第3話 みなも
8月が始まった。連日の猛暑と冷房の寒暖差にやられ、先日息抜きに行ったライブで風邪をもらったらしい。
元々避暑として予定していた河口湖旅行に来たはいいが、激しい咳と鼻詰まりに苦しむ羽目になった。
近くに病院はなく、そもそも電車とバスを乗り継いで来たため、車もない。ひとまず食欲はあるからバーベキューは楽しめた。しかし、いつものように会話を楽しむ元気はなく、比較的沈黙が多かった。
友人達も私の日々悪化する病状を心配し、特にノリが悪いなどの悪態を吐くことは全くなく、むしろあれこれと気を遣ってくれた。
2泊3日全行程で晴れたが、夏らしい通り雨にも見舞われた。さっと激しい雨が過ぎ去った後、夕方の夏らしい空に虹がかかった。
私は新鮮な空気を療養として吸うために、夕方は湖畔を歩いた。陽が傾く中で水面が輝き、野鳥や魚の動きでときどき歪んだ。
しんとした自然の中にいると、都会の忙しなさを忘れる。そして有り余る時間の中で、江藤さんのことを思い出した。
休暇に入り、暫く見かけていない。会いたい。しかし、そう思って彼の眼差しや表情を思い出そうとすればするほど、瞼の裏の彼は滲んでゆき、日に日に輪郭から顔の細部まで分からなくなっていった。
この現象に苦しみ、少しでも、私の創造の彼で良いから一目みたいと、私は目をきつく閉じたり、水面に意識を集中させ、そこに彼が映るように願った。
旅から戻ると熱が出た。回復するどころか、発症から1週間経ち、非常に辛い状態になってしまった。
私は休暇に追加する形で休みを取り、小康状態になり、家事を一通りこなして和樹の世話にならないようになってから復帰した。
あまりに久々に会社に出ることにやたら緊張し、そっとドアを開けた。入ってすぐに視界の左端に彼の姿がうつった。
ずっと切望していた人が目の前にいた。私には目もくれず働いていたが、それでも十分だった。反対側に回り、私が席に着くと、ようやく久々に出勤した私に気づき、少し視線を感じた。
夏休みを取る人が多い時期で、あまり人数はいなかった。静かな部屋にキーボードを打つ音や、誰かが歩くたびに床が鳴る音がする。
滲んで消えかけていた彼の輪郭がはっきりと戻り、私はこの機会を逃すまいと、遠巻きに彼を見つめた。
鍛えられた程よい筋肉質の体躯、日焼けした肌と整った指先、男らしい喉やすっと高い鼻筋、薄い唇が時々描く綺麗な弧、切れ長で笑うと細くなる目。
遠くから見ているのに、まるで視力が良くなったかのように、細部までしっかり印象づいた。
数日前の湖畔の水音が耳にこだましている。朦朧とする意識の中で、水面に広がる模様、切ない音楽に呼応するかのように募る彼への思い。
思い出すだけで涙が滲んだ。職場にいることを忘れてしまいそうだった。目線の先に彼がいること、それがかろうじて私を現実に引き止めていた。
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