだ。認めてもらうんだ。私にだって出来るんだ!

 スフィアの胸の内に、様々な感情が浮かぶ。


「そう言われても………」

 スフィアの………と、言うよりも教団の意図が全く読めなかった清水坂は逡巡が強まったものの、黒衣の奥でスフィアの左腕がスーッと動いたのをその視界に捕らえていた。その途端、何かあると直感する。


「どうして清水坂君があの悪魔の味方をするの? その答えによっては此方にもそれなりの考えがあります!」

 余裕が生まれたスフィアは、清水坂の意識を危ぶむ事なくそう捲し立てるや否や黒衣で隠していた左腕をスッと抜き出し、その左手で握っていた拳銃を清水坂の喉元に押し当てた。



 ………つもりだった。



「は、りゃ?」

 その筈であった………。


「質問はゆっくりお願いします」

 その拳銃をスフィアの左手ごと掴み、その銃口を夜空に向けて逸らしていた清水坂は、顔色一つ変えずにそう告げた。しかしその内心では、素早かった筈のスフィアの挙動が完全に判り、危険回避を信じられない速さで完遂してしまった自身に、強く驚いてもいた。


「えっ? えっ! も、もしや、まさかそんな………もしかして、す、す、既に貴方は!」

 そんな清水坂の口内から牙らしき小さな犬歯が見えたスフィアは、脳で推測していた予想が予測すべき新たな想像に大きく塗り替えられ、書き直されて更には修正されていき、それによって多大な動揺と膨大な恐怖が生まれ、声だけでなく全身がガタガタと戦慄する。


「こんな物騒なモノはポイッと捨てちゃいましょう」

 しかしその一方で清水坂は、怖がらせるのが目的ではなかったので、優しくそう言って拳銃のみを掴み直し、握る手に更なるチカラを加えてみた。



 ばきばきっ!



 するとそれは、その手の中で呆気なく元拳銃となり、その残骸の幾つかが地面に落ちた。


「…………」

 やっぱ吸血鬼って凄いな………と、清水坂は心の中だけで驚きの声を上げた。


「ひ、ひっ、ひぃいいっ!」

 眼前間近でその光景を目撃するに至ったスフィアは、戦慄が許容を越えてヘナヘナとその場に崩れ落ちた。


「え………あの、大丈夫ですか?」

 元拳銃の残骸をポイッと捨てた清水坂は、予想外の反応を見せるスフィアを優しく抱き起こす。


「えっ、と………」

 清水坂の予想外の優しさに、スフィアが逡巡する。


「何か、あの、ゴメンなさい………」

 驚かせるつもりのなかった清水坂は、スフィアとの関係性を忘れて素直に謝った。


「いえあの………優しいんですね」

 久しく受けていなかった優しさを貰えて嬉しさを感じたスフィアは、任務を忘れてぽつりとそう言った。


「………」

「………」


 その暫しの後。



「あの………質問しても宜しいですか?」

 先に話しだしたのはスフィアだった。


「え、あ、はい………」

 清水坂が肯定の意を示す。


「清み、ず、あ、あああの………こ、幸太郎君は、どうしてあの者の味方をするのですか?」

 スフィアが訊ねたその質問は、先程のそれと同じであったが、その心持ちは違う感情だった。


「えっ、と、それは………」

 しかしながら、清水坂はそれに気づく事なく、先程の質問の再開を意味しているのだろうと額面どおり受け止めた。


「眷属になられたのですか?」


「けんぞく? あ、眷族ね。眷族か、眷族、なのかな………」

 眷属と問われたのだが眷族と受け取った清水坂は、それが考えた事もなかった事だったので途端に逡巡した。


「襲われたんですね?」

 スフィアはそう考え、そうに決まってますよ気の毒に………と、いう表情を浮かべる。


「あ、いいや、それは違くて………」

 清水坂が即座に否の意を示す。


「なんと! では、自ら?」

 意外そうに、スフィアが返す。


「それが………それも違う」

 清水坂は更に逡巡する。


「違う? では、他にどのような理由があると?」

 他にどのような理由があるのか測りかねたスフィアが訊く。


「何とも複雑な状況で………」

 説明するべきか、清水坂は迷う。


「幸太郎君は、眷属として生きるおつもりなのですか?」

 スフィアが更に訊く。


「ん? あ、ううん。人間に戻してくれる事になってる」

 清水坂が何気なく答える。


「………え? 人間に、戻す?」

「う、うん………」



 清水坂の何気ない一言で、

 ………空気が、変わった。



「人間に戻る方法をご存知ですか?」

「いや、知らない………」


「幸太郎君、貴方はあの者の手によって吸血鬼になってしまった、と………そうですね?」

「うん………そうだけど」



 著しく、重々しい方向へと。



「それなのに幸太郎君を人間に戻すと約束した、と………でしたら、あの者は掟に従って死を選んだという事になります」


「掟に従って、死ぬ?」


「はい。使用するのは、あの者の心臓ですから」


「え、心臓を?」


「そもそも、その種によって大なり小なり差異があるというだけで、潜在している能力の程度はどの種もさほど変わりありません。これは同じ種でも言える事なのですが、能力を限界まで具現化するには、それに耐えうる肉体と、それを抑えたり引き出したりする心臓と、正しく操作する脳が必要となります。さて………心臓は骨髄で生成された血液やエネルギーとなる養分の体内各所に運ぶ原動力であり、調整をするという働きもします。幸太郎君はあの者の血を宿しておりますが、あの者の血を生成するのはあの者の骨髄です。なので、幸太郎君が吸血族の者でいる為には、これから先も暫くは定期的にあの者の血を取り込む必要があります。逆に取り込まないでいますと、幸太郎君の骨髄がそもそもの幸太郎君の血を再び生成していきます。しかし、あの者の血が消滅していくワケではありませんので、あの者の血を取り除かなければ後々、新たに生成されてしまう幸太郎君の血と衝突してしまい、拒絶反応を引き起こす事態になってしまうのです。ですからそれを回避して尚且つ人間に戻る、つまり幸太郎君のそもそもの血で満たすには、あの者の血を取り除かなければなりません。そこで必要となるのがあの者の身体に流れる血液です。血液の型を丹念に丹念を重ねて詳細に調べ上げ、なるべく正確に取り除く必要があるからです。ですが、あの者がそれを受け入れる筈がありません。掟に従って死ぬなんて事、する筈もありません。ですから苦しんでいるお方が後を絶たないのですから。つまり………あの者には死んでもらわなければならないのです」

 長々と説明を………いいや、誘導を試みたスフィアは、曇った表情で清水坂を見つめ続ける。


「ちなみに、その作業は我ら教団のドクター達が責任を持って致します」

 そして、そう締めくくった。


「………」

 清水坂は著しく動揺した。



 が、しかし。



 話し事態には惑わされておらず、動揺したのは掟に従うという言葉にであった。そもそも吸血鬼に限らず怪異の者の実在について全く信用していなかった清水坂である。実在すると判った現在であっても、オカルトめいた話しに誘導されてしまうほどまだその全てを肯定的に捉えてはいなかった。故に、掟に従って死ぬというのはどういう意味なのだろう? それ自体は本当の事なのだろうか? と。


「あの………ご理解いただけましたでしょうか? 幸太郎君が人間に戻る為には、あの者は死ななければならないという事なのですよ? 何度も申し上げますが、そのような事をするワケがありません! 判りませんか? あの者は幸太郎君を言いくるめて利用するつもりなんですよ! 私はそれを危惧した上層部の者に派遣され、こうして会いに来たんです。幸太郎君! 目を覚ましてください! あの者は闇夜の悪魔と恐れられる吸血鬼なんですよ!」

 清水坂が動揺していると見たスフィアは、一気に捲し立てる。そこには、清水坂を敵にするのが嫌だったからという個人的な思惑も色濃くあった。先程の優しさが心に住み着いていたから。


「………」

 清水坂は思考する。カットベルの真意を。しかし、答えが出ない。糸口さえ浮かばない。


「そ、それともう一つ。これも上層部から伺った話しですが、あの悪魔は人間を主食としています」

 スフィアは尚も続ける。振り向かせるきっかけを作る為に。


「え………」

 これには清水坂も、額面どおりの動揺を見せた。


「最近この周辺で失踪者が出たと聞きました………理由は明白ですね?」

 動揺が強まったと見たスフィアは、更なる誘導を試みる。


「………」

 清水坂の脳が勝手に推測を描き、清水坂の心を掻き乱していく。


「更には、同族までも食糧としているようです。ですから皆が恐れ、忌み嫌うんです! ですから退治しようと動いているんです! これは幸太郎君だけの問題ではないんです! 幸太郎君! 我々と共に闘いましょう! 幸太郎君は今や、あの悪魔と同等の能力を有しているのですから! 是非、私、いや、我々と」

 スフィアが最後の決めゼリフで結ぼうとした、その時。



「コータロー!」

 カットベルが駆けてきた。



「無事に帰れたかと、もしや襲われてはいないかと、不安で心配でこうして追いかけてみれば………コータロー! この女は誰なのですか! アタシという伴侶がいるのにも関わら、う、あううぅ………」

 清水坂とスフィアの間で交わされていた会話の内容など知る由もないカットベルは、自分以外の女性と………と、いうだけで嫉妬心に火がつき、涙目で清水坂に詰め寄った。しかし、人現に戻すと約束した以上、もはや自分は清水坂の伴侶であると声高に宣言してはならない立場という悲しい事実に気づき、その途端に沈んだ表情になって口ごもった。誤解したままであったから。


「カットベル、あのさ………」

 訊くべきか、訊かざるべきか、清水坂は逡巡する。


「なんでもないのです………」

 カットベルはしょんぼりと俯く。


「も、もも、もしや、闇夜の悪魔!」

 スフィアがここで漸く気づく。想像していたカットベル像とは違っていたが、本物の登場に激しく戦慄した。


「ん?」

 闇夜の悪魔という言葉を耳にしたカットベルが、清水坂の横で激しく怯えているスフィアを見据える。


「オマエは………」

 そこで気づく。黒衣の胸のあたりに刻まれた教団の紋章に。その途端、その表情がスーッと変わる。


「………コータローに、何をするつもり?」

 そして、凍えさせるような瞳でぎろりと睨みつけながら、凍えさせるような冷たい声を浴びせた。


「うううぅ………ひ、ひと、ひひ、人喰い悪魔! オ、オオ、オマエなんか!」

 生きた心地が失せていくのを感じながらも、スフィアはカットベルに毒づこうと頑張った。


「スフィアさん!」

 が、清水坂がそれを制す。


「幸太郎君………」

 制された途端、スフィアは清水坂の背中に隠れた。


「コータロー、どうして………」

 その様子を見てカットベルは、悲しい表情で清水坂を見つめた。


「ねぇ、カットベル………見逃してあげてくれないかな。教団の人間だけど、この人は仇とは違うでしょ?」

 清水坂は、穏やかにそう願った。


「コータ、ロー………判りました。コータローの言うとおりにするです」

 カットベルは素直に従った。


「えっ………」

 その態度を見て、自身を妻だと言っていた事を思い出したスフィアは、眼前のそのカットベルに強い違和感を抱いた。


「ほら、早く」

 しかし、恐怖心が満ちていたので、清水坂にそう促された途端に一目散で走り去っていった………人間離れした速さで。

「………」

 それを静かに見送った清水坂は、少ししてその姿が見えなくなるとカットベルに向き直り、再び視線を合わせた。

「それじゃあ、カットベル………話しでもしながら歩こうか」カットベル………違うよね?

 そして、穏やかに話しかける。


「はい………ですが、行き先はどうします?」先程のあの者から、何か聞いたですね。


「そうだな………誰も来なさそうな所がイイんだけど」スフィアさんが話してた事なんか、嘘だよね?


「それでしたら………ヒトツ、思い当たる場所があるです」きっとそれは、アタシを陥れるような事なのでしょうね………。


「それなら、そこにしよう」カットベルはそんなんじゃないよね?


「それでは、何のお話しをしながら行くですか?」そうであるのなら、話しは早いかもなのです。ですが………コータローはどう思いましたか? そんなヤツだったのかと思いましたか?


「そうだなぁ………あ、そうだ。愚かな人間の歴史、なんてどう?」俺は……カットベルの言う事を信じる。


「愚かな人間、ですか………判りました。それにしましょう」これで終わりなのです………さようなら、コータロー。


「「………」」

 沈黙したまま、暫し見つめ合う清水坂とカットベル。大切な思い出となりつつある様々な記憶が脳裏を代わる代わる占拠し、その都度その都度に宿る感情がどうしようもなく心を刺激する。短い間に経験した決して軽くはない想い出の数々と、それぞれの想い。それ等が、複雑に絡み合う。


「それじゃあ、行こうか………」

 その沈黙を破ったのは、清水坂の方であった。


「………はい」

 それをカットベルは、穏やかな微笑みで受け入れる。


「「………」」

 清水坂とカットベルはこうして、廃校へ向けて静かに、足を踏み出すのであった。


 ………。


 ………。


 ………。




              第三幕) 完

              第四幕へ続く

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