第五幕)揺れ動く感情
こんな事をシテしまっては波風が立たないワケがないと判っていながらそれでも抑えられず、一度シテしまった事によってタガが外れ、来る度に毎回となっていった由奈との繋がりは、密度をエスカレートさせながら更に回数を増やし続けるという結果を招き、最早取り返しのつかない状況にまで発展していた。
………。
早いもので。と、言うべきなのかは兎も角として由奈が入院して幾日も過ぎた。しかし、怪我の具合は早いものでとはいかず、肌の露出度は増えてきたものの火傷の痕が残る箇所もかなりあるとの事だった。『海に行けない身体になってしまいますた』なんて、微笑みを交えながら明るく自虐する由奈に、どのような表情を作ってどのような声色を使ってどのような言葉をかければ良いのか判らなくて困りはてる僕。それが最近の日常だ。まだ若いのに次から次へと不幸が重なるという運命を背負い、まだまだ先は長いであろう人生を前向きに生きる事を強いられる。そんな宿命を浴びせ続けられたら、僕ならきっと耐えられないだろう。遅かれ早かれいいやもしかしたら最初の一撃で、完全に絶望しているかもしれない。由奈は強いよ。どうしてあんなにも、笑顔でいようとするのだろうか。どうしてあんなにも、笑顔でいられるのだろうか。優しい心を持つ女性でもあるので、気に病んだりとかさせないようそうしているのかなぁ………だとしたら、由奈は強くて優しい女性だ。
あ、そう言えば。
由奈が介護職を志すようになった理由がそもそも、障害を持つに至ってしまったお年寄りのみなさんの役に少しでも立てたらと感じたからだと聞いた記憶がある。たしか………『今のお爺さんお婆さん世代って、戦争というものを実際に経験してきた人達じゃないですか。って事は、戦争で苦労して戦争の後処理で苦労してお子さん育てる為に苦労して、でもやがて高度経済成長とかで平和な世の中になってやっと自分の為に時間を使えると思ったら、なんとその時その自分の身体が………じゃないですか。そんなのヒドいと思います! しかも、核家族化とか言って………だから、私がお孫さんの代わりを………なれないけど、なれたらイイなって………そう思ったんです』うん。そうだったよな、由奈。いつも笑顔なのは、優しさからなのかもしれない。由奈の言うとおり現在、お年寄りと呼ばれる年齢に達している人達は、所謂ところの太平洋戦争が終わる以前に生まれた人達だ。僕のような平和ボケした人間では生き抜けないであろうくらいに混沌とした時代に生まれ、物が欠乏している時代に暮らし、家族の為に働き、子供が自立して漸く自分の為だけに時間を使えるようになったあたりで身体が壊れ、核家族化が進む世の中で一人暮らしをするという境遇の人は実のところ多くいたりする。由奈と同じく、僕もそれが理不尽な気がして仕方がない。幸福という事象は本当に平等に有るのだろうか。均等に与えられているのだろうか。不公平なく分け隔てなく横一線に授かっているものなのだろうか。僕には甚だ疑問だ。
だから、由奈が重なるんだ。
どうしても重なってしまう。
年代は著しく違うのだけれど、由奈はまだまだ若いのだけれど、由奈はあまりにも不幸に見まわれ過ぎてはいないか? これを試練というのであれば、あまりにもメンタルケア不足だ。試練の度合いに応じて世界を小分けにするべきだと思う。同じ試練を持つ者に分けた世界を作るべきだと感じる。そうすれば、下界に住まう者達のメンタルケアなんて知ったこっちゃないという無慈悲な考えでも、その世界その世界で同じ試練の苦しみを味わう者が支え合うだろうから、無慈悲なままでもイイとしよう。そうなれば、優劣を付けて傷つけあう事もないだろうし………あ、メンタルケアなんて考えないからこそ、世界を小分けにするとかもしないのか。ゴールは幾つもあるのだけれど複雑に入り組んでいて、だから狙いを定めるのは激しく困難な迷路。そんな感じがして難しいね。宗教観を否定する気は全くないのだけれど、愛されているとも見守ってくれているとも僕には思えない。居ない方がマシかもしれない。居るのであればそれこそ、この世に生きる者を正しい方向へと導くには力不足過ぎるから不公平が生まれていると思ってしまうから。
「ユナ………」
由奈を支える存在、か。それがたかだか人間でしかない僕なら、更にもっと力不足だよ………。
「トモさん………」
寄りにもよって、どうして僕なのだろう? こんな優柔不断で目先の欲望に抗えない男を、どうしてあんなにも大切にしてくれるのかなぁ………。
女性は優しくて深淵な生き物だから、
母性愛とか情みたいな感覚なのかも。
って、到着したみたいです。
開くドアは左ですよ、っと。
はい、笑顔。笑顔。
僕は電車を降り、ホームに出る。アレやコレやと思考しながら揺られる事、大凡で二時間あまりといったところ。一度の乗り換えを経て、ゆらゆら。と、今日も今日とていつもの病院へと向かう。出発はラッシュ時である為に駅は混雑していたのだけれど、出勤が理由の人波さんとは逆方向へ向かう電車を利用する事になるので、車内はその混雑ぶりが嘘のように疎らだ。ドアが閉まって動き出す事により空間が切り離されてしまうと、途端に別世界となって静寂に包まれる。耳を刺激する声や靴が鳴る音や服の擦れる音など雑踏の殆どが姿を消し、目を刺激する景色は徐々に緑色の面積を増やし、人の数はアッと言う間にといった感じで数えるまでもない量になる。音らしい音と言えば、乗り込んだこの別世界が僕を目的地へと運んでいる証しくらいのものだ。すっかり聴き慣れて見慣れたこの世界は最早、僕を住人として認定して更には溶け込ませている。詰まるところ、通い慣れてしまうくらい足を運んでいるという事。乗り込む駅は諸事情により複数あるのだけれど………と、言うか二つあったのだけれど。それは兎も角として、暇潰しの戯れ言とは言い切れない程度のアレやコレやを脳内で垂れ流しにしながらも、その内容の多くは今日も由奈の事だった。再会するに至ってからずっと、由奈の事ばかり考えているような気がする。
ぽとり。
ん………あっ、雨かぁー。部屋を出て外に出た時はまだ、青空も見えていて晴れていたのになぁ………なんて、思い出しながら空を仰ぐ。と、いつの間やら曇天だった。そう言えばホームに降りた時に風が冷たく感じたのだけれど、それはまだ電車内が暖房でぽっかぽかだったからそのギャップとしか考えていなかったという事を不意に思い出す。
「傘、いるかなぁ………」
まだぽつぽつとまですらいかない雨足。少し遠くの空模様に視線を移してみると、青い空が見え隠れしている。故に、俄雨にもならない程度かもしれないと少しだけホッとしながら、何処とはなしに視線を動かした。泳がせた。
その時、違和感を誘発された。
あれは………誰かが落ちた? 向かう先である病院の、所謂ところのいつもの病院の、由奈が入院している病棟の、その屋上から………誰かが落ちたように見えた。気がした。そう思った。何コレ。何だコレは。脳内で整理する事が出来ない。見た映像に一致する記憶が見当たらなくて、だから断定する事さえ出来なくて、誰かが屋上から落ちたというテロップを見た映像に添付する事に違和感を覚える。しかし、何かが落ちたのは間違いないという答えを導くには至った。背筋に冷たい何かが走る。この風による影響ではない何かだ。
「………っ!」
僕は走り出した。脳がそう指令を出したからなのだけれど、それよりも先に身体が動いたような気がするくらい無意識な感じで、落ちた先へと一目散に駆け出した。
が、しかし。
その地点に至る前で立ち止まった。何か或いは誰かが落ちたように見えたその屋上に、一瞬と言えるくらいの時間だけ人影が見えたからだ。僕は僕の周囲を見渡し、そして見回す。僕の周りには人影はなかった。確かめに行くか迷う。だって、もしも………今になって漸く、人だった場合の光景を想像してしまったからだ。
がしゃん!
突然と言えば突然で、唐突と言えば唐突な衝動音におもわず、びくん! と、身体が震えながらも。僕は瞬間的に物音がしたあたりを見上げた。それはきっと距離的に大きな音としては僕まで届いてはいなかっただろうけれど、身体が震えるほとに聞こえたのはたぶん屋上を意識していたからなのだろう。
………由奈?
何して、っ!
僕はその直後、猛然と駆け出した。無我夢中で駆け続けた。見上げた視線の先にある視界に人影が二つ。一つは由奈らしき人。もう一つは脳内検索にヒットせず。と、言うかここからでは由奈と重なって判別が難しい。しかしながら、あれが誰なのかはこの際どうでもイイ。言える事はここからではたしか網目状だった筈のフェンスの網目がよく見えなくて、あの誰かが由奈らしき人をたぶん一部が壊れているらしいそれに激しく押し付けているから危なっかしくて仕方がないという事で、そして先程の物音はどうやらその音だったようだ。
由奈が危ない!
屋上へと向かう途中、慌てて駆けてくる僕に驚いているナースさんに駆け足で状況を説明し、僕はすぐさま再び屋上へと駆け上がる。息が上がるがそんなの気にしていられない。僕の身体はそんな僕の心境を理解したのか、息が上がろうが軽快に動いてくれる。
………二階。
三階………。
………四階。
五階………。
待望の屋上に到着。
立ち入り禁止?
ふざけんなよ!
ばたん!
ドアに掛かるプレートにイラ立ちを覚えながらも、力の限りドアを押し開く。そして、その勢いそのままに屋上へと躍り出た。
「はあ、はあ、っ、ユナ!」
僕は息も絶え絶えに叫ぶ。男に馬乗りに乗りかかられた由奈が、その男即ちバカヤローに両手で首を絞められているという光景が視界を独占したからだ。
ぶちっ!
瞬間的に、
僕の中で何かがキレた。
「ユナに何しとんねやゴラぁー!」
男に向かって猛然と突進し、吹き飛ばしてもまだ突進し、更には馬乗りになって、バカヤローに拳を叩きつける。それにしてもどうして由奈は次から次へとこんな事に………。
「あが、う、がが、あががぁー!」
バカヤローは意味不明な叫びを発しながら、僕の下で激しくもがいている。その表情はどこかオカシク、目が血走っており、精神異常者と言われてイメージするような、所謂ところの常軌を逸した顔つきをしていたように思う。
「うががやないわボケぇー!」
僕も他人の事は言えない。なんやかんや冷静に状況を観察して判断しているようで、実のところ完全にキレて見境なく殴りつけているのだから。
正直に言うと………、
殺してやろうとさえ思っていた。
「はい、そこまでぇー!」
しかし、そうなるまでには至らなかった。由奈に面会しに訪れたのか、それとも居室前などで警護している人達との打ち合わせか、兎にも角にも制服警官が数名、たぶんナースさんあたりから事情を聞いたのだろう駆けつけてきたからだ。
「離せよゴラぁー!」
その人達に僕は羽交い締めにされ、バカヤローから引き離される。暴言を吐きつつ拒否の意を表明するのだけれど、聞き入れてはもらえなかった。
「落ち着いて! もう充分だから落ち着いてください木下さん!」
制服警官のうちの一人が僕を宥めようと声を掛け続ける。
「うがが、うう………うっ」
圧力から解放されたバカヤローが、呻きながらヨロヨロと立ち上がる。
と、その時。
「その人です! その人が犯人です!」
由奈が指を差しながら力強く叫んだ。差したその方向には、立ち上がったばかりのバカヤローがいる。
「「何っ?!」」
制服警官と僕の声が、ぴたり。と、重なった。
「ち、ちちち違う! 俺じゃない!」
バカヤローが反論する。
「芹澤センセーが言ってました!」
由奈が続けて新証言を語る。
「違う! オ、オマエ」
バカヤローが動揺の色を見せる。
「この人を見たって言ってました!」
由奈がそう続ける。
「ううう………よくも」
バカヤローが後ずさる。
「思い出したって言ってました!」
由奈が更に続ける。
「煩い! オマエ」
バカヤローが更に後ずさる。
「だからこの人、さっきセンセーを突き落としたんです!」
由奈が泣き叫ぶ。
「「何っ?!」」
制服警官と僕の声が、再び重なる。
と、言う事は。
先程見たあの人影は。
まさか………そんな。
「黙れ黙れ! オマエが」
バカヤローが狼狽の色を濃くしながら後ずさり続けていく。
「それで、私も殺そうとした!」
由奈がバカヤローの言葉を遮る。
「違う! オマエ」
バカヤローが後ずさりながら吠える。
「殺そうとした!」
が、しかし。由奈がそれを遮る。
きゃあぁあああーーーっ!
センセぇえええーーーっ!
いやぁああああーーーっ!
下の方から数名の女性の声がした。
そのどれもが悲痛な叫び声だった。
うん、確定だ。
そんな………。
「………」
僕はただただ立ち尽くす。取り乱した幾つもの声がしたのは、人影が落ちた先であろう場所。さっきバカヤローがセンセーを突き落としたという先程の由奈の言葉と、センセーという下からの悲痛な叫び声が、僕の脳内でぐわんぐわんとコダマする。そして、暫し遅れて朋美さんの顔が浮かび上がる。
「署までご同行いただけますか?」
僕が立ち尽くすに至った事で羽交い締めを解いた制服警官が、冷静にそう告げながらバカヤローに近寄っていく。
「違っ、ち、ち、違っ!」
バカヤローは尚も否定し、ずりずり。と、後ずさりしていく。
「違わねぇーだろゴラぁー!」
ここに来てまだ認めないバカヤローを見て、立ち尽くしていた僕に怒りが再燃した。
「殺そうとしたクセにぃー!」
由奈が泣きじゃくる。
ここで更に、ぞろぞろ………と。
警察関係者らしき人達が到着した。
「詳しく訊かせていただけますね?」
先程からこの場に居た詰まるところ僕を羽交い締めにしていた制服警官から状況を簡潔に受け取ったその内の一人が、バカヤローにそう確認しながら近寄っていく。威圧感バリバリの私服警官だ。
「違っ、オ、オレは、たたただ………あ、あ、あああ、あ、あ」
バカヤローががたがたと震え出した。そしてそれがみるみる内に大きくなる。
その僅か少し後。
「ああがぁあああーーっ!」
そう喚きながら、呻きながら、ネジが外れて制御不能となったロボットのようにカクカクと、バカヤローが自身の背後に向かって駆け出した。
「あっ、待て! そっちは!」
それを見た警察官達が、殆ど一斉にといった勢いでバカヤローに向かって駆け出す。
が、しかし。
間に合わず。
がしゃん!
「あがああぁーーっ!」
ぶしゃっ!
バカヤローは一階へと降りていった。
壊れていたフェンスの隙間を抜けて。
ぎゃあああーーっ!
再び、下から数名の叫び声がした。
しかし今度は、ただの悲鳴だった。
………。
………。
第五幕)おわり
第六幕につづく
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