第三幕)視界の奥にある記憶

 昔々ある処で、朋美お婆さんが宏典お爺さんをお尻に敷く毎日を暮らしていました。そんなある日の朝の事。いつものように宏典お爺さんは山へ芝刈りに、朋美お婆さんは川へ洗濯へと行きました。そして、朋美お婆さんが川で面倒くさそうにタラタラと洗濯をしていると、川の上の方から大きな桃がえんやぁーとっとぉーえいやっとぉー。えんやぁーとっとぉーえいやっとぉー。と、流れてきたのですよ。


 OH、サプライズ!


 朋美お婆さんは驚きつつも、あの大きな桃を持ち帰れば暫くは宏典お爺さんにメシの支度をしなくても済むやないけワレぇー♪ と、ほくそ笑みました。


 きらぁーん☆


 朋美お婆さんの瞳が鋭く輝きます。すくっと立ち上がった朋美お婆さんは狙いを定めるや否や、とぉおおおーっ! 川に飛び込みました。ざっぱぁーん! 水しぶきが舞う中。しゅばばばぁー! と、朋美ばばあなだけにしゅばばぁーとえっといやそのつまり、オリンピック代表選手もびっくりなお見事なクロールで、アッと言う間に大きな桃へと到着したのです。うおっしゃー、ビッグピーチ獲ったどぉー! 朋美お婆さんは右手に洗濯物を抱え、左手で大きな桃をワシ掴みにして、るんるん。と、スキップで帰りました。実は朋美お婆さんは力持ちなんです男勝りなんですいいやあの先生は男だね! ま、それは兎も角として。宏典お爺さんが帰ってくるのをふんがふんがとそれはもう鼻息ふんがぁーさんで自宅で待つのでした。


 が、しかし。


 いつもなら3時のおやつの時間には帰ってくる食いしん坊の宏典お爺さんは、夕方になっても暗くなりかけてきてもまだ帰ってはきませんでした。朋美お婆さんは、帰ってこないそんな宏典お爺さんを心の底から心配………する事はなく、全くなく、もしかして浮気してんじゃねぇーだろうなあのジジイ! と、家を飛び出しました。


 ずばばばぁーん!


 勿論の事、向かう先は宏典お爺さんが芝刈りに行った山です。勿論の事、オリンピック代表選手も真っ青な速さです。


 さて、その頃。


 宏典お爺さんはというと、真面目に芝刈りをしていました。浮気なんてしていなかったのです。そんな甲斐性なんてないですし、何よりも朋美お婆さんにバレたら恐ろしい事になると怯えていましたからね。なので、一所懸命に芝刈りをしていたのです。真面目に芝刈りしておかないとそれはそれでブッ飛ばされますからね。が、しかし。流石に暗くなってきたので、そろそろ帰ろうかと思っていたところではありました。そんな宏典お爺さんが、疲れたなぁーと腰をぽんぽんしながら山を降りていると、竹藪の一部分が光っている事に気づきました。ん? 何だろうあのこっちに来てごらんなさいアピールは………宏典お爺さんが怪訝に思いながらも近寄ってみると、その中の竹が1つ。その一部分が、ぴかぁーん! と、それはもう綺麗に輝いていたのです。なんじゃあ、こりゃー! 判る人には判るであろうジーンズ刑事さんの声マネで自身の心情を晒した宏典お爺さんは、そう驚きつつも美しい光を放っているその竹を持ち帰って朋美お婆さんのご機嫌とりをしようと思い立ち、持っていた鉈でその竹の光っている部分を切り取ってみる事にしました。ぱっかぁーん! すると、きらきらと輝くそれはそれは可愛らしい赤ちゃんが、その竹の中に入っているではありませんか。おやまぁー、こんなところに可愛らしい赤ちゃんが………しかも、光っているし。と、宏典お爺さんは再び驚きました。が、もうすぐ夜です。こんな山の中に赤ちゃんが1人で居ては、狼くんや猪ちゃんや熊さんに襲われてしまうかもしれません。はてさて、どうしようかね……。と、悩む宏典お爺さんでしたが、心配だったので連れて帰る事に決めました。


 さて、その帰り道。


 しゅたたたたたぁあああーっ! と、いう音が此方に向かってくる事に気づいた宏典お爺さんが顔を上げると、物凄い形相の朋美お婆さんが走ってくるではありませんか。何事だろうか? と、宏典お爺さんが足を止めました。


 すると………ぴたり。


 朋美お婆さんは宏典お爺さんの眼前すぐそこで止まり、宏典お爺さんが大事そうに抱えていた赤ちゃんをまじまじと見据えた後、ゆっくりと宏典お爺さんを睨みつけました。そして、ぽつり。おいコラ、ジジイもしかしてそれは隠し子か? 朋美お婆さんはすぐさまキレました。怒髪天とはこの事です。スーパーサ○ヤ人もびっくりです。それはもうキレましたね。確実にキレましたよ。おいジジイ、テメェーは私との間に子供がいないからって他の女を孕ませて尚且つその女に産ませたのか、あん? コラ! 私が乗っかろうとしてもいつもシナシナのクセにソイツとはギンギンか? 私は欲求不満なのにオマエはノンストレスなのか? ソイツはかなりナイスバデェーなのか? あん? アタシと違ってさぞかしぼんきゅっぼんなのか? 若いのか? おい、ぴっちぴちか? ぴっちぴちなのかよウチのピーチもぴっちぴちだぞテメぇー! と、問答無用で宏典お爺さんに正拳突きを喰らわせたのです。


 どごっ!!


 あぐっ、違うよ、違う! 違うってばさ! 宏典お爺さんはまさに必死になって説明をしようと試みました。クリティカルヒットした事で吐血しているのに、です。健気です。肋骨が折れて肺に刺さっているかもしれないのに、です。やっぱり、朋美先生は男なのでしょう………付いてませんけどね。が、そんな事より何よりも、ついてないのは宏典お爺さんです。浮気に決まっているとご立腹な怒りの獣神サンダー朋美ぃー選手は、聞く耳はマスクの中だから只今電話に出る事はデキませんてへぺろとばかりに宏典お爺さんをボコボコにしてしまいました。それはアッと言う間の出来事でした。宏典お爺さんは朋美お婆さんにちっとも信用されていなかったのですね………日頃の行いでしょうか。そんなワケで、哀れな宏典お爺さんは山で芝を刈った帰り、朋美お婆さんにシバかれてしまいましたとさ。この後、サバかれる事にまでならなければイイのですが………さてさて。くわばら、くわばら、おしまい、とさ。


 ………。


 この物語は、僕という僕が僕という一人称視点で僕という生き物に起きる一秒先ずつがやがて零秒ジャストとなって一秒後二秒後と彼方へ霞んでいく有り様をなるべく脚色せず、翻ってみるまでもなく誇張せず、語り部たる我に一点の曇りなくといった具合に、つまるところ欺かず、同じ意味だけれど騙さず、ありのままに綴っていく所存であります。が、しかし。未来の事なんてそこに到達してみなければちっとも少しも全くさっぱり判らないという有り様ですから………えっと、そういう、縛り? が、この僕にだって平等に持たされているので、はたしてどのような結末を迎えるのかとか、どこに至ってどう結末とするのかとか、語り部となってこの先も情報伝達を続けていくという覚悟はとりあえずの結末を見るまで持続しているのかとか、なんやかんやでそんなこんなは今の僕では全く判りません。知る由もありませんし、知る術なんて知りません。たぶんきっと、一秒先の僕も二秒先の僕もそれ以降の僕も、何かの弾みでなんとなく思いついちゃいましたん♪ な、テイストで、様相で、殻の中で、ぴかっ! なんて閃く事はなく、なので。ぱりっと破る事も当然なく、故に元気よくぱかんと出てきて○太郎と名付けられる事もないだろうと思います。だってさ、○太郎くんはそもそも殻の中に居たワケではなくて違うよそっちではなくて………そう、未来は白紙なのだ! おぉー、なんという当たり前すぎる結論なんでしょうか。ブラボーだよグッジョブだよエンドマークだよ僕!


 って、何処がだよですと?


 あらヤダ、

 暇潰しにはなったでしょ。


 無駄に消費せずに済みましんぐえっ、痛てて舌噛んじゃった………あうう。声にしているワケではないのに、頭ん中で思考しているだけなのに、どうやらそれなのにも関わらず、口を動かしていたみたいです。いやはや、器用なんだか不器用なんだ利口なんだかすっとこどっこいなんだか………よし、我が身可愛さで前者としておこう。そうすると希望の光が射し込んできたぜいぇい! えっと………僕、何の話しをしてましたっけ? ぎゅるる、巻き戻し中。ぎゅるるる、巻き戻し中。ぎゅ、るる、る………ダメだ。全く思い出せなぁーい! 思い出そうと思っても思い出せないような事は実際のところたいした事ではないのですって、たしか人名辞典の常連さんの内の誰かが言っていた。その誰かも思い出せないけれど。偉人さんゴメンなさい。あ、思い出した! たしか、未来とは何ぞやみたいな事だった筈。良かった思い出せて。これってつまるところ、重要な事柄ですよぉーって事ですよね。重要、か………偉人さんのお名前は思い出せないままですが。あはは! 重ね重ねゴメンなさい。でもこういうのってなんとなく閑話休題みたいな感じなので、気を引き締めて戻りましょう戻しましょう。引き締めなければならない理由は、うん。深く考えない方向で。ふぅ………嫌いではないんだよ。でもさ。はっ、いかん! 考えない方向でって言ったばっかなのに。


 「ヒロさぁーん!」

 「………っ、ぐ?」


 驚いた。目が覚めた。まさかの夢オチかと思いました。椅子からズレ落ちそうになりましたので、表現は間違っていない筈です。なんて、そんな戯れ言は兎も角としまして、朋美さんが気にかけている担当の一人でもある女の子とここのところ朋美さんを介して仲良くなったので、その子は診察を待つ間、僕は由奈を待つ間、昔話を聞かせていたのだけれど、その子の診察の時間になったので由奈の居室に戻ってからその先、どうやら僕はきっとそう手持ち無沙汰からなのだろう丸椅子に座って、うとうと。と、眠ってしまったみたいです。ここ何日かあまり眠っていなかったからっていうのもあるのかなぁー。雨上がり後の蒸し暑い外気の国から快適な冷風の世界へと住民登録を変更した事も、心地よい眠気を誘い………最終的には悪夢だったような気がするのは気のせいとして。ま、それは兎も角として、此処は都内なのだけれど人口五万人以上の地方公共団体の名称である市を用いる場所に建っている病院の居室。どうやら、待ち人さんが戻ってきたみたいです。


「はうう、来てくれてたですかぁー!」

 とてとてからとってててと歩行スピードを速めながら、僕の待ち人その人が駆け寄ってくる。その挙動を司る小柄で華奢な体躯はまるで、もしや幼女から少女への脱却で完全に満足してしまったのですか? と、ぶち殺されるのを承知で問うてみたいくらいに未発達なのだけれど、実のところ四半世紀を迎える年齢だったりする。肩に届くくらいの黒髪を後ろに纏めた幼い顔立ちだったと記憶している小さな顔は現在、その殆ど全てがグルグル巻きの包帯の中なのだけれど、声音と挙動から満面の笑みを想像させた。


「よっす、ユナ。三日ぶりだな」

 僕は彼女をユナと呼び、


「ヒロさぁーん………」

 由奈は僕をヒロさんと呼ぶ。


「元気そうでなにより」

 再会してから早くも三週間が経過。由奈は元気に自力歩行を取り戻し、今や早歩き可能なまでに回復しております。若さ故の治癒力なのかな。


「はううぅ……」

 このまま特攻したい心持ちです的な様子をそこはかとなく醸し出している由奈を目視確認した僕は、立ち上がって由奈ミサイルを迎撃………では決してなくて受け止め体勢を示した。歓迎の念をあからさまに見せられるとなんだかとても嬉しいのだけれど、同じくらい恥ずかしくもあり、更にはその二つを足した分くらい怖い。複雑だよね、人間の感情構成ってヤツは。

「待ちぼうけさせすぎですよぉー」

 何はともあれ、由奈は僕の外面を目視するや否や更にスピードを速めて一直線に勢いよく抱きついてくるのでした。


 ぱふっ。


 と、いう音が微かに空気を揺らした。それは勿論の事、由奈と僕が接触した事を示す音です。何しろ由奈は、小柄で華奢な女性。そして相対する僕は、大柄な体躯の男性。例えるならばそれは、勇者な巨大ロボットの額から発せられた光に引き寄せられながら、コックピットに向かう主人公といった構図。いくら勢いよくといえども、どんっ! とか、ばきっ! とか、ぼこっ! とかいうような濁点を要するような衝突音ではなく、半濁点を用いた効果音しか鳴り響きません。それに、まだリハビリ期間中の身体だし。


「ゴメンな、耕作」


「私は山田さんではありません男性でもないです乙な女と書いて乙女なのだぁー」

 僕の胸に顔を埋めたまま、由奈がしっかりツッコミを入れてきた。しかしながらその声に棘のような鋭さはなく、甘味が当社比で約五割増しって感じ。何はともあれ、どうやら通じたみたいです。


「存じております」

 と、僕。


「身に覚えがあります」

 と、由奈。


「例えばどんな?」

 で、僕。


「アールじゅうはち指定のモザイクだらけな事です」

 で、由奈。


「具体的にはどんな事?」

 僕。


「ピー音を必要としますのでその件につきましては後日という事で」

 由奈。


 掛け合いみたいだな。


 けれどこれでも、僕達二人にとっては大切で心地良いコミュニケーションの形だったりもする。平穏な時の僕達は往々にしてこんな感じだったなぁーと、今更ながらに思い出す。


「それは残念です」

「焦らし返しです」


「えっ、焦らし?」

「だって、ヒロさん三日もほっとくんだもん!」


「ゴメンな。なんやかんや忙しくて」

 な、筈だったのだけれど。


「私を棄てる手筈を整えるのにですか?」

「えっ、と。違うよ」

 不意にこういう展開になってしまう事が………と、言うよりも。こういう内容とリンクさせる事がなんだか多くなっていったんだよね。後期になると殆んど毎回だったし。


「あーっ、言葉に詰まってる!」

「違うって」

 意識的になのか、無自覚になのか、それは判らないのだけれど、由奈はこの話題になると必ず豹変する。


「じゃあ、ただの浮気ですか?」

「浮気ならOKなの?」

 なので、軽はずみにこのような返しをしようものなら………。


「その人を必ずや見つけ出してメタメタにしてその後なんやかんやあって私も死にます!」

 と、僕を見上げて宣言する。このあたり、昔と何一つ変わらない。なんやかんやという表現で伏せても丸判りなんだよね。


「ですよ、ね」

 よぉーしそれなら尚更、見つからないように浮気しなきゃ………なんて事は思いもしません本当ですよそんな事この僕自身が身にしみて判っておりますから。


 はい。ウソです。

 ゴメンなさい。


「棄てないでくださいヒロさん、お願いしますヒロさん………」

 で、最終的にはこうなる。


「私はヒロさ」

「そんな予約はしなくて大丈夫だよ」


「ヒロさぁん………」

 自分で自身を壊していく。


「大丈夫だから。ね?」

「……はい」


「よし。で、ユナさん?」

 何度も見てきた、聞いてきた、体感してきた、由奈の豹変。感情の起伏。でもそれはきっとたぶん、由奈が常日頃から持っている由奈を構成している由奈の一部であり、これがあるが故に今の由奈がある。言い換えるとすれば、これがなければ僕が知っている由奈ではなかったかもしれない。どちらが幸せだったのだろうかという意味で言えば、由奈にとってはこれがない由奈の方が明らかに良かったに決まっている。誰だってそうだ、トラウマになるような傷を負う経験なんてしたくないのだから。それならいっその事、壊れてしまった方がマシだとも思う。思い出したくない傷を思い出させられて日常を生きる事と、思い出したくない事を思い出す事がないまま非日常を暮らしていく事。それが日常なのか非日常なのかは自身が決める事であり、正常なのか異常なのか、それは不特定多数で決定されるべき事項ではないのだけれど、社会という枠組みを形成する事で成り立たせている環境においては、傷を受け入れて前を見て歩くべきだなんて理不尽で不平等な理由が適応されてしまう。どんな不幸とも向き合えと強要され、そうしなければ社会不適格者だという烙印を捺されてしまう。耐え難い傷や忘れられない苦しさを帯びる毎日と、耐え難い傷を思い出せない哀れさを浴びる毎日なら、思い出せない方が幾分イイと思う………って、何か間違っていますか?

「今日も、良い子ちゃんでリハビリテーションしてきたかな?」

 今、僕に出来る事。それは僕なんかには判らないのだけれど、すべき事なら判る気がする。なので僕は、その一点に集中して話題をバカップルの日常へと戻していく。


「戻ってきたらなんとびっくら私のヒロたんが居ますた、なんて事があったらイイのにゃあーとか思ってたら、ホントに叶っちゃったです」

 どうやら安心してくれたようで、普段でも柔らかで丸っこい由奈の声は甘味を更に増やしてとろっとろになっていた。私のヒロたんについてはスルーします。う~ん、やっぱこういうのって、依存されているという事になるのかな………その点を考えちゃうと、ますます+αますますな気分になる。


「そっか………」

「そうなんです」


 依存。


「うん………」

「ヒロさん?」


 依存。



 ………。


 ………。



『あっ、ヒロさん』

 由奈と付き合い始めてもうすぐ半年というあたり。徐々に自身の鬱な部分を晒し出していた由奈からの電話。それはたしか、深夜の二時過ぎ頃だったと記憶している。


「ん、どうした?」

 聞こえてきた由奈の声があまりにもな様相で沈んでいたので、僕はそう気づいた途端に眠気が覚めた。何かあったに違いない。それはそう直感するに充分な声色だった。


「ユナ、集合できるか?」

『えっ、と、あう、あの』


「今から、出れそうか?」

『迷惑じゃないですか?』


「今から迎えに行く」

『はう、うっ、でも』


「行くからな」

『………はい』


 ………。


「傷、増えてるね」

「えっ、と………」


 それから一時間弱して僕は由奈と落ち合い、開口一番そう声にした。一応は会う度にそれとなく観察していたので、昨日の由奈との違いは直ぐに判った。すると、由奈の顔色が変わった。と、言うよりも表情が消えた。


「痣とかもある?」

「そ、あの………」


 会えば会ったで茶化すかはぐらかすかすると予想していたのだけれど、予想は見事にハズレた。けれどそれは、つまるところ精神が相当落ちてるという事。もしも僕が、電話に気づけなかったら………と、トラウマが甦る。


「あっ、問いつめるとか問いただすとかじゃないから誤解しないで」

 けれど、その経験はあくまでも僕の過去にあった経験。症状などが記載されている教科書だって取り扱い説明書ではない。眼前に存在する由奈ではないのだから、一緒にしてはいけない。と、甦るトラウマを振り払う。


「………」

 こくり。由奈が無言で頷く。


「自分でヤッたのもある?」

 由奈が著しく不安定な状態だという事は、実のところ既に知ってはいた。家族間の問題が大きくなり、眠れなくなる程に深く苛まれて蝕まれ、悩んでいたからだ。勿論の事と言うべきかどうかは難しいところなのだけれど、由奈がそういう事態に陥ってしまう事は今までもあったし、そういう時は僕にTELをしたり会いに来たりなどして、考えうる最悪の事態はとりあえずのところ回避できてはいた。けれどそのうち、まだ充分に耐えられるといったあたりでもそうしてしまうようになっていたからだろう、そういった心理が逆に働いて僕に迷惑をかけないようにという自制を課してしまったようで、その結果として日に日に自傷行為が増えていた。


 が、しかし。


 それでも、そうであっても、僅か昨日の由奈とさえあからさまに違うと表現したくなるくらいに増えていた。そしてそれは朋美さんによると、僕と出逢う以前の入院する直前あたりまで遡った頃の精神状態と同じくらいの危険度を帯びているかもしれないとの事で、考えうる最悪を通り越して予測できない衝動にその心身を委ねてしまう恐れがあった。


「ゴメンなさい………」

 その表情は血色を失い、瞳は虚ろで、声は力無く震え、身体も小刻みに震え、腕に作った新しい幾つかの傷跡は痛々しく、口許や頬にはこれもまた痛々しい真新しい痣。流れる涙をそのままに、僕の眼前で辛うじて生きているような弱々しさだった。

「アタシなんか死んじゃった方がヒロさんに迷惑かけないのに、でも、でもヒロさんと居たいから死にたくなくて………でも、このままだとヒロさんに避けられちゃうかなとか思って、ヒロさんに面倒なヤツだって思われちゃうかなとか思って、でも、でもヒロさんには絶対に嫌われたくなくて、でも、でも、もうどうしたらイイのか判んなくって、きっとお母さんは私を奴隷のようにしか思ってないんだろうし、それに、それにそれに………ひんっ」

「ユナ………っ!」

 吐露しようとしても発散しきれず、それどころか思い出して現実だと認識して精神が更に更に崩壊してゆく。そんな由奈を、僕は強く抱きしめた。


「もうヤダよぉおおおー! うぐっ、ふええっ、ヒロさぁ~ん………』

 僕の胸に顔を埋め、由奈は暫く泣いた。


 ………。


 ぷしゅ。


「ほら、開けちゃった」

 どのくらいの時間が過去となって流れ去ったのかは定かではないのだけれど、泣き疲れる程に泣き続けた由奈は眠りについた。そして更に暫くの時間を要して目を覚ました頃の事。自販機で由奈好みの甘さ抜群のジュースを買ってきた僕は、また僕に甘えて時間を潰させて迷惑をかけてしまったという罪悪感から立ち直れないのかなかなか受け取らない由奈に、キャップを開けてそう言いながら渡そうとした。それは、開けたら飲まざるをえないという展開を演出して、取りあえずでも甘くて冷たい水分を補給させて幾分でも気持ちを楽にさせようという僕なりの配慮でもあったのだけれど、何かしら話すキッカケが欲しかったという事もあった。


「ヒロさん………いただきます」

 すると、そう言って。由奈は項を垂れたまま弱々しくではあったのだけれど、とりあえずジュースを受け取ってくれた。まずは一安心だ。


「いつもずっと、だっけ? 大好きって言ってた映画で、主人公の一人が言ってたセリフ」

「えっ? あ、と、はい。そうです………いつかきっと、いつもずっと、です」


「素敵な言葉だよね、それ」

「はい。素敵な言葉ですね」


「叶うとイイな、それ」

「えっ、と、あああのそその、いつかきっとは、もう叶いました。でも、いつもずっとは………叶わないかもです」


「難しそうなのか?」

「はい。難しいです」


「オレ、手伝えるか?」

「え、っと………はい」


「よし、じゃあ、頑張るよ」

「そそそそれは………はい」


 いつかきっと、僕と。

 いつもずっと、僕と。


 そういう意味だと知ったのはそれからもう暫く後になってからの事だったのだけれど、僕はこの時、今度こそ守ってやるという気持ちから、由奈を守りたいという想いに変わった。


 筈、だったのに。



 ………。



「あのぉ………ヒロ、さん」

「ん?」

 あ、見つめられていた。判読どころか推測も不可といった感じの、複雑な表情で。ついさっき耳にした声色とは決してリンクしない、更にその前に遡ってみて漸く合致する表情。と、いう事はぶり返した? と、なるとだ。もしかして、心を読まれた? 心は表情に現れるというし、ひょっとしたらずっと見つめられていたのかな………由奈の眼前で過去の記憶とこれからの事に意識を拡散させたのは、由奈を知らないワケではない僕としては軽率だった。

「えっ、と。どうした?」

 ヤバい。と、いう事を反射的に判断する。してしまう。脳が震え、心が焦りを培養し始める。それによって、身体が寒気に似た感覚に見舞われた。僕は動揺している。見舞いに来たのは僕の方なのに、皮肉なモノです。


「来たくなかったですか?」

「えっ、と………」

 やっぱ、ビンゴかもだよ。由奈が再びあの頃のあの時の由奈と変わらなくなっていく。僕が逃げ出した由奈になっていく。


「棄てる話しをしに来たですか?」

「違うよ、そんなワケがないだろ」

 ヤバい。


「棄てるですか?」

「ユナ………そっ」

 ヤバい。


「ひんっ、うぐっ………」

「だ、だから、違うって」

 ヤバい!


「棄てないでく、うっ?」

「だから違うって、ユナ」

 僕は由奈を抱きしめ直す。


 ぎゅっ、と。


「そんな事は考えないで」

「………」

 由奈は何も答えない。


 焦りが強まる。


「もう言わないで」

「………」

 何も返してくれない。


 焦りが深まる。


「大好きだよ、ユナ」

「………ホン、ト?」

 由奈が反応した。


 焦りが歩みを止める。


 が、しかし。別の感情が取って代わる。それは、また言ってしまったという新たな軽率さをしでかす自身を悔いる気持ちだ。


「うん。ホントだよ」

「ヒロさぁん………」


「ゴメンな、ユナ」

 由奈が顔を上げて僕を確かめようとする。だから僕は、由奈の頭を優しく撫で、その顔を胸に戻す事で誤魔化した。


「はうう、ヒロさん大好き」

 そうすれば誤魔化せるという事も知っていたから。


 するする。


 ごそごそ。


「大好きぃ………んっ」

「ユナ………うっ、く」


 そして、

 由奈がこうする事も。


 ………。


 ………。


 結局のところ僕はこうして、由奈を見舞いに通うという生活を選んでいる。仕事の都合上として同じ曜日に来れるワケではないし、日曜祭日は必ずというワケでもない。そして、午前中に来て日が暮れる頃まで居るなんて事は諸々の事情で月に数回くらいが精一杯なのだけれど、それでも僕が来訪を約束して更にはそれを守る事で、由奈はきちんと食事を摂取するようになり、穏やかに過ごすようにもなったとの事なので、そこらあたりはなんだか休日出勤をしているのと大差ないような気がしないでもないと思わなくもない感じがする今日この頃なのだけれど。兎にも角にも栄養を取り込んで生きる希望を忘れない毎日を過ごさなければ治るモノも治らないし、こうして再会してみるとそれはそれで気懸かりな面も知ってしまったので、罪悪感も含めて結局のところは断りきれずに来てしまうという状況だった。


 じゅる。


「ん、んぐ………」

 実際のところは不安だろうし傷心しているであろう由奈の心の奥を懸命に察してみるに、僕が役に立っているのであれば………うん。


 ごくん。


「ふう………」

 なんて、殊勝な事だけを考えながら足を運んでいるワケではないのだけれど、ね。


 ぷはっ。


「はふ………っ、はうう」

 何だか由奈は満足そうだし。


「ありがと、ユナ………」

 何やかんや結局のところ、僕もそうみたいだし。


「えへへ………気持ち良かったですか?」

 まるで、恋人同士みたいだ。


「うん」

 って、恋人………か。


 そうなんだよなぁー。

 恋人なんだよなぁー。


「じゃあ、じゃあ、頭ナデナデしてくれますか?」

 僅かすらも零すまいと口の中に溜めた白濁液を、ごくん。と、飲み干した由奈は、丁寧に後片付けをしながら上目遣いで甘える。何故だか小声だ。


「うん、イイよ」

 そう言いつつも、そうする事に少しばかり躊躇したりもする。額から上は包帯がもう巻かれていなかったので触れても大丈夫なのだろうけれど、その短く残る黒髪に触れる事で包帯で巻かれた箇所へ刺激が伝わってしまい、それによって決して小さくはない筈の痛みを誘発させてしまうのでは? と、危惧するに至ったからだ。


 けれど、結局のところ。


 なでなで。

 なでなで。


「はふ、これはご褒美ですか?」

 が、しかし。そういう躊躇やら逡巡やらを由奈が知ると、由奈は必ずと表現しても大袈裟ではないくらいの確率で激しく逸脱し、その結果としてとんでもないマイナス感情を作り出してしまうので、優しく愛でるように頭を撫でながら笑顔で由奈を見つめる。因みに僕も何故だか小声だ。


「うん。これはご褒美です」

 事は済んだのにまだ小声なんて、ね。


「えへへ、幸せですなぁー」

 と、ぽつり。由奈が呟く。本当に幸せそうな声だったので安堵しつつも、ちくり。と、別の理由で胸が痛んだ。まだ身体中至る箇所が包帯だらけの由奈にこんな事をさせるだなんて、由奈自身が望んでくれての事とはいえ鬼畜だよな、僕って。


 それと、もう一つ。

 それは………うん。

 

「痛まなかった?」

 最後までさせておいて今更………と、自身へのツッコミを脳内でしつつ、両方の意味で訊く。思いやりにはなっていない思いやりというヤツです。


「大丈夫ですよぉー。今日も沢山だったから嬉しかったです」

 そう言って、にっこり。と、微笑んだ感じの由奈。


「いやその………あの、さ」

 その発言こそ小声でお願いしたいのだけれど、ここは取り敢えず無風状態の際の天然ぶりが遺憾なく発揮されたと苦笑しておこう。因みに、事件が事件なので念の為に個室が空いたその日に個室へと移動となりました。あったんだね、個室。なので、密室に二人きりという状況が出来上がり、そうなったら意図も容易く僕達ときたらこの有り様です。


 けれど、それはそれとして。

 嬉しかったです、か………。


 不意に、過去の記憶が蘇る。由奈が言うところのそれには二つの意味があり、一つは額面どおりそのままの意味だ。敢えて言うのも気恥ずかしい事なのだけれど、沢山だった=気持ちよかった証拠。と、そういう意味。では、残りのもう一つとは何なのかを端的に言うと、沢山だった=シテいない証拠=浮気とかしていない。と、いう事。由奈はこういうところからでも詮索しようとする。どうやらそれは今も変わっていないらしい。その判定の下し方に信頼を置くのは如何なものかと我が事なので大いなる疑問を抱いてはいるのだけれど、けれど翻っても我が事なのでそのままでいてくださいと願う今日この頃………やっぱり鬼畜だな、僕って。


「あう、う………ねぇ、ヒロさん?」

 たぶん僕が急に黙ったままになったので不安になったのだろう、由奈はその色を全面に押し出した声で僕に説明を求める。そんなに険しい表情をしているつもりはないのだけれど、どうやら考え事をしていたりすると不機嫌そうな所謂ところのそういう表情になっているらしい。勿論の事、沈黙が怖いという理由もあるのだろうけれど。


「ん? あ、何でもないよ。次はオレのターンかなって思ってただけ」

 で、僕はというと。そんな言い方をして反撃に転じる気配を見せる。そんな理由で沈黙に至っていましただなんて何一つ説明になってはいないのだけれど、これが充分すぎる効果を発揮して更には別の思惑を上乗せする事さえ可能だという事を、僕は過去の経験において存分に記憶しているからだ。つまるところ、ここから先は僕が優勢なターンばかり続くという事。更に言えばこれ以降に由奈のターンはなく、僕のターンでとりあえずこの場は終了するという事。たぶん、ですけど。


「えっ、えと、でも私、リハビリ終わったばっかりですし、だから、その、汗だくで、まだ、そそその、おお、おおお、お風呂とか………」

 僕の言葉によって図らずも、ではなくそのとおり激しく期待するに至ったのだろう由奈は、眼前すぐのあたりにまで顔を近づけた僕の視線を直視出来ず、途端にもじもじ、そしてそわそわ、声までが艶めかしく震え始めている。


「でも、シテほしいんでしょ?」

 この後にあるかもしれないいいやあってほしいアレやコレやを、脳内で映像化してしまったのだろう事が容易に判ってしまう由奈の仕草や表情によって、此方は図らずもな感じで完全にスイッチが入ってしまった僕は、敢えてそう問う事でその反応を更に楽しもうと企む。


「あう、う………でもその、いっぱい声が出ちゃいますし」

 自身では本心をボイルした表現を選んでいるつもりなのだろうけれど、由奈は期待どおりの反応を示す。


「と、いう事は。シテほしいの?」

 僕は尚も焦らす。


「はうう………でも、でも、まだ明るいですから、だから、場合によっては変な顔になっちゃうのも見られちゃいますし………」

 厚いのかどうか防音なのかどうか見当もつかないドアで閉じられているのみなので、それが気になるという危惧らしき考えもまだ少しは残っているものの、由奈は早くも自身を抑えられませんといった感じだ。そして、それはもうすっかり見慣れてますけどという事柄もちらりと顔を見せる。と、言っても………ドアの存在理由なんて此処では居室の仕切りくらいのものだろうし、結局のところこの居室に移る前のカーテンを一枚隔ててという状況でも由奈も僕も戯れに及んでいたワケで、つまるところスイッチが入ると我慢不可でいつだってところかまわずになってしまうに至るのだけれど。


「それって、さ。指と口だけなら声を我慢デキますって事?」

 場所が場所だけにこれ以上の焦らしは由奈のめくるめく桃色な方の暴走を誘発しておもいっきり大問題になるだけだと判断した僕は、一歩だけ譲歩する。予想するに、今日はこれが由奈の方から押し倒してくるに至るギリギリのラインかもしれない。


「そ、それは………はう、う。私、ホントに暫くの間お風呂に入ってないですし、だから………イヤじゃないですか?」

 なるほど。流石に女性である。その点を気にするのも以前のままだ。しかしながら、やはり期待値はそろそろブレーキが効かなくなるあたりといった感じ。呼吸が乱れてきているし、イヤだなんて言わないでくださいオーラが噴き出している。


「じゃあ、ヤメる?」

 が、しかし。ここで僕は賭けに出てみる。悶々として身悶えしているのを隠しきれていない由奈を、このままもう少し見ていたいという欲求の方が勝ったからだ。これで暴走を招いたらやはり一発退場なのだけれど、それでもこの反応はいつ見ても可愛いのでスルー出来ない。


「あう、う、あう、あうう………」

 自分から言葉にするのはかなり恥ずかしいのだけれど、正直に言葉にしさえすれば直ぐにでも激しく満たされる………と、その間で激しく揺れ暴れている感じかな。その殆どが包帯で覆われているが故に表情の全ては定かではないものの、潤んだ瞳と震えた声がその本心を如実に代弁している。


「どうする? ヤメとくか?」

 ならば、と。おもいきってこのターンも焦らしに使う。


「あうっ、あああの、すぐに、お、お、おトイレで、洗ってくるですから。だから、だからお願いします。そのぉ………いっぱいシテください」

 で、陥落。懇願するかのように涙目でそう言いながら、由奈は漸く僕と視線を合わせる。それにしても、トイレで洗うからとまで言われたのは初めてだ。えっと、たしか………ビデだっけ? 大怪我なのだから入浴不可なのは承知の事。怪我の状態的にまだ部分的になるのは勿論の事として、その日その日の担当ナースさんが実施している事にしてもらってはいるのだけれど、実のところ僕が居る際は由奈の強い希望で僕が清拭しているのだから。それに、もとはと言えば初めて僕が清拭した際に恥ずかしながらお互いに欲情してしまったのが………それは兎も角として。


「イイよ、そのままでも」

 取り敢えず現状ではトイレでの排泄が可能となるまで回復したんだなという現在の怪我の状態についての方に意識が向いてしまいつつも、反応を見るのが楽しいからという理由が殆どな心待ちでの戯れ言だからといって、事ここに至ってのおあずけは流石に意地悪だろうと感じたので。


「えっ、ひゃっ、ヒロさ、んっ、あっ、やん、んく、ん………」

 なるべく優しく抱きしめて、なるべく優しく寝かせて、なるべく優しく捲ってなるべく優しくはだけて、なるべく優しくズラしてなるべく優しく広げる。そして………期待していた事が充分すぎるくらいに判る濡れきった部位になるべく優しく顔を埋め、同じくそういう理由で赤味を強くしてぷっくりとなっている箇所をなるべく優しく刺激した。

「んっ、はあんっ!」

 すると由奈は、挨拶程度のその一手であからさまな反応を見せた。なので僕は口の前に指を当て、声を出さないようにと暗に告げた。仰け反り具合と痙攣からすると、きっとそれのみで早くも軽め以上には到達してしまったのかもしれないな………と、過去の記憶から検索しながら見学してみる。

「っ、っ…っ…ん、くっ……はうう」

 と、検索結果は高い頻度での一致。故に、そうなのだろうと結論。微睡んだ瞳で僕を捉え損ねつつも、こくこく。と、弱々しく頷く由奈。

「ヒロ、さぁ~ん………」

 その後、身体がびくんと跳ねてしまう度に溢れ漏れてしまいそうになる声を我慢しながら、由奈は大きく乱れ、そして深く溺れていった………。


 ………。


 警察関係者から、と言うか今回の件の担当刑事から伺った情報によると、至る箇所が包帯だらけという由奈の火傷の原因は、何者かが犯した放火によるものという話しだった。由奈からのコールを受けた僕が真っ先に頼りにした朋美さんが駆けつけた時、何者かの放火によって由奈の住むアパートが燃えていたのだという。時間帯がまだ夕方あたりであったので、住人の殆どは出社などの理由で外出しており、加えて一人暮らしの人ばかりであった為、不幸にもと言うべきなのかその時に部屋に居たのは由奈だけだったそうだ。そして、当然と言うか何と言うかその時の由奈は既にもう自殺を試みた事により気を失っている状態だったらしいので、放火にも出火にも気づく事はないワケで、更にはアパートには由奈しか居なかったワケで、加えてそのアパートは日中も夜間も人通りの少ない場所にあり、つまるところ通報した朋美さんが第一発見者なのだから朋美さんが駆けつけていなければ出火の発見はもう少し以上の割合で遅れていたかもしれず、故にその場合は由奈は助からなかったかもしれなかったという事になる。

 そして、現場検証で気になる点が二つ浮かび上がった。その一つは、燃え焼けた状況と燃え焼けた程度から見て出火元が二つあるかもしれないという事。そして残る一つ、それは………由奈の部屋の玄関ドアが、封鎖されていたかもしれない。と、いう事だ。朋美さんから連絡を受けて由奈の救出に向かった消防隊によると、玄関ドアの前が周りよりもより激しく燃えていたそうだ。そして、雑誌か何かが束で何個か積んであるような跡が残っていたらしい。その日は古紙回収日だったので、その束の一部をドアの前に移動して使用したのではないかという事だった。現に、もう一つの出火元はゴミを出す場所にあった古紙の束からだったらしい。由奈が住むアパートはブロック塀などで囲まれているタイプではなく、入り口を入った中に各部屋の玄関がある造りで、ゴミ出し場はアパートの壁の真横である。それに加えて古き良き感じの木造なので、今まで一度も無かったとはいえ放火されやすいと言えば放火されやすい環境であったと言えなくもないのだけれど、ゴミ出し場が由奈の部屋の前なのにも関わらず玄関前も出火元だという事から、警察は所謂ところの放火ではなく由奈を狙った放火の犯行の可能性もあると見ているようで、だからこそ私服警官つまり刑事が捜査している。

 そんなワケで、由奈が入院しているこの病棟のこの病室のドアの前には、もしもの事態を考慮した警護の為の人が立っている。故に、この部屋に入れる人間はかなり限定されており、由奈のメンタルケアについて長く担当医を勤めている朋美さんと、今回の大怪我で入院した由奈を担当する事になったナースさん、そして僕を除く入室希望者は、何らかのチェックを必要としている。僕までがノーチェックとなっているのは勿論の事………と、言うべきなのか由奈が僕の事をフィアンセだと紹介したらしい為で、何故だか朋美さんも完全否定はしなかったようだ。加えて、僕は出張先にいた事からアリバイが判然としており、その点からもノーマークみたいです。なので、僕を知る人の間では公然の仲みたいな様相を呈している。ま、幸運にも未だ露見してはいないとはいえ『何を言っているんですか違いますよヤダなぁー!』の、『何を』すら言えない事を数々ヤラかしているので、否定は難しいのだけれど………それは兎も角としておこう。

 何はともあれ。由奈が放火による火災の最中で救出されたとなると、由奈に目撃されているかもしれないと思う誰かがいるかもしれない。その誰かとは勿論の事、放火した犯人だ。放火犯は由奈がその時部屋で気を失っている状況にいるとは思いもしないだろう筈だし、生存者がいるという一点だけで不安に駆られるかもしれないからだ。そして、実のところ由奈が何らかの手掛かりを持っている可能性は高いかもしれない。何故かと言うと、気を失っていたかどうかははっきりしないからだ。気を失うあたりで身体が動かずという状況だったかもしれないし、まだぼんやり意識があったかもしれない。そうかもしれないと考える理由は、由奈が記憶を失っているからだ。はたして気を失っていたのか、それとも意識はまだあったのか、由奈本人が覚えていないからだ。例えば、犯人逮捕に繋がる重要な証拠となるモノ。或いは、何らかの犯行の一部始終。若しくは、その一部を目撃した。等々、命を狙われるくらいに重大な何かを掴んでいるかもしれない。掴んでいないにしても、放火犯はそう思っているかもしれない。


 が、しかし。


 結局のところ、由奈は記憶を失っているワケで。放火による火事も第一発見者が駆けつけた朋美さんなだけに、目撃情報や不審者といった有力な情報は近隣から得られずといった状況のようで、つまるところ捜査は難航しているらしい。いくら検挙率がピカイチの日本の警察でも、あまりにも情報が少な過ぎるこの状況では進展させるのは流石に厳しい。が、これもまたしかし。朋美さんも放火から暫し後に駆けつけたので、もしかしたら重要な証拠となる何かを見ているかもしれず、由奈の安否が気が気でない状況だっただろうから忘れているとか、思い出せないといった可能性も決して低くはない。それに、そういう時間帯なだけに犯人はまだ近くに居たかもしれず、そうすると朋美さんももしかしたら犯人の方が目撃されたと思っているかもしれない。なので、朋美さんにも警護がついていたりする。それによってなかなか会えない状況となってしまったので、当の御本人様は激しく不満といった様子なのだけれど、こればっかりは身の安全を優先した方が良いに決まっているので我慢していただこう。


 なんて、ね。


 僕は我慢出来なくて、あろう事か由奈とこうしてこんな………うん。身の危険が一番高いのは僕かもしれない。が、しかし。由奈の精神面が心配という気持ちに嘘はないし、やっぱり怪我の具合も気になるから足を運んでいるという理由も同じく嘘ではない。火傷は急変して死亡とか考えられるくらい危険な怪我だし。それに、帰る時間になる度に泣かれたり来る度に喜ばれたり、思えば由奈はもう天涯孤独の身の上だし、毎日とはいかないまでもほぼ半日くらい傍に居られるのは僕だけだし、由奈には僕しかいないワケだし、つまるところ頼りにされている感じがヒシヒシと伝わってくるから、男として嬉しい気持ちも少なからずあったりするんだよねぇ………って、優柔不断だな。

 更に言えば、再会した後もこうして会いにくる度に由奈の可愛い面を再確認するに至り、そのどれもが少なからず惹かれていた面だからやっぱり心が反応してしまい、それもあって結局は殆ど来る度に由奈とこうして………うん、優柔不断だ。


 正直に言うと揺らいでいる。

 もうこのままでもイイかも。


 だったら………。

 それなら………。


 ………。


 ぎしぎし。

 ぎしぎし。


 ………。


 じゅぷ。

 じゅぷ。


 ………。



 あ、ヤバい。



 気がつくと今日の僕は、由奈の中にいた。しかも今日の僕は、激しく突いてまでいる。それにも気づいた直後、それまで激しく悶えながらもたぶん必死に近い状態で喘ぐのを押し殺していたであろう由奈からそれでも洩れていた声や乱れきった吐息が途絶え、その代わりに口をあぐあぐさせながら仰け反るのが判った。何度も見てきた光景なのだけれど、久しぶりに体感したからなのだろう新鮮さを感じて急激に高揚してしまう。故になのか、たぶんきっと何度目かの絶頂に達した由奈による断続的な痙攣が僕の僕を刺激する感覚をもっと味わっていたくなり、僕は離脱するのを忘れてそのまま由奈の中で放出してしまった………その痙攣が、僕の僕による僕を由奈の子宮へと導く為のものであると知りながら。


「んっ…っ、くっ、ん、あが、あ、うっっ、っ、っ、んっ、んはっ………っ、はあ、はあ、あくっ」

 その暫し後、呼吸する事すらままならない様子だった由奈の身体がまるで溶け込んでいくかのように、だらり。と、崩れていった。力という力が抜けているのが容易に判る。


「ユナ、ゴメン………」

 果てる事で漸く我に帰った僕は、自身の行為を素直に詫びた。


「その、まま………離れ、ないで、ください。ヒロ、さぁん………」

 睡眠時の最中に寝言でも囁いているかのようなぼんやりさではあったのだけれど、由奈は僕にそう意思表示する。


「………判った」

 僕はそれに従う。


「はあ、はあ………ヒロさんが中でイッてくれたのって、二回目ですね」

 えっ………あ、そう言われてみれば。


「ヤバいな………」

 時、既に遅し。事の重大さを実感した途端、僕の僕が由奈の中で大人しくなっていく。


「あ、ヒロさん………うぐ、酷いです。どういう意味ですかぁー」

 当然と言えば当然の事、察知した由奈が微睡みから生還し、納得いきませんという素振りを見せた。


「え、あ、他意はないから。ホント、うん。そんなんじゃないし」

 僕は言い訳を探す。こっちの方がヤバいと激しく感じながら。


「じゃあ、じゃあ、後悔してる以外の理由、何があるんですか?」

 由奈が畳み掛けてくる。


「いや、ほら、えっと………あ、だってさ、ユナの声でバレたかも。うん。そう思ったから」

 ナイス言い訳。僕は自身の脳ミソを祝福した。


「大丈夫ですよぉー。だって、だって窓は閉めてあるし、ドアもそうです。此処は密室なんですもん」

 うん、そのとおり。覚えていたとは侮れない。ナイスだった筈の言い訳はその称号を早くも失って、祝福もなかった事になりましたとさ。って、もしかして押し殺していなかったりとか………。


「でもさ、声が出るの気にしてなかったか?」

 実のところ、違う事を考えていて覚えてはいないのだけれど、由奈は毎回このような時でも声を溢れさすのでそう訊いてみた。


「そりゃあ気にしますよぉー。だって、だって、なんてエロ娘だぁー! って、ヒロさんに思われちゃいますもん」

 由奈が恥ずかしそうに言う。それならもう既に、過去にすっかりそう思われていたりもするのだけれど。まさか、そんな理由でもじもじしていたとは。


「いやその………でも、さ。ドアの前に立ってるじゃんか、約一名。だろ?」

 もしもの際を考えて由奈を警護する為に、先程からずっと………と、言うか少なくとも僕が最初にお見舞いに来た時には既に、女性の制服警官が。僕が気にしている事はこの事だった。だから、由奈もこの点を気にしているのだと思っていたのだけれど、いやホントにマジでまさか僕を気にしていたとは。


「バレてもイイですよぉー。だって、だって私達、お付き合いしてる関係なんですもん」

 なんと、ザ・開き直りです。バレたらバレたでその時は別に、か。こういう一面を持っているのが女性。つまるところ、侮り難しは由奈ってヤツか………などと、感心している場合ではない。


「ま、防音の力に期待せざるを得ないかな」

 と、いうよりも何よりも。由奈が妊娠したら詰みだという事の方がよっぽど重要な案件だ。今の今までこんな初歩的なミスなんて犯さない自信は満々だったのに。それに、現在のところ由奈が置かれているこの状況は、念の為とはいえ警護が付くという言ってみれば身の危険があるかもしれないという緊張感を持つべき状況だというのに、ドアを隔てた此方でこんな戯れに及んでいる僕達って………特に警護の為に朝早くから居室の前で立ってくれている制服警官のお姉さん、激しくゴメンなさい。


「ヒロさん………やっぱり私じゃイヤなんですか?」

 激しく後悔している心の内を見抜かれてしまったのだろうか、由奈が沈んだ声で訊いてきた。


「ん? あ、違う違うそうじゃなくてさ………」

 さて、どうしようか。その事に集中しなければ簡単に取り返しのつかない事態になってしまう。


「でも、でもヒロさん、さっきから後ろ向きなんですもん………」

 鋭いというべきか、目聡いというべきか、由奈はこうした僕の機微に神経質なくらい反応する。


「そんな事ないよ、うん。子供の名前どうしようかなとかさ、まだ判んないのに凄い先の事まで考えちゃってさ」

 すっかり萎えているのに到達と放出に至った体勢のまま、つまるところ僕にしがみついたままの由奈を眼前で見ている状態な故に、落ちていく由奈を久しぶりに間近で直視するに至って焦燥してしまった結果、見事に墓穴を掘りましたとさ。地雷を踏むよりはマシかもしれないのだけれど、言ったそばからあらたな後悔が膨らむ。


「えっ、ホントですか? それは、産んでもイイよって思っ、ううん。オレの子供を産んでくれ的なつもりで、私の………はう、う。そ、それなら、ばっちりな周期ですよぉー」

 やっぱりそう受け取ったらしく、由奈があからまにトロけていく。


「え、あ、いやその………」

 これはもう覚悟しておいた方がイイのかもしれません………と、僕は諦めの境地に移動する。自業自得なのだけれど、罪悪感やら負い目やらを由奈に対して抱いている僕は、由奈が自暴自棄に陥る事に対して以前よりも格段に神経質になっているようだ。って、ばっちりな周期ですと?


「嬉しいなぁ………私、幸せですぅー」

 辺り一面がお花畑の中を笑いながらスキップしている由奈が、僕の脳内でかなりの鮮度をもって映像化される。ばっちりな周期でしたか。


「ユナ、あのさ………」

 本当に幸せそうな由奈をこうして見ていると、やはり罪悪感やら負い目やらが僕の胸をちくり以上の強さと激しさで責めてくる。あらためて考えてみれば由奈は過去、かなりな感じの酷い毎日をそれでも懸命に生きてきた。それも、壊れてしまうくらいの、だ。そして今、僕のせいで再び壊れかけて尚且つ危険かもしれない状況にいる。僕なんかに拘る意味なんて欠片ほどもない筈なのに、僕のみしか求めていないだなんて何故なのだろうか。今や恐怖にまでなっている由奈による嫉妬心と独占欲、加えるならば執着心も含めて三つの性質を忘れてはいないのだけれど、こうして再会してあらためて由奈の事を考えてみると………。


 今まで散々苦労して、

 今まで散々傷ついて、


 こうしてまた更に傷を増やされて絶望しても仕方ないくらいなのに、それなのに………それなのに由奈はそれでもまだ、懸命に笑顔でいようとする。僕で構わないのなら、そうであるのならそれはそれでそれでもイイかもな………なんて、何だか上から目線の何様な考え方なのだけれど。そんな思いが不意に僕を絡め取る事があるのも事実だったりする。


「早く退院したいなぁー」

 僕はまだどこかで、由奈に強く惹かれていたのかもしれない。だからこそ、こうして惹かれるのかもしれない。


「うん………そうだな」

 どこかからなのか、遊びではなくなっていたのかもしれない。だからこそ僕はあの時、寄りにもよって朋美さんに連絡を入れたのかもしれない。


「ヒロさん私、私ね、早く退院したいです!」

 ん? 気がつくと、由奈が僕に元気よく話しかけていた。


「お、おう………早く出来るとイイな」

 僕は平静を装って話しを合わせる。


「はい! 退院したらヒロさんにもっともっとまとわりつくですよぉー」

 なんですと?!


「えっ………」

 脳内にて、過去のアレやコレやが鮮明に映像化される。


「ヒロさんの身の回りのお世話から何から何まで私が全部しちゃうんです。ヒロさんが煩わしいと感じる事も全部、代わりに私が引き受けちゃいますから。イイ奥様になる所存ですよ! これこそが愛情パワーなのです!」

 映像化されたそのどれもこれもは、どれもこれも全て由奈を怖いと感じるどれもこれもにリンクしていった。

「ヒロさんとずっと一緒です!」

 が、しかし。そんな僕に気づかないくらいに幸せ度数がかなり高いのであろう由奈は、その事が容易に判るテンションで子供のようにはしゃぐ。


「そ、そっか………ありがと」

 ま、それはそれで可愛いのだけれど。


「それに、此処だとシテもらえない事とか沢山ありますし………えへへ」

 由奈が言わんとしているシテもらえない事=浴室やトイレでつまりベッド以外の場所でシテいた事、そして違う部位での事なのだろう。思えば、かなり濃密で特異な事まで日常的だったんだよなぁ………と、その記憶があらたに映像化された。って、由奈さん。そっち方向に特化していません?


「お、おう………」

 やっぱり、もう少しいいやかなり凄く努めて冷静になって考え直してみても、そんな事までするような関係だったんだし、都合良く運ぶワケがないよね。


 ………。


 由奈の身に危険はなかったようだと安堵しながら病室を出るとすぐ朋美さんに捕まったので、まるで浮気チェックのような根掘り葉掘りの尋問に対して大部分を隠しつつ由奈の様子を話して更には機嫌を損なわない為のひと踏ん張りを頑張った後、勿論の事それを面倒だと思う気持ちは少しもない優柔不断な僕なのだけれど、実はつい先程済ませまたばかりなので疲労度と回復度合いが~なんて言えるワケがない。そんなこんなで僕が漸く病院を出てこの身を再び外気に晒した頃には、太陽はその姿を西の方へとすっかり移動させていた。その光は雲を突き破り、この町を淡い赤紫色に染め尽くしている。本当はもっと広範囲なのだろうけれど、少なくとも僕が見渡せる限りに於いての一面は何もかもがどれもこれも淡い赤紫色を帯びている。視線の先の視界に広がるその景色はとても幻想的で、見慣れてきた筈のこの町の全てはもしかしたら見慣れてきた筈の町ではなく、実は同じように見えるだけの異世界なのではないだろうかと思わせられてしまう程の感覚だった。これを敢えてドラマやアニメの章題に例えて表現するとすれば、パラレルワールドにようこそといった感じだろうか。それならそれで、この現実が二つに分かれた平行世界だったら、うん。そうだとイイんだけどなぁー。なんて、ね。


 ………。


 ………。



             第三幕)おわり

             第四幕につづく

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