第七幕)世界の後にある視線

 結局のところ、犯行を目撃された朋美さんを殺害して更にはその一部始終を見られた由奈も同様にそうしようとしたバカヤロー改めてあの男は、犯行がほぼ露見しかけた事で錯乱状態となって自殺したという事で解決の模様。たしかにあの時の様子は由奈が時折陥るような一時的な錯乱みたいな状態を更に強くしたような感じだったし、たぶん誰が見てもそう感じるであろうくらいには………うん、やっぱそうなるよね。

 由奈の証言によると、放火事件が起きた時刻あたりにあの男を目撃したような気がすると朋美さんが言っていたとの事なので、警察はその線を固めようとしているらしい。何よりこれも由奈の証言なのだけれど、朋美さんを殺害する動機が放火を見られた事みたいだし、不明瞭な点が無いワケではないのだけれど、それを知る当の本人がこの世に不在となったので仕方ない。例えば、出火元が二カ所の理由。由奈を狙ったかのように見えてしまった二カ所の放火の目的とか。

 が、しかし。ここらで放火でもしてやろうかしらと企んだ複数の人物が、たまたま同じ建物をほぼ同時に放火するに至った………そんな展開だったなんてなんとなく考え難いし、あの男の他にめぼしい人物が浮かび上がっているというワケでもないようなので、たぶんきっと二カ所ともあの男で間違いないのだろう。結局のところ、それに至る理由は判らないままこのまま終わりそうな感じ。

 それと。更に警察関係者が教えてくれた情報によると、あの男は朋美さんが勤務し由奈が入院している病院の精神科への通院歴が何度もあり、その度に鬱や不眠に効果のある薬を処方されていたらしく、一番新しいそれはつい最近だったとの事。

 また、診察などの際に助手としてついたナースさんによれば、仕事の愚痴やら何やらを親身に聞いてくれる朋美さんに好意を抱いてもいたらしいので、だからこそ由奈もあの男に見覚えがあったのだろう。

 犯行を目撃されたかもしれないという疑惑はもしかしたらその何度目かの診察の際に抱いたのかもしれないし、朋美さんからしてみればその何度目かの診療の際に記憶と一致したのかもしれない。そう考えると朋美さんにとっては不幸極まりない不運だったのだけれど、あの男の住居は由奈が住んでいたアパートからかなり近い距離にあるとの事なので、条件は揃っている。


 なので、きっと。

 こういう事なのだろう。


 自分の患者であり好意を寄せてくれている事もあって自首を勧めに呼び出したのか、それとも話しがあるとだけ伝えて呼び出したのか、兎にも角にも呼び出したあの屋上で朋美さんはあの男に口封じの為に襲われてしまい、それを目撃した由奈も………と、いうあたりで僕が駆けつけた、と。由奈の警護が一日中ではなくなった途端の今回の犯行という点を見ても、通院などで不審がられず観察する事が可能で、状況証拠もあるにはあるあの男しか充分に怪しいと言える人物はいないと断言しても構わないように思う。由奈の口封じを失敗して露見してしまい、それによって自殺までしたくらいだし。なので、これでこの事件は解決。以上を持って終了。お疲れ様でした解散。次の事件に行きましょう。残された僕達は、これからを強く生きていきましょう。今ある命を大切に。エンドマーク………ふう。


 それにしても、

 こんな形で終止符が打たれるとは。


 まさかと言えばまさかの急展開にかなり憔悴してしまったし、朋美さんのあまりにも理不尽な最期、そして朋美さん自身のこの世からの消失、それらは大きな悲しみとなって僕を襲っている。それと、朋美さんがあの男を目撃したとするならば、僕が朋美さんに由奈のトコへ向かってほしいと頼んだから向かったその時かもしれないワケで、僕のせいでこうなるに至った可能性を考えると正直、とてつもなく気が重い。


 の、だけれど。


 実のところ、失礼極まりない複雑な感情も少なからず芽生えており………兎にも角にも、取り敢えずという言葉がかなり幅を利かせた状態での解決なのは否めないのだけれど、言うならばこれで先送りにしていた難問を解く必要がなくなってホッとしてはいるものの、解く必要がなくなった理由が理由だけに素直に安堵するような気にはなれません。と、いったところ。


 が、しかし。


 僕による僕が僕の為にならないアレやコレやをその時の感情を優先して尚且つ後先を考えず繰り広げてしまった事がそもそもの発端であり、そんな僕の優柔不断さによって朋美さんも由奈もこんな事になったのかもしれないのだから、つまるところ巻き起こしたのが僕で巻き込まれたのが朋美さんと由奈であると言えなくもない。結局のところ、一番ヤラかしてしまったのは実のところ僕だったりするのかもしれない。そして、ヤッた事は必ず我が身に戻ってくる。


 それも………例外なく、だ。


 失礼な表現なのは重々承知の上で、それでも敢えて去来しているこの心情の一切合切を素直に吐露するとすれば、うん………時間を隔てて人参が二つ、僕の眼前でそれぞれ艶めかしく揺れていました。まずは、その内の一つ。僕はそれを見て見ないフリする事が出来なくて、あろうことかその先に待っているかもしれない今回のような問題の方を見て見ないフリして味わってしまう。すると、過去にした過去が現在となってつまり二つ目として眼前に出現した。自身で決めた事なのでブランクという言い方は適当ではないのかもしれないのだけれど、久し振りに味わうとそれはそれで飽きた筈のそれがそれはそれは全くと言ってもイイくらいに新鮮だった。


 ………はい。


 どうしようもない野郎です。

 紛う事なき外道ですね、僕。


 なのでその結果、激しく悩むという事態に身を置く事になりましたとさ。まさに自業自得。後悔してももう遅い。青いカラダの猫型ロボットさまに頼りたい気分なのだけれど、残念ながら僕の傍には居ない。東京都中野区にある一軒家に住んでもいないし、僕はもう大人です。故に、呼んでも来ない。ま、居たとしても助けてはくれないかな。結局のところ僕は、トラウマにまでなっている過去の記憶のみでなく、新たなトラウマをせっせと増やす事しかしていないのかもしれない。後悔していると言いながら、その時その時の欲情に服従を見せている。いつか僕にも、この仕打ちの報いが来るんだろうか。「ふう………」と、溜め息をもう一つ吐く。今日も今日とて僕はこうして、由奈が待つ病室へと向かっている。しかしながら、今日はいつもの電車通いとは違ってクルマを走らせている。しかも、電車で向かう時よりも早めに出掛けたのでかなり早い。早めに出掛けた理由は、大都市と言われる範囲内に一応は居を構えているので、平日の午前だろうがクルマだと混雑しているに決まっていると思っていたからだ。「カーナビって便利だなぁー」つまるところ、都会はいつでも混雑しているという想像はただの思い込みだったようです。人間の数は溢れかえるくらい沢山なのだけれど、ね。しかしながらまたまた、しかし。今日はそういった光景も視界には入ってこないし、その気配もない。この点については少なくとも今日に関してだけで言えば当然と言えば当然の事なので意外でも何でもないのだけれど、何はともあれこの先こうして由奈が入院している病院へと向かう場合以外でも必ずクルマを走らせる事になるだろうから、そういう意味ではある意味では良い経験になったとプラスに考えておこうと思わなくもない。問題があるとすれば今日、どのように時間を潰そうかという事くらいだ。逸る気持ちを抑えられなくて早く来てしまいました的に受け取るだろうから、そうなるとそれはそれでテンション激上がりしてバカップル劇場が激情と共に発動する事態になりかねないからね………由奈が。「前が見え難いなぁ………」それはそうと、兎にも角にも。お花見日和ですねという言葉が全くもって似合わない今日の空模様。所謂ところのどしゃ降りの雨。機嫌が悪いのか、気性の激しい今日の雨が絶え間なくと表現してしまいたくなるくらいのペースで………って、実際にそうなのだけれどクルマのフロントガラスやら何やらをばんばんばんとばんばんにばんばん叩き、更には滴り落ちてもいくので、視線の先にある視界は高い集中力を推奨したくたる程に不明瞭だ。確認する事は無理だろうけれど、雨雲という雨雲を何者かが何らかの理由でぎゅっぎゅっと絞るもんだから、それによってばしゃばしゃと漏れ落ちているのでは………と、いった感じだ。そしてそれが、今朝から際限なくずっと続いている。吸収効果の高いスポンジだってこんなには溜め込めないだろう事は明白というくらいの雨量だ。恐るべしですね、雨雲さん。僕はせっかちでもないしスピード狂でもないので法定速度を逆に守らない速度でゆっくりと走行する事にイライラは感じないのだけれど、よくよく考えてみると混雑している場合と変わらない速さで走っているのでは………うん。それなのにそれでも随分と早い到着だなんて、時間オンチだな僕って。あ、カーナビのおかげ様だったか。カーナビって凄いなぁー。「あ、そう言えば」と、ぽつり。研修だの出張だのといった重要な用事の時は決まって、今回みたいな早い到着を経験している。案外と真面目なのか? いいや、僕はきっと小心者なのだろう………と、独りで納得していると。目的地周辺に到着した事を告げるナビの声が耳に届いた。「さて、と」由奈が入院しているこの病院が所有する広いパーキングにクルマを入れて、暫しの待機を告げるかわりにキーを抜く。そして、左腕に巻いてきた時計を、ちらり。と、現在の時刻を再確認してみたりもする………うん、かなり早いね。さっき確認したのが文字どおりつい先程だったからなのか、それともゆっくりとはいえスムーズに此処まで来れたからなのか、その時に見た形と変わっていないのではないかと錯覚してしまいそうになるくらいに時計の針は進んでいなかった。もしも分度器を所持していたら、おもわず計測してしまったかもしれません。「ま、イイけどさ」時間調整すべきかどうするかを思考する事、凡そ数秒といったあたり。由奈に誤解されても其処は室内なのだから、僕等以外の人達が僕等に向けて発動する冷ややかな視線劇場を四方八方から浴びるという事はないだろう………と、そのような考えが脳内に浮かび上がったので、僕は由奈が待つ病室へと向かう事にした。


 の、だけれど。


「あっ、ヒロさんだぁー!」

 表玄関の自動ドアを二つ通り抜けてロビーに入ったところで、早くも由奈による由奈の声がした。つまるところ、由奈が僕に呼び掛けてきた。


「お、おう………」まさかロビーで僕を待っていたとは、ね。しかしながら、考えてみれば頷ける話しではある。由奈自身、この日をかなり心待ちにしていたのだから。


 そう、この日を心待ちにしていた。

 今日は、由奈が退院する日なのだ。


 ………。


 クルマで来たのはその為でもある。


「はう、う。ヒロさぁーん!」

 と、更に大きな声がして、やはりとでも言うべきか予想どおりの視線の数々が僕等に向けて発射された。が、しかし。此方も予想どおり、お構いなしにとたとたと由奈が駆けてくる。今のところ午前が午後となるには時計の長針にまだ何周かしてもらわなければならない時間帯に存在しているこの病院のロビーは、年輩のみなさんが外来で頻繁に訪れる類いの病棟とは別に位置している。故にその視線の数は比較するまでもなく少ないのだけれど、その数が少なくても痛いモノは痛いんです。どうやらこの先も、映画やTVドラマの中の世界ではなく実際の世界に身を置いている限りバカップル認定の危機は頻繁に訪れそう。場所以外は予想どおりの展開でしたなんて結末はまるで、ラスボスが待つダンジョンをゲージMAX状態で抜けたのに痛恨の一撃で一発即死するくらいに意味がない。


「いや待てユナ、うぐっ」そんなワケで、由奈がその勢いそのままノンストップで僕に抱きついてくる。その圧力はもしかしたら………抱きつく事を目的としたダッシュと言うよりも、倒す事が狙いのアタックに近いかもしれない。ならば、ニックネームは小さな巨人だな。


「こんな早くヒロさんが来てくれましたぁ………」

 何はともあれ取り敢えず今回もまたギリギリのところ、キャッチ&キープ成功。僕の耳元に位置する事となった由奈の口から洩れてきた心の底から嬉しそうな声が、僕の心をぎゅっと捕らえてそのまま占拠しようとしていた。


「ロビーなんだから大声を出さない事。それと、走らない事。迷惑をかけてはいけません」しかしながら、一応はそう忠告する。暴発した感情を即座に回収して、更には幽閉までするなんて、プロによる本気の豪速球をド素人がスタンドに運ぶくらい難易度激高な事だと判ってはいるのだけれど。


「だって、嬉しかったんですもん………えへへ。ゴメンなさい」

 僕のそれに対して由奈は、甘えるような声色でそのように返してきた。何だかそれは、いつも夜遅くに帰宅する働き者パパにやっと会えた日曜日の女の子みたいだ。と、想像だけでなのだけれどそう思った。


「よし。じゃあ、荷物を取りに行って、ちゃっちゃと手続き済ませて帰ろっか」規定では今日が午後となるその時までにお返しすればOKなので、時間的猶予はまだたっぷり有るのだけれど、此処に居るとどうしても鮮明にして克明に思い出してしまう事が満載なので、精神的に良くない事態になってしまいかねない。故に僕はそう告げて、出来るだけ早く先に進む事にした。告げた言葉の奥にある感情としては会話として不成立ではあるものの、それに目を瞑ればキャッチボールになっているといった感じがしないでもない。


「はい。そうするですおー!」

 僕のそんな心の機微までは流石に読めないであろう由奈は、想像だけで思った先程の感想に元気なという言葉も付け足したいくらいに、はきはき。と、返事をする。そして当たり前のように、至極自然にこれがデフォルトですとばかりに異論は認めませんかの如く僕の腕にしがみついてきた。それに対して僕はというと、受け入れる受け入れない以前に技が完成してしまって受け止めざるを得ないといった心持ちで並んで居室へと向かった。それにしても、由奈に今回の事件やそれによる悲劇を引き摺っている様子が全く見られない。例え優先順位があるとしても、だ。これほどまでに普段どおりだなんて事が、いいや。普段どおりどころかテンションが頗る上がっていて、嬉しい事があって嬉しくて仕方がないといった感じだ。勿論の事それは僕が感じた印象でしかないのだけれど、ある意味では勝手知ったるという間柄でもあるワケで、だとするとこれほどまでに悲しみを見せないでいられるなんて、あるものなのだろうか………いいや、きっと前に進む為にそうしているのだろう。うん、そうだ。そうに違いない。そう思う事にしよう。


「歩くのキツいとかない?」病室へ向かう途中、不意に感じた違和感のような感覚からの気持ちを切り替えた僕は、一応はそう確認してみる。由奈の歩行速度に合わせるよう努めてその姿を観察してみる限り、由奈はかなりスムーズな歩行動作をしているように見えなくもないし、先程などは駆け寄ってきたくらいなのだから、諸々を含めて大丈夫寄りなのだろうけれど。


「んと、ですね。まだ太腿が擦れたりすると痛いって感じる事はありますけど、痛み止めのお薬とかで散らしてますから大丈夫傾向ですよぉー」

 すると由奈はそう答え、組むだけではなく繋いでもいた手を離して更にぎゅっと腕に絡みつく。その表情から推測するに、僕が由奈への気遣いを見せた事に満足しているようで、なんだか照れくさい気もする。


「なるほど………あ、そうだ。手続きとか荷物とかはオレが請け負うからさ、クルマん中で待っててもイイぞ」それにしても、だ。再会した時の状態を思い浮かべてみると、この短期間でよくぞここまで回復したと思う。あの時は一歩目で崩れたし、たぶんどんな体勢でも痛くて眠れなかっただろうに。


「ヒロさんと行動を共にする所存です!」

 例えば、顔。額は未だ眉から前髪の生え際まで包帯で隠れているのだけれど、他は両頬に大きなガーゼ保護を残すのみ。目や口はその時から露出していたものの、今や両耳や鼻や顎あたりも肌を露出させている。随分と短くなってしまった長かった黒髪については由奈本人が望む髪型にすればイイ事で、つまるところ頭皮のダメージは殆ど完治しているといった感じに見える。どのような姿勢で、そして状態で倒れていたのかは兎も角として、顔の火傷痕は今後それほど残らないのでは………とは言え、少し以上の程度で残るだろうから、特に女性にとっては酷でしかないのは事実なのだけど。


「ん、了解しました」あとは、手。両の手の甲にそれぞれガーゼ保護をしており、その上に包帯が巻かれてはいるものの、指のあたりはほぼ露出している。その他の部位については当然の事ながら衣類で隠れているので、事情を知らない人が由奈を見たら、乱闘騒ぎでも起こしたのでしょうか的な感想を抱くであろう風貌になっている。


「了解されましたぁー」

 そう………衣類によって隠れている部位。顔や手についてのみならばよくぞここまで回復したものだと思いつつも、こちらの方は痛みの程度までは判らないもののまだまだ大変な状態という範疇にあるのは間違いないと思う。僕が記憶している一番新しい過去であっても、腹部、背部、臀部、上腕部、大腿部あたりの火傷痕はまだまだ相当に酷い状態だったのだから、おそらくきっと完治は絶望的なのだろうし、相当な程度の痕として残ってしまうだろう。


「なんだよ、それ」結局のところ、肌の露出が少なかろうが多くなろうが由奈がまだまだかなりの怪我人であるのは明白なワケで、そのような状態の由奈をこうして迎るにあたって、クルマを保有している僕にはタクシーや電車ましてや徒歩なんて選択肢は存在すらしないワケで、だからクルマで来たのだけれど、今日のこの激しさをキープした強い雨足の空模様からしても、クルマを持っていて良かったと自分自身を褒めてあげたいかも………って、由奈はどうしてこうも不幸に愛されてしまうのだろうか?


「必殺ツバメ返しです」

「それはオウム返しだ」


「えっ、なんですと!」

「やっぱ天然だったか」


「うっ、養殖ですが?」

「お、ダウト発言おつ」


 何はともあれ、由奈がこんな状態になってしまったのも朋美さんがあんな事態になってしまったのも全てはこの僕がキッカケなのだから、法で裁かれようがそうでなかろうが、僕の罪は重い。



 ………と、そう思っていた。

 クルマに乗り込む前までは。



 依然として機嫌を直す気配を見せない雨粒達に、そこかしこ至る所を叩かれまくる事の外にはとりたてて何事もなく、いつもの会話といった雰囲気に少なくとも僕は努めながら、僕等はクルマの中へと移動した。「ユナ………悲しいとは思うけど、近い内に手を合わせに行こうな」そして漸く、徐に、前に進む為になるべくなら思い出さないでいようとしているのであろう悲しい現実を敢えて、うん。これもやっぱり前に進む為に、僕は由奈にそう声をかけた。すると、エンジンをかけようとした僕に由奈が身体を寄せてきた。やっぱりそうだよな………まだ言うべき事ではなかったか。と、後悔。


 が、しかし。


「あの女は………当然の報いです」

 と、ぽつり。つい先程までの時とは激しく異なる冷めた声色で、表情で、仕草で、思いもしていなかった事を由奈が呟いた。


「えっ………」予期せぬ空気に逡巡しかけた僕は、逡巡していきながらも当然と言えば当然の如く由奈に視線を移動させた。



 そしてすぐさま、ぐらり。

 と、逡巡が愕然に変わる。



「………ユナ?」由奈がその心の内を露にしている証しなのだろう顔つきまでが、つい先程とはまるで違っていた。激しく違っていた。丸っきり、別人かのようだ。途端に、心臓が激しい鼓動を始める。どくどく、と。まるで波打つかのように。


「邪魔だったですから、自ら墓穴を掘って勝手に退場してくれてホント良かったです。ねぇ、ヒロさん? ヒロさんも、そう思うですよね? だって、だってこれでヒロさんは、心おきなく好きなように出来るですから………ね?」

 そして、それに呼応するかのように身体の震えが強くなる。

「実は私、知ってたんです………ヒロさんとあの女の事。でもそれは、私達が支え合う関係になるまでの遊びだって事もちゃんと判ってましたから。そうなんですよね? あの女はただの性欲処理なんです。その為だけの使い捨ての道具。私、ちゃんと判ってました。ホントはその役目も私がしたかったんですけど、それだと私が寄りかかったままになっちゃいますから、それだと以前と変わらないですから………だから、他の女を代用するのは仕方ないんです。だから、だから私、ヒロさんの事を怒ってなんかないですよ。そりゃあ、ヤキモチは沢山焼いちゃったですけど。でも、でも私、凄い成長したですよね? だって、耐えましたもん」

 由奈は僕から目を離す事なく、瞬きすらも忘れてしまったかのように見つめ続けながら、そして時折背筋を凍らせるような笑みをみせながら、感情の起伏を抑えられないのか抑えようとしていないのか、声を震わせながら話し続ける。

「それなのに、ですよ。それなのにあの女ときたら勘違いしちゃって………バカみたいでしたよ。あ、そうだヒロさん知ってましたか? 自分の事を恋人だと思ってたんですよ、あの女。それに、です。それに、それにずっと!  あの女はずっと、ずっとずっと、ずっとずっとずっとずっとずっとずっと、ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずうっとぉ! ずううううーっと! 半年も! 半年もですよ?! 半年も! あの女は半年もです! 半年も、半年も私を騙してたんです!! しかもしかも、私を殺そうとしてそれで放火までしたんですよ? ヒロさんどう思います?」

 独り言のように一点を見つめてそう捲し立てつつ、不意に僕を捕らえるかのように見据えてくる由奈に、僕は決して少なくはない怖さを感じて目の前が暗くなっていったのだけ、れ………ど、って。


 えっ、と………。

 今、何て言った?


「でも、でもでも、私を殺すつもりがヒロさんに言われたから助けざるを得なくなっちゃって、だから大失敗になっちゃって、だからだから今度は目の届く所に隔離して、それでヒロさんから遠ざけようとしたんですよ。でも、でもそれをヒロさんに言うワケにはいきませんから、そんな事したらヒロさんに嫌われちゃいますから、だからだからあの女、ヒロさんが私に会いに来てくれるのを止める事が出来なかった。ふふっ。ヒロさんを独占する事が出来なかったんですよねぇー、あの女………くふっ、あはは! ただの遊びですから独占なんて出来るワケないのに。初めからそんなの無理なのにさ。だから、だから私は、何にも知らないフリしてヒロさんに甘えて、エッチな事も沢山シテもらって、それで決定的な証拠も見せて、この私こそが恋人なんだぞぉーって思い知らせてやったんです! そしたらあの女………逆上しちゃった。此処から出してやるもんかとか言い出しちゃって………でも、でもでもでもその挙げ句がこの有り様なんですよね、あはは! それにあの女、早く忘れなさいとか忘れなきゃダメとか前に進みなさいとか言っちゃってさ、ヒロさんを諦めさせようと必死だったんですよ? でも、でも、でもでもそれでも私が拒み続けちゃうもんだから、そんなの当たり前だから拒み続けるに決まってるのに、私が拒み続けるもんだからあの女、だから私を入院させてそこまでして強制的に隔離しようとしたんです。で、で、で、ですよ! その間にヒロさんを奪おうとして………私、ずっと信頼してたのに。だから、だから私、約束を守って、だから定期的に通ってたのに。ちゃんと通ってたのに。それなのに、それなのにさ………それなのにですよ! あの女、バレたら豹変しちゃったんですよ? 本性を見せちゃったんです。ただの浮気相手の分際が性欲処理の道具が遊びの使い捨てが勘違いして本妻気取りだなんてそんなの激しく笑っちゃうですよ!」

 どうやら由奈は、僕が別れ話しを切り出した後の半年の間に起きていた事と大怪我に至って入院していた間に起きていた事、この二つを時系列どおりに説明するつもりはないらしい。ただただ感情の赴くまま、脳内で強く主張する事を心がどう感じていたかそのまま吐き出している。僕はそんな由奈に激しく恐怖しつつも、それを脳内で整理しながら聞き続ける。


 しかしまず何よりも………うん。

 記憶を失ってなんかいなかった。


 その事実に愕然としかけていた。


「でも、失敗しちゃいましたからねあの女。失敗しちゃったんですよねぇー、あはは! あの女………ヒロさんの事を、ヒロ。って、口走っちゃったんです。バカですよね、あの女。笑えますよ、ヒロさんと二人っきりの時はヒロさんの事をヒロって呼んでたみたいですけど、私の前でもヒロさんの事をヒロくんじゃなくてヒロって言っちゃったんです。だから、だから私に確信されちゃったんだもん。それで私は、あの女の企みに完全に気づいちゃいました。そしたらあの女、ヒロは私を愛してるとかヒロは私のモノだとか訳が判んない事を狂ったように言い出しちゃって。ウケますよね、あはは!」

 時折挟まれる笑い声は、僕を戦慄させるに充分な壊れ加減を有していた。僕は動けず、逃げ出せず、ただただ、そう、ただただ、由奈のターンを受け入れ続けるのみだったのだけれど、そのおかげと言うべきか、そのせいでと表現するべきか………繋がった。たぶん全てが繋がった。朋美さん、知ってたのか………由奈から僕との事を聞かされてたんだね。それで、僕が由奈を選んだと思ったから急に束縛するようになったのか………。しかも、朋美さんが放火の真犯人だったとは。今の今に至るまで僕は、少し年齢の離れた仲の良い姉妹みたいだとしか思っていなかった。それを疑う余地は見られなかったし、疑うという感情すら浮かんだ事がないくらいだった。


 由奈ちゃんを忘れなきゃさ、

 アナタもダメになっちゃう。


 そんなにも大切に想われて、

 由奈ちゃんが羨ましいなぁ。


 もしも私が恋人だとしたら、

 そこまで大切にしてくれる?


 正直に言えば、朋美さんとの毎日を少なからず幸せに感じてはいた。きっと、だからなのだろう………朋美さんの本心を知った今も、朋美さんが真犯人だったと知った今でも尚、朋美さんを悪く思う感覚はない。朋美さんが実はそんなにまで想ってくれていただなんて、実のところ思ってもみなかった事だし。それに、誘導していかなくても充分に魅力的で、正直に言うまでもなく惹かれていたのは間違いないし。


 あ、でも、そっか………。

 優柔不断な僕のせい、か。


 そして、

 由奈から見れば………。


 仕打ちであり、

 裏切りとなる。


 が、しかし。


 女性は浮気した男ではなく、

 浮気相手の女性を敵視する。


 場合によっては。


 男である僕からしてみるとそういう心の機微はやっぱり都合が良い展開だと思わなくもないのだけれど、それでもやっぱり心の大部分を占めるのは罪悪感であり、そして負い目であった。これは本心だ。だって、由奈がこんな酷い事になってしまったのは結局のところ僕のせいなのだから。


「判ってもらえましたか?」

 由奈の声色が再び変わった。


 由奈の独白は続く。


「責任とってくれますよね? だから、だからこうして、私と一緒に住んでくれる気になってくれて、今度こそ私を貰ってくれる気になってくれたんですよね?」

 今度は甘ったるい類のモノだ。

「私、ここまでしたんですもん………ね? だから、だから、これなら貰ってくれますよね? あの女のせいで予定よりも酷くなったですけど、ヒロさんはそれでも受け止めてくれて、それでも受け入れてくれて、こうして………こうして愛してくれてる。だから、だから私は、間違ってなかったんだって確信したんですよ? ねっ、ヒロさんそうですよね? だから私ね、こうなって良かったと思ってるんです………だって、だってこれなら私を貰ってくれますもんね?」

 しかし、それは決して僕に笑顔を宿らせる類の色ではなかったし、何よりもまず僕を更に更に凍りつかせるに充分なワードが含まれていた。



 ここまでしたんですもん。


 こうなって良かった。


 あの女のせいで。


 予定よりも酷く。


 今度こそ。


「………」何か言葉を発しようとは思うのだけれど、何を言えばイイのかが思いつかず、僕はただただ、ぱくぱく。と、身体の震えと同調するのみだった。とてつもなくイヤな予感がしたからだ。


「支え合う関係になりたいって、きっとこういう事なんですよね? これで私達は、そうなれるんですよね? だって私、こんな酷い身体になっちゃったんですもん。だからもう、ヒロさんが支えてくれないと生きてゆけないです。ねぇ、ヒロさん………まだ足りないですか? 私、ヒロさんを支える事が出来るように頑張ります。何でも言う事を聞いて、尽くして尽くして尽くし続けます。でも、これでもまだ足りないのなら、どうすれば支えてもらえるのか私に教えてください。私、ヒロさんの言う事でしたら何でも言うとおりにしますよ。あ、足を失えばイイですか? それとも、目が見えなくなれば支えてくれますか? もっともっと酷くなれば棄てないでいてくれますか? ねぇ、ヒロさん………私、まだ何か足りないですか? あんな女の事なんか考えず、誰の事も思わずに私の事だけ見てもらうには、あと何か足りない事とかありますか?」

 由奈が更に強く擦り寄ってくる。外側から発せられる恐怖と内側から発せられる恐怖でパニックを起こしかけながらも、それでも僕は思考する。


 出火元は二つ。


「………」その二つともあの男による犯行だと結論付け、僕自身の中ではそれで終息させてみたのだけれど、そういう事件として過ぎていくだろう筈だったのだけれど、由奈の話しによってそこにあろうことか朋美さんが加わってしまった。そして更には、ここに至って由奈までが名乗りをあげた。二枠しかないのに三人。その内の一つはあの男なのだから、残りは一枠。それなのに二人が加わってしまった。


 いいや、待てよ。

 

「………」由奈本人がそう言っているのだから一つは朋美さんなのだろうし、残りもう一つは由奈なのだろう事は明白だ。由奈の話しを全面的に採用するなら、とかなんとかはぐらかす意味なんてなく、由奈が言うとおりそういう事になる。と、言うかそうとしかならない。



 ならば、あの男は?



「ヒロさん?」


「………」動揺する僕に、整理してもう一度考え直してみろ。と、冷静な僕の声が聴こえる。そして、そんな事をしてはいけないという焦燥した僕の声も。この二つが動揺する僕を自陣へ導こうと引っ張っている。どちらも強い力で均衡している為に、頭がぐらぐらしてきたのだけれど、痛みさえ感じるくらいなのだけれど、だからと言ってだからヤメたでは済まない。由奈が僕に電話をかけた意図はつまるところ、僕がそれによって助けに駆けつけるだろうと予想したからで、だから火を放って自殺しようとまで見せかけた。そして、自傷する事も付け加えておいた。傷痕が残る怪我を負う事が、支えが必要な状態になる事が、それが支え合う関係という意味だと理解したからだ。そうすれば由奈は僕と、支え合う関係になれると思ったからだ。が、しかし。僕がその時たまたま研修で出張していたので予定よりも遅くなり、と言うか由奈の思惑どおりに駆けつける事が叶わず、それによって火傷はその思惑よりも酷いモノとなった。それこそ、本当に死んでしまうかもしれなかったくらいに。


 ここまでしたんですもん。

 ………の、意味がコレだ。


 けれど、でも。由奈からの電話を受けた僕が朋美さんに電話した時、朋美さんは由奈を殺害する為に放火した直後あたりだったと仮定したら………僕が電話したから、助けないワケにはいかなくなる。だから助けたのだけれど、そうなってしまったのだけれど、そのたぶん直前に実行したと思われる放火を犯した場面を朋美さんは見られていた。


 あの男に。


 と、なると。それについて脅迫でもされて呼び出されたのだろうか、好意を寄せていたらしいから朋美さん自身が誘い出したのだろうか、兎にも角にも朋美さんは口封じの為に屋上へ行った。しかし、返り討ちにあった。そして、それを由奈が目撃してしまう。なので、由奈は襲われた。そこで僕が間一髪、そして運良く。


「ねぇ、ヒロさん?」


「………」何はともあれ、由奈はどうにかこうにか助かった。予想以上の火傷によって失敗したと一旦は自暴自棄に陥り、それが精神科病棟へと移動する理由の一つにもなったのだけれど、僕は僕でそんな由奈を遠ざけたりは出来なかった………いいや、違う。精神科に移動したのは朋美さんが由奈を隔離しようとしたんだっけ。頭の中が混乱している。纏まりそうで纏まらない。けれど、何はともあれ僕は由奈を遠ざけたりはしなかった。と、由奈は見てとるだろう。たぶん、朋美もそうだ。


 だから、由奈はこう思った。

 愛してくれているからだと。


 僕が少なからずの罪悪感や負い目を抱いているとは思わず、朋美さんに会う為でもあったとも考えず、ただただ愛されているからだと理解した。そして、それを確信に変えた。僕が本心から支え合う関係になりたいと思っているのだ、と。故に、結果として予想以上となってしまった重度の火傷はトラウマから除外される事となった。実は自身が勤務する精神科病棟に隔離して、僕から遠ざけようとしていた朋美さんという邪魔だった存在も、放火を見られて脅迫してきたあの男を口封じするつもりが返り討ちにあった事で自滅し、由奈は僕と暮らすという現在を得るに至る。


 こうなって良かったです。

 ………の、意味はコレだ。


「あ、あ、そうでした! えっとえっと。あの女、あの身代わりさんに放火してるとこを見られちゃったみたいですよ? 脅迫されてたのかまでは知らないですけど、何度も来てたみたいですし。それにあの時、私を突き落とした後で同じように殺すつもりだったみたいです。私が火傷かそれとも他の何かを苦にして自殺したという筋書きが巧くいかなかった場合を考えて、あの男のせいにするという保険を作っておこうとしたみたいです。酷い女ですよね? ホント、酷い女ですよ。ヒロさんもそう思いますよね? でしょ?」

 たぶん僕が返答する事なく考え事に集中していたから不安になったのか、ここに来て由奈は新たな情報を告げる事で僕を自身の方へ引き戻そうとしてきた。そう言えば僕が真剣に考え込むと不機嫌になったように見えるらしく、だから由奈はいつもこう、し、て。


 って………えっ?


 私を突き落とした、

 その………後、で?


「ヒロ、さん?」


「………」と、いう事は。朋美さんは由奈を殺すつもりで屋上に居た、のか? あ、そうか。由奈の話しによると、由奈と口論になったらしい時に朋美さんは放火を告げてしまったみたいだし。そうでなければ由奈が知っている筈がないのだから。あの身代わりさんに襲われている事から、あの身代わりさんに教えてもらったという線もないだろうし。


「ヒロさぁん………」


「………」うん。そう言われれば、たしかにそうだよな。そうなると放火犯が誰なのか知った由奈にとっては、たぶんそれは僕を自分のモノにする為の強力なカードの一つになった筈だ。なので朋美さんとしては、あの身代わりさんと同様に由奈という存在も都合が悪い。だから由奈も纏めて殺害しようと考えるのは、もうそんな状況下では自然と言えば自然なのかも、だよ、な………ん?



 身代わりさん?



「ヒロさん………」


「………」僕はどうして、あの男の事をバカヤローではなく身代わりさんって………あ、由奈があの男の事をそう表現したからそれにつられたのかな。由奈は朋美さんを嫌っているし、あの男が代わりに殺害してくれましたみたいな意味でそう言ったのかな………えっ?



 ちょっと待てよ。



「あう、う………ヒロさん」


「………」由奈はあの時たしか、あの男よりも先に屋上に居たんだよな? だとすると、だよ。それだと朋美さんは誰に突き落とされたんだ? 僕が見た人影は、間違いなく一つだった。朋美さんが突き落とされたのだろう直後だから、あの人影が突き落とした犯人という事になる。


 立ち入り禁止の屋上。

 そこに、三人………。


「あう、う………」


「………」二人とも、一度に呼び出したのか? その後少しして由奈が襲われているワケだし、だからそっちの方の人影二つは由奈とあの男だ。と、なると。朋美さんは由奈をあの男に突き落とさせて、それからあの男を突き落としてしまおうと考えていたのだろうか? そうなると、朋美さんはあの男の自分への好意を巧みに利用しようとした、と………ん?



 いいや、違う。



「ヤダよぉ、ヒロさぁーん………」


「………」あの時あの男が朋美さんを突き落としているのだから、実際には由奈よりも先にあの男を突き落とそうとしていたという事になる………ああぁー、ダメだ! また混乱してきた。もう少しで見えそうなのに。



「イヤですよ、ヒロさぁーん!」



「ん、えっ?」由奈の悲痛な叫び声によって、僕は思考の世界から引き戻された。「どうした?」僕による沈黙がどのくらい続いていたのかは僕には判らないのだけれど、由奈が僕にしがみついて泣き叫んだので、思考する事を中断せざるを得なくなる。そして、僕の視界は由奈の顔で埋め尽くされ、その表情を受けた僕という僕が固まる。


「もう、このまま………」

 その後に続く由奈の言葉を、僕ははっきりとは聞き取る事が出来なかった。もしかしたら、声にして告げてはいなかったかもしれない。が、しかし。僕はこの時、本当のところはどうであったのかを認識する余裕はなかった。由奈の表情が、特に目が、由奈の中にある狂気を感じる程の圧力だったからだ。それ故になのだろう、何も聞こえなかったのだけれど、由奈の唇がこう動いたと確信に近い感情で思った。



 は、な、れ、て、な、ん、か、

 あ、げ、な、い、か、ら、ね。


 ………と。



「ねぇ、ヒロさん? こんな激しい雨の、こんな日のおクルマの中って、密室みたいで興奮しますね………だって、だって何をシテも外からは見えないですし、どんなに声を出しても聴かれないでしょ? だから、だから、ねぇ、ヒロさんっ………んぐ」

 ただただ、ぱくぱく。と、震えている僕の口が、由奈によって由奈の口でしっかりと塞がれる。しかしそれは、必ずしもキスとは表現しがたいものだった。一旦離れたかと思ったら顔中を舐め回され、そしてまた再び塞がれるという繰り返し。由奈はいつだって、この後でするつもりなのだろういつもの行為に最善を尽くす事で僕を取り込もうとする。女性の武器と思っているのだろうか。それとも、男の弱点だと読んでいるのだろうか。いいや。きっと、たぶんそれこそが………うん。由奈が考える僕への愛情表現の一つなのだろう。


 じゅる、

 べちょ、

 と、いう音の間に。


 はぁ、

 はぁ、

 と、いう荒い呼吸。


「らい、しゅき、れしゅ、よぉ………んぐ」

 その繰り返しを受けながら僕は、由奈との現実に思考を独占されていった。

「あらひの、モノ、ん………じゅる」

 僕はこの先、はたしてどうすれば良いのだろう?

「あらひ、らけ、の………はむっ」

 僕はそれすらも判らないでいる。

「んぐ、んぐ、んく、ん、んっ、はあ、はあ、らい、しゅき、らよぉ、れろっ、んっ、んくっ、ヒロさぁん…んっ、しゅ、しゅき、れ、しゅ…ん、んっ…んぐ、ぷは、はう、はむっ、んく、しゅき………しゅき、んぐ」

 僕自身の事なのに。

「はあ、はあ…んぐ、ん、らい、ん、ぐ、しゅき、んっ、んぐ…れしゅ、んっ、ん、んっ、ぷは、はう、う………ヒロさぁん、これからは毎日、いつでもどこでも、ヒロさんが望めばすぐにお口で沢山シテあげるですおー。ヒロさんと私のお部屋に着いたら、そしたら、そしたら私を好きに使って、気持ち良くなってくださいね? えへへ………んぐ、はむっ、じゅる、んく、んく、ん、ん、んっ」

 僕自身の事なのに。


 それなのに。


「………」由奈の細く白い手が、指が、僕の下腹部をゆっくり露出させていく。僕を見つめたまま、いいや。僕の機嫌を見極めるかのように見据えたまま、由奈の顔が僕の下腹部へと下りていく。それを僕は、ただただ受け止める。動けない。逃れられない。怖い。怖くて怖くて仕方ない。


 の、だけれど。


 なんとなく、本当はなんとなく気づいている。そしてそれは、時間を経る毎に確信へと変わるのだろう。思考する事を再開すれば真相に近いものへと辿り着くのだろう。が、しかし。罪悪感や負い目から僕は知らないフリをしようとしている。


 身代わりさん。更にもう一つ、

 墓穴を掘って勝手に退場、と。


 由奈はたしかに言ったのに。


 放火が朋美さんと由奈による犯行だという事を知っているのは、今は由奈と僕の二人きりだ。警察がそう推測して捜査を進めているという話しは聞いていないし、それどころか朋美さんは放火犯であるあの男を目撃した為に、口封じで殺害されたと考えている。つまるところ何にせよ、放火も殺害もあの男による単独犯だと。故に、朋美さんも由奈と同じ被害者だと考えている………と、思われる。


 それなのに身代わりさん?

 墓穴を掘って勝手に退場?


 僕が想像して辿り着いた事は、決して有り得ない想像ではない。しかし、そんな理由ではたしてそこまでするものだろうか………いいや。犯罪なんて結局のところは自身の欲で他者を傷つける事なのだから、その理由は本人でなければ理解は出来ない事なのかもしれない。他者から見てみると疑問にしか思えないような事でも、本人からしてみればそれは譲れない一線だという事は多々ある。


「あ、そうでした………私のお腹の中にですね、命が宿ったんですよ。勿論、ヒロさんと私のです。ヒロさんに愛されてる証し、えへへ………ん、はむっ、ん、んっ、んぐ、じゅる、んく、ん、ん、んんっ、ぷは、はあ………んぐ、ん、んっ」

 それは、とても嬉しそうな声色だった。とても温かな笑顔だった。幸せそうな姿だった。


 これが………決定的な証拠、か。


 朋美さんによると、由奈は虚言癖があるかもしれないという事だった。愛情表現の一つなのだろうか僕には嘘をつかな過ぎるくらい正直な面があったりするのだけれど、心を開いていない人に対しては嘘や演技で自身を守ろうとする。そしてこれはたぶん僕も含めて、試そうとする。それは、過去のトラウマによるところが大きい自己防衛手段なのだろう。だからこそ由奈は決して、口が滑ったというワケではない。たぶんきっと僕に告げた真実の全ては、如何に僕を愛しているか、如何に僕が大切かを僕自身に判ってもらおうとしての事で、きっと由奈にとっては自身が犯した罪の数々すらも僕への愛情表現の一つでしかなく、こんなにも好きなのだから棄てないでくれという献身さをただただアピールしただけの事。


 だから………この真相は、

 きっと、こうなのだろう。


 どちらが屋上に呼び出したのかまでは判らないのだけれど兎にも角にもあの時あの場所で対峙していたのは、朋美さんと由奈だ。だから、朋美さんを突き落としたのはあの男ではなく………由奈なのだろう。どのようにして突き落としたのかを想像するとすれば、つまるところ心理的な誘導だろう。精神科医に心理戦を挑むのは無謀な気もするのだけれど、ここらあたりの由奈はきっと自信満々だった筈だ。それは何故かと言うと、僕に愛されているのは自分の方だと確信するに至っているからだ。そこらあたりから推測するにたぶん対峙していたのは精神科医と患者ではない筈で、だからこそ朋美さんはハマったのだろう。由奈の思惑どおりに。たぶんきっと精神を揺さぶる筈が逆に揺さぶられ、それに気づかず朋美さんは由奈によってあの屋上から突き落とされた。


 そして、

 その一部始終を見た者がいた。


 あの男だ。そう考えると、あの男は朋美さんに好意を寄せていたらしいという話しが完全に生きてくるし、朋美さんによる放火を本当に目撃したのかもしれない。つまるところ、朋美さんが予め甘い言葉か何かであの男を屋上へと誘い出していたのだろう。由奈を殺害する為に利用しようとしたのか、それともあの男も順番に殺害する為なのか、利用する為か、口封じの為か、兎にも角にも時間差で屋上に到着する事になる。そうすると、あの男は朋美さんが口封じするつもりで呼んだとしても、それを知らないままという事になる。少なくともそれを知るであろうその前に、由奈が朋美さんを突き落としたからだ。だから、あの男は好意が実るかもしれなかったという方向にあっただろう。だから朋美さんを殺害されて逆上し、怒りと恨みで由奈を殺害しようと襲いかかった。そして、この時点で既にもうサイコパスまであと一押しくらいの精神状態にいたのだろう。だって、片想いが実るという夢に見た現実が僅か先にあると思っていたのだろうから。


 そこで、

 僕が駆けつけた。


 しかも、由奈が殺害されようとしているまさにその最中だ。瞬間的にキレてしまった僕は、恥ずかしながら昔の僕に戻ってしまったかのような狂暴さで由奈を救出する事に成功する。ここで私服警察官やら制服警察官が登場して一件落着の匂いを醸し出したところで、咄嗟に機転を利かせた由奈の虚言が発動。あの男が反論という発言をする機会を悉く遮りながら、言葉であの男を追い詰めていく。何もかもの犯人へと陥れられてしまいかけていったあの男は、この流れによって元々の症状が更に更に悪化して錯乱状態となり、今に至る………と。これでは何とも場当たり的というか、何とも綱渡り的な賭けという気がしないでもないのだけれど、事ここに至っているのだから由奈の思惑どおりと言える。たぶんきっと当たらずも遠からず。実際のところもこんな感じなのではないだろうか。


 が、しかし。


 僕がこれを警察に告げたところで、由奈による犯行だと示すものはもう何処にも見当たらないし、それをすれば朋美さんは悲劇の被害者から殺人未遂の犯罪者へ、がらり。と、その姿を変えてしまう事になる。そして何よりも、例え由奈による犯行であると示す証拠のような決め手が見つかったとしても、僕はもう由奈から逃げる事は出来ない。保護者。保証人………いいや、夫として結局は支えなければならない。罪悪感、負い目、そして未だ少なからず抱いている由奈への愛情………由奈を見捨てる事は僕には出来そうもない。つまりそれは、共犯者になるという事だ。全ては僕が招いた事。全てのきっかけが僕。ここまで追い込んだのも僕。ならば、この結末に至る全ての犯人はこの僕だ。


 殺されるべきは、

 本当は僕なのかもしれない。


「ん、んっ、んくっ、ぷは、ふぅ、ふぅ、うう、あうう、う………ヒロさんの、食べたくなってきちゃいました。ヒロさん、ねぇ………イイですか? えへへ………」

 由奈の目が爛々としている。息づかいも荒く、表情が淫らさを帯びている。由奈の両の手が、僕の下腹部を晒そうとしている。僕はきっと、こんな心境でも簡単に反応してしまうのだろう。


「………」ぬるぬるとして、時にざらざらとした感触が、べとべとになった顔中にじんじんとした刺激を強く残している。そして、新たに加わったもう何度目になるのだろう感触に溺れていく。けれど溺れながら、僕は未来を想像する。由奈はきっと、本当にしてしまうだろう。自分の身体に損傷を与える事すら厭わないという事実が、今回の件で浮き彫りになったからだ。僕はもう、由奈を傷つけるワケにはいかない。それはたぶん、自分の首を絞める事にしかならないだろう。


 もう僕は由奈の、

 手のひらの上から逃れられない。


 ………、


 ………、


 ………、


 殺そうとでもしないかぎり。


 人が人を殺そうとまで思うに至る動機って、人が人を殺そうとするに至る動機って、本当のところはなんなのだろう? きっかけや火種から積み重なって決め手となるまでに、人はどれだけの労力を使い果たすのだろう? たぶん僕には、いいや。きっと僕には、由奈を殺してしまいたいまでの感情を抱くには至らないだろう。勇気とか、若しくは度胸とか、或いは衝動とか、そこまでには至らないだろう。かと言って、耐えれるほど精神が強靭というワケではない。殺す度胸も死ぬ勇気もなく、そんな衝動さえ芽生えないまま、僕は徐々に徐々に神経を磨り減らし、憔悴し、疲れきって疲れはてていくのだろうか?



 ………、


 ………、


 ………、



 僕のターンは………もう。

 来ないのかも、しれない。



             第七幕)おわり

             第八幕につづく

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