烏男はゲロゲロと啼く 

春之之

前編

 お客様は神様なら、店員様は何様になるのだろう。神の下は誰なのだろう。人だろうか。

 ならば、その神様とやらは平日人になっているのだろうか。人と神のハイブリット。いやはやヘラクレスかよ。すげぇな、お客様。あるいはギルガメスか? ギルガメスは三分の二が神様なんだったか。ならば週3しか働いていない奴の方が神様なのか? すげぇなおい、お客様。

 そもそも、神の方が賢い、上なのだろうか? 神ってむしろ俺らにお恵みをくれるありがたい存在ではなかっただろうか。いや、それも違うか。むしろ試練を与える存在なのか。うん。お客様は神様だわ。あいつら迷惑をかける存在なの申告しているのか。ハハハ――。

「ハハハ――」

 三条大橋で缶コーヒーを飲みながら、周りの騒がしさに嫌気を刺して溜息を吐く。

「何考えているんだろう。俺……」

 暗くて見えないけれど、耳を澄ませば、酔いつぶれたジジイ達の叫び声の奥に、鴨川のせせらぎが聞こえている。その音だけが心地良いのにおっさんたちや若者の叫び声がうるさい。酒飲んだ程度で何をそんな楽しそうにしてやがる。嘔吐物はエチケット袋に出せって習わなかったのか。あれ? 俺は習ったっけ。そういった授業はなかったな。あれ? そっか。なかったか。

「何考えているんだろう。俺」

 また大きく溜息をついた。まだ残っている缶コーヒーを煽る。

 しかし、それもなくなって、はぁと溜息まじりに橋の手すりに缶コーヒーを置く。

 昼間に飛び回っている鷹や早朝にいる烏はどこに行ったんだろうか。あいつら、サンドイッチばかり取らずに、ここらのおっさんのカツラでも取って帰ってくれないだろうか。烏もこの有象無象の人間どもの雄叫びが嫌いなのだろう。

 恐れられているよりも鬱陶しがられている気がする。

 後ろからどんちゃんどんちゃんと騒ぎ声が響く。五月蠅い。前のめりになって、目を閉じる。叫び声の奥に聞こえる川の流れに耳を傾ける。

 その様子を見て、酔っ払いのおっさんが俺の肩をさすり始めた。酒臭いからやめてほしい。

 俺は目を開けて、その相手に「大丈夫ですので、ですので」と対応して、引きはがす。

 そして、いなくなったのを確認すると、また川に耳を傾ける。

 金曜日ともなると、この町は活気にあふれる。土曜日は大半の会社がお休みだ。土曜日も働くのはフリーターや、不動産、休日に来る神様をお迎えする者たちのみ。人から神に天上ったおっさんたちによる凱旋が、この河原町では繰り広げられている。多くの人を踏みにじる、荒ぶる神の凱旋が始まるのだ。

「先輩。そろそろ戻らないと休憩時間終わりますよー」

 後ろから言葉が聞こえる。振り返ると、見知った顏の青年が微笑みながら俺の顔を見ていた。

 腕時計を見ると、休憩時間がまもなく終わろうというころだった。

「大丈夫ですか?」

「うん。大丈夫だよ。坂上くん」

 俺は後輩に微笑み返して、橋に置いていた缶コーヒーの空き缶を持って、二人で現場に戻る。

「いらしゃすぇー」

「いらっせー」

「ありがとうどぜいもーす」

「ありがとうござまーす」

 もはや自分でもなんと言っているのか忘れている掛け声を何度も行いながら、皿洗いに従事する。多くの神さまたちはこちらがどれほど忙しいかを把握していない。

「烏丸くん! それ終わったらホール手伝ってもらえない?」

「はい! かしこまりました!」

 すぐに皿洗いを終えて、手を拭いて、一度身だしなみを整えた後、ホールへ行って、食べ終えた神様の皿を回収してゆく。だが、神様はこちらなんて見ていない。聞こえるか聞こえないか程度の音量で「終えた皿下げさせていただきます」と形式ばった挨拶を終えた後、神様たちが食べた残骸を拾ってゆく。

 残されたパセリ。エビの尾、未使用のレモン。食べ方が汚いのか、机にべったりとついた焼き鳥のタレが目について少し苛立ちを覚える。後で拭くのは私たちなのだけれど。

「でさでさぁ。今度のハロウィンどうする?」

「またコスプレしようよー」

「なんのコスプレ? エヴァ、綾波やろうよ」

「スケベー」

「なんでだよ。絶対に似合うって絶対」

 どこかのテーブルからゲラゲラと笑い声が響く。まだ7月だというのに、何を話しているのか。

「あのかぼちゃってなんていうんだっけ?」

「ジャック・オー・ランタンだろ」

 女の疑問に、男がドヤ顔で答える。いや、作業をしているので顔は見えないのだけれど、声だけでも自信満々な笑みが浮かんでいるらしいことがわかる。そこまで自信満々になるほどのことではないであろう。

「ごゆっくりどうぞー」

 俺は食器を全て回収して、厨房まで戻る。俺の代わりに坂上が必死な顔をして食器を洗っていた。俺はそいつの横に回収した食器を渡す。

「ぎゃー! また増えたー!」

 客には聞こえない程度の叫び声だが、こういう泣き言をしっかり言うことが坂上の処世術らしい。ちょっとでもこの状況を茶化していないと疲れが増すのだそうだ。

「さあ、働け働けえ。この社畜ー」

 俺もそんな坂上に従って演技くさく、憎まれ口を叩いて笑う。俺は布巾を取って、先ほどの席に戻る。

 男女の話題はハロウィンから夏休みになっていた。

「海行きたいねぇー。海!」

「もぉー、猿渡くんさっきからスケベなことしか考えてないでしょー」

「そんなことねぇって!」

「でも海行きたいよねぇ」

「行くならやっぱりお盆か?」

「いやぁ、混むだろう」

「大丈夫だって、白浜でも行こうよ」

「誰運転すんの?」

 日程の話がまるで出ない大雑把な観光プランを立てている間に、こびりついたタレをしっかりとふき取り。戻る。

 他人の話を拾い聞いても、最後までは聞けずに終わってしまう。いつも物足りなさを感じて仕事をする。

 その後もずっと、ずっと、夜が更ける間、神様を満足させるための雑務をこなし続ける。

 神様が減っていく頃には、もう日が上り始めていた。

「お疲れさまでーす」

 先に仕事を終えた人たちが去ってゆく。

「いやぁー疲れましたねぇ」

 床掃除をしている俺に対して、坂上が話しかけてくる。俺はモップを動かす手を止めずに彼の方を見る。彼はモップの柄に顎を乗せて、明るく笑いながら溜息を吐く。掃除しろよとは言えないほど、俺も疲れていた。

 ヘロヘロの身体で掃除を終えて、俺たちよりも疲れ切った正社員の河原さんに終了の報告をして、俺達は店の外へ出る。

 早朝の頃の、霧がかった少し薄い色の新京極商店街を、坂上と歩く。

「今日も多かったですね。汚ゲロ様」

「そうだなぁ。ゲロゲロ」

「ゲロゲロー」

 汚ゲロ様とは、言葉の通り、己の制御もつかずに吐いてしまう愚か者のことである。彼らの大半は吐きそうになってしまい、トイレに駆け込んで間に合わないということが多い。その際の駆け込み方が急いでいる蛙のようにも見えると、坂上がつけた我らのバイト先に伝わる隠語である。俺たちは疲れている時は彼らを小馬鹿にしながらゲロゲロと鳴くのだ。

 話している最中に坂上が煙草を取り出す。彼はまだ19歳である。

「先輩よく耐えられますよねぇ。この職場」

 煙草を吸いながら坂上が答える。急の言葉に思わず首を傾ける。

「ほら、先輩、酒もたばこも吸わないじゃないですか。よく耐えられるなぁって。俺、煙草吸わなきゃやってられないですもん」

 そういって彼は煙草を吸って、口から大きく煙を吐いた。

「おい、未成年」

「勘弁してください」

 ヘラヘラ笑いながら坂上は煙草の灰を地面に落とす。

「じゃ、先輩。僕こっちなんで、おつかまでーす」

 明るく手を振った彼はそのまま俺に背を向けて帰っていった。

 俺もそのまま歩いて帰る。

 早朝の京都は夏でもほんの少し涼やかな気がする。だが、辺りに見えるゲロ、ゴミ、俺たちと同じような朝帰りの大学生がちらちらといる。

 バスが通り過ぎる。ここのバスはまったくというほど時間は守らないのに、この時刻にもう動いているのか。ご苦労なことだ。と感心する。

 歩き続けて三条大橋を渡る。

 帰ったら何をしようか。まずは爆睡だろうな。その前に風呂に入りたい。あぁー、レンタルしていたビデオが今日までだった気がする。

「やっぱり借りにいって見ないといけない抑圧があるからレンタルビデオは厄介だなぁ! 今度からネット動画サービスでも使おうかな。あぁーでも、見たい映画とか入っていなかったら嫌だなぁ。坂上が言っていたオリジナル番組もなんだかんだレンタルとか中古でDVD出るし、結局入っても見なかったら毎月の金額が勿体ないんだよなぁ!」

 誰もいない安心感か、声に出しても仕方のない独り言を天の上の神様にでも噛みつくように吠える。当然誰も聞いていない。

 ばしゃん。

 独り言を吠えていると、鴨川から何かが跳ねる音がした。流石にこんな早朝では、等間隔を形成するカップル共の姿もない。暇をつぶしに石を川に投げたとは考えづらい。

 俺は思わず橋から川を眺めた。何もいない。きっと魚が跳んだのだろう。

 否。それにしては大きい音だった。まるで男が思いっきり水辺を踏み込んだくらいの音。川で誰かがこけた時のような音だ。

「いやぁ、寝ぼけていたな」

 現に、俺の周りには誰もいない。今の音を聞いた人は、俺以外にいないということだ。

 ならば答えは一つ、疲れすぎて幻聴が聞こえたに過ぎない。

「はぁ、汚ゲロ様を見すぎちまったかなぁ。ゲロゲロ」

 溜息を吐く。

 改めてゆっくりと眺めた鴨川の流れは、ずっと見ていられるだけの魅力があった。水の流れる音もまた、心を落ち着かせてくれる。

 ちょっとだけ、下へ降りてみよう。今ならカップルに混じって一人でみじめに川の音を聞くような恥ずかしさも、話し声やトランペットがうるさくて川の流れがかき消されることもない。俺はそっと鴨川へと降りてゆく。

 下へつくと、川の音が大きく響く。この音を聞いているだけで落ち着く。

「あぁー! やっぱ川の音はいいよなぁ!」

 誰も聞こえていないのをいいことにまた吠える。

「ゲロゲロ」

 目を閉じながら汚ゲロ様の真似をしてみせる。川に向かって、エリマキトカゲみたいなポーズで足踏みをしてゲロゲロと鳴く。人がいたらまずはできない。

 川の音と自分の声しか聞こえないので、自分が本当に蛙にでもなった気分に浸り、小さくゲロゲロ。と鳴いた。

「……ゲロゲロ。……」

 しばらく遊んだ後、改めて何をやっているのかとバカらしくなったので、そっと目を開ける。

「あっ」

「あ?」

 目を開けると、目が合った。川で目が合ってしまった。

 誰もいないと思っていたのに、相手がいたのだ。川の中に。向こうは目を丸くして動揺した様子でこちらを見ている。こちらも動揺したように、目を丸くする。蛙ごっこをしていた俺は、鏡を見ているんじゃないかと思った。お互い目を丸くして、数秒向かい合う。

 目の前には、真緑の、蛙が人型になったみたいな、化け物がいた。

「……か、蛙男?」

「やべ!」

 蛙男は俺の言葉と同時に川を走っていった。しかし、鴨川は浅いので、姿を消すことが出来ずに、橋の下までバシャバシャと音を鳴らしながら走る。

「ま、待て!」

 なぜか俺は蛙男を追いかけた。疲れたヘロヘロの身体で追いかけた。向こうも慌てているのか、なぜか泳がずに走る。川と並行になるように河川敷を走って追いかける。橋が近づく。このままでは埒が明かないと思った蛙男はようやく冷静さを取り戻したのか、身体を川の中へ沈め、泳ぎ始めようとする。

「ま、待って! あっ」

 その時だった。蛙男を追って、川に向かって走ろうとした時、足がもつれた。身体が斜面になっている河川敷を転がる。

「えっ?」

 突然こけて転がってくる俺に驚いた蛙男の声だけがした。そのまま、転がって、川の中に沈んでゆく。

 あれ? 三条大橋の下の川って、こんな深かったけ?

 動揺と、こけたときの痛みで俺は川の水を飲んでしまい、呼吸が出来ず、意識が朦朧としてゆく。

――この日をもって、烏丸勇仁(26歳)は死亡した。


 これが地獄か。本当に地獄はあるんだな。しわくちゃの婆さんに服を脱がされながら呆然とそんなことを考えていた。

 この感覚、風俗ではずれを引いた時のようだ。坂上が言っていたことだが。

「はい。では、この死に装束をしっかりと着なさい」

 真っ裸にされても、なんとも言えぬ感情で死に装束を纏わされる。しわくちゃ婆さんの顏が自分の股間のすぐ近くにあることにも不思議なことに動揺できない。

「はい。着たね。じゃあそのままあっちの列に並んでね」

 言われるがままに自分と同じような恰好で並んでいる人たちの後ろに並ぶ。待っている間、何もできないので、空を見る。着替えさせられている時は意識しなかったが、天井は空ではなく、何か、ごつごつした地面のようなものが見えた。それに何やら血なまぐさい。

 あの地面の先は天国だろうか。本当に天国もあるのだろうか。

 この長蛇の列が既にちょっとした地獄であった。遊ぶアプリもなにもなく、血や泥の匂いのする空気。全員同じ恰好なので、一か所を見ていると、気分がおかしくなりそうだった。

「次の方々どうぞ―」

 丁寧な口調で話している男に誘導されて、自分を含んだ20人くらいが移動を始める。誘導をしている男は顔面が真っ青だった。疲れているとかではなく、本当に真っ青だった。

「はい。では、この川を渡ってください」

 あとについて、ゆっくりと川を渡る。せっかく着せてもらったのに、ずぶぬれになる。川の感触は少しぬめっとしていて、気持ちとしては天津飯の餡たっぷりの風呂に浸かっているような気分になる。

 ようやく向こう岸に渡ると、一人の男に服をまた奪われ、大木にびたーん!と叩いて引っかけた。

「ふむ……ん? ん? あれ?」

 先ほどの婆さんの時は呆然としていた羞恥心が戻ってきて、股間を隠しながら、辺りをちらちらと見て男を待つ。男は何度も首を傾げてから怪訝な表情のまま死に装束を返してくれた。俺はすぐにそれを見に纏い直す。べたべたとして気持ちが悪い。

「すまんが、そのままあそこの列に並んでくれ、少し特殊なようだ」

 男はそういって、また列に誘導された。その列に並んでしばらく経っただろう。腕時計も外されたせいで、時間がわからない。

 前列に10人以下になる頃には、向かう場所が見えてくる。大きな建物だった。そこの入り口に不規則に一人ずつ入らされる。この感覚、覚えがある。

 面接だ。就職活動をしていた時にあった。面接を待っている間のあのなんとも言えぬ気味の悪い感覚。緊張感。一人一人、まるでベルトコンベアに乗せられた製品のように、同じ動きで部屋に入り、同じ動作で出てくるあの作業。あれを思い出して、喉の辺りに妙なものが上ってくるような気分に陥り、軽く咳込む。

「はい。次、どうぞ」

 次は真っ赤な顔の男性に促されて、私はその建物の扉の前に立った。

 なんとなく、ノックを三回。向こうから返事はない。

「あっ、開けて大丈夫ですよ」

 隣の真っ赤な人が優しく伝えてくれたので扉の取っ手を掴む。

「失礼します」

 扉の中に入ると、とてつもなく広い空間だった。

「あなたが懸依(けんえ)王(おう)の仰っていた方ですね。どうぞ」

 中に入ると、真っ赤な男と真っ青な男が二人、朗らかに話してきて、俺の左右に入り、誘導されて歩いてゆく。

「では、よろしくお願いします」

 立ち止まったかと思うと、上から目線を感じて見上げると、大きな男と目があった。

「えっと…………」

「あっ、怖がらないでください。大丈夫です。貴方は例外なようなので」

「例外?」

「あぁー、やはり。状況を把握していらっしゃらない」

 目の前の巨大な男はとても丁寧な言葉で語りかけてくる。俺はそれよりもこの50mはあるであろう巨漢から発せられる優しい爽やかな声に脳がバグを起こしたように戸惑う。

「あぁー。えっと、蛙男くん。証人としてまずここに」

「はい……」

 部屋の隅から申し訳なさそうにヘコヘコとしながら男がやってくる。戸惑っていた俺はその男の姿を見て、また目を丸くする。

「あっ! 蛙男!」

「えぇ。あぁ。はい」

 申し訳なさそうにヘコヘコと謝る蛙男。身長は俺と同じくらいの170後半身体付きは人間のそれだが、顏と手足が明らかに蛙。蛙である。

 俺はそれでも状況が飲み込めず、巨漢と蛙男を交互に見守る。

「えっとですね……。まずはこれをご覧いただきましょうか」

 巨漢がコホンと咳をすると、俺を誘導した真っ赤な男と真っ青な男が俺の身体全体写せるほどの大きな丸鏡を持ってきた。

 その鏡をじっと見つめていると、映画館のスクリーンのように突然映像が始まる。

 そこには河原で佇み、酔っぱらって蛙の鳴きまねをしてはしゃいでいる自分の姿が見える。

 すると、川からゆっくりと、蛙男が現れる。そして、俺と、蛙男は目があって、蛙男が逃げる。俺が追いかけている。途中で足を滑らせて鴨川沿いを転がり、浅瀬のはずの川に落ちて、そのまま浮き上がってこなかった。

「これが、貴方の死因ですね」

「えっ」

「誠に申し訳ない」

 蛙男が深々と頭を下げた。

「えーっと、ですね。烏丸勇仁さん。貴方は、こちらの蛙男くんが貴方の声に仲間と勘違いして覗き込んだタイミングで、目が合って、逃げている最中に幽界への入り口に堕ちてしまったと言うことで」

「えっと、それで……」

「うん。幽界への入り口に沈んで、溺死。それが君の死因だね」

「えーっと、すみません。つまり私は死んでしまったと」

 自分で自分に指さしながら震えた声で言う。

「はい。そういうことです」

「……嘘でしょ」

 不思議なことに絶望的状況なのに発狂することはなかった。というより、死んだという認識ができなかった。

「あー。でもね、烏丸くん。君の死に関しては、我々も思うところがあって」

 申し訳なさそうに巨漢の男はハンカチで額を拭く。そのハンカチすら、俺よりも大きいのではと感じた。

「今回の件、懸依王(けんえおう)が気づいた通り、君に大きな罪もないどころか、完全な死人ではないって結果が出てね」

「さっきも聞きましたが、その懸依王(けんえおう)って?」

「君が着た死に装束から罪状を確かめる人だよ。会っているはずだよ」

「あ、あの……服を、木にかけていた方でしょうか?」

「そうそう。彼がね『魂だけにしては濡れている面積が罪の重い奴のそれだが、大きい罪の濡れ方がないから確かめてくれ』って。確かめたらこちらの蛙男くんからの報告書が届いて」

「すみません……」

 蛙男がまた申し訳そうに謝る。もはやそういう装置なのではないかと感じるほどに謝ってばかりだった。水飲み鳥みたいだ。

「つまり?」

「君の死体は現世にない。君はこの世界に現身のまま来てしまった。ということだね」

 それでもまだ理解するには時間がかかった。そもそも、今ここにいるのだから死んでいないのではないか? 俺よりも先に並んでいた者も、俺の後ろにいた者も、俺と一緒に川を渡った20人も、姿形があるのだから。

「君、仏教の知識は?」

 戸惑っている俺に、巨漢は探るように問いかけてくる。俺は何やら自分の無知を露わにされた気がして恥ずかしくなる。

「あ、その。お恥ずかしながら……」

「はぁ……結構僕ら頑張ったんだけどなぁ」

 へたーっと机に突っ伏す。坂上もよく事務所の机でやっていることだが、超巨漢にやられると迫力が違う。

「やっぱり深刻な問題だなぁ。あっ。源ちゃんに書いてもらった『往生要集』! あれは読んだ?」

「閻魔さま、源信殿をそのように呼ぶのは」

「源信?」

 俺はさらに首を傾げる。その様子を見た閻魔と呼ばれた巨漢は溜息を吐く。

「あの、閻魔様。話が逸れております」

 横の真っ赤な人が咳込んで話す。

「あぁ。そうだったね。とにかく、君はこちらの不手際で生命を終えてしまったのだ。そのことに対して、こちらの蛙男くんも、そして幽界を代表する者としても、責任を感じる」「は、はぁ……」

 俺は口がぽっかりと空きながら、閻魔様を見つめる。まだ実感がわいていなく、頭は居酒屋でアルコールに満ちた空気を吸いすぎた時のようにほわほわする。

「君を……『半妖』として現世に返そうと思う」

「半妖……っすか」

「まぁ、一つ大きな問題はあるが、基本的に今まで通りだと思うから。誠に申し訳ない」

 深々と頭を下げる閻魔様。その後、彼は真っ青の男に指示して、真っ青な男は何か大きな機械を取り出して、そのボタンを押した。

「えっ、ちょ。あ、あの。これは?」

 ボタンを押された瞬間。俺の身体は光に包まれてしまう。その後、足が宙に浮く。初めての経験で足をばたつかせる。

「では、検討を祈る。君はこれから新しい人生を歩むんだ。烏丸勇仁くん」

 宙にどんどん登ってゆき、巨漢の閻魔様とやらも見下ろせるほどになる。身体の浮遊感が影響しているのか、この光の心地よさが原因なのか、瞼が重くて仕方がない。

 そのまま俺は瞳を閉じる。

「先輩! 先輩!」

 ジョロジョロとうなる川のせせらぎと、知った声に呼ばれ、目を開ける。

 そこには坂上の顏があった。

「先輩! 起きたんですね!」

「え? ん? 何?」

 うつらうつらとしながら周りを見ると、野次馬が多かった。しかし、ほとんどが若い男女だ。カジュアルな恰好に身を包み、俺に対してなぜかスマートフォンを向けている。

「見世物じゃないですよ! 去った去った!」

 坂上くんの怒鳴り声で何名かの男女は去ってゆく。俺はまだスマートフォンを向けられている。

「先輩、救急車呼びましょうか?」

「え? 何?」

 ようやく意識がはっきりしてきて、坂上に返事をする。

「俺がここ通っていたら、先輩が鴨川に浸かりながら眠っていたんですもん。服も昨日と一緒だし、なんか身体も冷たいし」

 そこで気づいた。ここは昨日もいた鴨川だ。だとしたら、あれは夢。でも、こけて川に堕ちたのは本当なのだろうか。身体がびしょぬれであった。

 心配する坂上をよそに俺はゆっくりと立ち上がる。不思議と身体に何か不健康な印象を受けるものもない。寒いと言う感じもない。今日が雲一つない天気だからであろうか。

「救急車は大丈夫だ。この通り元気だし」

「ほ、本当ですか? 一応病院行った方が――」

「なら、自分で病院まで行くよ。それより、お前も予定があって、ここら歩いていたんだろ。そっち行け。しっし」

 俺は手首で振りながら、坂上を去らせる。野次馬たちも大事にならないとわかるとちりぢりに去っていった。俺は衣類を絞りながら、鴨川沿いの道を歩く。

 通りすぎる大学生カップル。犬を連れた主婦。ランニング中の中年男性。河童、天狗、狐。狸。

 思わず振り返る。本来ならいるはずのない者達とすれ違っている。それだと言うのにみんな何も気にせずに歩いている。自分だけが気づいていると言う状態に何か化かされているかのような気分になる。

 思わず生唾を飲んで辺りを見渡す。やはり河童がいる。小豆洗いが鴨川で小豆を洗っている。あそこのOLなんかろくろっくびだ。

「見つけましたよ。烏丸さん」

 声をかけられて、肩と叩かれる。叩かれた方へ顔を向けると、蛙の顔をしている男の顔が目の前にあり、俺は思わず、尻もちをついて倒れる。

 何名かがこちらに振り返って怪訝そうに見つめていたが、俺の尻もちをついた姿を確認すると、また歩き始める。

 俺が尻もちをついた瞬間を見ていたはずなのに、目の前の虫メガネで覗いた蛙みたいな大きい顏の男を見て驚かない。

「驚かせてすみません。立てますか?」

 蛙男が手を差し伸べるので、俺は恐る恐る手に取る。ヌルっとしていて鳥肌が立った。

「信じられないでしょうが、私をそのまま見えているのは貴方だけです。恐らくですが」

「待って、説明してくれ。まだ、俺は夢を見ているのか?」

 思いっきり頬を叩く。しかし、痛みだけで何も覚醒しない。目の前の蛙男は確かにいる。いや、痛みを伴う類の夢かもしれない。

「そうですね。現実を夢なのか。夢が現実なのか。そこを考えてしまうと永遠の疑問となり、少々SFっぽくなるので、考えないほうが良いかと。少々話しましょう」

 蛙男は丁寧な口調で俺を誘導する。どうしていいかわからず、とりあえずくっついていく。普通の人間のようなシャツとジーンズを着ていると言うのに顏と手足が蛙そのものである目の前の人間の後ろ姿はあまりにも滑稽だった。永遠に見ていられる滑稽さだった。

「ひとはず。ここに入りましょう」

 濡れていた衣類が太陽の熱で乾く程度には歩いたであろう。少し足が疲れてきたタイミングで、出町柳のラーメン屋に辿りつく。

 鴨町ラーメン。換気のために開けている窓からスープの匂いか、強烈な香りを纏った風が空気砲のように放たれている。

「入りましょう」

 蛙男はさも当たり前のように扉を開けた。いらっしゃいませ! と声がして、俺もついていった。

「鴨町ラーメン二つ」

 蛙男がそういうと、店主は返事をしてラーメンを作り始める。

「……俺にしか見えないんじゃないのか?」

「貴方には『はっきり』見えているんですよ。店主には、蛙顏の不細工な男にしか見えないでしょう」

 顔を近づけて小さな声で話す蛙男。顏を近づけられるのも抵抗があるのだが、それでも聞かねばならぬと感じた。

「さて、貴方の話をしましょうか」

「あ、あぁ」

 蛙男はお冷を口に流す。俺も喉が渇いたのでゴクリとお冷を飲む。

「単刀直入に言うと、貴方は『妖怪』になりました」

「はぁ……」

 いまだ理解が追い付かず、困惑しながら声が漏れるのみであった。

「貴方は死にました。えぇ。ハッキリと。私のせいで溺死です」

「は、はい」

「しかし、元来、人の死に私たちが接触するのはなるべく避けねばならぬことなのです。それも、私たちに干渉する源頼光や安部晴明のような者ではなく、幽界の存在も把握しておらぬ者となれば豪語同断」

「けれど、俺は死んだ。ですよね?」

「はい。そうですね。貴方の死因は例えるなら、漫画を読んでいたら、漫画の中のルフィの手が突然本から飛び出してきて、その手に絞殺された。みたいな状況で、空想と現世の生命すら揺るがす干渉はご法度なのです」

 蛙男がONEPIECEを知っている事実にまた俺は戸惑った。それに言った例えもあまり分かり易いものでもなく、さらに首を傾げる。

「えっと。なんでしたっけ。あれです『二次元』というらしいですね。書籍や物語、映像作品の総評。花子様に聞きました」

「微妙に違う気がするが……」

 といっても、俺も詳しいことは知らない。よくフィギュアを買いにいくと言っている坂上から言葉を聞くぐらいの知識である。

「とにかく、空想物と扱われる我ら幽界。こちらの現世。相互関係ではあれど、不必要な命を奪ってよいものではありません。大概は、人間側がこちら側の領分に侵入した時のみです。人が死ぬのは」

「はぁ」

 蛙男の言っている言葉がさっぱりわからずに相槌を打つことしか出来ない。

「あぁ、すみません。分かり易く言いますと、人間が形成した『創作物』というものは、実在する世界である。それを受け取るのが上手い人間が拾い上げ、表現しているに過ぎないのです。故に妖怪も悪魔も実在します。私のように」

 この蛙。流暢に話すなぁ。という感想しか出てこなくなったタイミングでラーメンが出される。

「そ、その。結局、私はどうなるのでしょうか」

 不安で仕事モードのような口調になる。

「はい。烏丸様は先ほどの説明を踏まえますと、我々幽界側。貴方たちが絵空事と思われるような者と、生きている人間としての間に立っている状態になります」

「半分死んでいる?」

「えぇ。まぁ。そういったところです」

 そう言われても、不思議とショックを受けることがなくて、自分でなぜか口角がニヤリとあがる。

「食べましょう」

 蛙男は割りばしを割ってラーメンをすすり始める。俺も同じ動作をして啜る。初めて入った店なのだが、中々匂いがきつく、しかし、だからこその旨みが伝わってきて美味しい。

「お店で言うの、恥ずかしいのですが、私ね。この鴨町ラーメン。鴨で出汁取っていると思いこんでいたんですよ。わりと最近まで」

 蛙男が思い出したように笑顔になり、語り始める。確かにこの獣臭さと誤解するほどの匂いはわからないこともない。坂上に嘘で言われたら信じてしまいそうではある。

「それでねぇ、私。いつも川で虐めてきていた鴨共を喰ってやるぜえ! と意気込んで通っていたのに、それが誤解だったので、少々足が遠のいていたのですが、せっかくなのでまたここに来たと言うことです。どうです? 美味しいでしょう?」

 大きな蛙の顏がニッコリとこちらに笑顔を向けてくる。本来の蛙ならしないであろうその表情に俺はさらに鳥肌が立った。ラーメンはうまかったのだが、食欲が少しずつ失せてゆく。

「ここに連れてきたのは、これからの貴方の生き方についてお教えしたかったのです。私もこのように、行きつけのラーメン屋がありますし、花子さまは、何やらテレビに齧りっぱなしだし。貴方はこれから『半妖』になった事実を突きつけられることもあるでしょうが、普通に生きてください。貴方を死なせてしまった私のせめてもの謝罪です」

 その後から、蛙男は何も言わなくなり、ラーメンをすすり続けた。俺の方から何かを言うこともできず、初めて食べるラーメンを啜る。夏の暑さとラーメンの熱さで発汗し、水を求め、店の水をガバガバと飲み、異様にうまいラーメンを汁ごと飲み干す頃には、腹の中は今からでも逆流しそうなほど詰まっていた。

「うっぷ」

「ははは。スープまで飲み干すほど気に入ってくださったならよかったです」

 店を出て、蛙男は紳士的に笑う。

 俺はその顏をなるべく見ないようにする。この状態でもう一度あの気味の悪い顏を見たら俺は確実に汚ゲロ様になってしまうと思ったのだ。

「腹ごなしに歩きながら、話しましょう」

 蛙男はそういって歩き始める。俺は彼の横に並ぶように歩く。

「さて、続きを話しましょう」

「話長くないですか?」

「申し訳ない。私、簡潔に話すのがどうも苦手で」

 髪などないと言うのに彼は照れくさそうに頭部をぬるりぬるりと掻く。

「貴方は『半妖』という存在になりました」

「死んでいるけれど、生きている」

「通常の人間にも貴方は貴方として見えていることでしょう。貴方がなんの努力もしなくても。そこは大きなアドバンテージなんですよ」

 アドバンテージ。その言葉を言われても俺には奇妙なことばかりでまだ理解できていない。死んでいるけれど生きている。という意味も、半妖の意味も正直に言うと分かっていない。わかっているのは、この蛙男が気持ち悪いと言うことと、鴨町ラーメンが美味しかったと言うことだけだった。

「おや、蛙くんやないか。新人かい?」

 向かいから中年太りのおじさんに声をかけられる。蛙くん。というのはこの男のことだろうか。

「どうも平さん。彼はちょっと……」

「なんだい。訳アリかい?」

 平さんと呼ばれた男は首を傾げながら俺をじろりと見る。どこにでもいそうな気の良さそうなおじさんだった。このような平凡な男が横にいることで蛙男がより一層、奇妙奇天烈なことになっており、俺は平さんよりも、蛙男のねっちょりとしている指を見てしまっていた。

「君……影があるが、薄い? 蛙くんこれは」

「えぇ、ちょうど貴方のような方と会わせたかったところです」

 二人して俺を見る。蛙男は平さんに手を添えて俺に説明するように話す。

「紹介するよ。彼は平さん。幽界での名称は『幽霊』に該当する。死んだ人だ」

 よく見ると、平さんには影はなかった。


 鬼。河童。座敷童。一反木綿。化け狸。雪女。この世の中には妖怪がたくさんいる。幽界の住人だと、蛙男が言っていた。

 その中で一番身近に誕生する幽界の住人。それが『幽霊』だ。ただのお化け。

 テレビとかで良く見る。死に装束を着ているだけの人間。あれである。

 生前の時、あまりにも突然の死だったり、遺恨があったまま命を終えるとその姿に代わってしまうと言う。

「なるほど、蛙男くんのせいで、幽界への穴に入って死んでしまったと」

「生きています」

「あぁ、そういう細かいことはええねん。この際」

 平さんと蛙男と三人で入った喫茶店の席で話をする。なぜか蛙男と俺は向かいに座り、蛙男の隣に平さんが座る。スタッフが水を二つだけ置いたのが気になってしまい、平さんの前に架空のコップを作り出してそのコップを見つめる。

「聞いている? 烏丸くん」

「あ、あぁ。すみません」

「今のスタッフさんで分かったと思うけれど。平さんは『幽霊』だから。普通の人には見えていない」

「あんたみたいに別人に見えることもない」

「うん。そして君は今、半分がその状態なんだ」

「半分人間で、半分幽霊なんですか」

「あぁ。俺も初めてみたけれど、こういう症状が出るんやね」

 平さんは顎を何度も撫でながら、まじまじと俺を見てくる。

「でもええなぁ。人に認知される幽霊ってことやろう?」

「そうですね。まぁ、本来は死んでいなかったので、これも優遇というわけではないのですが」

 羨ましがる平さんの言葉もよくわからず、俺は頼んだホットコーヒーを飲む。

「ん?」

 ラーメンの時も感じた違和感を抱き、思わず声が出る。

「あぁ、やはり。あれでしょ? 烏丸くん。入れてもらってすぐの珈琲が想像していたよりも熱くないんでしょ?」

「はい。よくわかりましたね」

「たぶん、半分死んでいるから痛覚とか、そういう感覚がちょっと鈍くなっているかもしれないね」

 それでもコーヒーの味はするので、気にせずに口に含む。ふと一息ついた際に、自分の服がまだ微妙に湿気を帯びているのを思い出す。

「すみません。俺、家に帰りたいんですけれど。着替えたいし」

「あぁ、そうだね。僕と平さんが入るスペースはあるかい?」

 巨大な蛙ともいえる蛙男が部屋に入ってくる。そのことを想像すると眉が引くついてしまう。

「あぁ、大丈夫。ヌメヌメしたりとかはしないはず」

「わしなら最悪、浮けるからスペースはなんとかなると思うで。はっはっは!」

 蛙男が申し訳なさそうに手をぶんぶんと振っている隣で、がっはっはと笑う平さん。その平さんの冗談に思わず失笑してしまう。

「じゃあ、すみませんが行きましょう」

 会計をして、自宅へ戻る。

 俺は簡単に着替えて、蛙男と、平さんにお茶を出した。

「あ、わざわざわしにまで。すまんのう」

「いえいえ」

 見えているのに無視するのはあまり気分のいいものではなかった。

「……一人暮らしだそうだが、ご家族は?」

 蛙男が部屋をキョロキョロと見た後、問いかけてきた。俺は思わず下唇を噛む。

「蛙くん。部屋に家族の写真もないし、今の勇人くんの顏。なんか訳ありっぽいから聞くのやめよう」

「そうだね。済まない烏丸くん」

「いえ、ありがとうございます。平さん。気を回していただいて」

 家族とは、就職活動を断念した時に大喧嘩して以降連絡も実家にも帰っていない。思い出すだけで何かがこみ上げてくるので、平さんの言葉がなければ俺はこの蛙男に怒鳴ってしまうところだったかもしれない。

「繊細な質問で申し訳ないが、友だちは多いほうかい?」

 蛙男はさらに問いかけてくる。俺は首を傾げてなんとか思い出そうとするが、実家にも帰らなくなり、大学の人ともここ数年話していない。

 浮かんだのは坂上くんと河原店長。次におなじ職場の人たちくらいだ。彼らは友ではないが。

「あまりいないですね。友だちと呼べる人は」

「そうか……。なら今から言う言葉は残酷に聞こえるかもしれない」

 蛙男は残念そうに憂う表情をして、俺を見つめる。平さんは俯いていた。

「幽霊をはじめとした私たち幽界の住人は現世の人間の記憶こそが『命』なんだ。君のことを君として認識する人間がいなくなれば……いくら半分生きているとしても」

 蛙男はまるで病気を知らせる医者のような鋭く見つめてくる。全て黒目の蛙男の目に見つめられると、思わず身体が固まる。蛙に睨まれた幽霊である。

「だから烏丸勇人くん。君が生き延びるには、君という存在を色々な人に刻み続けていかないといけないんだ」

 蛙男にそう言われても、イマイチ実感がなかった。

「あぁ、わかったよ」

 そっけなく返事をする俺に蛙男は不安そうに眉を細める。

「本当に分かってるのかなぁ」

「友だち100人できるかな?ってことでしょう?」

 飄々とした態度で冗談半分に答える。思わず茶化してしまうのは、自分の存在が危ぶまれている現実を受け入れるのに手いっぱいだからかもしれない。

「……間違っていないんだけれど、君、そういうこと言う子だったんだ」

 少し引き気味の蛙男を見て、俺は少し眉を細める。自分を殺した張本人にそのような顔をされると、こちらも複雑な苛立ちを覚えるのだ。

「まっ、今日は楽しい楽しい仲間が増えたってことでパーッとやりましょうや」

 平さんが自分に出された湯飲みを持ち上げてがっはっはと笑う。俺も先ほどまでの苛立ちを沈め、自分のカップを平さんの湯飲みを当てる。

「じゃあ、僕も」

 蛙男もコップを俺と平さんのカップと湯飲みに当てて、三人でグビグビと飲む。

 その後は三人でくだらない話をした。酒が入っていないのに、奇怪な空間がそうさせたのか。三人とも陽気に語り続け、気が付くころには眠りについていた。


 目を覚ますと、平さんも、蛙男もいなくなっていた。テーブルに置かれた紙に蛙男の住所と電話番号が書かれていた。あの蛙。住居があるのか。と思わず失笑してしまう。

「一応僕らみたいなのが住んだり、連絡先を所有するためのパイプはあるんだよ。平安の世から住まう僕らなりのネットワークって言ったところか」

 そういえば、寝落ちる前にそういったことを蛙男が言っていたような気がする。確かに書かれている番号は本来の番号では見たことのない滅茶苦茶な番号の順番であった。

「これ、本当にかかるんだろうな?」

 自分の携帯で18桁と入力する。自分でもこの番号を入力できるとは思わず、そこからさらに発信する。数回のコールを待ってると、ガチャリと音がする。

「はい。もしもしかわずです」

「……すみません。烏丸ですけど」

「あぁ、烏丸さん。起きたのですね。おはようございます。ということは机の上の伝言を見て頂いたと」

「はい。まさか本当につながるとは」

「絶対に誰も間違えて掛けないであろう番号を設定することで我々が使わせてもらっているんですよ」

「えっと、メカニズムは?」

「実は私もそこまでは、烏丸さんも、実は携帯のシステムとか把握していないのでは?」

 確かに。と思ってしまってそれ以上追及できなかった。

「では、確認のためのお電話だったのですね」

「はい。特に用事はありません」

「では、電話切らせていただきます。そこに書かれている住所にもし尋ねる際は、近くについたら一度電話をください。お願いします」

「あ、はい」

 その後、蛙男は電話を切った。

 時計を見る。既に朝になっていた。

 俺は目を見開き、額から一気に汗が噴き出す。

 アルバイトの時間をとっくに終わっているのだ。夜勤から既に勤務時間も終わっている時間。なんだったらもうすぐ出勤時間だ。

 急いで携帯で電話をかける。

「もしもし」

「て、店長! す、すみません俺!」

「あぁ、いいよいいよ。烏丸くん頑張ってくれているし、昨日は運よくそこまで忙しくなかったし、ついでだから今日も休みにしておくよ」

「あっ、いや」

「聞いたよ? 昨日鴨川でがっつり寝てたんだって? 坂上くんが心配していたよ。溜まりに溜まっている有給を使ういい機会だから、二日ほど、こちらで申請しておくので、ゆっくりしなさい。なんだったらもっと使えば?」

 店長は俺に罪悪感を抱かせぬために気楽な笑い声が携帯から聞こえる。

「す、すみません」

「いいよいいよ。むしろ使って欲しかったからね。最近上が五月蠅いんだよ。有給使わせろだの、残業させるなだの。だったらもっとノルマを低くするとか、そっちから従業員寄越せっての。なぁ?」

 店長は29才らしく、付き合いの長い俺にはまるで友だちのように愚痴を話す。

「と、とにかく。ありがとうございます。すみませんでした」

「いいっていいって。だから今日もゆっくりしな。あっ、明日も休むなら早めに言ってくれよな。申請はこっちでやっておくから」

「あっ、はい。では、ありがとうございました」

 後は適当に話をして、電話を切った。

 しかし、改めて休みと言われても、困るのである。借りていた映画を見るとしようか。あまり気分ではないが、いざ見てみれば気分も乗ると言うものだろう。

「じゃ、その前に」

 立ち上がると、空腹感に苛まれる。映画を見るためのつまみでもコンビニに買いにいこう。

 着替えてコンビニへ向かう。そこでからあげクンとポテトチップス。そしてコカ・コーラの2ℓボトルと、悪魔のおにぎりを二つ購入する。映画を見ながらなのでがっつりと食べることはない。ついでに数が減っていたティッシュ箱も購入して家路へと着く。癖でポストを確認する。結局は近所の弁当屋などの広告が挟まっているだけであったが、今日だけは少し違った。

「大学祭。ねぇ」

 思わず声が漏れる。ポストに入れられた来月初めに開催されるらしい近所の大学のお祭りを知らせるちらしであった。この大学のちらしを見たのは七回目である。

 なぜかそのちらしだけ、折って、コンビニ袋の中に突っ込んだ。

 テレビの前に食べ物を並べ、ソファーに身体を預ける。キンキンに冷やした大きなコップに市販の氷とコーラをなみなみと注ぐ。

 ブルーレイをセットして、再生する。選択画面が出るので、そこから本編再生を押す。その後、制作会社のロゴ映像が始まり、俺は生唾を飲み、コーラを一口飲む。

 映画本編は、好奇心旺盛な少年が主人公のアニメ映画だ。予告編の段階で水の表現が美しく、これはぜひ見たいと、ブルーレイが出るのを心待ちにしていたのだ。

 映画は家で見たい。シアターは固定席で疲れたら寝転がれない。興奮した時に息を荒くしづらい。何より、ポテトチップスが食べられない。どこもかしこもポップコーンが主流だ。映画館で見る映画ももちろん素晴らしいのだが、どうしても、一回に高額払うことと、映画館への移動費や、上映まで待ってる間の時間などを考慮すると、家で見ることを優先してしまう。

 映画を見終わる頃には、買ったお菓子も全てなくなっていた。

「いやぁ。充実したな。うん。後は部屋の掃除をして――――」

 映画のブルーレイをパッケージに直して、伸びをする。今晩の予定を口に出して整理している時に、何か危機感を覚えて、言葉が詰まる。

 時間はもう20時になっていた。今日顔をみたのは、いつも行くコンビニのレジだけだ。それも会話なんてしていない。

 『幽界の住人は人の記憶が「命」なんだ』

 そんなことを平さんか、蛙男が言っていたような気がする。

 その時、自分は友だち100人作ればいい。なんて言ったいたが――

「えっ、これは無理じゃないのか」

 思わず身体が震える。今日、自然と過ごした一日。夕方ごろまでごろごろして、起きて、コンビニに飯を買いにいって、一人で映画見て、部屋を掃除して、気づいたら誰とも交流していない。

「坂上は……今勤務中か。だとしたら、蛙男は、意味がないし」

 そわそわし始める。いざ始めようとすると、友だち100人作るって無理くさいだろう。

「ど、どうしよう」

 色々考えた挙句、今の自分に連絡を入れることの出来る知り合いもおらず。

「店、遊びに行くか」

 一呼吸おいて、俺は着替え始める。とりあえず、今は坂上に会いにいこう。河原店長に会いにいこう。別に有給だからって店に行ってはいけないわけではない。

「じゃ、行ってきます」

 誰もいない部屋なのだが、幽霊の平さんと出会ってからだと、なんだか見えないだけでいるのではと勘ぐってしまい、言葉を残して俺は扉を閉めた。


 河原町まで歩くのも悪くない。京都は景観に気をかけているからか、散歩するのが心地よい。三十分ほどある距離も、ここでなら歩いていこうという気になってくる。

 喉が渇いてコンビニに入って、小さな缶コーヒーを一つ手でブラブラと掴みながら歩いてゆく。

 鴨川沿いの道を歩くと、車の走る音と、川の流れの音が混じって、この通り独特の雰囲気を醸し出す。

 昨日までの俺にはそう感じていた。

「ははは」

 思わず声が漏れる。この通りには、たくさんの妖怪が渡っていた、昼は人間が大勢通っていた道を妖怪が渡っている。人としての姿も見えない、ゆらゆらと漂っているものたちがたくさん。

 恐怖よりも滑稽さが経って思わずニヤつきながら歩いていく。この町はここまでおかしい町だったのか。

 自分が毎日渡っているこの道にはここまで陽気なことになっていたのかと驚きを隠せなかった。

 三条大橋を渡る頃には、妖怪と人間の比率は逆転していた。

 明日が月曜日であるから、神様の数は少ない。酔いつぶれるほどまで飲まず、しかし、まだ休日を楽しんでいたいと彷徨う人々で溢れる。

「こうなると、飲み屋よりもパスタ屋とかラーメン屋の方が賑わうんだよなぁ」

 知ったかぶりの独り言を呟いて、自分の勤務先まで向かう。

 自分が勤めている店に、客として入店するというのは、なんとも言えぬ緊張感がある。いつもと違う入り口から入るのは気恥ずかしい。

 扉を開く。ホール担当のアルバイトが条件反射で「いらっしゃいませー!」と叫ぶ。それに呼応するように、キッチンからも「しゃーもせー」と聞こえる。坂上の声だ。

「わかるもんだな。ちゃんと言ってないの」

「あっ! 烏丸先輩じゃないですか!」

 ホール担当である秋山さんが気づいて思わず大声で反応した。俺はシーッと指で口の前に出すジェスチャーをする。

「あれ? 先輩、どうしたんすか。今日有給もらったでしょうに」

 この店は、オープンキッチンになっている。秋山さんの声に反応して坂上が目を丸くして覗き込んできた。

「暇でな。普通に客として遊びにきた」

「でしたら、こちらに」

 秋山さんがカウンター席に案内する。それに従って、座る。改めてメニュー表を客の目線で見ているのもなんだか新鮮だった。

「飲み物はコーラでいいっすか?」

「いや、俺に決めさせろよ」

「先輩、酒飲まないじゃないですか」

 坂上がキッチンからケラケラと笑う。今日は客も少なく、うちの店は元々カウンターで客と話すことも多い店なので、誰からも冷たい目で見られることはないのだが、それにしても坂上はサボるために俺を口実に使っているとしか思えない。

「えっと、とりあえずコーラと、フライドポテトと、シーザーサラダ」

「結局コーラじゃないっすか」

 秋山さんがオーダーを打ち込む。坂上は調理をしに奥へ引っ込んだ。

「コーラになります」

 先に用意してくれていた秋山さんがコーラだけを渡してくれる。

「ありがとう」

 コーラを飲みながら、何気なく店を見渡す。

 酒は飲まないが、この居酒屋の雰囲気が好きなのだ。皆がゲラゲラと笑い、酒や食事を楽しむ。丁寧に美味しいご飯を味わうレストランもいいが、店員もお客様も、楽しくはしゃいでいる空間である居酒屋が好きで、働き始めたのだ。

「まっ、働いてみたら神様だらけの地獄だったけど」

 過去の面倒な神様を思い出して思わずため息を吐く。

「はい。シーザーサラダになります」

 頼んだ二品のうち、先にシーザーサラダが届いたので、それをポリポリとつまみながら、働いているみんなをキョロキョロとみる。

「あら? 勇ちゃんじゃないの」

 背後から声がする。秋山さんが声の主を見て「いらっしゃいませ!」と大きく叫んだ。

 振り返ると、常連の女性がこちらを見ていた。

「お隣いい?」

「えぇ、大丈夫ですよ。酒井さん」

「ありがと」

 空いている自分の隣に常連の酒井さんが座る。彼女の元に駆け寄った秋山さんがオーダー用の機械を携えて尋ねる。

「ご注文は?」

「キープしている日本酒と、煮タマゴを一つ。お願い」

「ありがとうございます!」

 秋山さんはそのままキッチンに注文を伝えて、その後すぐに、酒井さんの日本酒を瓶と小さなカップを置かれる。

「へっへー、お酒―」

 酒を受け取ってカップに移してすぐにグビっと飲む。

 酒井さんは入店時こそクールな女性なのだが、酒が来てすぐとろーんとした気の抜けた表情になってしまう。そのギャップに坂上なんかはもう虜になっているのだ。

「酒井さん! 煮タマゴお待ち! 後、サービスでお魚の刺身です」

「ありがとー」

 坂上がカウンターから直接酒井さんのところに料理を置く。

「おい。俺のは」

「先輩のは後っす」

「ダメよ。さっちゃん。お客さんは平等に扱わないと」

「すんません。先輩、すぐお出しするんで待っててください」

「あぁ。頼むぞ」

 これ以上ポテトなしのコーラをチビチビ飲むのは耐えられなかったのだ。

 そうだ。ここはチャンスだ。半妖として生き残るためにも、より親密な友だちを増やす必要がある。酒井さんならば、顔見知りではあるし、このまま交友関係を深めることができるはずだ。

「酒井さん」

「なあに?」

 俺は酒井さんの方をじっと見る。俺が見てない間に酒瓶の中身が半分ぐらい無くなっている。

 酒井さんもこちらを見る。

 俺は息を飲んだ。この人、こうやって近くで見ると美人なのだが、それよりも、額の方に目がいった。

「あら、勇ちゃん。もしかして……」

 酒井さんの声は俺には届かなかった。

 角。折れた角。奈良で見たことがある。蠅代わりの時期にぽっきりと折れて根元だけある角。それが酒井さんの額にあるように見えるのだ。

「あらあらまぁまぁ、勇ちゃん。どこで化かされたの?」

 妖艶な声で首を傾げる酒井さんと俺の目はあっていない。

「はい。フライドポテトお待ちです!」

 見つめ合っている僕と酒井さんの間に割って入って秋山さんがフライドポテトを置いていく。

「烏丸先輩? いくら常連だからって口説こうとするのはダメですよ?」

 鼻息を荒くして注意をしてくる秋山。

 その瞬間に目を奪われていた角から目線を離し、秋山の方を見る。

「いや、口説くとかではないよ」

「そうやねぇ。目も見てくれん人に求愛されてもなぁ」

 ハハッ。と笑いながら酒井さんはさらにカップに日本酒を注ぐ。

 秋山さんが仕事に戻る。俺はなるべく角を見ないように、逃げ道としてコーラをチビチビと飲む。

 端から机をとんとんと叩く音が聞こえる。

 酒井さんが叩いていることに気付き、恐る恐る彼女の顔を見る。

 彼女はニヤリとした表情でこちらを見ていた。彼女はこちらにズズイっと近づいて耳打ちをしてくる。

「随分面白いことなっとるやないの。勇ちゃん。くすっ」

 耳元で囁かれて俺は気が気ではなく、逃げるように身体をのけ反らした。

「なんやの? さっきは口説こうとしたのに、肉食系はお嫌い?」

「あっ、いえ、そういうわけではなく」

 肉食系と、その前髪からちらりと見える折れた角を見てから言われると、性的なものではなく、生物的に肉食なのではないかと勘ぐってしまう。

「なぁ、あんさんの話。もうちょい詳しく聞きたいんやけど、二軒目、梯子せえへん? 奢ったるで?」

 気づけば酒井さんの持つ瓶は空になっていた。

 俺はまだ常連の麗しい女性が幽界のものである事実を受け止めきれず。手にあるフライドポテトをずっと持ったままで、塩が手に染みて、手がヒリヒリとする。まるで何かに蝕まれているかのように、俺は彼女の妖艶な目に吸い込まれてゆく。

「えっと……。僕飲めないんですが、よろしくお願いします」


 二軒目は小さなラーメン屋台だった。いつも鴨川の近くにある。寂れたラーメン屋なのだが、前からどうして残っているんだろうと思っている場所だった。

「くぁ~! やっぱりここのラーメンは美味しいね!」

 酒井さんはズルルルッ! と勢いよくラーメンを啜る。俺もそれに倣ってラーメンを啜る。ありきたりな醤油ベースのラーメンであったが、不思議な美味しさがあった。

「ここなら飲めない勇ちゃんでも楽しめるでしょう? んー!」

 大袈裟に喜びながらラーメンを食べる酒井さんの角が気になってずっとそこを見つめてしまう。

「ちょっと、勇ちゃん」

「あっ、すみません」

「えっち」

 無邪気に笑う酒井さんに俺は直視できずにラーメンを啜る。

「さて、なんで勇ちゃんはあたしのことが見えるのかなぁ?」

 わざとらしくセクシーな声色で話す酒井さんは普段とのギャップもあるのだが、どこかAV女優のセリフのようで興奮よりも滑稽さが勝ってしまった。

「た、たぶんなんすけど」

 話を始めようとした段階で、このラーメン屋の亭主が気になった。この至近距離で幽霊などの話をしても良いのだろうかと思ったが、店主が狸だった。

「……狸」

「えぇ、ここ、狸がやっているの。だから気にしないでええで」

「は、はぁ……」

 ますます状況についていけず、俺はラーメンを食べる。平凡な醤油ラーメンも、狸が作ったと思えば、少し稀有な味がする。気がする。

「……婆さんの出汁とかじゃないよな」

「勇ちゃん。詳しいんやねぇ。でも残念。それは狸さんに対する侮辱やで。ねぇ?」

 店主の狸はなぜか言葉も話さずに怒っている意志を伝えるように鼻息を荒くする。

「まぁ、美味しいんでいいですが」

 俺の「美味しい」という言葉を聞いて、満足げに鼻息を荒くする。

「それで、話の続きなのですが、俺実は……幽霊になってしまったんです」

 酒井さんは目を丸くしている。

「えっ、本当に?」

 キャラ作りも忘れて、酒井さんは俺のふとももを突然撫でる。

 見た目は良い酒井さんに突然股付近を触れられると、思わず身体が硬直してしまう。

「触れるじゃない」

「これまた特別な理由がありまして……」

 そこから酒井さんに全てを説明した。聞いている間、酒井さんはずっと笑いながら、ラーメン屋にもおいてある日本酒を飲み続けた。

「ええなぁ。酒の肴にぴったりな間抜け話やわぁ。きゃはは」

「あんまり笑わないでくださいよ」

「いやぁ。無理やわ」

「姉さん。麺が伸びますぜ」

 狸が突然声を発するので、思わずビクついてしまう。

「あぁ、悪いな。んじゃ」

 そこから酒井さんはラーメンを啜る。一足先に食べ終えたので、何気なく酒井さんを見つめる。ラーメンを啜っているその口、そしてラーメンの湯気を纏った彼女の角は妙に色っぽく、視界が彼女の角に集中する。

「はぁ。勇ちゃんは、妖怪リテラシーを学んだ方がええよ? まぁウチは勇ちゃんが作るタマゴ焼きすきやから、許したるけど」

 呆れたような溜息を吐いた後、ニヤニヤと睨んでくる。

「ええか? 鬼にとって、角はデリケートなところなの。そうねぇ。人間の女性で例えると、おっぱいをガン見されているようなもんやからなぁ」

「えっ! そうなんですか!?」

「冗談や」

「ほっ」

「おっぱい見られるより不愉快」

「すみません」

 すぐに頭を下げる。酒井さんはケラケラと笑う。

「勇ちゃんはやっぱりからかい甲斐があるわ 

「あまり茶化さないでください」

 照れくさくて、猫背になっている俺を見て酒井さんはまたケラケラと笑う。

「勇ちゃんなら大丈夫やと思うけど、お店には言わんといてな」

「言ったとしても誰も信じへんよ」

「完全に信じなくても、疑うような目ではうちを見てくる。うちら幽界の者が使っているこの認識阻害は案外もろいもんでなぁ。ちょっとでも疑われると霊気が漏れて伝わってまうんや。まあ、分かり易く言うたら、怪しまれたら妖怪やってバレるってことや。妖怪と断定できんでも、恐れられてまう。せやから、お願いやわ。あそこ気に入ってんのよ」

 酒井さんの目は少し潤んでいた。過去にも自分の行きつけの店が、自分が妖怪であるが故に通えなくなったことがあるのだろうか。

「わかりました。大事な常連様なので、プライバシーは守りますよ」

「ありがとうねぇ。ここのラーメン奢ったるわ」

 酒井さんは財布から俺の分も含めたラーメン代をちょうどになるように狸に渡す。

「酒井さんは普段何をしているんですか?」

「ん? プライバシーを守ってくれるんやないの?」

 酒井さんはきょとんとした顏で首を傾げる。少し酔っているようだった。

「あっ、いえ。半妖として、どういう日々を送ればよいかと悩んでいまして」

「んー。好きにしたらええけどねぇー」

 酒井さんは適当に答えてまた日本酒を飲み干す。

「えっと、勇ちゃんさんでしたっけ?」

 酒井さんの答えに迷っていると、狸が突然こちらに声をかけてくる。その芯に響く低い声に思わず驚いてしまう。

「え、えっと。烏丸勇仁です」

「じゃあ。烏丸さん。この方にその質問をしても無駄だよ。幽界の住人として生き方についてだろう? この人はいわば勝ち組だ。人間様で言えば、宝くじで6億当たった無職。みたいなもんさ。この人に生き方を聞いても、まともな答えは返ってこないよ」

「へぇ」

 狸さんが呆れたように酒井さんに対して溜息交じりに笑う。

「うるさいで? あんたも喰ったろうか?」

「二度とここのラーメン食べれないですよ。後継者に困ってるんで」

「うぅ……なら見逃してやろう」

 気づけば酒井さんの横には空いた日本酒の瓶が三本もあった。

 バイト先でもかなりの量飲んでいたのだ。流石の酒井さんといえど、机に突っ伏してまだ酒を飲んでいる。

「うちはね。起きて家にあるお酒飲んで、お酒買いに行って飲んで、そんで、勇ちゃんの店行って酒飲んで、その後はこのラーメン屋か、茨木のところか、鴨川辺りでまったり飲んで、寝るで」

「酒飲みまくりですね」

「ええやろ」

 無邪気に笑う酒井さんに思わず見惚れたが、彼女が妖怪であることを思い出して首を大きく横に振るう。

「なんか、幽界の人は、人々の記憶から消えたら死ぬって聞いたのですが、それはどうなんですか?」

「んー、まぁ。うちがその理由で死ぬことはないと思うし、勇ちゃんの店に常連としておるからあの店が壊れん限りはなおのこと大丈夫やわ」

 にゃはは。と笑いながら酒を瓶ごと持ってごくりごくりと飲む。まるで、部活中に水筒をガバ飲みする中学生のようである。

「ねぇ? こうだから彼女は頼りにならないよ」

「あ、あの。酒井さんってどんな妖怪なんですか?」

「ん? 酒呑童子やでえ。ほれほれ、酒をつぎなさい」

 酒井さんはしっかり出来上がっており、俺に無理やり、瓶を渡してお酌をさせる。

「酒呑童子って、あの!?」

「えぇ。あの、酒呑童子ですよ」

 狸が食器を洗いながら呆れたように溜息を吐く。当の酒井さんはヘラヘラと笑って、突然机に突っ伏してニヘニへと声を出すだけで動かなくなった。

「あ、あの良くマンガとかに出てくるやつですよね?」

「えぇ。あの。酒呑童子ですよ」

「はへぇー」

 驚いているのだけど、気持ちはおとなしく小さな声が漏れる。

「代わりにあたしが答えますがね? お化けの烏丸さん。やはり、人々に畏れられて名を覚えられるしかないと思いますね。安定なのは、ここの酒呑様のように大物妖怪として後世に残ることですが。コツコツ、子どもなどから脅かし続けてゆくのが良いかと」

「はぁ」

 ラーメンを食べ終えた後、狸に酒井さんを任せて、俺は店を出て家へと戻った。

 妖怪としての自分に何が出来るかわからず、とにかく明日も仕事なので、風呂に入ってそおまま寝てしまうことにした。

 今日も人の友だちは増えなかった。


 俺の友人は、坂上と、店長と、秋山さんと、大学時代の知り合いである三村くらい。

 他はそれぞれ実家や東京に帰ってしまった。

 中学校時代の山本さんとは、卒業式に一緒にカラオケに行って以降会っていない。

 元カノの千佳は、別れた日から一度も会っていない。

 高校時代にバカやった関口と、浜野は今どうしているだろうか。

 LINEを開く。一応思いつくだけの昔の友だちの連絡先はある。それ以外にも、プロジェクトや文化祭など、さまざまなイベントで作らされたグループの影響で増えた一度も話したことのないアカウントが多数。

 LINEの連絡履歴は店長と坂上、三村以外はここ五年以上連絡をいなかった

 店長も業務連絡のみである。三村も最近仕事が忙しいのか、連絡は一カ月取っていない。

 今ここで「暇だ。遊んで」と声をかけて、遊んでくれる人は、いないのではないだろうか。

「……えっ」

 自分しかいない部屋に小さな声が響く。

 簡単だ。「遊ぼう」と一言ラインに打ち込む度胸は存在しなかった。100を超えるアカウント数の中で気軽に声をかけることができる人間はたった一人、今現在交流のある坂上のみであった。

「仕事、行くか」

 余計なことを考えるのはやめた。どれだけ悩んでも、この世界に哲学や自問自答をじっくりと考える時間はない。フリーターであろうと働く必要があるのだ。


 いつも行く道、もはや目を閉じていてもいけるのではないかと思えるほど足が自動的に動く。ここから9時間は、自動的に動く足で職場に向かい、自動的に動く腕の動きでフライパンを振るい、自動的な動きで厨房やホールを掃除するのだ。

「やぁ」

 店で調理を始めようとすると、まだお昼だと言うのに既に酒井さんがいた。

 その手にはカシスオレンジが握られている。

「いや、よく飲めますね。昨日もあんなに……」

「ん? 烏丸くん昨日酒井さんと一緒だったのかい?」

 店長が驚いている俺と酒井さんの間に入っていて話しかけてくる。

「えぇ、昨日ここに遊びにきたときに酒井さんと会ったので、二軒目に」

「へぇ、酒飲まない烏丸くんが二軒目」

 店長はそういうと失笑する。

「勇ちゃんとラーメン食べに行ってたんですよ」

「へぇ、どこのラーメン?」

「鴨川に屋台を出しているところなんですけど、結構ランダムに出しているんで、通しか通えない曰く付きのラーメンですよ?」

 ニヤニヤしながら酒井さんが店長と話す。俺はあの狸を思い出す。店長があのラーメン屋に行けば、また違う姿に見えるのだろうか。

「どうだったの? 烏丸くん」

「あっ、美味しかったよ」

「へぇ、いいなぁ。今度探してみよう。んで、酒井さん、追加はいるかい?」

 酒井さんの席にあったおつまみは無くなり、手に持っているカシスオレンジのみだった。

「じゃあ、勇ちゃんも戻ってきたし、スモークチーズと、卵焼きで」

「あいよ。じゃあ、烏丸くん。卵焼き巻いたげて」

「はい」

 慣れた手つきで卵焼きを焼いてゆく。こればかりはコツなので、どう説明していいかわからない。

 出来上がった卵焼きを、さらに持って、本来なら端にマヨネーズを添えるのだが、酒井さんはマヨネーズよりもたらこが好きなので、たらこを代わりに添える。

「はいよ」

「やった」

 まだ夕方になる前の16時頃。この店の客も数えるほどしかいない。

 勤務してすぐのため、減ってきた仕込みの補充作業をする。

「勇ちゃん勇ちゃん。仕事終わったら、一回声かけて、私。今日はずっとここで呑んでるから」

 俺は今から俺が仕事が終わる深夜前までずっと同じ席にいるのだろうかと疑問を抱いた。

「カシスオレンジお代わり」

 酒井さんは空になったカップを俺に向ける。

「はい。畏まりました」

 わざとらしく言葉を畏まって伝票に書き足してカシスオレンジを提供する。ちらりと見た伝票には既に物凄いメニューの羅列があり支払い金額を想像すると溜息が漏れる。

 毎回酒井さんは普通のお客様の何倍もうちにお金を出してくれる。

 坂上や秋山さんとは、彼女の仕事についてよく想像したものだが、今にして思えば、不思議な納得すらあった。

「じゃ、俺は業務に戻りますので、ごゆっくり」

「はいよー」

 酒井さんは上機嫌に返事して、店長が持ってきたスモークチーズを齧りながらカクテルを楽しんでいた。




 「お疲れー」

 仕事のシフトが終えて、酔いつぶれている酒井さんを見つめると、彼女はでろでろになりながら俺に声をかけた。

「ちょ! どういうことっすか先輩!」

「デートですか?」

 厨房から嘆く坂上とニヤニヤしている秋山の視線が恥ずかしかったが、酒井さんはふらりとしながら

「坂上くぅーん。ごめんお冷ちょうだい」

「はい! 酒井さん!」

 テキパキと動いて水を用意する坂上から受け取ったそれをグビっと一気飲みすると、酒井さんはそれだけで目が覚めたように顔つきが整った。

「ありがと。じゃ、いこっか烏丸くん」

「はい」

「ちょっと先輩、デートなんすか?」

「違う違う」

「昨日も夜、一緒だったってよ」

 店長が面白がって坂上に告げ口をする。坂上が泣き顔でこっちを見る。

「坂上くん。本当に烏丸さんとはそういうのじゃないから」

 少し色気のある声で坂上さんに言う酒井さんはその後、会計を済ませて俺の前を行って店を出る。

「かはは。可愛いよねえ。坂上くん」

「あいつ未成年で煙草吸ってますよ」

「そういうところもかわええやんかぁ」

 河原町を二人で歩く。町に半妖と酒呑童子が歩いているというのに、世間は気づかない。驚かない。当たり前である。目の前の半妖と酒呑童子は、人の姿をしている。見た目はその辺の人間と全く同じなのである。

 中身が違っても、ガワが一緒であれば、何もかも一緒なのだ。そして俺たち人間は、外を歩く時、周りなんて景色だ。案外、酒井さんの角が公に出ていたとしても、気づいて騒ぐ人は意外と少ないのではないだろうか。

「何考えているの?」

「あっ、いえ。それでどこに行くんですか?」

「ふふ、貴方を幽界の住人と認めて案内してあげるの」

 河原町の道沿いにあるエレベーターを見つける。このエレベーターは二階には大手レストランチェーン店がある。三階には変わった名前の居酒屋だったはずだ。その三階フロアまでしかない。

「入るで」

「ファミレスですか?」

「違うけど、んー。そうかも」

 エレベーターを開けて、酒井さんは上エレベーターで『13211322232132』とボタンをまるでゲームのコマンドを入力するように無邪気に連打する。

 何が起こったかわからずに彼女の背中を見つめる。エレベーターが動き出す。二階、三階、そして四階、五階と本来このエレベーターでは昇れない階へと登ってゆく。

「ようこそ、食事処羅生門へ」

 渋い声が聞こえて、声の方を見ると、ダンディな割烹着姿の男性がこちらを睨んでいた。任侠映画に出ていたんじゃないかというほど精悍な見た目に怯えて固まってしまう。

「おっ、烏丸くんじゃないか!」

 その精悍な男の前で座っている男が振り返ってこちらに声をかけてきた。平さんだった。

「平さん!」

「どう? お友達はできた?」

「……妖怪のなら」

「はい。お友達一号でーす」

 酒井さんはノリノリで肩を組んできて、平さんに向かってピースをする。

「おいおい酒呑ちゃん。烏丸くんの友人その一は僕やでえ」

 平さんも出来上がっているのか、ゲラゲラ笑いながら、こちらに手まねきをしているときをしている。

 平さんと酒井さんが俺を挟むように座る。

「はい。鮭茶漬け」

 精悍な男がその渋い声で俺の前に鮭茶漬けを置く。焼き鮭ときゅうりの塩漬けを添えられている。

「いいんですか?」

「初入店の人間にはサービスで出しているんだ。受け取れ」

「もう、不愛想だなぁ」

「いいだろう。別に」

「せやでえ酒呑ちゃん。これが茨木兄さんのええとこやないか」

「そうかなぁ。うちはもうちょい可愛げある子のほうがええんやけど」

「ならば、花子のところにでもいけ」

「うち、漫画とかはあんまり、なんかウチが悪く書かれてることあるやん? あんな凶暴ちゃうもん」

慣れた感じで話している三人についていけず、チビチビとお茶漬けを食べる。

「烏丸くんもっとぐいっと行かないと」

「すんません」

「あっ、そうそう。勇ちゃん。彼が茨木童子くん」

「童子と呼ぶな」

「子ども扱いされたくないんだって」

 外国人がわからない時などにする手の平を上に向けて腕をあげるジェスチャーをしながら呆れる。

「で、あんたは何を飲むんだ。酒井綾子さん」

「……ここでは酒呑童子でいいよ」

「仕返しだ」

 罰が悪そうに出された水を口に含んで飲む酒井さんもまた、普段見ることが出来ない表情をしていて、新鮮な気持ちになった。

「あまりじろじろ見ないで」

 恥ずかしそうに頬を膨らませる酒井さんから目を反らして茶漬けを流し込む。

「それにしても、烏丸くんもここに来るとはね」

 口の中の茶漬けを飲み込む。

「俺も驚きました。平さんがここにいるとは。というか、僕酒井さんに説明されないままここに連れてこられたんですが、なんなのですか? ここ」

 振り返ると、広いスペースにはさまざまな妖怪がいる。それぞれ話をしたり、ゆったりとしたりしている。

「妖怪専用のカフェだ。古臭いのも多いからな。基本は緑茶だ。お客さん。冷たいのか、あったかいのか、どっちがいい」

「じゃあ、冷たいので」

 そういうと綺麗な氷で冷やされた緑茶を出される。

「 僕もよくここには来るのよ」

「あぁ。平さんはかなり昔からの幽霊だからな。お得意さんだ」

「ここ、他にも美味しいもん一杯あるから是非食べな」

 そういうと平さんは立ち上がる。

「もう行くんですか?」

 俺以外の二人は平さんを止めなかった。

「あぁ。用は済んだしね」

 平さんの方を見ずに、茨木さんは湯飲みを丁寧に磨いている。

「じゃあ、俺もご一緒していいですか?」

 素直に、平さんと話がしたかった。同じ幽霊だからというのもあるが、初めてあった時から話している時とか、この人のことはかなり気に入っていたのだ。もっとこの人とお話したいと感じていた。

「……いいよ。ちょっと散歩しようか」

 平さんは優しい目で俺の方を見つめて返事をする。

「なんか、お茶漬けご馳走してもらっただけで申し訳ないです」

「いいよ。また今度飲みにきてくれたら」

「はい。ありがとうございます」

 俺は茨木さんに一礼する。ここの緑茶はとても美味しかった。酒を飲まない俺にとって、ここの方が性に合っているかもしれない。

 また、ここに来よう。

「じゃ、行こうか。烏丸くん」

 俺は今度はここに連れていってくれた酒井さんにも一礼して、食事処『羅生門』から出ていった。

 平さんがゆらゆらと歩く後ろを通る。といっても、普通の人には俺が普通に歩いているようにしか見えない。

「この辺まで来たらええやろ」

 人通りが少なくなってきて、平さんが話しかけてきた。俺も彼の横に移動する。

「そうですね」

「大勢人がおる場所やと、烏丸くん独り言言うてるやばい人になってまうからなぁ」

「そうですね」

 俺は思わず微笑んでしまう。この人の雰囲気は不思議なもので、特にこれと言った理由もないのに安心させてくるものがある。

「んでどや。半妖生活は」

「人間の知り合いが出来なくて心配ですけど、酒井さん……酒呑童子さんに狸がやっているラーメン屋を紹介されたりまぁ、楽しくなりそうだなぁとは思ってます」

「そうか。まぁ、無理して友だち作らなくてもええよ。烏丸くんなら職場の人とかで十分生命を保つのに十分やろうしのう」

 寂しそうにカッカッカと笑っていた。初めて会った時のような雰囲気とはまた違う様子に少々戸惑った。

「でも、いざ友だちを作ろうと思うと、自分の今の友人って本当にバイト先だけなんだなぁって笑っちゃいましたよ」

「あぁーそうだね。私も生前はそうだったよ。仕事先くらいしか知り合いがいないのよなぁ」

「ご家族は?」

「結婚も逃しちまったよ。愛する女房もいないのに戦争に出るってのは辛いもんやで。妻を置いてきたって聞いた奴を守ろうとも思った。けど、実際はわしが生き残ってしまった。

「平さん……」

「その後も結局何もできずに呆然と余生を過ごして綺麗に死んでいったのに、こうして幽霊になってもうて……悪運が強いのかなんなのか」

 平さんと俺は近くの公園に座ることにした。平さんははしゃぎながらシーソーに乗る。幽霊なので体重がなく、平さんが座った方が上がったままである。僕は逆側に腰かける。

「あら、やはり半妖やから実態があるんやね?」

「と、いうと?」

 平さんが手まねきをする。

「烏丸くんこっち座ってみ」

 平さんが座っていたところから降りて、俺を座らせようとする。従って座るとシーソーはゆっくりではあるけれど、じわじわと下がってゆく。

「うむ。やはり体重はあるんやの。幽霊やとこういう体重がものを言うやつで違和感を発することなるから気をつけよ」

「はい」

 平さんは先輩風を吹かせて語っている。俺もその先輩風が心地よく、後輩らしくはっきりと返事をする。

「ははは、烏丸くんは世渡り上手やのう」

「そうっすかね?」

「せやせや。返事のええ子は世渡り上手や。現にもう京都の妖怪の頭領酒呑童子と仲良くしてはるやないか」

「頭領? あの人が?」

 頭に過ぎる。俺達の店でフラフラとしている。あの飲んでばかりの人が頭領であると言う芸実を受け入れることができなかった。

「せやで? あの人、すっごい妖怪や。あまりの知名度に自分でなんもせんでも永遠に生きれるからのう。ああなると人間だらけきるもんや」

 平さんは溜息を吐きながら答えたが、すぐにあたりを見渡した。

「あの人、聞き耳立てるのだけは上手やからのう。き、聞かれとらんやろか?」

「まぁ、他人の悪口とか気にしなさそうですけどね」

「せやねん。そういう器のデカいところが、ああフラフラしてても妖怪の頭領たる所以やろうな」

 平さんはカッカッカと笑う。俺もつられて笑う。

 平さんの方へ少し近づく。シーソーの真ん中あたりに腰かけると、平さんが座っているにも関わらず、シーソーは僕を起点に水平になる。その状況を見て、平さんはふふっと笑った。

「あれやの。このどちらにも沈んでないシーソーは今の君や。烏丸くん」

 右側から、自分の体重が影響されず、シーソーに浮かされている平さんが真剣な顔をしてこちらを見つめてくる。

「君は今、人間と妖怪。どちらにも傾くことが出来る。僕が座っていない左側。そこに、君はしっかりと愛する人を追いて、人間側に傾いてくれ」

 平さんはシーソーから降りる。私も降りる。シーソーがどちらにも傾かないままで、普段見慣れない光景に目を奪われた。

「烏丸くん。君の話をもう少し聞かせてくれや」

「俺の話……ですか」

「せやのう。わざわざ僕なんかに懐いてくれている理由とか」

 平さんは意地悪くニヤリと笑いながら、俺の目を見つめる。懐いているのは事実であるが、それを相手に直接言われるとなんとも言えぬ気恥ずかしさがあり、目が泳ぐ。

「ははは。そない動揺せんでも」

「あっ、いえ。すみません。なんですかね……俺、父親と上手くいかなかったと言うか。平さんが父親だったら……なんて考えてしまって」

 父と上手くいかなかったことに大きな理由はない。父が厳格だとか、暴力に訴えるとか、そんなことはない。ただ、父は俺を俺として認識しないというか。どこまで行っても『息子』である事実に囚われているというか。俺が遅い反抗期に突入しただけなのかもしれない。それでも、今のフリーター生活に合わせる顏がないのも事実であった。

「そうか……そう思ってくれとったんか。なるほどのう」

 平さんはまんざらでもなく、照れくさそうに頬を指で掻く。こちらも少し恥ずかしくなるのだが、その後、平さんが悲しそうな趣になった。俺は何か嫌な予感をし、胸が痛くなる。

「烏丸くん。死人に愛情を向けちゃあいけない。本当の父がまだ生きているのであれば、彼と歩む道を探るんだ」

 平さんが背を向けて歩き始めた。俺もそれについてゆく。いつも笑っている平さんが真剣な表情になった後、何も話しかけてこないので、俺はどうして良いかわからず、話しかけることもできず、しばらく彼の後をついて歩く。

 30分以上歩いた時だった。平さんが一度足を止める。

「ここは?」

「59段の階段や」

「大学ですか?」

「おう。登るで」

 平さんはその人ことだけ言って階段を上る。

 俺もそのまま平さんの後について登ってゆく。

「本当に59段なんですか?」

「あの一番前の階段が59段なだけや。累計は僕も数えてないよ」

 深夜の大学に忍びこんで階段を上がるのは肝が冷える。

 平さんは大丈夫だが、自分は人にも認知される。もし警備員などに見つかれば溜まったものじゃない。

「静かに登っていればバレへんバレへん」

 静かに笑う平さんはその後「次右」と言って、案内する。

 歩いて一時間ほどかかった場所は大きな広場になっていた。

「この大学な。普段なら一般開放もしているから、今後も、定期的に行くとええわ。ここからの景色は朝も夜も結構ええ」

 平さんが見せた光景に俺は目を奪われた。決して絶景と呼べるものではない。しかし、この都市でここまで拾い景色を簡単に見れるのは少し新鮮であった。

 大学などが集まる住宅街で、ネオンがぎらつくようなこともない。暗い。ちらりとライトが見える。

「なぜ、ここに?」

「んー、ちょっと前から。最後はここって決めていたんだよね」

 平さんは、こちらに振り返ってニッカリと笑った。その笑顔を見て、俺は胸がぐっと苦しくなった。

 目に過ぎったのは母さんだった。母さんの

最後に見た笑顔だった。

「悪いな。烏丸くん。ほんまはこんなことをしたくなかったんやけど、さよならや」

 ニッコリと笑い、平さんの身体が薄くなる。

「平さん! 平さん!」

 叫ぶだけしかできなかった。何が起こっているかを把握するのにも時間がかかった。

「よう見とき、烏丸くん。君が、人と関わらない。孤独になってしまったら、こうなるんだという悪いお手本として、最後に烏丸くんと出会えてよかったよ。私にも、君のような息子がいればどれほど幸せだったろうか―――」

 最後に見たのは平さんの笑顔だった。皺だらけのくしゃっとした笑顔と背景の街並みは、背景の街並みだけになった。

 何も残らない。灰も、匂いも、何も、何も残っていない。

「平さん? た、平さん? 凄いな。幽霊は浮けるだけじゃなくて、と、透明にもなれるんだ――」

 気力を失ってその場で尻もちをつく。不思議と涙は流れなかった。呼吸が少しずつ荒くなる。自分のことなのに、それを止めることができない。自分の呼吸を自分で整えることもできずに、戸惑う。

 涙よ。出てくれ。悲しくないみたいじゃないか。

「たった数日の仲でも、失うのは怖い。そういうもんや。少年。

 そして一番悲しい時も、涙はでえへんもんや。気にせんでええ」

 後ろから声がする。一升瓶を片手に持って酒井さんだった。

 俺の母が亡くなった時、俺は、僕は、泣いていただろうか。泣いていなかった気がする。

 号泣する父の横で、母が死んだと分かっていながらも、泣かなかった。強がっていたわけじゃない。本当にどうしていいかわからなかったんだ。

「……とりあえず、茨木んとこいこうか」

 酒井さんは僕を抱えて、大きくジャンプをした。常人には出来ない跳躍力で、京都の町を闊歩した。本来なら興奮する状況も、女性におんぶされて恥ずかしいと言う感情も湧いてこない。

 もう夜も遅い。酒井さんの背中からほのかな酒の匂いがする。この匂いが心地良い。京都の風と酒井さんの匂いにくらくらして、俺はそっと目を閉じ、平さんの言葉を反芻させながら、そっと眠りについた。

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烏男はゲロゲロと啼く  春之之 @hiro0525ksmtc

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