第六幕)記憶の中にある世界
少しふやけた指を、ぼんやり。と、見つめながら。私は今日も罪悪感に苛まれる。でも、ぞくぞくとした背徳感に高揚してもいるし、ふわふわとした満足感に溺れてもいたりする。自然に込み上げてきて更には溢れ零れようとする声をなんとか噛み殺しながら、脳内で描いた妄想を自身の指に宿した、そんな都合数分間程度の短い戯れ。その程度で高まりきってしまう自身の不埒さは、このような不自由すぎる空間では吉となると言えなくもないのですが、あの強い高揚感とこの深い満足感には未だに飽きがこない。一行に訪れない。もう数えきれないくらい浴びているのにも関わらず、それらは飽きるどころか慣れるどころか感度がこの先も極限知らずで上がっていくのではないかという有り様で、私を虜にしてそのまま今日に至ってもこうして痺れさせる。
はあ、はあ、っ………。
気持ちよかったよぉー。
これが束の間の現実逃避であろうとも、化身によるただの独りよがりであろうとも、過去という道のりにたしかにあった幸せを身体が覚えている限り、脳が記憶している限り、幾度も心が求めてしまう。それを体感したいが為に。実感したいが故に。一心に溺れてしまいたい、と。
またですよ………はう、う。
また私、シテしまいました。
はあ、はあ………。
もうこれで何夜目になるのかな………と、言うよりも。何度目になるのだろうと言うべきかな。だって私、毎日シテいるというだけではなく、何度もシテいるんだもん。昨日もそう。一昨日だってそう。その前も、更にその前だってそうです。その日その日に一度や二度くらいなんて程度ではない事さえあるくらいです。指折り数えてみると、折り畳んだ指がまた伸びて再び………と、何度かループしてしまうくらいにまで続く。諸事情によって今は、カーテンで閉ざしたこのベッドの上で、なるべく音を立てないように………なのですが。以前であれば浴室、トイレ、キッチン、ソファーの上、ベッドの上。更に言ってしまえば、強めのシャワー。オプションとしてソープ。他にもある。まだまだある。強めに設定したウォシュレット、テーブルの角、洗濯機の脱水機能の振動。そして、何よりも………ヒロさんの残り香を感じる事がデキる全て。
そして勿論の事。
この指も………。
日に何度も何度もシテしまうだなんて、私はどこまでも汚れてしまっている。貪るように浸る事で、ヒロさんが与えてくれるアノ悦びを再現しようと、デキるならば味わおうと、今まさに体感していると、与えてくれていると思い込もうと、体感している気になろうとして、それらを実感する為に私という私を私の全てをヒロさんで埋め尽くそうとしている。故に一番の方法は、イヤホンを両耳にヒロさんとの隠し撮りを観ながら、うつ伏せの状態で膝を立て、お尻を突きだし、下腹部にある突起を片方の手で、そして卑猥なジュースが溢れてくるところをもう片方の手で存分に刺激する事です。
はあ、はあ………。
私のヒロさぁーん。
それでもまだ、今日はこれで二度目の不埒。数時間も経ていない間にシテしまったおかわりではあるのですが、それでもまだ二度目。いつもと比べたら確実に少ない方ですね………今のところは、ですけど。
はうう………。
ふわふわする。
身体がまだ、余韻に震えている。脳がまだ、回路を使いこなせていない。ただただ心が、ヒロさんを求め続けている。私にとって唯一無二の存在であるヒロさんを。私がこんなにも不埒で淫らな事を求めるのは勿論の事、ヒロさんだけです。ヒロさんにしか求めないし、求めたくない。求められない。求めたくもないし求めるワケがない。考えない。考えたくない。考えられない。考えたくもない。私はヒロさんにのみ強く欲情し、ヒロさんにのみ深く溺れている。ヒロさんだけが、この私の心を脳を身体をううん私の全てを独占している。どれほどの暗闇に覆い尽くされようとヒロさんを思えば、絶望に直結する何もかもを忘れていられる。
私は今、此処にいる。
たしかに生きている。
それを感じたいが為に、私は何度もシテしまう。身体が覚えている刺激の全ては、誰に与えられたモノなのか。脳が記憶している感覚の全ては、誰が与えてくれたモノなのか。心が求めている高揚の全ては、誰によって導かれたモノなのか。それらは決して夢なんかではなく、嘘なんかでもない。ヒロさんと私は、幾度も一つになった。ヒロさんに私は、何度も、何度も、何度も。
ヒロ、さぁん。
ヒロさぁーん。
ヒロさんは、私の身体を清めてくれる人。頭の中を真っ白にしてくれる人。そして、私の心を根刮ぎ持っていった人。だから私は、ヒロさんから離れられない。ヒロさんを忘れられない。こんな私をヒロさんは、ヒロさんで上書きしてくれる。私の過去を、忘れさせてくれる。消してくれる。塗り替えてくれるんです。私はヒロさんのモノになる事によって初めて、私という汚れた存在を肯定する事が出来るんです………そうです。私は汚れた存在。汚れた私。汚れている私。汚れてしまった私。私は汚れきっているんです。その昔、汚されてしまいましたから。
それはまだ私が、
中学生の頃です。
そしてそれはただの一度ですらなく、四年という月日を越えるあたりまで続いた恐怖と屈辱の日々で、その最初の日から約四年後に漸く終わりました。結果として四年近くも耐え続けたのは、恐怖の方が勝っていたからだと思います。相談なんて誰にもデキませんでしたし、逃げるアテもありませんでしたし、何より私が何らかの幸運によって逃げ出せる環境が提示されたとしても、大好きなお婆ちゃんのお世話をする人がいなくなりますし。そんな理由で? と、思われるかもしれませんが、そんな理由が当時の私の全てでした。そこが私の世界でした。耐える以外どうすればイイのか判らなかったんです。四年………とてつもなく長い年月でした。
そんな恐怖と屈辱の日々が終わった理由は、二つあります。一つ目は私が壊れたからで、もう一つは何度も何度もそれこそ毎日のように私を汚した張本人が、私が壊れてしまうまでそうした挙げ句、散々そうした挙げ句、私が壊れたのを見て私が壊れてしまったと漸く自覚した途端に、自ら死を選んだからです。しかも、罪の意識に苛まれて蝕まれた挙げ句の果てではなく、私が壊れて精神科の病院に入院したからで、その事によってその鬼畜ぶりが露見した為に、自分自身の未来に激しく絶望したからです。周知の事実となったその環境に、自尊心が耐えられないと感じたから。と、いう身勝手で自分本位なそんな理由で。私はその時壊れてしまいましたから記憶になく、なのでこれは聞いた話しなんですが、崩壊して遂に耐えられなくなった私が殺してやると襲いかかったのを見て漸く、アイツは私がそんな毎日を少しも受け入れてはいなかったという事を知ったんだそうです。私の悲痛な叫び声や苦痛に歪んだ顔を、快感に溺れた喘ぎ声や悶え顔だとしか思ってはいなかったそうです。
たしかに私は、汚されていくにつれてイヤなのにそれでも反応してしまう自身の愚かさを覚えています。記憶しています。だって、それこそが私の秘密ですから。イヤなのにそれなのにどうしても感じてしまい、イヤなのにそれなのにそれでも応えている形になってしまっている自身のそんな有り様を誰かが知ったとしたら、その誰かは間違いなくアイツと同じように思うでしょう。そんなワケがないのに、そうとしか思ってはもらえないでしょう。だから私は怖いんです。ヒロさんにそんな事を知られたら、私は居場所がなくなってしまうかもしれないううんそうに決まっている、と。現に、そうだとしか思っていなかったんですからアイツは! そして、たぶん………家族だった人も。だから、だからヒロさんがどんなに優しい人でも、私なんかをそれでも許容してはもらえないんじゃないかって、私はそう怯えているんです。
私は今でも覚えています。忘れられる筈がありません。地獄の始まりから、その終わりまでの数々を。いつまた犯されるのかと怯える日々。目を閉じれば悪夢となって魘される日々。目を開けていると不意に思い出してしまう、そんな日々。心に脳に身体にそれらが刻まれているんですから、刻み込まれてしまったんですから、終わったけれど終わってなんかいないんです。生きている限り、終わりなんて永遠に来ないんです。私がこの手で殺す事が出来ていれば、たぶん少しはマシだったかもしれませんが、それなのにアイツは………ううん、それでもきっと悪夢からは逃れられないんでしょうね。だってほら、今でもすぐに浮かんでくる。全て忘れてしまいたいのに、何もかも消してしまいたいのに、それなのに浮かんでくる。
特に………あの始まりの日が。
初めてを奪われた、あの時が。
そうです。
私はレイプされました。
それも、身内からです。
それは突然の事でした。いきなり押し倒されて乗り掛かられ、そして強引に唇を塞がれました。唇を押し付けられたんです。顔を何度も左右に振りましたが、腕を足を身体をバタバタさせる事で拒絶の意を全身で示したんですが、力の差は歴然です。精一杯の抵抗もさほどの効力すら発揮しませんでした。小柄で華奢な体躯ですから、尚更だったのかもしれません。まずは、上半身から弄ばれました。衣類を乱雑に捲られ、下着を乱暴に剥ぎ取られ、剥き出しになった部分を掴まれ、摘まれて、揉まれて、吸われて、転がされて、噛まれて………アイツの思うがままにイジられました。それを堪能する事に意識が偏るからなのか、その度に押さえる力が弱まっている時もあったので、私の抵抗は僅かながらでも成功する事はありましたが、性欲の捌け口を逃がすまいとでも思っていたのでしょうね………何度も叩かれました。何度も殴られてしまいました。その度に罵倒され、脅されもしました。怖くて声が出せなくなりました。怖くて痛くて悲鳴が消えました。そして、嗚咽だけとなりました。すぐに唾液でベトベトにされていく私の身体………このまま屈服するしかないのかと、その屈辱的な自身の運命を呪っていると不意に、押さえていた圧力が消えました。下半身を弄ぶ手筈を整えようと、下着に手をかけていたんです。私はその時、そんな状況でも反応してしまう無様な自分自身に抵抗し続ける為に強く目を閉じていた分だけ、判断が遅れてしまいました。暴力によって朦朧としていたせいもあると思います。それに気づいて拒絶の意を示そうと手を伸ばした時にはもう既に、私の下腹部はすっかり露出していました。下着ごとお尻の下、膝のあたりまで刷りおろされていたんです。そして、呆気なく脱がされてしまいました。けれどそれは、その悪夢から逃れる絶好のチャンスでもありました。だってそれは強く押さえ込まれていないという事ですし、乗り掛かられてもいないという事ですから。私は、闇雲に足をバタつかせて蹴りつけると同時に上体を起こし、必死に後退りしました。更には立ち上がって逃げようともしました………でも、立ち上がろうとする事に無我夢中になり、アイツから背中を向ける体勢になってしまったのが間違いでした。場合によってはこの場面が絶体絶命のピンチから脱出する最大のチャンスかもしれなかったのに、アイツというアイツから視線を完全に外してしまったばっかりに、簡単に後ろから襲われてしまい、組み伏せられて、ひっくり返されてしまったんです………つまるところ、ふりだしに戻るっていうヤツです。そしてすぐさま私の両足をそれぞれ左右に力任せに開いたのと同時に、私の下腹部へと顔を寄せたアイツは、私の足を自身の腕で押さえるようにしてから私の手をそれぞれ掴み、そのままその腕で腰を押さえる事で私を制し、その上でたっぷりと味わったんです………その途中、強い刺激を感じる度にびくんと跳ねてしまうバカな私を見て気を良くしたのでしょう、アイツは笑っていました。鼻息は荒いまま、けれど怖かった目は様変わりして、遂には私を蔑んでいました。刺激に負けて抵抗する力が抜けて、感じてしまっているのか丸判りな声まで洩らしてしまうバカな私に、更に気を良くしたのでしょうね。悔しいしそんな自分が憎くて仕方ないんですが、どうしようもなく反応していたのは事実です。そして、それが暫く続いた後に笑いながら顔を離すと、私の顔の方へと密着しつつ這い上がってきて………私の中に強引に入ってきたんです。どうしようもなく襲ってくる気持ちよさの余韻のせいもあってぼぉーっとなっていた私はこの時、完全に無防備でした。それこそ必死に隠していたのでバレていたのかどうかまでは判りませんが、実のところ私は一先ずの絶頂感を迎えてしまっていました。もうこの頃は自慰による快感をすっかり覚えてしまっていたので、心とは逆に身体は反応してしまったのでしょうね………無様です。決して望んでいたワケではないんですが、いくらそうなっていたって望むワケがないんですが、あまりにも無防備だった私は、そうなるに決まっているそうするに決まっているその最後の一線への抵抗を忘れていました。望まない異物が無理やり押し入ってくる感触。強引に押し広げられていく感触。何の思いやりもなく擦られ続ける感触。そのどれもが苦痛でしかなく、私はアイツが果てて放出するまで絶叫に近い叫び声を上げ続けるに至りました。
それなのに。
苦痛であり悲痛でしかなかったそんな一部始終が毎日のように続くうちに、肉体的な苦痛は徐々に徐々に消えていき、あろう事か私のあそこはアイツなんかを迎え入れるに程良くといった形状へと変わっていったらしく、残ったのは悲痛のみとなりました。苦痛だった感触は苦痛ではなくなり、脳で心でどんなに抗っていようとアイツによって頂点へと導かれてしまう事もあるという有り様でした。今にして思えば押し入っていた時間はどれもこれも短いものではありましたが、イヤで仕方ないのに、求めてなんかいないのに、道具となり下がったその最中、その行為の間、始まりから終わりまで………私が苦痛に顔を歪ませる事はなくなりました。それでも私は心までくれてやるつもりはありませんでしたから、始まる前と終わった後に流れ零れる悔し涙や悲しみの涙は本物です。私にとってはそれが、最後のプライドでした。それはなけなしのプライドでしかなかったのですが、それでも心まで落ちてしまうもんかと、諦めて受け入れてやるもんかと………せめて、せめてそれだけは避けたかったんです。アイツに抵抗しないのは、抵抗したら殴られたり蹴られたり叩かれたり、髪を引っ張られて引き摺り回されるからです。それが怖いから、痛いから、だからそれならほんの少しの間だけ我慢すれば、と。でも、アイツには私が満足していると思われ続け、その度にアイツは私の中に吐き出し続けられ………初めての日から数えて数ヶ月後の事、私は堕胎手術を受けました。当時まだ私は中学生でしたから、現在は知りませんが当時で二十万近くもかかってしまう堕胎の費用はお婆ちゃんに頼みました。妊娠に至った相手が誰かという事は流石に言えませんでしたが、お婆ちゃんは私が頑なに口を閉ざすのを見てそれ以上は訊かずに助けてくれました。お婆ちゃんは年齢からなのか耳が遠かったので、古い団地の狭い我が家の隣の部屋で何が起きているのか本当に気づいてなかったみたいです。いつだってお婆ちゃんだけが私の味方だったんです。私は両親からも暴行されていたので。DV? と、いうヤツです。性的な屈辱を受けたのはアイツからだけでしたけどね。そして、それだけではありません。当時の私は、学校でも虐められていました。学校に行けば陰湿な虐めに晒され、家では両親から理不尽な暴力を浴び、夫婦仲が悪かったので八つ当たりのような虐めも受け、離婚して父だった人が帰ってこなくなってからはアイツ、実の兄からは性的虐待を受けるように………そうです。私を汚し、身勝手で自分本位な理由で死んでいったのはお兄ちゃんなんです。壊れるまで四年もかかったのは、それから四年後にお婆ちゃんが亡くなってしまった事で屈辱に耐える理由がなくなったというのも大きいんですが、やっぱり限界を超えていたんだと思います。限界も何も、ただの一度でさえあんな事は限界を超えたモノですけど、ね。
なので、厳密に言うとヒロさんに初めて抱いてもらえた時は初めてではありませんでした。あの時は女の子の日の終わりかけでその証拠が少量、その存在を現したと言いますか………って、その後に今度は最後までシテもらえた際は、初めてなんてウソでしょというくらいに淫らに求めてましたけどね、私。ヒロさんって、私の事どう思ってるんでしょうか? でも、勿論の事そんなお兄ちゃんいいえアイツからの忌まわしい数々の後はヒロさんに抱いてもらえたあの時まで未経験ですし、アイツとの忌々しい数々の間はアイツの玩具に成り下がる毎日を除けばそれ以前も含めれば自分で触る事は毎日のようにあっても何かを差し入れるなんて事は怖さが勝って出来なかったですし、アイツとの忌々しい毎日から解放された後は都合ブランクが何年もあるワケで、ですから何と言いますかつまりその………萎んでしまっていた? の、かもしれません。初めてと思ってもらえる要因の一つくらいには。色味の方はどうしようもなく雄弁に過去を語っていましたが、ヒロさんはそこらあたりスルーしてくれたようですし。って、それだとそれはそれで独りえっちが大好きなエロ娘だとは思われている可能性が浮上する事になるんですが………それはこの際、兎も角としておきましょう。それに、アイツとの忌まわしい数々をカウントしたくなんてないですから、だってあれは望まない数々ですから、だから、だからヒロさんが初めてだというのは場合によってはウソにはならないかと。私はそう思いたい。そう思っていたい。思い込みたい。それにどうやら、あの女も私の忌まわしい過去についてそこまでは明かさなかったようですし。何よりもそれを取っ掛かりにして利用して、ヒロさんとの既成事実を積み重ねていく事に成功したワケですから、性交だけに。なんてね、あはは………それにしても、処女膜の存在理由って何なんでしょう?
兎にも角にも。
私が壊れる事を受け入れたのは、高校二年の夏です。それまでは毎日、日によっては何度も、アイツは私の中に吐き出し続けましたが、私が再び妊娠する事はありませんでした。堕胎手術をしたから産めない身体になってしまったのかもしれないと当時は嘆きもしましたが、どうやらそれは杞憂だったようで、事ここに至って安心しました。それは兎も角として、壊れてから約二年。私は所謂ところの精神病院という所に入院していた。端的に言ってしまえば、此処なんですけどね。何をするにも監視の目というものがあるので、例えばお風呂の時など裸を見られるので恥ずかしいとかいう事は幾つかありましたが、穏やかで賑やかで平和な毎日ではありました。でも、治療によって少しずつ記憶を取り戻していった私に、悪夢という形での恐怖が復活しました。PTSD、対人恐怖症、躁鬱症状、拒食症、過食症、どれに当てはまるのかそれとも全て当てはまるのか判りませんが、色々で様々な弊害が私という私を侵食していきました。お薬を手離せない日々。私という存在を、私自身があやふやにしていく。私は生きているのか? 私は何処に居るのか? はたして私は此処に存在しているのか? 不意に浮かんでくる自我への答えを見つける為に、自傷を繰り返す日々が始まる。赤い血を見て安心する。私は人間だ、と。痛みを感じて安心する。私は生きている、と。でも、それはいつだって紙一重の行為です。自身を傷つける時、いっその事このまま………と、囁く声が聞こえるから。汚れてしまった私は、もう汚れたままで生きるしかない。洗い落とす事も削り落とす事も出来ない。自身の息の根を止める事で、私という個を根刮ぎ消し去る。それしか、忘れる方法はないんです。でもそれでも、こんな私にだっていつかきっと………私は諦められませんでした。望まなくなっただけで、夢に見る事は棄てきれなかった。なので、突発的な自己否定に陥ってしまう時を除いて、私は生きようとしてきたんです。するとそれが、快方に進んでいると見えたんでしょうね。週に一度の通院を決まりとして、退院する事を許されました。高校を卒業していない私にはそれはそれで厳しい生活が待ってはいましたが、それでも私は私なりに一生懸命に生きてきました。高校中退という学歴の弊害の他にも、精神的な理由からも様々な要因に困難がつきまといました。ツラいとかイヤだと感じた事も一度や二度ではありませんでした。私はこのまま独りぼっちのまま、誰も信じず、信じられず、愛されず、愛せずにずっと………と、思わずにはいられない毎日。甘いと言われればそのとおりなんですが、この時期にお母さんがお婆ちゃんと同じ障害を持つに至った事もあり、そしてそれを原因に旅立ちを早めた事によって、悪夢の毎日のそれら全てから解放はされたものの、それでも私にとっては殆ど白旗な状況でした。どうせ私なんて。こんな私なんて。そういう思いが私をどんどん支配していき、遂には生きるという事に絶望しかけもしました。
………でも、です。
その時、あの時に。
私はヒロさんに出逢ったんです。
性別は男性。うお座でA型。年齢は私より六歳くらい上で、一重瞼で切れ長な細い目、小さめの口、太めの眉、それと福耳。これ等が丸い顔そこかしこに愛想良く配置されていて、あの頃は赤く染めた髪を外出時のみ後ろでキュッと纏めていて、楽天家寄りなのだけれどある部分に於いてのみ激情家で、ご本人曰く『無駄にデカい体躯を活かしきれていない毎日をただイタズラに生きている』との事。でも、その体躯は決して無駄なんかではないし、活かせていると思う。月並みな言い方だけど、やっぱり包容力とか。元々がきっと優しい人なので、その体躯はその温かい心を目立たせていましたし。今もそうですけどね。真面目な顔つきで考え事とかしていると怒っているのかなと思っちゃうくらいに怖かったりするんですが、それは他者の身勝手な決め付けなんだから気にする必要なんてないし。現に、話しかければ柔和な表情に戻るし、目が合っただけでもそうなってくれる。威圧的な話し方は決してしませんし、態度も穏やかです。真面目な顔つき~に関しては実のところ今でもどっちなのか判別しかねる事が多くて、おそるおそる確認してみるとやっぱり怒ってはいなかったとなるんですが、ここのあたりは私も他人の事は言えません。ゴメンなさいヒロさん。
何はともあれ、自身でも驚いてしまうくらいにあっさりとヒロさんに惹かれていく私がいました。心に厚い壁を張り巡らせ、外部からの侵入を閉ざしていた私なのに。物わかりの良い人を演じてその実、誰一人として見ていなかった私なのに。それなのに………この人は違う。この人だけは違うと思った。そしてそのとおり、ヒロさんは違う人でした。その証拠にヒロさんは私がまだ処女だと勘違いした途端、私で快感を得る事を止めたんです。つまりそれは、私も一緒に導いてくれていたという事です。ヒロさんは私の身体を使って自分自身の為だけの快楽を得ようとしていたワケではなく、私を抱いてくれていたという事です。それが判った時、私は完全に溺れました。ヒロさんの腕枕。ヒロさんの温もり。あんなにも心地良い感覚でぐっすりと眠れたのは、何年振りだったでしょうか………安堵という感覚を持ったのは何年振りの事なのか、覚えていないくらいでした。私はヒロさんによって地獄の日々から救われたんです。なので、ヒロさんに抱かれる事も何ら怖くなかった。トラウマですらある程の事だったのに、あれとは全く別の事でした。直ぐに、自ら抱いてほしいと願う程に虜となりました。絶頂へと導いてもらえる事の幸せ。心から感じてしまっても溺れてしまっても、全く惨めではない。それどころか、求めてしまっても蔑まれない。望んでしまっても罵られない。そして、そんな自身を卑下する自分はいない。ヒロさんは私で、私はヒロさんで、ヒロさんと一緒に、ヒロさんだけと………ヒロさんに抱かれる事のみ、ヒロさんのモノになる事のみ、私はセックスという行為に嫌悪感や不安感や恐怖感を抱かずに済むんです。それは、ヒロさんを心の底から愛しているからに他ならないんだし、愛しているからこそヒロさんしか考えられないワケで、それらの感情は今もそのまま続いています。消える事はないでしょう。消せはしないでしょう。勿論の事、消すつもりは少しもありませんけど。
だから私は忘れられない。
だから私は求めてしまう。
本当はヒロさんに与えてもらいたいんですが、此処ではシテくれないだろうから自分でスルしかありません。だからヒロさんを妄想しながら、この指を化身とするしかないんです………って。結局のところシテもらってもシテいるでしょうけど、それも兎も角としまして。私はヒロさんに溺れています。セックスに溺れているのではなく。あの気持ちよさに溺れてしまってはいますが、それはヒロさんが与えてくれるからこそなんです。ホントです。言い訳なんかじゃありませんよ。心の底からそう思っています。だって、ヒロさんによって沸き起こされる快感であれば、その快感に溺れ果てる事に罪悪感はありませんから。自己嫌悪に苛まれる筈もありませんし。何度も言うとおり、ヒロさんだからこそ私はその快感にどっぷりトロける事がデキるんですから。だからこれも重複しますけど私、ヒロさん以外にアレを求めたりなんてしませんし、ヒロさん以外を求めた事なんてただの一度すらないですもん。私、ヒロさんだけなんです。そしてこのまま私は、ヒロさんで塗り替えられていくんです。
ねぇ、ヒロさぁーん。
私のヒロさん………。
「………」ふやけた指を眺めながら、私は再び妄想する。ヒロさんの化身では、満足していられる時間は僅かなんです。化身は化身。ヒロさんではない。ヒロさんとは違うから。「あんっ………」だから私は、こうしてまたシテしまう。「………んっ」何もかもを忘れたくて。「ん、んっ、んくっ………」ヒロさんに、埋め尽くされたくて。「はうっ、ん………っ」ああああぁー! 早くヒロさんが欲しいよぉおおおー!
………。
………。
また同じ夢です。もうこれで何度目の事になるんでしょう………って、そんな事は判っている。だって、毎日のようにそうなんだもん。私は悪夢に魘される。魘され続けている。
ヒロさんに会いたいよぉー。
ヒロさん、ヒロ、さぁ~ん。
「ヒロさぁあああーん!」ヒロさんヒロさんヒロさんヒロさぁーん! 早くヒロさんに会わせろよぉー! 何で閉じ込めるんだよ引き離すんだよこのままじゃ棄てられるのを待つだけじゃねぇーかよ! ふざけんなよおいコラ聞いてんのかよ聞こえてんだろ! 何の為にここまでしたと思ってんだよ早く出せって言ってんだろぉーが! 助けてヒロさぁーん! ヒロさん助けてぇー! ヒロさん、助けてよ、私を………。
ヒロ、さぁ~ん。
会いたいよぉー。
この願いだけが、私を生き続けさせている。この想いこそが私の源、源泉、全て。でも私は隔離され、あろうことかヒロさんと引き離されてしまいました。面会謝絶という悪意の壁が立ちはだかり、その奥へと私を閉じ込めている………私を苦しめ、苛め、虐げ、悲しませ、その様子を真っ黒なお腹で楽しんでいるに違いないと、私はあらゆる人を紛う事なく敵視しています。だって敵なんですもん。私にはヒロさんしかいません。私を包み込み、温め、癒やしてくれるのはヒロさんだけですもん。私は本心からそう思っている。それは今でもそう思っていますし、永遠に絶対に不変なんです。ヒロさんに拒否されたら、拒絶されでもしたら、もう二度と私の心に笑顔が宿る事はなく、生きる意味を完全に失ってしまう。私にとってヒロさんは唯一無二で、絶対的な存在です。私の守護神です。ヒロさんならきっと私を、こんな私でさえも、どんな私であろうとも、何の問題もないから傍においでって言ってくれるんです。優しさに満ちた声で、痺れるくらいの眼差しで、溢れるくらいの微笑みで、私を覆う暗闇の何もかもを忘れさせてくれて、私を何から何まで肯定してくれて、私という存在を個として認めてくれるんです。ずっと傍に居てくれるんですよ。大切にしてくれるんですよ。愛してくれるんですよ………こんな私でも。ううん、こんな私になったからこそ。だからこそ、今度こそは。
きっと、たぶん、そう。
あうう、お願いします。
決して忘れるワケがないヒロさんとの想い出の幾つもは、記憶としていつでも映像化デキるようスタンバイしてあって、決して消える事のないヒロさんへの想いと共に私を幸せへと誘い、不安や恐怖を簡単に忘れさせてくれる。私にはヒロさんがいる。だから私は、あそこまで耐える事がデキたんです。こんな事までしたんです。だから私はあんなにも頑張れたのに、こんなにも頑張ったのに、それなのに、そんな私からヒロさんを取り上げるなんて! みんな、私が羨ましいからだ! 私を妬んでるんだ! 悪意のみの禍々しい奴等は、ヒロさんが私から離れるように執拗に仕掛け、仕向けて、私がまた壊れるのを待ち望んでいる。バカな私はまんまとその企みに嵌り、治療の一環だとかなんとか言われてこんな所に再び連れて来られ、完全に引き離されしまいました。逃げようとしてもその度に捕まり、会わせろと幾ら叫んでも冷めた表情で拒絶され、意志を持つ事を否定するかのように管理されている………それが、私の現状。でもヒロさんは、私を見棄てたりなんかしないもん。いつだって私を救ってくれたし、今だってきっとそうに決まっている。可哀想な私を救い出そうと試みてくれている筈ですよ。きっと、私を虐める邪悪なアイツ等から、私を助け出してくれるんですよ。悪は滅びて正義が勝つ。ヒロさんは正義。だから私は………最後には必ず救われる。
そうですよね、ヒロさん。
でも私は、こうも思うんです。ヒロさんに甘えてばかりじゃイケナイ、と。私も何かしなければ、と。それがヒロさんとの、それこそがヒロさんとの約束なんですもんね。このままここで逆戻りしてはそれこそ本末転倒です。だから抗った。闘った。自己主張した。此処から脱出しようと目論み、企み、手を変え品を代え、偽り、欺き、思いつくあの手この手の限りを尽くして暴れました………でも、悪意の権化達には通用しませんでした。全く歯が立たなかった。それならばと私は、プライドを捨てる事にしました。恥も外聞もなく、心情を汲み取ってもらおうとしたんです。従順なフリをしました。改めたフリをしました。土下座までしたんですよ? でも、私の眼前から悪意による悪意のみの悪意が消える事はありませんでした。
こんなの拉致と変わんない!
監禁されてるのと一緒だよ!
たしかに食事はある。お風呂もおトイレもある。お布団もベッドもある。第三者からの外的な暴力はないし、どうやら今のところは殺そうとまでは考えていないらしい。少なくとも衣食住を保証されている環境なんだから何の支障もないだろう? と、悪意を隠して言う。そして、時に何様だと罵る。私が負わされる制裁も、拍子抜けしちゃう程に生温い。隠しとおせているつもりなんだろう悪意を私に対して存分に撒き散らしてくるワリに、何故か暴力で上から屈服させようとはせず、その代わりなのかお薬でコントロールしようとする程度の事くらいなんです。だから、うん。家に居た時みたいに怯えたりはしないんですが………衣食住なんて、何の意味があるというんですか? そんなの、わざわざ与えてくれなくってもイイもん。別に頼んでないし。何様なのはアッチの方だよ。幾ら私がバカだからって、そんなので騙されるもんか! 此処にはヒロさんが居ないんだよ! 私が欲しいのはヒロさんなんだよ! 衣食住なんてヒロさんが与えてくれるもん! だからヒロさん以外に頼む気なんて更々ないんだよ! 早く此処から出してよ! ヒロさんを返してよ! 返してよ! ヒロさんを返せぇーっ!
私のモノなんだから邪魔しないで!
やっと見つけたのに私から奪うな!
………、
………、
それは、私がそんな独善的な被害妄想の日々を続ける以前の事。ある日、私の中で悲劇的な考えが巻き起こりました。もしかしたら、私は既にもうヒロさんに棄てられたのではないかという不安が再び芽生えたんです。ヒロさんはもう私の事なんか気にもせず、誰かと幸せに暮らしてるのではないかという恐怖を、私は抑えられなくなっていきました。焦った私は、簡単に取り憑かれてしまいました。ヒロさんを誑かした悪意の権化達を更に強く、深く、大きく憎悪しました。ヒロさんから幸せを与えられている私以外の女に、誰かは判らないけれど激しく嫉妬しました。もがき狂いました。
みんな殺してやる!
私からヒロさんを奪った全員を、一人残らずズタズタにしてやるんだ………私は、悪魔に魂を売ろうと思いました。でも、直ぐに力尽きました。私は棄てられて当然の女。ヒロさんはもう、私と会ってはくれないんだ。会うつもりなんてないんだ。そうではなくて棄てられてはいなかったとしても、今頃はもう誰か他の女に、ただの浮気だった筈の女に、ううん。本命の女を見つけたりとかしてさ、それで、それであの温もりを………他の………女なんか、に………そんなのイヤだぁー!
愛してるのヒロさん!
私の方が愛してるよ!
こんなに想ってるの!
だから、棄てないで!
私を見棄てないでください。
お願いですヒロさん………。
私の、ヒロさん………ヒロさん、お嫁さんにしてくれるって言ってくれたですよね? ねぇヒロさん忘れたですか? ヒロさん私なんかにそう言ったじゃないですかぁー! 冗談っぽくではあったけど、でもたしかに言ってくれましたよ! それなのに、それなのにイヤだよぉ………そんなの、イヤだよ………こんなのイヤですよ………ヤダよぉ………今更ですよもうイヤです私………今度こそ、ダメかも………ヒロさんがいない毎日を生きるなんて………そんなの。
何の意味もないですよぉ………。
ヒロさんと出逢う以前の私は、いつか誰かが助けてくれるかもしれないという一縷の希望を捨てきれず、けれどそれを現実として期待する程の楽観は持てず、悲観にまみれた絶望の寸前にある諦めという場所でただただ、死にたいけど死のうとするのは怖いという情けなさで踏みとどまっているようなものでした。私に宿るかどうかは別として、そんな希望の光に気づいたからこそ諦めきれませんでした。一度は崩れてしまった私の………ううん、壊れてしまったらしい精神と折り合いをつけるには、内面では何もかもに近い程のあらゆる事を誰かのせいにしつつ、表面上はこれ以上の傷を受けないように演じつつ、耐えて凌いでやり過ごすしかなかったんです。勿論の事、それがストレスとなって我が身に返ってくるのは承知していました。けれど、私という個を認めてくれる場を見つける事が出来なかったこんな私には、それが唯一の方法だったんです。
私なりの。
精一杯の。
でも、私までが私を棄てるという最期を選ばなかったのか選べなかったのかは兎も角として、期待するまでには到達させなかった希望をそれでも捨てきれないでいたからこそ、だからこそ私はヒロさんと出逢えました。そして、ヒロさんが救い出そうとしてくれていたのにもかかわらず、私はまた外部からの悪意に負けてしまい、自身の弱さに負けてしまい、ヒロさんから遠ざかる事になってしまった。そして今………遂にヒロさんからも見放されたのかもしれない。見捨てられたのかもしれない。見限られてしまったのかもしれません。
これで私は、以前と変わらなくな、
ううん………そんなもんじゃない。
味わった至福に陶酔した脳と心と身体を持っているだけに、以前よりも悪化して絶望の淵にまで転げ落ちてしまいました。生きるという事に魅力を感じなくなり、死ぬという事をハッキリと求め始めたんです。
うん………食べなければイイんだ。
時間はかかるけど、それで死ねる。
それで、苦しまないで死ねる。
もう、以前とは違う。生きていたって結果は変わらないどころか、以前よりも酷い有り様。だって、唯一無二を失っちゃったんだもん………私はもう、死ぬ事に躊躇しなくなりました。寧ろ積極的になりました。ヒロさんという存在が唯一無二の希望である私には、ヒロさんを失って最早絶望しかない毎日を絶望したまま生きてゆく事なんて無意味ですからね。でも、簡単に死なせてはもらえません………アイツ等は、苦悩する様を見て笑いたいんでしょうね。どこまでも悪意に満ちている環境で私は、ヒロさんとの幸せな記憶の中に入り浸り、衰弱を待つ事にしました。生きているという苦痛から逃れる為に。でも、これがなかなか死ねません。忌々しい生命力です。私は更に深く、ヒロさんとの想い出の中に没入しました。ヒロさんが施してくれた優しさ。与えてくれた幸せ。ヒロさんに、ヒロさんの………ヒロさんヒロさんヒロさんヒロさんヒロさんヒロさぁーん………。
ヒロ、さぁ~ん。
会いたいよぉー。
そこまで落ちて、私は漸く思い知りました。私が如何に、ヒロさんに依存し過ぎているという事実を。重荷でしかなかったという何もかもを。私は何て愚かなんでしょう。ヒロさんに自身の本性を晒け出した時の場面が、何度も何度もリフレインを繰り返す。それでもヒロさんは、私に手を差し伸べてくれました。私が必要だと、そう言ってもくれました。そういう自身がイヤなら、そういう自身と真正面から闘えと、背負ってやるからと、オレの愛情ナメんじゃねぇーぞ、と。オレが愛した女を蔑むんじゃねぇー、と。それ以上は例え思ってもダメだ、イイな? って………。
はう、う。ヒロさぁ~ん!
私の欲望。私の弱さ。脆さ。愚かさ。ヒロさんの愛情。ヒロさんが愛した女。愛してくれた女。いつだってヒロさんは、私を信じてくれました。なのに私はいつだって、自身を信じてはいませんでした。私はいつだって、誰かのせいにしてばかりいたんです。間違っているのは私の方でした。自ら蒔いた種です。つまるところ私のせい。いつだって傍にヒロさんがいてくれたのに、私はヒロさんに頼るのではなく、利用していたのかもしれません。何様のつもりなのか、試していたのかもしれません。
ヒロさんの、優しさを。
ヒロさんの無償の愛を。
ヒロさんを愛しているからなのに、ヒロさんを愛しているのに、そうだったんです。だからヒロさんは、支え合う関係になりたいと言っていたんですね。ヒロさん………自身の愚かさに気づいた途端、眼前の風景が如実に変わりました。未だ全てを私自身のせいだとは思えない部分もある未熟さは情けなくなる程にありますが、それでも暗闇を作っていたのは自分自身でもあったとは思えました。少なくとも、私がいるこの環境は悪意なんかではない、と。
私は考えました。
現実を見直そう。
黒い物でもヒロさんがそれは白いと言えば、それは私にとって間違いなく白で、これから先もそうなのは変わらないけれど、それ以前にヒロさんが黒を白と言い張る事なんてありません。だからこれは絶対に依存ではない。だからこれは、これからも変えなくてもイイ筈です。でも、ヒロさんに気に入られようと目論む事は少しはヤメて、ヒロさんに愛してもらえるように頑張ろう。これも依存なんかではない筈です。私はこれから、ヒロさんの幸せを考えるんだ。そして、その幸せを横で一緒に味わわせてもらえるように頑張るんだ。そう、横で。下ではなく、上なんかでもなく。一秒後に期待して、何もなければその一秒後にまた期待して、頑張って努力して磨いて尽くして、ヒロさんが安心して自身の幸せを掴みに行く毎日を生きられるようになろう。ヒロさんの幸せは私の幸せ。依存するのではなく、共に生きてもらえるように成長しようよ。きっとヒロさんは、その成長過程を見守ってくれる。喜んでくれる筈です。うん………そうだよ。そうなんだよね。どうして気づかなかったんだろう?
あはは。
これからは、ヒロさんが喜んでくれる事を考えようね。心配させないようにしようね。頑張ってみて壊れそうになったら………ううん、壊れるかもと予感したら、その時こそ素直に甘えようね。そしていつか、甘えてもらえるようになりたいなぁー。うん、そういう女になろうよ。
ヒロさん大好きです。
ヒロさぁあああーん。
………、
………、
私にとってそれは、格段の進化でした。場合によっては成長です。まだまだなのかもしれないけれど、ううんまだまだなんですが、焦ってしまえば迷惑をかける事にしかなりませんし。心配させてばかりいたら、ヒロさんの横に居る資格を得られません。その匙加減は、ヒロさんと話し合って、伝え合って、判り合って決めていけばイイ。ヒロさんならきっと、それを受け入れてくれる。ヒロさんなら、きっと………。
まだ、終わりじゃないんだ。
だから、ここまでしたんだ。
それから何日かして。私は担当Drでもあったあの女、芹澤に言われました。もう会っても大丈夫そうみたいだね、と。きっとあの女、油断していたんでしょうね。結局のところは私を避けるようになるだろう、と。場合によっては嫌悪までするだろう、と。ミイラさんみたいになった私を見て、接して、確実にそうなるだろう、と。けれど、私は心から感謝する事が出来ました………まだ知りませんでしたから。それに、ヒロさんは優しいからそんな事にはなりません。だからそんな事、考えもしませんでした。だからこそ、こうしたんですもん。予定よりも酷くなってしまいましたけど。
けれど、でも。
以前の私なら道連れに壊してしまっていたかもしれない。そんな事にならなくて本当に良かったと、心の底からそう思いました。そして、もう会っても大丈夫という言葉にあるもう一つの意味を少しして理解しました。つまるところ私は、見棄てられてはいなかったと。今もまだ、手を差し伸べてもらえていたんだという幸せを。私は、世界一の幸せ者です。私は確信しました。こうまでしたのは正解だった、と。だって私には、私の傍にはいつだって………。
こんこん、こん。
それからほんの僅か数日後、部屋を遮断する事でプライベート空間を作り出す一枚の隔たりが、期待して止まない私の耳から心へと優しい音を奏でた刹那だけ後、手を差し伸べてもらえますようにという期待を持ち続ける事を、それを諦めなくて良かったと心の底から思うに至る笑顔を宿した唯一無二の絶対的存在が、文字どおり私に手を差し伸べる為に、私の視界を覆い尽くしに来てくれたんです。
あははは、ははは………ふふふ。
これでやっと私のターンですね。
これからが本番ですよぉー。
………。
………。
第六幕)おわり
第七幕につづく
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