第四幕)笹原由奈の山下宏典
山下宏典さんは私の恋人で、未来の旦那様になる人で、だから私は未来のお嫁さんで、だからだからヒロさんは私だけのモノ。年齢は三十三歳。魚座でA型。介護福祉士としてのキャリアを訊いてはいませんけれど、現在も介護施設で働いている立派な人です。なので、背中の紋々も若気の至りなのでしょう。ヒロさんは仕事柄いつもにこにこしていて、微笑みを絶やさない人だけど、真面目な表情で考え事とかをしている時の顔つきは、正直に言うと凄く怖い。それについては今でもまだ慣れないと言いますか、機嫌が悪いのかなとかそれを軽く通り越してご立腹なのかなとか遂に嫌われてしまったのかなどうしようヤダよぉーとか、激しく緊張してしまうくらいです。けれど、ヒロさんは心も大きい人なので滅多な事では………ううん、違う。殆どの事について怒らない優しさ満点の人なんです。それがヒロさん。私のヒロさん。私のモノなので、ちょっかいかけるヤツは殺します。苦しみながら脅えながら痛みに震えながら泣き喚きながらゆッくりじッくり死んでもらいます当たり前ですよそんな事あはは。
あとこれはあまり話してはくれないけれど、ティーンの頃は相当なワルさんだったみたいです。これはヒロさんの妹さんからのマル秘情報なので間違いありませんし、若気の至りなのでしょう背中の紋々も一致しちゃいますので、いつか武勇伝とか聞いてみたいかもです。それにしても、ヒロさんの妹さんはイイですよねぇー。ヒロさんがお兄さんなんですから。私にも兄がいたのですがそれに比べて私の兄ときたら………ううん。あんなヤツとヒロさんを並べて比べてみるなんてヒロさんに失礼ですね。ヒロさんゴメンなさい何でもしますから許してください。って、ヒロさんは優しい人だからにっこり微笑みながら何の問題もないって言ってくれるでしょうけど。それに、そんなヒロさんがワルさんだった頃もやっぱり優しい人だったに違いありませんし、弱い者イジメとかは絶対にしなかったみたいですし。流石はヒロさんです。そんなワケで私、たまにですけどヒロさんじゃなくてワルさんって呼んでみたりする。世界で一番優しいのですが、恥ずかしい事を要求したりもするドが付くSさんでもありますので………ホントは全然構わないんですけどね。寧ろ、その方が私的にはもっともっと興奮しちゃいますしいやそのあはは。もう開き直ろうすっかり調教されちゃいましたから、ヒロさんに。なので、そんな私からの可愛い仕返しのつもりです。そうするとヒロさん、凄いヘコむから。それがまた、とっても可愛いから。で、その後にドが付くSが発動するから私としてはそれはもう目眩く桃色な世界を体感いやそのだからあはは。
そんなワケで、誰にもあげません。
だって、ずうっと私のモノだもん。
それになんだか、こう………そういうコミュニケーションって、何て言うか、ほら、私達以外の誰も立ち入れない、私達だけの、その、とても仲の良い恋人みたいな、えへへ。ま、そういう類いのアレやコレやは殆どシテもらいましたし、シテもらっていますし、そのどれもこれもが癖になっちゃうくらいにじゃなくて癖になっちゃったくらいに淫靡な………じゅるる。そうか、ヒロさんがお兄さんだとそういう事は禁忌になるのかぁ………でも、私、は、アイツ、に。私にとっては誰になんと言われようとヒロさんが初めての人ですし、ヒロさんが最後の人でその間も唯一の人で何度生まれ変わったとしてもずっとずっとそうだと思ってます。ううん、そうなんです。でも、ヒロさんとの初めてより以前は何も知らなかったのかと言えば残念ながらそうではなく、悔しいけれどそうではなく、思い出したくない過去を、汚れてしまって死んでしまいたいほどに絶望した過去を、ヒロさんには絶対に知られたくない過去を、私は持っている。あろう事か私はアイツに………いけない、また始まった。あ、そうだ。ヒロさん以外と言えば何度も何度も例えばついさっきだって、私はヒロさん以外の人から得ています。勿論の事、ヒロさんで知ってからはいつだってヒロさんを思いながらヒロさんの化身として代打として登板させております。ヒロさん以外の人も何も私自身の指ですけどね。そう言えば、ヒロさんを知ってしまってからは満足感が激しく劣るんだよねぇー。あ、そうか。だから何回も………うん、ヒロさんのせいですね。この有り様は、私がエロ娘だからなんかではないんだからね。これは全て、そうですよヒロさんがイケナイんですよぉー。ヒロさんが仕込んだんですからね。ヒロさんが、ヒロさ、ん、ヒロさぁ~ん………やっぱりヒロさんは偉大です。すっかり戻れました。安定を取り戻したというには些かううんかなり興奮しているという精神状態だから正しくはないけれど、この興奮の理由がつまりそのほらアレですよアレあはは………もう一回しよっかな。って、ヒロさんは罪な人です。こんな状態になってもなんとかして貪ろうとしてしまう私を何度も何度も誘発させるんですから。
そんなヒロさんは誰にでも優しくて心も大きい人なので、これがまた人気者だったりする。だから、だからライバルは残念ながらかなり多い。そして、私なんか下の下なオンナだから、だからいつだって明らかに分が悪い。ヒロさんは自分から狩りに行くタイプだから、だからそういうタイプの人って脈有りとか無しで動いたりしないから、そういうワケで私が二十四時間ずっとべったりさんマンマークさえしておけば、誰にも取られない自信がありま………やっぱり、激しく心配だよ。加えてヒロさん童顔だったりするから、幅広い年齢層に人気あるし。ならばとこの私、マンマークどころかストーカーにだってなる所存ですいいえ既になっちゃいますたでもドンマイ! ま、それは兎も角としておきましょう。ヒロさんが私以外の人にも優しくしちゃうのがイケナイんです。じっくり殺していたらヒロさんとべったりする時間がなくなるから、これからはさっくり殺す事にしましょう。
こほん。
私の名前は笹原由奈。括弧して、ささはら・ゆな、括弧閉じます。年齢は現在のところ二十七歳で、母性豊かな優しい人が多いらしいかに座で、真面目で几帳面な人が多いらしいA型。身長はヒロさんの二の腕くらい。ヒロさんはクマさんのぬいぐるみみたいな大きな人なので、見た目がランドセル女子のような私は不釣り合いかもしれません。けれど、ヒロさんは私だけのモノなので誰にも渡しません渡すもんか離れてなんかあげないぞぉおおおー!って、いやその。えっと、それで、体重は………体重か。そんなの知らないし知りたくもない。なので、どうしても測らなくてはならない月に一回の日が来ても、聞かないし訊いたりもしません。今のこの状況に至る前なら特に、測っても意味がない事だし。以上、兎にも角にも。くびれやおっぱいがなくて背が低くくて肌が白くて黒髪という見た目がアレなワリに、たぶん他の女性よりも毛深くて更には重要な部位の色素沈着が激しくてことごとく残念な色になっているのがコンプレックスの女性です。やっぱりピンク色には憧れにも似た嫉妬に近いくらいの羨ましさを感じてしまいます。そうでした。髪の毛は今は微妙な状況でした。
って、かなり踏み込んだかも。
でも、でも、これもどんまい。
ヒロさんにしか見せませんし。
受け入れてくれましたからね。
何よりこれは独り言ですもん。
しかも、脳内のみでこっそり。
さてさて。
実のところこの際に立つに至ってふと思ったのですが、少なくともこの事については不意に思うに至ったのですが………私はたぶんきっともう随分と前に、がらがらがら。と、壊れきってしまっていたのかもしれません。もしかしたら、まだ壊れかけているといったあたりでなんとかかんとか立ち止まっているのかもしれませんが、どうにかこうにか踏ん張っているのかもしれませんが、いずれにせよ普通という精神状態にいない事は否定しませんし、だからそんな事はありませんよと頑なに否定する気もありませんし、そもそも否定する必要性を感じていない。なので、不意に思った言わば死亡宣告のような自己評価は結局のところ、頑張ってはいるつもりなのですがそう思わずにはいられませんという感じなのかな。
壊れきったとか壊れかけたとかいうお話しを順序立ててするには、随分と遡らなくてはなりません。私がまだ中学生から高校生の頃ですから、早いものでもう十年という表現を用いるくらいの過去の事になりますね。その頃の私は、片側麻痺という重い障害を持つに至ってしまった可哀想な私のお婆ちゃんの介護を、私自身の意志で率先して引き受けていた。当時のあの環境の私にとって唯一の味方であり、唯一の心の寄りどころでもあったお婆ちゃんには、幼い頃から優しくしてもらいましたし、お婆ちゃんの記憶だけはどれもこれも優しさに包まれたものしかありません。
でも、その他は………。
まず、お母さんやお兄ちゃんからのストレス発散を頑張って受け止めてきました。更には学校でも苛められていましたので、それも甘んじて受け続けていました。因みに、お父さんは私が小学校高学年の頃に居なくなりました。所謂ところのお仕事人間さんだったみたいで、だからなのか遊んでもらったとか何処かに連れて行ってもらったとかいう記憶が殆ど見当たりません。と、言うか………そういった事を沢山してくれたのは実のところお婆ちゃんだけで、私にはお婆ちゃんしか味方という存在がいませんでした。
忍んでいればいつかきっと報われる。
耐えていればいつかきっと通過する。
我慢していればいつかきっと、
誰かが手を差し伸べてくれる。
いつか、きっと、絶対、
迎えに来てくれるんだ。
けれど、でも。そう思って耐えていました。思い続けながら耐えてきました。それが唯一の、たった一つの生きていく希望でしたから。でも、どれくらいの歳月を蝕まれた頃でしょうか。その誰かが来てくれるよりも先にどうやら、私に限界が来てしまった。その時の私には居場所は何処にもありませんでしたし、私という存在理由は見る影もなくて、もうこのまま生きていく事を拒否してしまいたいくらいの落胆と疲労を、見てみぬフリする事さえ出来なくなっていました。なので私は遂に、悲鳴をあげちゃいました。有り体に表現するとすれば………うん。
ぷちっ。
と、キレてしまった。そしてその結果、私という唯一で無二な個人の叫びは意図も容易く押し込められ、一切の自由を剥ぎ取られ、精神医学という価値観で閉じ込められ、キレやすい子供という枠組みの中に組み込まれ、翼をもがれてしま………ううん、違う。自ら放棄したのかもしれませんね。夢は叶わない。認めてはもらえない。私は私として生きていく事さえ許されない運命なんだと、人形と同じなんだと、心を表に出してはイケナイんだと、感情を持つ事すらダメなんだと、そのように結論づけて一切合切の端から端までを全て、何一つ残す事なく諦めようとしたのですから。
でも、これが。
するとこれが、結構な大きさをもって楽になれました。極たまに生きているのか死にかけているのか判んなくて怖くて怖くて仕方ない時がありますが、そんな時は肌をキリキリと傷つければ解決します。痛みは効果絶大です。
痛みを感じる。
痛いのは私だ。
つまり、私は生きている。
と、そう実感デキるから。はい、これで解決。解消です。なので、そうする事でこの問題を解決してきました。でも、別の問題については別の手段で解決するしかな、く………ううん。これこそ、解消と表現した方がしっくりくる類のモノですね。それはたぶん、ストレスですから。
では、どういう方法でストレスを解消するのかというと、それはズバリ言うと忘れてしまうんです。どうやって忘れるか。一旦は自身に楽しみを与え、次に苦しみを覚えさせておいて、そこから解放させる何かをすればイイんですよ。
私にとってのそれは、所謂ところの過食です。好きなモノを食べ漁り、貪り、束の間の幸せに浸る。そしてその後、嘔吐する。吐くのは苦しいのですが、吐けばそれはそれですっきりとします。
はい、これで解消です。
以上の二つが私の武器なんですが、これはそこまでしなくてもイイかもしれないという場合もあります。と、言うか………そっちの方が結構あります。好きでヤッているワケじゃありませんし。
ではでは、
それは何かと言いますと。
調理をする事です。
クッキングですよ。
何だそんな事かよと思われてしまうかもしれませんが、キッチンに立っていると心が落ち着きます。イヤな事を考えなくて済みます。調理って何故か、料理の事だけに集中デキちゃいますから。色々とする事があるからでしょうか? かと言って何もする事がなくても、例えばお鍋に入れた食材が煮込まれていくのをただただ待っているという時だってそうです。ジーッと見つめているだけで、あっという間に時間は流れていきます。お米をとぐ際だってそうです。しゃかしゃかと、それこそお米の粒の一つ一つが全て丸くなっちゃうくらいまで、しゃかしゃかと。没頭デキる優れものです。それに、いざという時は包丁が傍に待機してくれていますから、これはもう安心です。キッチンで眠りたいくらいです。あの頃は眠るのが怖くて殆ど眠れない毎日だったですから………うん。結局のところ、何かの用事でキッチンを離れなくてはならない時を手ぐすね引いて待っていて、最後の方は私自身が諦めともう一つ、これは認めたくないのですが抗えなかった刺激の記憶、この二つのせいで汚れてしまうんですけどね。あ、勿論の事ですがおトイレにも行くわけですし。隙を見せるつもりはなくても、汚れるに至る事情がどうしてもあったんです。あ、でも。そうでした冷蔵庫を開けた私に忍び寄ってきてそのドアを力ずくな強さで私にぶつけて倒れたところを………なんて事もありました。予想外でした。酷いですよね。って、その先にある事の方がもっともっと酷いけれど。
そんなワケで、クッキングという方法はなんだか必ず叶うおまじないみたいに思えなくもないんですが、そういう穴もあって万全ではなかったけれど、私はそれでもキッチンからなるべく離れないように離れないようにしていました。実際のところはただ単にこの方法しか知らないというだけの事だというのは承知しています。決して十全なんかではないという事も、きちんと理解しています。だって私、現在ではもう既に十全と呼ぶに相応しいものをそれこそ十全という形で見つけていますから………でへへ。
あ、それと。現に私はこれ等おまじないがその効果及び効力若しくは効能を発揮してくれなくて暴発してしまい、それによって一年以上二年未満くらいの時間を患者として費やしていた過去があるワケですし。しかも、巷では青い春と呼ばれている大事だったかもしれない期間を毎日のようにいいえ毎日、棒にふっていたワケですから。なんという事でしょう………あ、でも。そこで出会った患者のみなさんは異常という程にかけ離れている人ばかりでは決してありませんでしたし、私も勿論の事そのつもりでした。ですから、蔑むのは構いませんが同情されたくはありません。どうせ人間なんて優劣を勝手に決めつけて自らを優の側へ置いておきたい愚劣な生き物ですし、劣が見つからなければ尚更に僻みを発揮して身勝手にその方向を作り上げようとまでする正に劣悪なゴミですから、こんな程度の事でさえも優越感に浸るチャンスだとほくそ笑むんでしょうけど、ね。
流石にそこは、うん。
諦めざるをえません。
それほどに醜悪な生き物ですからね。人間なんて生き物はどうせ………あ、ヒロさんとお婆ちゃん以外のみなさんは一人残らず、ですけどね。
はうう………山下宏典さん。
私の、最愛にして唯一の人。
ヒロさんは激しく別です。
一緒にしないでください。
一緒にしたら殺しちゃいますよ? ヒロさんの優しさは本物ですもん。人間を信じない私が夢中になっているんですから、それはもうお墨付きですよ。あげませんけどね絶対に。あ、そう言えば手相にもはっきりと表れていました。手相を信じてみてもイイかなと私が思えるようになったのは、ヒロさんのそれによるところが大きいんです。例えばヒロさんの右手にある天使の羽ですとか、両手の神秘十字線ですとか………あと、エロ線ですとか。
もう、ヒロさんたらぁー。
こんなトコでダメですお。
えっ、そそそれは………。
あうう、あうっ、はうう。
ヒロさぁ~ん………あっ。
暴走しかけてるいけない。
兎にも角にもヒロさんは、他のゴミなんかとは激しく違うんです。唯一無二の絶対的な存在で、私だけのモノなん………そうでした。ヒロさんは私だけのモノではありません。ヒロさんにはいつだって恋人候補がいましたし、ヒロさんを私だけのモノにデキないのは私の問題です。ヒロさんは優しい人なので私が悲しまないように黙ってくれていますが、傷つかないように秘密にしてくれていますが、実は私はそれを早くから知っていました。だって私、常時と言っても間違いではないくらいにつきまとっていましたから。
ストーカーですと?
はい、そうですよ。
先程も言いました。
それが何か? 一応は恋人というポジションに置いてもらえていると思っていたので、その特異性は殆ど目立っていませんし、ヒロさんの全てを知りたい私としましては、それは仕方のない手段です。盗撮や盗聴も考えているくらいでしたよ。でもそれは、ヒロさんが他の女に私が知るあの感覚を与える行為の一部始終を現実として認識しなければならない事態に陥る可能性がありますので、やはりズルして監視するより足を使ってつきまとう事を選びました。犯行は未然に防ぐ事こそが大切ですから。えっと………たしか、現場百回? とかってヤツですよ。だって、証拠を突きつけて殺すんじゃ遅いですもんね。あの悦びやら何やらを知る前にギタギタでメタメタに殺してやらないと気が済みませんし、知ったらその分だけ幸せ感じちゃっているから負けた気がしてそんなの凄くイヤじゃないですかぁー。ただでさえ私はいつだって与えてもらってばかりで、いつまでたっても何一つ与えられないままのダメ女なのに。これはもうヒロさんが悪いのではなく、ヒロさんを誘惑するアイツ等が悪いんです死ぬべきですだから殺してもイイんです。
私はヒロさんの事を、
激しく求めています。
だから、だから私はいつだって怯えていました。棄てられてしまうかもしれないという完全なる絶望に。私は自分自身に自信がないんです。真実の私は汚れている女なんだという秘密が露見してしまえば、こんな私はきっとポイされてしまうでしょう。気持ち悪いと拒絶されてしまうでしょう。私はそれ故に、頑強な盾を欲しています。私は人間を信じていません。信じません。信じられません。信じきれません。だから決して胸の内を見せず、心を晒さず、笑顔の裏で他人を試します。こう言えばどうなるか、こうすればどうしてくるか、その心根や思惑を探ります。みなさんなんてどうせ自分が良く思われたいだけですし、尊敬されたいだけなんですから。でもみなさんは、それなのにみなさんは、そのワリに何の努力もせず、魅力の欠片もなく、誰かの受け売りをさも自分の言葉のような表情で語り、御託を並べたて、優しさを気取り、分別を騙り、上に立とうとするんですよ。この世の中はそんなヤツ等だらけなんです。場合によっては、そんなヤツしか存在していないかもしれません。だから私は腹の中で嗤い、良い子を演じ続けるんです。生きていたって素敵な事なんて起こるワケがない。私がどんな事を考え、何を思い、どう感じ、何がしたいのかなんて誰も聞いてくれない。そんな私を求めてなんていない。私は私じゃなくてもイイんです。ただの駒。生きていたって意味なんか何一つ全く欠片も微塵もないんだあははねぇそうでしょそうなんでしょそう思ってますって言えばイイんでしょはいはい思ってますよそうとしか思っていません、よぉーだ。
でも、やっぱり………私は。
どこかで期待していました。
もしかしたらいつかきっとって、そう思っていました。何度も諦めかけてきましたが、それでも死ぬのは怖くて、楽に死ねる方法が見つからなくて、だから勇気がなくて、それで月日は流れて、流されて………でも、生きていて良かったです。
だってヒロさんと、
出逢えたんだもん。
ヒロさんは、そうですねぇ………先程も思ったような気がしますけれど、お洋服を着ている時はクマさんのぬいぐるみみたいな装いなんですが、脱いだら今でもそこはかとなく腹筋割れとかある人です。柔道を習っていたとの事で、いつだったかフニャフニャの掛け布団で綺麗な一本背負いを見せてくれた事があります。なので………うん。プロレスラーさんみたいな感じの人ですね。見た感じは凄い怖そうなんですが、早くから介護福祉士を目指して取得した人なだけにとても優しい人です。ま、その前はワルさんでしたけど。私はそんなヒロさんのお陰様で、素敵な夢を見てきました。体感させてもらいました。それも、至福の時間と表現しても言い過ぎではないくらいの、です。でも、気づいてしまいました。気づいちゃったんですよ、私は。出来る事ならば、もっともっとずっとずっとその世界の住人でいたかったのに………結局のところ私自身も、嫌悪しているヤツ等と同じ穴のムジナだったんです。まさかですよね、あはは。
なんちゃって、ね。
そんな事、ホントはとっくに知っていましたよ。それでも私は違うんだと、一緒じゃないんだと、そう思い込ませようと躍起になっていただけなんです。知っていたのに、自分自身でも気づかないフリをしてきました。所謂ところのアイデンティティ。って、言うのかな。でも、でもヒロさんへの想いを否定する事はデキません。だから、それが崩れてしまいました。崩れちゃいました。こんな事ならもっともっと早くに認めてしまった方が良かったんじゃないかなって、今ならそう思います。うん、今の私なら。だって、私に残されたモノは絶望と悪夢だけですから。
絶望は以前から持っていて、悪夢はその時その時に現れては居座ったり、出て行ったりします。その二つは両方とも一つの形で収まっているなんて事はなく、手を変え品を変えて私の脳を心を身体を支配するんですが、それでも絶望という境地まで到達せずに、諦めという領域でなんとか留まってくれている事が殆どでした。私にはヒロさんという唯一無二の存在が絶対的なストッパーとして最期の弁慶さんのように、って言うかヒロさんの場合はスターを獲得して無敵モードって感じなんですけど、兎にも角にも仁王立ちで君臨してくれておりますから、身勝手な自暴自棄とか第三者がもたらす自己嫌悪とかにさえ陥らなければ………ううん、正直に言えばヒロさんに甘える為の手段として使えるという事を覚えてからは、ワザとするなんて事も沢山あったのですが、兎にも角にもヒロさんは絶大で唯一無二の存在ですから、ヒロさんがいてくれないとどうにもならなりません。勿論の事、今までも今もそうですし、これからもそうでなければなりません。これはもうオプションではなく、最初から組み込まれているスターティングメンバーなんです。
でも、悪夢だけは違う。
ヒロさんと出逢ってからの私を襲う悪夢は、ヒロさんへの想いの大きさに比例して強大かつ凶暴です。それ故に、これまでの悪夢とは比べものにならないくらいに強烈で、その悪夢を感じる度に私はがくがくと震え、怯え、泣き、喚き、叫び、ヒロさんに助けを求め続けました。
何処にも行かないで!
棄てないでください!
嫌いにならないで!
何でもしますから!
イヤですよ!
ヤダよぉー!
別れたくないよぉー!
お願いですヒロさん!
ヒロさんだけなのよ。
だから助けて………。
ああ、あ、あ、あああっ!
ヒロさぁあああーーーん!
私の悪夢………それは、ヒロさんに棄てられてしまう事です。私はヒロさんに、激しく依存しています。判っていますそんな事。私はヒロさんを心の底から愛しています。だから私は、ヒロさんに依存してしまうんです。だから、何でも言う事を聞きますよ。それでヒロさんの傍に居られるのならば、私はどんな事だってします。それでもヒロさんは決して、私を奴隷のように扱ったりはしない。都合良くあしらったりはしない。いつだったか、何でも言う事を聞くって告げた時、ヒロさんはこう言ってくれました。
『それなら、さ。イヤな事はイヤだって言ってほしいなぁー。俺は由奈と並んで歩きたいから。優劣の有無とか上下関係とか損得勘定とか、そんなのは要らないよ。由奈の居場所は俺の下ではなく俺の横だもん。だからせめて、俺に対してはそうであってほしい』
ヒロさんはいつだってそのとおり、
その言葉に少しの偽りさえもなく、
私に接してくれる人でした………。
『認める勇気、謝る勇気、許す勇気を忘れず、一歩踏み出す勇気を持つ………俺もいつかそうなりたいんだけど、難しいんだよなぁーこれが。』
そうも言っていました。尊敬する人のお言葉なんだそうですが、私からすればヒロさんはもう充分に世界中の誰よりも優しい人で、私はその優しさに甘えてばかりいるから、私にとってはヒロさんこそが尊敬する人です。ヒロさんが傍に居てくれれば安心デキるし、ヒロさんに触れれば癒されちゃいます。ヒロさんに触れてもらえればとろとろにトロけちゃいますし、だから何もかもを忘れてしまえます。流石は依存しているだけありますね。私の倫理はヒロさんで占められているなぁーと感じてしまう部分も強くありますが、ヒロさんの代わりを捜す時間と見つかる確率を考えればヒロさんにしがみつくのは当たり前の事ですし、そんな無駄な事に時間を使うなんて考えられません。したくもありません。ヒロさんに従順な女であればある程、優しいヒロさんですからきっと私を棄てにくくなる筈ですし、それにヒロさんによって知るに至った幸せはもう知ってしまったが故に手離せません。またイチからやり直すなんて真っ平ですし、やっぱりヒロさんです。ヒロさんは私を受け入れてくれましたし、ヒロさんが与えてくれる幸せで充分すぎるくらいに満たされていて、満たされすぎて今やジャンキーですし。きっと、ヒロさん以外とどうにかなったとしても比べものにならないくらいにこれ以下が殆どでしょうし、これ以上があるとしてもその人と出会えて更には結ばれるなんていう物語になんか魅力を感じません。何度も言うように、私はヒロさんでたっぷり満たされているんですから。なのでつまるところなんにせよ、私にはヒロさんしかいないんです。有り得ないんですよ、今となっては特に。もう、私はヒロさんから………。
それなのに、ヒロさんには他にいる。
だから早く、此処を出ていかないと。
せめて、一週間くらいあれば。
それだけあれば絶対に………。
それにしても。
ヒロさんはどうして、こんな私なんかの傍に居てあげようと思ってくれたんでしょうか? やっぱり、同情なのかな。それとも、ただの哀れみなのかな。優しい人だから、こんな私をほってはおけなかっただけなのかもしれませんね………。ヒロさんの真意はこんな私だけに全く判りませんが、判らないままでもイイと私は思っていました。それでも構わない。ヒロさんの傍に居られるのなら、私はそれに甘え続けよう、と。ヒロさんは私と同じ目線に立ってくれる人。ヒロさんは私なんかに言ってくれた。上下関係なんて求めていないし、損得勘定も必要ないと、そう言ってくれた。私の居場所はヒロさんの横だとまで言ってくれた。
だからヒロさんは………、
私を愛してくれている筈。
だから私は、
きっと私は、
誰よりも幸せだと実感していた。
の、だと思う。でも、どうすればヒロさんがこのままずっと傍に居てくれるのか、それが私には何一つ判らない。そして、どうすればイイのか判らないからこそ、直ぐにまとわりついてしまうんです。どうすればイイのか判らないからこそ直ぐに嫉妬してしまうんですよ………はい、ただの言い訳です。そうしてしまう事はヒロさんを繋ぎ止めておくには何の役にも立たないというのに、それよりも何よりも寧ろウザいと思われて離れていっても仕方ないような事なのに、私はそれを抑える事がどうしても出来ないでいる。こんな事をしてしまってでも、私はヒロさんに頼ろうといている。こんな事になればなるほど、ヒロさんなら手をさしのべてくれるだろうと甘えている。
心ってなんて我儘なんでしょう。
脳ってなんて従順なんでしょう。
私ってなんて不埒なんでしょう。
ヒロさんならば優しく受けとめてくれると思えば、すぐにヒロさんの微笑む表情が浮かぶ。きっとヒロさんは、私で諦めてくれるんです。ヒロさんはそんな私をぎゅっと抱きしめてくれて、『今までツラかっただろ? よく頑張った。よしよし』って優しく囁いてくれて、頭をぽんぽんと何度も撫でてくれる筈。私はそれで救われる………。
の、だけれど。
そんな私に対する私の心は冷たい。そして、私の脳もそれに呼応しようとする。ヒロさんによる冷たい視線が私を射抜き、『由奈、もうそれ以上は近づかないでくれ。俺はもう疲れたよ。オマエが居ると疲れるんだ。だからもうヤメてくれ。俺に触れるな』と、私を突き放した態度で拒絶の意を示すなんていう悪夢を発動してくる。そして、私はその悪夢に力尽きかけてしまう。更には、絶対に知られたくない秘密が私を更に苦しめようとする。だって、そうだよね………流石にこれは許容してはくれないよ。コイツやっぱり気持ち悪いよ触りたくないよ頭がオカシイんじゃないかって思われても、仕方ないくらいの事なんだもん。
それなのに………やっぱり。
何を期待しているのかしら、私って。何を一人前に望んでいるのよ、この私。どうせ私は、報われない運命だったのよ。遅かれ早かれこういう事態になっていた筈なのは、この私自身が誰よりも理解していた事でしょ? 予測していたし、予想していたし、想像もしていた事でしょ? ヒロさんが傍に居てくれたから、だからここまで延命する事がデキたというだけの事。ヒロさんと出逢わなければとっくの昔に………でも、だからこそ。だからこそ、ヒロさんが与えてくれたあの幸せがどれもこれも、どれもこれも忘れられないんだよぉおおおー!
こんな事を考えている私を、
ヒロさんはどう思うのかな。
早く会いたいなぁ………。
ヒロさぁん………ひんっ。
私は再びキレてしまいました。予想外に酷くなってしまってこんな姿だからという事情もたしかにあるんですが、それだけなら此処じゃなくてもイイ。私とヒロさんのお部屋はなくなってしまったけれど、場合によってはヒロさんと私のお部屋に転がりこむ一足飛びな事だって可能性としてはまだゼロではない。だってほら、私にはまだ合鍵があるんだもん。
けれど、でも。
私は隔離されてしまいました。それが、此処から出られない理由の一つです。やっぱりアンタは普通の人とは違うよね、と。正常な人ではないんだよね、と。だから、この精神科病棟に居させられているんです。私はヒロさんに会う為に、色々な企みを労してみました。それはどれもこれも浅はかなモノだったかもしれませんが、それでも考えに考えてヒロさんに連絡してみるというカードを使用するに至った。すると、会いにきてくれるという返答が私に届いた。都合約半年もの間、何一つ好転せずにいたのに。ヒロさんは、突然と言えば突然で、唐突と言えば唐突なコールを受け止め、そして受け入れてくれて、此処まで会いに来てくれようとまでしてくれました。やっぱりヒロさんは、誰よりも優しい。こんな事までするに値する人です。
でも、私は。
大問題に気づきました。墓穴を掘ってしまったかもしれません。私はすっかり忘れていました。ヒロさんに甘えたい頼りたいしがみつきたいという想いに意識を完全に支配されていたので、重大な事なのに考えもしていませんでした。私は今、精神科病棟の中に居るんです。
と、いう事は。
ヒロさんにも。
そうです。過去の事です。理由があるから入院させられていたワケで、だから当然と言えば当然の如く、少なくともあの芹澤は私が知られたくない秘密を知っている。そして、芹澤はヒロさんが私のキーパーソンだと思っている。勿論の事、私はヒロさんの言う事だけはそのとおり従うつもりだし、病院側としてもヒロさんが私のキーパーソンだという事は意図も容易く判るでしょう。何も間違っていませんし、たしかにそれはそのとおりです。でも、そうなると………場合によっては。芹澤はヒロさんに情報の一つとして、私の知られたくない秘密までも晒してしまうかもしれない。その一手を使うかもしれない。隠してきた事実をヒロさんに露見してしまうかもしれないんです。
私が汚れている理由を。
実の兄による仕打ちを。
ヒロさんはヒロさんが初めての人だと信じてくれましたので、ヒロさんしか知らないという事を武器にして盾にしてその一つとして、嘘も方便という事でヒロさんにしがみつく理由に利用しているのだけれど………それにしても生理って役に立つ事もあるんですね。場合によっては、ですけど。
けれど、
あの女は知っている。
だから、
私は今も魘されている。
それに。
『オマエが汚れた女だという事をさ、その彼は知っているのかい? オマエみたいな汚れた女がさ、一人前に恋人気取りかい? オマエは醜くて不埒な女なんだよ? 母としてはそれでも貰ってもらえるのか、その彼に話してみなきゃならないね。まさかオマエ、バレなきゃ大丈夫だとは思ってないだろうねぇ………だとしたら、誠意か足りないよ。だからオマエはダメなんだ。いいかい、由奈。オマエを何処にも行かせたりしないよ。娘が親の面倒を見るのは当たり前なんだし、オマエに出て行かれたら受給金ってヤツが減ってしまうし、ね。ははは!』
お母さんは既に他界しています。
それなのにこうして、出てくる。
今から数年前、お母さんはお婆ちゃんと同じ障害を持つ事になりました。発見が早かったというのと一度目というので残念ながら、激しく残念な事ながら命にまでは別状なくて程度は軽いもので済みやがったけれど………それでも社会に出るのは厳しい。そして、精神科に出入りするような娘。お婆ちゃんは更に数年前に天国に行っちゃいましたし、お父さんはそれよりも随分と以前からいませんし、兄は身勝手にも自身で命を絶ちましたし、母と娘の二人暮らしでした。母子家庭です。条件は結構な数で揃っています。私が扶養家族なのか何なのか兎にも角にも何だかかなり変わる、給付金の類の額のお話しです。娘の幸せよりもそんな事を………ですよ? 私は絶望しかけたんですが、考えてみれば以前からずっと私はその程度の存在でしたから。なので、結局のところは憎悪の方がぐんぐんと追い抜いて勝りました。当時はまだヒロさんと出逢ったばかりだったので、現実逃避で白馬の王子様、じゃなくて白馬に乗った王子様として妄想していた私にお母さんが汚なく罵ってきただけだったんですが、今の私はヒロさんによる幸せを既に存分に味わっていますから、味わったその幸せをまた体感したい早く体感したい今すぐに今まさにヒロさんヒロさんヒロさぁーんという欲望がある分だけ、この記憶が結構なチカラを発揮して襲ってくるんです。死んでもらった後になっても。ううん。今だからこそ、かな。兎にも角にも私は今、露見の恐怖に怯えているんです。でも、私がする事は決まっている。
一つしかない。
それしかない。
ヒロさんに嫌われてしまうという悪夢の現実をこの眼前で浴びる前にする事。と、言えば………選択肢は唯一、一つしかありません。イージーな問題ですよ。得点は知りませんが、特典は凄いぞってヤツですねあはは。ここまでしたのにここにきてここまでしたことをむ、に、し、て、た、ま、る、かぁあああー!
………。
………。
「ふう………」
あれからやっと一週間、かぁ………。長い時間でした。まるで地獄のような半年………と、言うよりもヒロさんがいてくれた時間以外を比べればほんの僅か二十五年分の一週間なのに、でも違う。激しく違う全く違う一切合切まるっきり、何から何まで端から端まで違うの当たり前ですよそんなのは。だって今の私は、ヒロさんとの甘い時間を経験してしまった後の私なんだもん。ヒロさんが傍に居てくれたあの時間だけは、全く別のお話しです。別の世界だし、別格だし、別次元なんです。アレは間違いなく夢見心地でしたし、絶対的な至福でした。例えヒロさんの心が私で埋まっていなかったとしても、私にとってはそうなんです。それでも私にとっては、そう。私にとっては何もかもがどれもこれもがそうでした。私は魅力なんて持ちあわせていない女ですから、ヒロさんの心を埋め尽くす事が叶わなくても仕方のない事です。私はそれほどまで自信家ではないし、傲慢でもない。でも………。
お人好しなんかでもない。
それまでの私ならきっと、他の事と同じように諦めていたでしょうね。それまでの私であれば、うん。場合によっては………ヒロさんを味わってしまう前の私なら、たぶんきっと。だから、少なくともこの一週間は別の苦しみでした。一週間後。それはつまり今日。この地点まで場所まで時間まで耐えてしまいさえすれば、どんなクイズ番組よりも豪華なご褒美が私のモノとなる。どんな宝くじにも負けない、そんな潤沢な当選がこの私を待っている。狂おしい程に渇望している温もりに包まれて更には、とろとろにトロけてしまうような甘い未来が、こんな私に与えられる。この世に唯一つしかない究極に、心や脳や身体でそうですそうなんですよ私という私が目一杯に体感デキるんです。それを知っていながらにしてのおあずけ状態を、都合一週間も………って、半年以上もの間ですけどね。でも、でもこの一週間という期間はかなり違う意味を持ち合わせている。だって、もう眼前にあるのと同じようなものなのに、それなのに待たなければならないのだから。一週間前にたしかに一度は来てくれたんだもん。来週の今日はお誕生日だから、その時になったら由奈ちゃんの大好物を沢山食べに行きましょうねぇー♪ と、予告先発されている楽しみと苦しみみたいなものですね。愛しさと切なさと心いやその超一流歌い手ライターさんは置いておいて、これぞまさに、そうです。狂おしい程に恋い焦がれながら、待ち焦がれておりますという感覚ですよ。
ヒロさぁん………。
味わってしまった。
体感してしまった。
体験してしまった。
経験してしまった。
アノ感覚を忘れるのは難しく、諦めるなんて無理に等しい。忘れたフリをする事や、諦めたフリをする事、それすらデキません。だって、思い出してしまうから。だって、思い浮かべてしまうから。だって、心が脳が身体がはっきりと覚えているんだもん。だから、体感したくなってしまうんだもん。疼いてしまってどうしようもなくなってしまうんです。しかも眼前に、手が届きそうな位置に、間違いなく立ってくれる。また会いに来てくれると約束してくれたんですよ。本来であれば、目が覚めたら眼前にいてそのまま再び傍に居てくれるであろう筈だったその予定だったヒロさんが。だからこそ、一週間はとても長い。狂おしさのあまり気が狂いそうなくらいの長さです。私はこのベッドの上で一日の殆どをすごし、その殆どをこうしている。視線の先はこの病室の入り口で、この視界にヒロさんが登場してくれるのを待っているんです。特に今日なんて、今か今かとまだかまだかと凝視し続けているんです。先生や看護師さんや患者さんがガン引きしちゃうくらいに。やっぱりこれからは、屋上に行くべきかもしれません。あそこからなら発見して到着するまでに少しのインターバルがありますし。
あ、そうだ。個室にならないかなぁー。そうなったらそれこそ、一週間前のあの恍惚の時間の続きを………久しぶりに味わったヒロさんのアレが、今度は私の口ではなく中に………ごくり。それはそれでオカシクなっちゃうかもしれないけど、オカシクなりそうになるなんて毎回の事だったし、ヒロさんにオカシクされたい。場合によっては今のままここでも私は構わないのだけれど、流石にヒロさんはそこまで許容してはくれないでしょうね。特にあの女の子には刺激が強すぎるし。カーテンで遮断したところで、私が声に出ちゃうし………身体が疼いてきちゃったよ。今日も今日でもう触りすぎて既にひりひりしているのに、こんなにも私は、私は………ヒロさぁーん、大好きだよぉー。だからこうして待ちわびてるんだぞぉー。狂おしいくらいに求めてやまないんだぞぉー。
恋する乙女?
ううん、否。
だって私は………随分前に汚れてしまったから。欲望の達成という思惑を健気というフィルターに隠して都合の良い女を演じつつ、気づいた時にはもう手遅れといった状況に持っていこうと企んでいるんです。今の私はこうしてジッと一点のみを見据え、視線の先の視界に獲物がひょいと姿を現すのを待っている獣のようなモノです。捕らえて、がぶり。と、逃げられないようにしてからゆっくり食らう為だけに生きているんです。特にこの一週間は、その事だけに集中しています。と、言うよりも………わざわざ集中しなくてもそれしか思い浮かびません。考えつかないし、そんな余裕なんて全くありません。もはや私は、ヒロさんを捕食する為にしか存在していないんです。乙な女はこんな事、考えもしないでしょう。そして………乙な女を演じようだなんて思う必要がない。
ヒロさぁん………。
ヒロさんが………。
欲しい。早く欲しい。早く、早く欲しいよぉー。あう、う、うう、ううう欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しくてたまんないヒロさんが欲しいヒロさんがヒロさんヒロさんヒロさんヒロさん大好きです大好き大好き大好きだよヒロさんヒロさんが欲しいヒロさんが欲しいヒロさんが好き大好きヒロさんヒロさんヒロさんああぁーんあああヒロさんが欲しいよぉおおおーーーっ!
………あっ。
うう、うっ。
あう、う、あ、ああっ!
あが、うう、あ、あっ!
あ、あ、あああ、ああああぁー!
生涯の獲物さん来たぁあああー!
しかも、しかもしかもしかも、
目が合っちゃったですよぉー。
はう、う、ヒロさんだぁー!
逃がさないぞヒロさぁーん!
ヒロさんヒロさん!
ヒ、ヒロさぁ~ん!
「あうう……」
どどどどうしようヒロさんとばばばっちり、み、みみみ、みみみみ見つめあああわああ合えてるですよぉー!
「あわわあううあうヒヒヒヒロさん来てくれたでしゅかぁー!」
ダダダダメだぁあああー! 愛する獲物さんを前にしてあたふただよ噛んじゃったよ見られてるですよヒロさんだよ半年振りですねあわわ緊張が止まらないですでもでも、でも、はふぅ………場合によっては勢いでどうにかなんないかな。
嬉しいよぉおおおーーーっ!
「よっす!」
ヒロしゃーん………はう、う。あう、あうう、こ、ここここんなんじゃ、こここ、ここまでの苦痛が水の泡になっちゃう! 頑張れ、私! 頑張るのですよ! ほら、もうちょっとなんだから落ち着いて! 落ち着くのよ、私………うん、そうよ。ここからなのよ。ここからが最重要課題なんだからね。
「元気してるか?」
低くて甘いヒロさんの声が耳からスーッと体内へと入ってきた途端に、身体中どこもかしこもをもの凄い勢いで激しく刺激する。ヒロさんの生声………たまんないよぉー! 一週間も生殺しだったからううん半年もそうだったから、卒倒してしまいそうなくらいの心地良い感覚ですぅ………。
「こんにちは、ヒロくん」
あ、そうだ。何故かいたんだっけ。何をするでもなく丸椅子に腰掛けてまるでヒロさんを一緒に待つかのように、ただただ何も言わず。不気味な感じがするくらいの静かさで………ま、イイか。それよりもヒロさんです。ヒロさんがすぐそこに。じゅる。
ヒロさんの声。
その優しい声。
大好きな声色。
瞳に宿る笑顔。
優しい微笑み。
大好きな表情。
やっぱり安堵してしまう。
それだけで溺れてしまう。
「あ、そうだ。ヒロ?」
「えっ、あ、はははい」
え………。
けれど、でも。
やっぱりそう。
「後で来てくれるかな」
「え、っと………はい」
………っ。
確信に変わりました。
思ったとおりでした。
信じていたのに。
敵だったんだね。
「………」
やっぱりそうだったんですね。だからあんなにも薦めてきたんだ。と、まるで全てが翻って逆側に繋がったかのように憎しみへと様変わりしていく。白石で埋め尽くされていたボードが黒石に裏返りしていく。
「邪魔しちゃ悪いから退散しようかな。仕事サボってばかりじゃ怒られちゃうし」
だ、そうで。それならどうして今までそこにいたんですか? って言いたくなるところではありますが、たしかにお邪魔さんですからそのとおりお仕事に励んでいただきまして、私達のこれからはノータッチで………そっか、せめてヒロさんに釘をさすつもりの皮肉が言いたかったんだろうね。って言うか、言わずにはいられない心境ってヤツなのかな。彼女はそれを悟られないように、足早にここを後にする。本心ではここに居たいのに、監視したいのに、でもここに居たらバレてしまう。今はまだバレるワケにはいかない。みたいな感じでしょうか。
「………」
ヒロさんは………固まっている? もう深いトコまで繋がっているのかな。一つの確信でこんなにもすぐにここまで読めてしまうなんて、完全犯罪は難しいですね。って、犯罪ではないか。傷つけるに決まっている事をするのは犯罪にするべきなんですけどね。
なら、ば。
「あああの………」
それならば。と、私はパブロフさん家のワンちゃんみたいに反応しよう。事実、簡単に満たされてもいるんだし。実のところは私が食べられちゃっているんだけど………って、少なくとも今のヒロさんにはもうそんな気はないんだろうけど。ううん。そんな気なんてないだろうどころか、あるワケないですよ。でも、でもヒロさんはまた来てくれた。ヒロさんがまた来てくれた。来てくれた来てくれた来てくれた! 私なんかの為に、此処まで………でへへ。
えへ、でへへ、じゅるる。
どこから味わおうかしら。
「一週間ぶりの再登場です御無沙汰しておりました。で、ちゃんとメシは食ってるか?」
と、ぽんぽん。はうう。アイツのせいでぎこちない感はあるものの、頭を撫で撫でされちゃいますたぁ………食らいついちゃおっかな。嬉しいよぉおおおー!
「はう、う………はははい。だってヒロさんと、約束したですから」
と、ぽつり。がくがくと惚けながら昇天してしまいそうな高揚感に見舞われながらも、主張しておく事は決して忘れません。でも、そのまま目を合わせているとしがみついて剥ぎ取って晒け出して貪ろうとして後の祭りになるのは目に見えているので、自爆阻止の為に俯きました。この先に何度でも体感する事が可能なのに、此処での一回のミステイクでその全てを終わらせてしまうワケにはいきません。私はもう………失敗するワケにはいかないんですよ、絶対にね。
「それは十全です。リハビリはどうなの? キツくないか?」
私の思惑………と、いうよりも企みを知る由もない優しいヒロさんは、優しい気遣いで私に優しさを与えてくれる。でも、私がリハビリを必要とする状態だと知っているという事は、芹澤先生いいや芹澤から現状を詳しくという事になる………あのヤロー、ヒロくんのお仕事の邪魔になるからとか言って私にはコールもメールも禁止しておいて、自分はちゃっかりヒロさんとのコミュニケーションを満喫しやがって! しかもだよ、しかもこの後に会おうとしていたし。あ、場合によってはこの病室に向かう前に芹澤んトコに行く事とかあるかもしれませんね。あううう、やっぱり屋上からの観察ですぐ来てくれたのか確認しておくべきかも………あっ、よくよく考えてみるとこの病院って、病院だけに女率が高いんだった。場合によっては邪魔者は一人とは限らないのかもしれません。なので、ちらり。と、上目遣いでその表情を窺って、み、ます、とぉ………。
………あっ、ヒ、ヒロさぁん。
やっぱり世界で一番に優しい。
窺ってみるものですね。勇気って大切だ。だって、その甲斐あって心配してくれているのが見て取れたんですから。って、安心感が膨らんだから言っちゃいますが、実のところ声だけでも充分に判ってたんです。でも、ね。『五感をより多く活用すればする程に、遂行する何らかの成功率は上がるんだよ』たしか、そうだったですよねヒロさん? たしかにそのとおりだと私は今、身をもって感じました。だって、聴覚+視覚でさえ何倍にも増していますもん………あ、でも、ヒロさんは狙って心配を装っているワケではないか。でも、でも、ヒロさんの言うとおりです。
「今はまだ直ぐに息切れしちゃうですけど、場合によっては、えっと、でも少しずっ、あ、ううっ………」
さっきバタついてしまったから、入院着が激しくとは言わないまでも乱れちゃってました………なんだか痛いかも。私の身体って今、ヒロさんが知っている頃よりも傷とか痣とかだらけだった。って、今の私はミイラさん状態なんですけどね。そっちの方がマイナスかも。ある意味、スケキヨさんとも言えますし。しかも、あの頃よりも更にガリガリになっちゃってもいますし。ヒロさんはぽっちゃりさんが好みだから、明るい内での肌の露出は色々ともう完全なるミステイクです………は、は、早く隠さなきゃです! あ、でも。もしかしたら、うん。こんなになって可哀想に。って思ってもらえる可能性もありますよね。そしたらそれで、気を引けるかもしれない。ヒロさんは優しい人だから、そう思ってくれるかもしれない………そっか。そうだよ、うん。聞かせる+見せる。で、効果がより大きくなる。だったよね………よし!
「そっか………あ、えっと、無理せずに、頑張りすぎず、だぞ?」
ヒロさん? あっ、あっ、ああっ、もしかしてやっぱり………いろんな事を想像しているのかもしれないですね。今までよりも余計に、私の事を邪険には出来なくなっちゃっていたりするですか? その思いを、強い愛情だと勘違いしてくれるかな。その迷いを、深い愛情だと思い込んでくれるかな。かな。かな。そうだとイイなぁー。期待してみようかな。あ、なるほどです。流石はヒロさん! また私、身を持って実感しちゃいましたよ。これは効果大なんですねぇー。今後もちょくちょく使ってみるとします。そっかぁ……それなら、今なら少しくらい甘えても大丈夫かな。重いとか面倒とか思わずに受け入れてもらえるかも。
「はい。あの、ヒロさん………」
お願いが、あるんですが。
と、思った矢先に。
「………」
「………?」
黙ったままなんて………あうう。
ヒロさん、どうかしたですか?
私、何か失敗したかな………。
「あの………ヒ、ヒロ、さん?」
ヒロさん、どうしたですか? ねぇ、ねえ、ヒロ、さ、ん………あ、もしかして。甘えようとしていたのがバレたのかも。って言うかその先に成り行きであんな事やこんな事とか場合によってはそこまでするのって事まで妄想していたのが見透かされたとか。それで、やっぱりこの女は面倒だなとか思っていたりするですか?
「ヒロさん、あの………」
ねぇ、ヒロさん………ヒロさん、ホントにそうなんですか? やっぱりそう思っているとかなんですか?
「………ん?」
「ヒロさぁん………」
あう、う、あが………ううう、ゴメンなさいヒロさんゴメンなさいゴメンなさいゴメンなさいゴメンなさいゴメンなさいゴメンなさいヒロさんヒロさんヒロさんヒロさぁーん!
「ヒロさん面倒をかけてしまってゴメンなさいホントにゴメンなさい………」
だからお願いしますもう棄てないでくださいゴメンなさい!
「ユナ、あのさ」
あ、あ、困っているですね? やっぱりそうなんだどうしよう………あううゴメンなさい謝りますからだからだからお願いですそんな表情しないでください面倒とかそんなの思わないでください重いとか言わないで何でもしますから言うとおりにしますからどんな事でもしますからだからだからだからヒロさんお願いです許してください!
「ヒロさんゴメンなさいでも、でも私、私は、ヒロさん聞いてください私は………」
ヒロさんが大好きなんです! 大好きなんですお。ヒロさんに棄てられたままなんて私、私………。
誰にも渡さないぞ。
誰にも渡すもんか。
だってあんな幸せ、あんな毎日を忘れられるワケがないもん………あ、そうだ。ヒロさんが優しくしたから、だからヒロさんがイケナイんだよ? だから全部そう、ヒロさんのせいなんです。私をこんな女にしたのは、ヒロさんなんだもん!
だから、
だから責任とってくだ、
「ユナ、その不安は捨てちゃって構わないから。だからそんな顔しないで、な?」
さ、い? えっ、と………シテくれるんですか? じゃなくて、ううん! そんなのウソだね! そんなのウソだもん! じゃあ、じゃあ、どうして棄てたんですか?
「でも………」
ウソですよそんなの! そんなのウソに決まってますもん! ねぇ、そうなんでしょ? ねえ、ねぇ、そうなんですよね? こんな女なんか、こんな私なんかどうせ、不安を捨てさせて安心させといて、それでしがみつかなくてもイイかなって自惚れた私が調子に乗ったあたりでスパッと来てくれなくなるんでしょ? 握ってくれていた手をパッと離して崖から落とすみたいにして私をこのまま棄てて、場合によっては………アイツと、それで今度はアイツなんかとイチャイチャするつもりなんでしょ?
ねぇ、そうなんでしょ?
そうに決まってるもん!
「捨てろ。違うから捨てろ。な?」
そんなのウソだ! ダウトですよ、ダウト! ウソだウソだウソだウソだウソだウソウソウソウソつきさんだぁあああー!
「………」
じゃあ、じゃあ、それなら! 愛してるよって言ってくださいよ! あ、そうだ! それなら此処で抱いてくださいよ! やっぱりシテくださいよ! ホントに私を貰ってくれるつもりなら、それなら、それなら誰に見られたって平気でしょ? ですよね? そうですよね? 違いますか違わないですよね? だったらみんなの前でそうしてくださいよ! この女は俺のモノだって、みんなの前で見せつけてくださいよ! 今まで私の中でイッてくれた事なんてたったの一回しかなかったじゃないですか! いつだって避妊なんかしてさ、避妊具に何度穴を空けておいた事かですし、お尻の時でさえ避妊なんかしちゃってさ、あの頃でさえそんなのばっかで、そんなの、そんなのあんまりじゃないですかぁー! だったら此処で、今度こそ避妊なしで私にシテくださいよ! それならどうですか? どうなんですか? 私達はこんな所でもこんな事までしちゃう仲なんだぞってみんなに見てもらいましょうよそうしましょうよ! 私の事をお嫁さんにする気があるのなら私はヒロさんのモノだって思われてもイイですよね? ねぇ、そうですよね? そうですよね違いますか違いませんよね? ヒロさん今すぐ此処で私を抱いてくださいよ! それで、それで私の中に………ねえ、ヒロさんてばぁあああー!
「ゴメンな、ユナ。実はさ。さっき新規の担当利用者さんについてのメールが来てて、勿論それは仕事の話しなんだけどさ。何かさ、うん。それをさ、それを不意に思い出しちゃって。だから、その、ゴメン。話そうとしてた事、教えて?」
そんなのウソだね! 絶対にしがみついてやるんだからね! こうなったら作戦変更だよううん作戦なんてもうどうでもイイもんしがみついてやるからまとわりついてやるからつきまとってやるんだから! 邪魔なヤツはまたみんな陥れてやる! ヒロさんに近づくヤツは、みんなみんなみんなみんな片っ端から殺してやる!
「………」
ヒロさんは私のモノなんだぁー!
「ユナ………んっ」
もう離れてやるもっ、ん………。
ヒロ、しゃん?
「ん、んんっ………」
ヒロさんが、私に……チュウ、シテくれた。チュウですよぉおおお………はうう、久し振りです。みんな見てますかぁあああー! ヒロさんは私と、こういう関係なんですよぉー! もう数えきれないくらい、こういう事をしてきた仲なんだぞぉー! ツバつけとこうなんて思った人、残念でした私のモノです! 私だけのモノだもん………えへへ。大好きですおヒロさぁーん。
「………んっ、ん?」
え、あ、まだ離れちゃイヤです離れないでくださいもっと、ヒロさんもっと、もっとこのまま、ずっとシテくださいよぉー。
「はう、う、あう……ヒロさぁん。もっとぉー」
もう終わりなんですかぁー、ちぇ。あっ、じゃあ、じゃあ、それなら続きをシテ………ううん。ダメだよ。ダメだよ、私。それこそ、面倒だって思われちゃうよ。外面を良くしてストレスが溜まって、だからヒロさんにおもいっきり開放してしまって、だからそれで、それでこう………うん。でも、今はまだダメ。今はまだ我慢しなきゃです。
「ユナ、教えて?」
キスしてくれたって事は、やっぱり棄てないよって事ですよね? そう信じてもイイんですよね? やっぱりアレはそういう意味だったんですね? 私は棄てられたんじゃなかったんですね? あ、ううん。もう信じちゃったですよ? だからもう遅いですよ? 違うなんて撤回しても、そんなの今更ですよ? 離れてあげないですよ? 私、私は、こんなにも………他の女なんか抱けないくらい、すっからかんになるまで搾り出してやるから。しかも、それでもまだ抱きついてやるんだからね。ヒロさぁーん。私のヒロさぁーん。
「はははい………あああの、えっと、えっ、と、あうう、う、が、がが!」
あうう、う、なんかチュウしてもらえたから、力が抜けちゃってるですよぉ………しかも、ぎゅってしてくれたから、軽くイッちゃいましたし。はうう………うずうずしていて上手く口が動かないです。もうスイッチ入っちゃってるのに、もうちょっとで深くイケちゃいそうなのに、我慢するのツラいよぉー。
「が………ががが!」
あう、う………あっ、そう言えばヒロさん。約束したの忘れてなんかいないですよね?私は少しも忘れていませんからね。忘れてなんかあげないんだから。
「まずは落ち着こうか、深呼吸してみよう」
私、忘れていませんよ。だからまだ、こうして生きているようなモノなんですから。まずはそれを理由に、そこから先、しがみついてやるんだからね。
「はははい………」
すぅー、はぁー。ヒロさん私、ヒロさんに言われたとおりにします。ね、健気でしょ? カワイイでしょ? 面倒なんかじゃないでしょ? 重いとか有り得ないでしょ?
「落ち着いた?」
優しい声。そして、優しい笑顔。はう、う、大好きだよヒロさぁーん………我慢するのヤメちゃおっかな。
「………はい」
あ、でも。なんだかホントに落ち着いちゃいました。流石はヒロさんです。でも、でも身体はジンジンしたままです………はうう、触ってほしいよぉー。
「それともさっきの続きとか、さ………今からしちゃう?」
なんと!
触ってくれるですか?
此処でイイんですか?
「はうっ! そそそれはその………」
シテくださいってお願いしたらヒロさん、沢山シテくれるのかな………どどどどうしましょう! あ、しまった。今日はお風呂の日じゃないから、だから私、汚れているんだった………しかも私、既にひりひりしているくらい触っちゃったし。おトイレで洗っとくの忘れていたよ私のバカやろぉー。でも、でも、それでもそのままシテくれた事はあるし………でへへ。そ、そそ、そっか。今ここでヒロさんの性欲を解消しちゃえば、そうすればヒロさんの浮気はとりあえずのところ一旦は阻止デキますもんね………そ、それに、一回そういう事になれば次に来てくれた時も、場合によっては………ごくり。
「どうする?」
ううん! ちちち違うよこれは、私がエッチな事をシテほしいんじゃなくて、ああああくまでも、そうあくまでもヒロさんの性欲を解消するのが目的で、浮気を阻止する為の戦略であって、浮気調査でもあり、私からお願いするのはその為の戦術なのであって、だから、だからこれは決して………私が、その、ヒロさんにですね、ほら、エッチな事を、沢山、その、シテもらいたいなぁーとかっていうワケでは、なくってですね、だからその………はう、う。
「もっとシテくだ」さいお願いです!
「退院してからな」
えっ………え?!
「なんと! あう、う………」
そんなぁー。すっかりその気にさせといておあずけだなんて………私、もうとっくにスイッチ入っちゃっている状態なのに、それなのにシテくれないなんて酷いですおそんなのぉー! やっぱりだよ、だってヒロさん性欲溜まってるように見えませんもん。あ、って事は他で解消する手立てがある、と………モテるもんね、ヒロさん。こうなったらもう私から組み付いて強引に………って、ヒロさんはスタンバイ無問題な状態ではないみたいだし、流石に怒られちゃいますよねそんな事したら。それに、私が既にすっかりそんな状態だという事を知られちゃうのは激しくマズいです。あ、まだお風呂に入れないままなのにプラスそんなになっているんだから、蒸れて凄い匂いとかになっているかも………漂ってないかな。まだ何もシテないのに、どうしてこんなになってるの? って、なるよね………で、シテもらおうとかずっと考えてたの? そんな事ばっか考えてたの? だからこんなになってるんだよね? って、なるでしょ………で、で、場合によっては、オマエは淫乱女だな! って、ドン引きされちゃうかもですよね………そそ、そそそそれは激しくヤバいれすから!
「なんと、じゃねぇーだろ」
あう、う………やっぱり我慢するしかないのか私のバカやろぉー。でも、もう我慢するの自信ないよ。下着がひんやりしているの自覚デキてるし、場合によってはすくにパジャマまでそうなっちゃいそうなくらい………モジモジするだけで擦れちゃうくらい固くなってるのに。
「あぐっ、あう、う………」
ドSさんですよヒロさんは。ドが何個も何個も付いちゃうドSさんです………でも、でも私、こんなふうにその度にたっぷり反応しちゃうんだよなぁーちくしょー。罪な男の人ってヒロさんみたいな人の事じゃなくて、ヒロさんの事を言うんでしょうね。
「じゃあ、教えて?」
あの頃みたいに、気を失っちゃうくらい抱いてくれたら教えます。なんて、そんな事こんなんじゃ言えるワケないか………仕方ないですね。ここのところは泣く泣く我慢するとして、後でまたいつもみたいに自分でお触りするしかないか………ううう、私のバカやろぉー! はうう。で、でも私、今ここでヒロさんに抱いてもらったら幸せすぎて気持ちよすぎてきっと、オシッコ出ちゃうかもしれない気がする。そう言えば、何回かそういう事とかあったんだっけ………やっぱりヒロさんって、遊んでいる人なんだろうね。じゃなきゃ、あんなに慣れているワケがないもんね、うん。いつまでもこんな所に閉じ込められている場合じゃないです。
「えっ? あ、と………その、私、外出許可を早く貰えるように頑張ってるです」
なので私、作戦の遂行を再び開始します! 目先の一回より末永く何度でも、です。それに、他にも重要な事があります。負けられない闘いが、ここにはあるんですよ。
「………」
って、あれれ………も、もしかして、やっぱり忘れていたとかですか? 軽はずみのその場しのぎの口約束だったんですか? それとも、私がヒロさんと私のお部屋に戻ったら困るような事でもあるんですか?
「だってヒロさんが約束してくれたですから、それが励みなんです」
忘れていたなら思い出してください。そして思い出させたら、もう忘れさせませんから。私は忘れてなんかいないですよ。全力で保存していますから、忘れるワケがないんです。
「外出、か………うん。此処に缶詰めじゃ、息苦しくなっちゃうよな」
あ、思い出したですか? でも、それが理由ではないですよ。そんな理由なんかじゃない。私の行動原理はそこにはなく、心理作用というか、願望や欲求はいつだって、その程度の事なんかではないんですよ。いつだって、ね。
「と、言うよりも。一緒に居られますもん、ヒロさんとずっとずっと………ヒロさんと。それに今だってヒロさん、退院してからな………って、言ってくれたですし。だから私、早く此処を出たいです」
なので私は、核心をボイルしつつ本心を込めてそう告げてみる。宿してみる。アナタに棄てられたら、直ぐにでも死んでやるからね………と、思っているのではないか。と、までは思われないように制御しつつ、悟られないように注意しつつ、でも俺が傍に居ないとコイツはこの先また死んでしまおうとするのではないか………とは、思ってもらえるように。同じ事みたいですが、でもモチベーションがちょっと違う。そして勿論の事、場合によってはたっぷりと続きをシテくださいねと念を押すのは忘れません。
「そっか………うん。でも無理せず、だぞ?」
ずっと、ずっとヒロさんの傍に居られる………これが理由。これだけが理由なんです。全てなんです。他には何一つありません。だって、後はそれに付随するモノばかりですもん。それなのにヒロさんそれはもしかして、なるだけ先延ばしにしたいんだけどなぁーという意味ですか? 無かった事にならないかなぁーという意趣返しですか? まさか、そうなんですか?
「はい。ヒロさんの言う事をしっかり守ってバリバリ頑張ります」
念には念を。一応は食い下がってみる。でもそれは勿論の事、無理して体調を更に崩して延期なんて事にならないように………って、意味なんですよね? そう受け取りますよ? そうとしか思いませんからね。
「トモさんの言う事に耳を傾けようよ」
ん? ヒロさん、戸惑ってますね。ここで芹澤の名前を出しますかそうですか………やっぱり、私の挙動のアレやコレやを知っているようですね。やっぱりアイツ、そのつもりなんだね。
「あの人の言う事を聞いてたら、退院がいつになるやらです」
でも、それならそれでヒロさんが傍に居てくれればこんなに違うんだよと、ヒロさんにそう思ってもらえるようにすればイイだけの事です。マイナスな情報をヒロさんに流して、それで私からヒロさんを奪おうだなんて、必ず殺してや、っ………ううん、違うか。それならば、私が此処に閉じ込められているという事をヒロさんに教えたりなんかしないかな………ヒロさんは優しいままだから、まだ何もかもをバラしてはいないようですし。流石に精神科医だけあって読めないですね。たぶん今のところは、ヒロさんを私が言う事を聞くようにする為の手札にするつもりなのかな………ふん。ヒロさんの言う事なら従いますけど、誰があんなヤツの言う事を聞いてやるもんですか!
「聞かないといつになるやらだよ」
あ………たしかにそうかも。あの人の許可が出ないと、私は此処から出られない。ヒロさんが最強手札だという事を充分に判っているからこそ、ヒロさんを最大限に利用する、か。流石は精神科医ですね。ヒロさんというカードを手にしているのは自分だという事か………くそ。
「じゃあ、さ。間をとって聞いてるフリをしようか。題して、実をいうと私は素直な良い子さんなのですよ大作戦………な?」
あの人に対する悔しさが表情にも声にも出てしまいそうになっていったその時、ヒロさんが楽しそうにそう言ってにっこりと微笑む。
「はう、う………あ、ははははい」
ずきゅん! と、ヤラれた私は途端にはにかみつつも見惚れてしまう。イヤな事を楽しくする方法。それは、出来る限り遊びにしてしまえばイイんだよ。でしたね? ヒロさんの言葉を思い出す。うん、そうでした。ヒロさんの言葉は魔法の言葉。ヒロさんは私の暗く歪んだ人生を真逆に変えて更には、未来を明るく眩しく華やかで絢爛とした光で照らしてくれました。
「どうしてもストレスが溜まっちまった際は、オレに遠慮なく愚痴ればイイから」
ヒロさん………あはは。そうでした。ヒロさんは私の手札なんですよね。いつだってヒロさんは、私の味方をしてくれるの。あの人なんかの手札ではなく、いつだって私の手札なんだ。唯一だけど最強で、何回でも使用可能なカード。いつだって、そうです。いつだってヒロさんは、私の手札でいてくれるんです。
「ホントに甘えてもイイですか?」
なので私は、いつも甘えてきました。ヒロさんの傍で、ヒロさんの笑顔に、瞳に、声色に、声質に、言葉に、思いやりに、そして………腕枕に。いつだってヒロさんは、そんな私の泣き言をずっとずっと聞いてくれた。
「勿論、承ります」
頭を撫で撫でしてくれながら、私の心を潤してくれた。
「では、良い子さん大作戦を実施します!」
まるで………そう。なかなか眠らない子供を優しく優しく寝かしつけるかのように。
「成功を祈っております」
だから、ヒロさんが傍に居てくれた時はいつもぐっすり眠れました。
「遂行してみせますぞ!」
なので、お薬いらずで次の日を迎えられましたし、そのおかげ様で副作用でぼぉーっとならずに済む次の日をすごせました。
「うん。あ、じゃあ………そろそろ仕事に向かうとするね」
ヒロさんが傍に居てくれたからこそ、精神安定剤や睡眠導入剤に頼らずに暮らせたんです。
「えっ、もうですっ、あ………はい。良い子で待ってます!」
過食して嘔吐したり自傷したりという行為をしなくても、安心して私という存在を肯定する事が出来るようになったんです。
「うん。明日は明けになるから、早く来るよ」
私という私がこの世界に居るという事を肯定的に捉え、私という私に優しく向き合ってあげ続ける事が出来るようになったんです。
「必ず来てくれるですか? 明日は長く居てくれるですか?」
ヒロさんを唯一無二で必要不可欠な存在だと設定した途端に、私は抑制していた自我の内の殆どをヒロさんにのみ晒すようになり、そうする事によって私という出来損ないの個体が正常に機能するようになると、世界という空間を構成する何もかもがその色どりをがらりと変えたんです。
「う~ん、途中で寝ちゃうかも」
未来という妄想絵巻にヒロさんを組み込んで描く事で、真っ暗だった何もかもが鮮やかに色美しく激変したんです。何一つ違和感のない世界が築き上げられていったんです。
あからさまに、ね。
「今度来てくれた時は、ですね。そ、その………清拭シテほしいです」
私はヒロさんに期待し、願い、望み、祈り、遂にはヒロさんを手にするに至りました。
「お願いします………」
そしてそれによって、永遠にそうなりつつありました。少なくとも私は、そうなれるよう全力で尽くしたつもりです。全身全霊で試みたつもりでした。
「ん? あ、うん。判った」
そして私は、その世界にどっぷり………ううん、ヒロさんに溺れたの。山下宏典という、この世に一人しかいない男性を愛したんです。
「じゃあ、じゃあ、チュウを、あ、んぐっ」
だから私は、ヒロさんから離れられない。離れたくなんかない。離れるなんて考えられないし、そんなの受け入れたくない。諦める筈がない。もう離れられるワケがないんです。ほら、今だって私はこんなにも、どんどん、どんどん、と………溢れ出してきて、潤いが増して、どうしようもなくなって………はうう、ヒロさん大好きですよぉー。
ねちゃ、
べちょ、
「んぐ、んっ、ん、んんっ………」
手にした事によって得たモノは、手離すには相当に惜しいモノで、手に入れるには相当な代価を要するモノで、私物化するには相当どころではないくらいに困難を極めるモノです。
ねちょ、
べちゃ、
「ん、ん、んんっ、んぐ、んっ………」
それでも私は、諦めるつもりなんてありませんよ。欲しくて欲しくてたまらないんです。私だけのもにしたいんです。
ヒロさんを。
「ん…はぁ、はぁ、じゅる…れろ。はむ、んぐ、じゅるる、はぁ、はぁ…れろっ」
ヒロさんが与えてくれる全てが欲しいというワケではありません。
にちゅ、
くちゅ、
「ん、んぐ…ひうっ、ま、ひょ、ひゃん…はう、う、じゅる、んぐ、んんっ…はむっ」
だってそれらは全てヒロさんを手に入れればもれなくセットでついてくるモノで、ヒロさんを手に入れなければ何一つ味わえないモノなんだもん。
べろっ、
ちゅっ。
「れろ…んぐ。はう、う……大好き」
大好き………そうよ好きで好きでたまらないの大好きなの愛してるのよほらこんなにもこんなにも私はヒロさんをねぇヒロさんこんなにも大好きなのだからヒロさんねぇヒロさん私で手を打ってください尽くしますからずっとずっとずっとねぇヒロさんヒロさんヒロさぁん………。
「んっ。じゃあ、また………」
最初は同情でもイイ。なんだって構わない。そこから始める方が手っ取り早いし、ヒロさんになら同情されても構いません。だから私はここまでしたんだし。これを盾に、場合によっては矛にして、ヒロさんの人生に私をネジ込んできたの。私は………私はこのまま都合のイイ女を演じながら、もう二度と棄てられないようにしてみせる。
「えっ、あ、あう、う………ヒロさぁーん」
今や私は………ううん。本当の私は、欲望に忠実な女です。ヒロさんを独り占めするという幸せを夢に見て、何が悪いというの? そうよ、私は間違ってなんかいない!
誰にも渡さないからね。
うん、そうだよ。
誰にも渡さない。
………。
………。
私のヒロさんは格好良く言うとプロレスラーみたいな人で、可愛く言うとクマさんのぬいぐるみみたいな人なんですが、御本人様曰わく無駄にデカい体躯を持て余す毎日だとか。対する私はと言えば、子供料金で公共施設を堪能デキるかもしれないような外見なので、ある意味バランスの良い抜群の相性だと………でへへ。やっぱりヒロさんは、運命の人に違いありませんなぁー。だから、だからずっと私の、私の………。
………。
………。
目が覚めると、私の世界は激変していました。すっかり元どおりに、鮮やかさを失っていました。たぶんきっとその有り様は、そのように表現しても一向に構わないくらいの状況だったと思う。実際には部屋の中の一切合切は何ら変化なく、部屋を出ても何一つ変化などないんだけど。けれど、でも。
これはどういう事なのでしょう?
私はまた、あの頃に戻されたの?
たしかに私は、救いのない現実なんかより有り得ないような作り話の方がイイと思っていたし、いっそのこと御伽噺の世界にでも逃避してしまいたいと思った事もある。笑顔を阻む記憶の一つ一つを写真にして取り出して、一枚ずつ焼いてしまう事で記憶自体を消す事がデキたらイイのになって思ってもいた。過去の事がトラウマとなって私に襲いかかってくる度に立ち止まってばかりいたから、それがいつだってフリダシどころかマイナス地点に飛ばされるという結末だったから、だからいつまでたってもちっとも前に進めない。その過去となった過去の数々を、絶望感を植え付ける為の悪意だとは思わずに生きる事も、どうしても無理でした。何度も立ち止まって振り返るくらいならいっそ持ってっちゃおうかと試してみても、胸にしっかり抱きかかえて諦めて前を見ようとしてみても、笑おう笑おうと頑張らなければ笑う事が困難な毎日に疲れるだけです。次第に、もうこんな毎日を生きるのはもうイヤだと思うようにさえなっていた。ただただそう思いながら、それなのに死ねなくて、仕方なく生きていた。
そんな過去にまた戻ってしまった。
けれど、絶望感は格段に上だった。
つい少し以前まではたしかにあった世界。そして、今こうして眼前に広がる世界。これら二つがあまりにも別世界過ぎて、我が目を疑う以前に脳がフリーズして思考不能になり、玄関のドアを開けたその姿勢のまま呆然となって立ち尽くしてしまう。もうこれで何日目になるんだろう。こんな毎日がいつまで続くんだろう。私は生きる為に現実逃避をしているのか、それとも死ねないから現実逃避をしているのか、兎にも角にもどうにかなってしまいそうなくらいに何一つどうにもならない状態の我が身を、何故こうなってしまったのか何一つ判らない目の前にある世界に晒す気にはどうしてもなれなかった………認めてしまう事になるから。
それは、疑問よりも不安。
そして、それを通り越した恐怖。それと、根底にある不満。どうしたらイイのか全く判らない。過去に経験した望んでいた世界ではない世界。そして、至福を知るに至った願いならもう叶ったと言えなくもない世界。永遠に続くようにとは言われなかったので終わりましたけど、たしかに叶えましたよ。と、人ならぬ誰かに言われても何一つ文句の言いようがない事態。けれど、絶対に認めたくない。私はもう………知ってしまったのだから。私は激しく混乱してしまいました。そのまま錯乱してしまいそうなくらいでした。私の願いが届いたからこそこうなったなんて考えてしまうあたり、私はかなり御伽噺の世界に憧れを抱いていたみたいですね………乙女みたいでちょっとびっくりだけど、何はともあれ何をする事が最善なのか見当すらつかない。
落ち着こう………落ち着こうよ。
落ち着けば思考する事が出来る。
まずは落ち着かなきゃ。冷静で沈着なレベルには到達デキないまでも、それでも慎重で注意深いレベルは目指そう。それが無理でも、テンパったままサイコロを振ってしまうであろう私よりは幾らかマシな思考能力を取り戻した私くらいにはなれる筈です。だから、だから落ち着こう。落ち着くのよ。落ち着いて、私。
私は棄てられてしまいました。
これが………認めたくない事。
私の最愛の人、ヒロさん。
私の唯一の人、ヒロさん。
私は、ヒロさんに棄てられた。
ヒロさんが傍に居ない世界。ヒロさんが私のモノではない世界。何もかもが違って見える。ヒロさんを手に入れる以前と同じ。灰色の世界。コレは何色、アレは何色とわざわざ確認して認識する事すらどうでもイイくらいの世界。どんな色だってどうでもイイくらいの世界。だから、灰色。灰色の世界。ヒロさんがいる世界を知ってしまった私には、ヒロさんを体感するという至福を経験してしまった私には、一秒後まで生きてみようとする事すら耐え難い世界。一秒という時間を過去に追いやる事さえ僅かとは思えないくらいに苦痛なだけの世界。けれど、死ぬワケにはいかない。絶望している場合なんかではない。ヒロさんを知ってしまった私は、どうやらあの頃よりも強欲になったようです。以前の私であれば、ヒロさんを失った事に絶望して今度こそ迷わず死を選んでいたでしょう。でも、でも私はもうあの頃の私ではない。ヒロさんを知ったからです。ヒロさんを知った事によって、ヒロさんを失って絶望はしても死を選びはしなくなっていた。ヒロさんのおかげ様で私は強くなりまし………ううん。やっぱり、そう。強欲になったんでしょうね。次こそ未来永劫に渡って独占する。その為なら生きる価値はある。そんな程度のこんな世界であろうとも。
ヒロさんがいない灰色の世界はヒロさんを知る以前の世界と同じだから、だからその頃の私とリンクしてしまう事だらけでした。だから、だから混乱して錯乱してサイコパスになりかけた事なんて一度や二度では済まなかったけれど、それでも私は生き続けた。ヒロさんを味わいたい。だから、だからヒロさんが欲しくて欲しくてたまらない。ヒロさんこそが私の至福。だから、だから死にたくない。あの幸せは絶対に忘れられない。あれ以上の幸せなんてない。ほら、ヒロさんは偉大です。だって、私を絶望させないんだもん。こんな私に、死にたくないと思わせたんだもん。だってこんな私に、至福を教えてくれたんだもん。与えてくれたんだもん。
さて………どうしよう?
どうすれば………イイ?
ヒロさんに近づくオンナを殺していけばどうだろうか。あのアダムさんだって、ただの二人でも目移りしたくらいですからね。危険の芽は早めに摘んでしまうに………ううん、違う。憎らしい事にこの世の中は、私なんかより素敵なオンナだらけです。そんな事をしてもたぶんきっと絶対にきりがないです。そんな事をしている間に物陰からさっと忍び寄って私のヒロさんを盗むヤツが………ううん、でも。ヒロさんを永遠に私のモノとする為なら、そうしてみるのもイイかもしれない。ヒロさんにまとわりついて周りに注意していても、どうせそういうヤツは相手が私なら勝てると近づいてくるだろうし。どうせそのとおり、私より魅力的だろうし。じゃあ、いっその事この世に蔓延るオンナというオンナを全て片っ端から殺してしまおうか。あ、でも。そんな当たり前の事がこの世では犯罪となってしまうから、そこまでするなら警察の人とか裁判の人とかも殺しておかなくてはなりませんね。それなら、そうするのなら、場合によってはそうなるかもしれないという事態も考えてオトコの人も殺しておこうか。そうしていけば、いつかはこの世にはヒロさんと私の二人しか存在しなくなる。それならば………ううん、違う。足りない。それでも私をずっと貰ったままでいてくれるかどうかは別の話しだ。私を貰うくらいなら独りの方がマシだよって、そう思われてしまってもオカシクない。だって、だって私、棄てられたんだもん。
欲しいよぉー。
欲しいよぉー。
ヒロさんは私のモノだ! 私だけのモノだ! だから、だから、だからだから、今度こそ私だけのモノにするんだ………。私は思考を続ける。全身全霊で取り組む。とりあえず、邪魔でしかなかったお母さんは退場させた。だから私は、今度こそヒロさんに呆けていられる。あまりにも幸せな毎日だったから、こうして独りになっても出掛ける時にヒロさん行ってきますって口走ってしまったり、ねぇヒロさぁーんって呼んでしまったり、ヒロさんに抱いてもらってるトコを想像して、想像しながら慰めたり、気づかれないように追跡してみたり、合い鍵で忍び込んでヒロさんの匂いを探して持ち帰ってみたりとかしちゃって、後で現実に戻った時にヒロさんがいない世界に気づいて激しく壊れてしまいそうになる事も沢山、それこそ毎日のよ、うに………あれ? 私はまだ、ヒロさんと私のお部屋の………合い鍵を………持っている?! しかも、しかもヒロさんは、合い鍵を返せと言ってこない。
どういう事なの?
忘れているだけ?
ううん、違う!
うん、違うよ!
私はこの時、ヒロさんの真意に漸く気づいた。と、言うか突破口を見つけたんです。私はヒロさんの最後の言葉を思い出す。ヒロさんはこう言っていました。はっきりと覚えています。
『このままだと、お互いダメになる。だからオレ達、暫く離れた方がイイと思うんだ。オレは、支え合う関係になりたいんだよ』
ヒロさんは私を棄てたんじゃない。
私はヒロさんに棄てられていない。
ヒロさんはまだ愛してくれている。
私はまだヒロさんに愛されている。
私はまたヒロさんに………っ!
愛してもらえるかもしれない!
そう思い込むに足るこの事実に気づいた瞬間、灰色の世界は鮮やかな色を取り戻しました。私は生き返りました。その言葉の意味を真意をそのように解釈する事によって、私は生き返ったんです。私は反省しました。ヒロさんの望みを聞き間違えるなんて、私はやはり大バカです。ヒロさんゴメンなさい。ヒロさんは誰よりも優しい人なのに。そうでした。それが判っていながら、そうだと知っているのに私ときたら………ホント、バカですね。ヒロさんは私に望みを告げてくれたんですよ。私を棄てたのではなく、私を傍に置いておいてくれる為の望みを伝えてくれたんですね。言ってみれば、そう。別居だ。仲を改善する為の、修正する為の、元に戻る為の、別居なんだ。そう考えてみると、やっぱりこれは思い込みなんかではない。私にとっての、最後の砦だ。
私、頑張るですお。
ヒロさぁん………。
………。
今になってこのように思い返してみればこういう捉え方は、もしかしたら。という範疇なのかもしれないけれど、それでもやっぱりどうしても、うん。シチュエーションなんてどうでもよかったのかもしれないという思いに至ってしまう。そればかりか、そこで展開されたドラマも或いは必要なかったのかもしれませんし、そのキッカケすらも関係なかったのかもしれません。ヒロさんと出逢えたという事実。ヒロさんに巡り会えたという運命。この二つです。これさえあれば、私はきっと遅かれ早かれヒロさんに恋心を抱くようになり、その想いは焦がれていき、瞬く間に膨らみきったその恋々が依存にも似た独占欲を纏ってすぐ、ただならぬ激情へと名を変えて溢れ出し、夢中といっても言い過ぎではない程に一途に溺れてしまったんじゃないかな。と、思う。必ず、間違いなく、否応なく、完全に………ヒロさんという唯一無二の存在を知りさえすれば、そうなるのは当たり前です。そうなるのが当たり前なんです。
どうしてこんなにも、こんなにもヒロさんを好きになったのか………少なくともその答えとして何よりもどれよりもどんな事よりも頷ける真実は、ヒロさんとの出逢いという奇跡が私に降り注いだから。それに尽きる。私がこんなにもヒロさんを愛して愛して愛して愛してやまないのは、ヒロさんと出逢えるというその順番がこの私に巡ってきたからで、それが全ての始まり以外のナニモノでもないのだから、たぶんきっとそれが答えの全て。だって、だってその後のどれもこれもは、ヒロさんへの想いが強く深く大きくなっていく理由としての答えにこそ相応しいのだから。出逢いというイベントが私に回ってこなければ、私は明日という未来が否応なく続く毎日を生きる事を拒絶する方法を、迷いなく躊躇なく戸惑う事なく探し続けていつかは実践していたでしょう。私は私というこんなどうでもいい存在をどうでもいいと認めてしまい、そして消し去ってしまっていたでしょう。そうでもしなければ苦しかったし、寂しくて悲しくて惨めだったから。まだ少しも遠くはないあの頃の私は、死ぬ勇気がなかったから生きているだけだった。言い換えるならば、期待を捨てて諦めるという事が心底ではどうしてもデキなかった。
こんな私であっても、
こんな私にだって、
こんな私にも、
こんな私でさえも、
いつかきっと………と。
実のところ私は、ずっとずっとずっとずっと望み続けていたんでしょうね。どうしてあんな奴が、私よりあんなにも………と、手当たり次第に羨み続けていたんですもん。どうして私ばっかりが、こんなにも涙しなければならないのか………と、手当たり次第に妬み続けていたんですもん。
この心で。
この脳で。
この身体で。
だからこそ私は、私を大嫌いになりました。大嫌いになってしまいました。私であるからこんなにも不幸なんだと。私であるかぎり幸せは訪れないんだと。ならば、私は私を辞めよう。戯れ言を放棄し、私を殺してしまおう。それで私は漸く、私という忌み嫌う存在から解放された気になれる。そうすれば、私は救われた気でいられる。そうしなければ私はほんの少しでさえ、僅かでさえも救われない。こんな毎日なんてもうイヤだ! こんな生活もう、イヤだよぉ………。サイコパスとまではいかないまでも、その寸前、直前、僅かに数ミリ手前、そんなところだったと思う。私は私に疲れ果てていたのだから。だから、結局のところ死のうと思えた筈です。遅かれ早かれ、そう思うに至るのは時間の問題だった筈なんです。だからなのでしょう実際にそのような心境に陥ってみると、死ぬ勇気なんていう決断とかをわざわざ奮い起こす必要なんて一切なかったし、そもそもそんな勇気なんてモノは必要なかった。
踏み出す理由。
躊躇する理由。
それらどちらが魅力的であるかというだけの事だったのだから。その時その時の私にとって、生きたい理由と死にたい理由のどちらがより現実的であるかというだけの事だったのだから。事ある毎に心が問題提議をし、それを脳が考えに考えて判断し、最終的に身体が行動に移すだけ。最善策。妥協案。その時その時によって、それら選択肢群はバラエティー豊かに、ぽつぽつ。と、浮かび上がる。だからその時その時によってそれぞれ輝きを放ち、私を様々で色々な角度から誘惑する。
俺を選べ。
私を選ぶべきよ。
僕を選ぶんだ。
ほら、選びなさい。
さぁ、早く。
考えるな!
感じるな!
ただ選べばそれでイイんだ!
さっさと選んでしまいなよ!
なぁ、ほら!
早くしなよ!
さぁ、ほら………と、いう具合に。
私は幸せな毎日を望み続けてはいたけれど、私自身に期待していなかった。私自身に宿る運命に期待デキなかった。ただただ与えられる事を、ただただ期待していた。だから………だから勘違いしてしまった。死ぬという事を実行完了するまでのカウントダウンが始まったところで、私の人生にヒロさんがキャスティングされた。登場してくれました。それで私は、呆気ない程の変わりようで死ぬ事をヤメた。言い換えれば、私はヒロさんに救われたんですよ。だから、それからの私はまさに劇的でした。ヒロさんという絶対的な存在が私の傍に居てくれるというフィルターを通して見るこの世界は、もう何もかも全てと言いきってしまっても決して言い過ぎではないくらいに希望に満ち満ちていました。一切合切その全てが、暗黒というフィールドだった私の世界が、真逆に反転したのです。ヒロさんのおかげ様で。ヒロさんによって。そのど真ん中で私は、身に余る温もりを潤沢に与えられていたのです。
こんな幸せ、他にあると思う?
そんなのあるワケがないです!
だって、だってヒロさんは、
唯一無二の人なんですもん。
まさに至福の時間。
若しくは天国。
或いは極楽浄土。
それ故に、誰にも渡したくない。渡さない。譲らない。逃さない。離れない。別れたくない。棄てられたくない。嫌われたくない。愛されていたい。そう思わずにはいられない。
そうです………私の勘違いとは、
与えられ続けると思っていた事。
ただただ待っているだけで、
それが続くと思っていたの。
従順に尽くしてさえいれば、
ただただ、そうしていれば。
だから、だから私は考えました。動かなければ続かないと気づいたから。ヒロさんは至福を与えてくれたけど、それを与え続けてもらう為には私から動かなければならない。待っていてはダメなんです。待っているのはヒロさんなのだから。ヒロさんが私を待ってくれているのだから。私がヒロさんと支え合える関係になれる事を、ヒロさんはわざわざ待ってくれているんです。ならば私は、ヒロさんの何者でも構わない。ヒロさんの何物だろうと厭わない。お嫁さん、恋人、愛人、友人、知人、血縁、玩具、奴隷、ペット、ストレス解消、旅のお供、性欲処理、人形、ぬいぐるみ、衣類、文房具、家電、家具、寝具、器具、雑貨、食物、食器、防災グッズ、生活用品、箱、置き物、宝物。何だってイイよそんなの。ヒロさんを私だけが永久に独り占めデキるのであれば、ですけどね。
そこだけは絶対に譲らない。
それだけは絶対に譲れない。
でも………気づくのが遅かったかもしれません。もう既に、半年くらい過ぎてしまいました。待っていてくれているですか? こんな私の事を、今でもまだヒロさんは待っていてくれているですか? お会いしてみなければ判らない事かもしれま………ううん。待っていてくれているワケがないよ。どうせこんな私の事なんか。だから、他の誰かと………そうですよね。あの人もあの人もあの人もみなさん美人さんでしたもんね。どうせ私の事なんて………ううん、違うよ。だって、私にはまだヒロさんと私のお部屋の合い鍵があるんだもん! やっぱり動いてみなければ判りません。少なくとも、私はまだお皿の上に乗っている。ゴミ箱にポイされてなんかいないんだ。だからアイツ等なんてただの遊びです。遊びなんです。だから、だからまだ今なら………早くしなくては、ですよ。ヒロさんは誰よりも優しい。その優しさを私が浴びるには、浴びるには………そうだ。いつものアレを見せればイイんだ。そうすれば、ヒロさんは私に優しさをくれて、幸せを与えてくれるんだった。遊びなら仕方ありませんね。我慢します。我慢、我慢、我慢………あの幸せをあの女達は私から取り上げようとしてそれで私の代わりに何度も何度も何度も………私はこんなに苦しんでいるのに、それなのにヒロさんと………ヒロさんを騙して、私を騙して………許さないからな。でも、どうしよう。どうすればイイ? ヒロさんを取り返すにはどうすればイイんだよぉ………やっぱり、いつものアレしか私にはない、か………。
けれど、どうやって。
半年も過ぎているし。
うん………そうだね。
ヤラかすしかないか。
いつもより大きめに。
ヤラかすしかないね。
私にとって重要な事は一つだけ。ヒロさんが私だけのモノであるのならば、私という存在が何であるかなんてどうでもイイ。ヒロさんが私の傍に居てくれるのならば、私はどんな事だってします。する。デキる。してみせる。私はヒロさんが望むならこんな事だってデキるんだよっていうのをヒロさんに見せつけて、これで支え合える関係ですよねって………うん。支え合う関係になってみせますからね。
………。
………。
例えば、全身が包帯だらけ。
そんな事だってできるもん。
だって………。だって、私。
こんなに愛してるんだから。
………。
………。
第四幕)おわり
第五幕につづく
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