序 幕)長いぷろろーぐ

 何やら、何処かの街の街路樹の何本かが倒木の危機にあるという。何でも、その街路樹の根元に生えた茸が木の養分を吸い取ってしまうらしく、それによって空洞化して倒れるそうだ。例えば、強風などが起こると………ばたん、と。小さな茸が大きな木を負かすだなんて、そういった場面を実のところ僕は想像が出来ないのだけれど、きっとその街路樹にしてみても僕の心境と同じで、まさかの出来事だと思っているのではないかと。実際に食べる食べないは別として、同様に食べられる食べられないも別として、何でもかんでもどうにかして食べようと試みてきた歴史を持つ雑食の人間である僕が物申すのは何なのだけれど、米とか麦とか団栗とか蒟蒻とか河豚とか雲丹とか海鼠とか食べられるように工夫や手間などを試みてきた情熱には頭が下がる思いのする人間という生き物に属している僕が言えた義理ではないのかもしれないのだけれど、茸に対して生命の危険を感じる事なんて自分で取ってきて食べてみる際くらいのもので………って、そんな状況を経験した事なんて一度もないのだけれど、それはそれとしてつまるところ逆に食い殺されるだなんて思ってもみない事なワケで。比喩的表現としての茸であるのなら、これまた比喩的表現として食べたとか食べられたとか言う場合はあるにはあるのだけれど………って、兎にも角にも。まさに茸、恐るべしです。


 上手い事、言ったったぜ。

 だなんて思ってませんよ。


 実際問題として、生き続けると言うか存在し続けると言うか平和に暮らすと言うか、五体満足で明日を迎えるのは実のところ結構な程度で難易度お高めなミッションなのかもしれない。例え平和だと言われているこの国で暮らしていようとも、だ。未来というヤツは不確定要素が思わぬ所から首を突っ込んでくる傾向にあるので、まさに一寸先は闇という言葉がピッタリな感じがする。僕は人間というカテゴリーに属する生き物なので、実感として人間というカテゴリーに属する人間の一生に関する感想しか抱けないのだけれど、有り体に言えば人生とは賽子が無い双六のようなモノだと思っている。しかも、升目はどれもこれも、どこもかしこも全て、ただただまっさらで何も書かれてはいない。何か描かれてもいない。ただし、賽子は無くても賽子のようなモノなら有り、そこに選択肢が幾つか掲示してある。そして、僕等はその内のどれかを殆どの場合に於いて任意に選び、その度に升目を移動し、移動してみて初めてそこにあるイベントを知る。故にどうしても、進んでみなければ何一つ判らないという事になる。この選択肢を選べばどうなるかなどという所謂ところの未来を予想する事が可能な場合もあるにはあるのだけれど、予測して対応策を練るなんて事も出来なくはない場合もある事はあるのだけれど、僕等は往々にして自身の欲求に従順となって回避を怠る。所謂ところの、明日にしようとかきっとこのままでも何とかなるだろうとか、そういうヤツだ。そして、大概どうにもならなくなるのに、人間は同じ過ちを何度も何度も何度でも繰り返す。

 いくつもの升目が連なったボード、それが僕等の人生というステージだ。そしてその升の一つ一つに選択肢が貼り付けられており、その升その升によって種類も数も違うのだけれど、いつだって激甘から激難までずらりと揃っている。任意なのだから、賽子を振って出たその目の数の内であればどこでも、そしてどれでも好きなのを選ぶ事が可能だ。だからこそ、なのだろうか。それなのに、なのだろうか。結局のところ、僕等という僕等の殆どが難易度の高い項目を選択しようとはしない。好んで選ぶようなストイックな人なんて、稀でしか………そう。わざわざストイックという名称の冠を授けて、スタンダードという名称の冠との差別化を図るくらいなのだから、そんな人は稀なケースでしかない。

 と、ここまで思考を進めてみてあらためて浮かんだ事がある。それは、賽子でありながら賽子ではない賽子なんて賽子とは言えないのではないか? と、いう本末転倒な疑問だ。先に進む為のツールまたはアイテムを賽子みたいなモノという前提の下にここまでつらつらと脳内独り言を進めてきておいて、ここにきてこのような展開を導くだなんて今更で今頃な感もしないではないのだけれど、それでも浮かんでしまったのだから一考してみるとしよう。


 賽子ではないのならば、

 何がそうだと言うのか。


 あっ………。


 賽子が無い双六とは、まさしくそういう意味だったのかもしれない。激しく納得。結局のところ、ふりだしに戻ったみたいです。自身で思考しておいて、何という他人事さ加減なのだろう。と、おもわず自分自身に対して呆れてしまいそうになったのだけれど、思考とは詰まるところ自分との対話なのだから、そういう意味においては何ら恥じる事はない。勿論の事、これは自分自身を肯定する為の言い訳なんかでもない、筈。正直に言えば………誰かとの会話ではなくて良かったと思っています。


 さて、何時だろう?

 えっ………マジで?


 まだこの程度かぁ………。



 がたん、ごとん。


 がたん、ごとん。



 以下、何回もリフレインする傾向。リフレインするのは説明するまでもなく、電車が走る際のこの音だ。少なくとも日本では、それをそのように形容する。逆に言うと、そのように明記されているとすぐにそれを連想し、それ以外の何かだと疑う若しくは思案する事はたぶんきっとないだろう、筈………うん。ないと言い切ってしまっても決して言い過ぎではないくらいに決定的。絶対的。スタンダードな表現でありオンリーワンな表現でもあるという関係性。が、しかし。それならば一体全体、このクレームをつけようがない完成された組み合わせを最初に用いた人物は誰なのだろうか? まだ電車の動力が蒸気であった頃まで遡るとすれば………それはたぶんきっと、


 しゅっ、しゅっ、ぽっぽ。


 と、いう表現とがっちりタッグを組んでいたであろう筈だ。だから、それより後になる電動式のモーターに移行されてからという事になるわけで、もしかしたら案外とその歴史は浅いかもしれないのだけれど、リニアモーターカーとかなんとかいう名称の次世代機がデフォルトになれば、また新しい擬音が誕生するだろう。ちょっと楽しみな気がしないでもない。


 って、なんだよそれ。

 あ、そろそろ。かな。


 ………まだ、か。


 ざわざわ。と、音が途切れない世界。波が打ち寄せる海辺でのほほんと佇んでいる時でさえ途切れる瞬間はあるし、アスファルトされていない道をてくてくと歩いている時だってそうなのに、それなのに途切れない。多種多様の音がそれぞれに、それこそ波の音や風の音なんて簡単にかき消してしまうくらいに聴覚を全方位から刺激してくる。その音を纏めて表現すると、ざわざわ。これもこれで誰がそう表現し始めたのかなんて判らないのだけれど、ざわざわ。若しくは、がやがや。或いは………ばたばた? ばたばたではないかな。がやがや? も、違う気がする。やっぱり、ざわざわが一番しっくりする。ざっぱぁーん。と、言えば波の音。で、ひゅるる。と、言えば風のそれ。うぃーん。と、言えばオーストリじゃなくていやそのあはは自動ドアですとも。で、ぽちっとな。と、言えばそれはもうビックリでドッキリなメカの発進だ。うむむ、音を文字で表現するっていうのはなかなか奥が深いものみたいですねぇー。例えば、うぃーん。に、がしゃん。を、続けたら………カクカクのロボットがカタカタと歩行している音になるし。そして、カクカクにカタカタと言えば………。


 ま、それはさておき。


 兎にも角にも僕は今、研修先から電車に乗って住み慣れた我が街へと帰る途中なのだけれど、研修が無事に終了してこれでやっと気が楽になったよぉー。と、のんびりなテンションを満喫する余裕は殆どありません。出来る事なら、一瞬で帰りたいところです。けれど、少なくとも僕はそんな事が叶う能力を持ち合わせてはいないし、それをきっと叶えてくれるであろう筈の青くて丸い猫型ロボットさんとの付き合いもない。詰まるところ、帰る手段の中で一番早い公共の乗り物に頼るしかありません。先程からと言うか何と言うか時間ばかり気になるので戯れ言でも思考して落ち着こうと、アレやコレや軽いテンションを演じながら努めて頑張ってみてはいるのだけれど………辛うじて座席に腰を下ろした状態をキープしているといった感じ。どうにもならないのにアッチ行きコッチ行きうろうろよそよそあたふたしそうなのをなんとかかんとかどうにかこうにか抑えている、そんな有り様なんです。


 がたん、ごとん。


 がたん、ごとん。


 実を言うと、僕には今でも不意に思い出してしまう酷くツラい事が………いいや。思い出す事というのとは少し違うかもしれない。思い出す事と言うよりも、忘れられない事と表現した方が自分としてはしっくりくる。兎にも角にも、わざわざ思い出そうとせずとも向こうから勝手に名乗り出てくるので、だからどうしようもなく忘れられない。と、いう過去がある。

 それは、簡単に言い捨ててしまえばトラウマというヤツで、そしてそれは簡単には消去する事が出来ないという面倒なシロモノ。ここでこの事についてイチイチ注釈をつけるという事は決して望むべき事ではないのだけれど、一応はシロモノと言っても勿論の事、それは家電製品の類の事をさしているワケではありません。決してそうではなく、有り体に表現を換えるなら心の傷ってヤツです。そしてその傷は、未だ傷痕にはなっておらず傷痕になる気配の欠片すらも一切合切なく、滞りなく未だ傷として傷のまま存在している。

 ある時点から急に記憶と名を変えて脳というデータベースの何処かに永久記録され、ご丁寧にも刷り込まれてそのまま僕の預かり知らぬ領域で僕を嘲笑うかのように息を潜めていて、何らかのスイッチによって僕に断りなく、遠慮なく、思慮なく、配慮なく、計らいなく、告知なく、猶予なく、詰まるところ何事もなく不意に自己主張を謳歌し始め、突然に、唐突に、不躾に、当たり前のように僕の心を惑わし、僕の身体を支配し、僕の精神をアッという間に狂わせる。しかも、それが劣化するなんていう事は今まで一度たりとてなく、今でもやっぱり鮮明に脳裏に浮かぶ。浮かんでくる。そして、それと時を同じくして視界に映る全てはぐらりと歪み、やがて視界に映る何もかもは主張する事をぴたりと止め、周りの音は大小問わずぷつんと遮断され、感覚はひりりと麻痺していき、アレやコレやと思考する余裕なんて脆くも失われてしまい、どうする事も出来ずその途端から一つのただの塊と化す。そうなった時の僕には、もう二度と動く事のない女性が見える。そうなった時の僕には、彼女の力無い声が聞こえる。大切な存在だったのに、大切な想い出は沢山あるのに、それなのに脳内に浮かび上がる記憶はどれもこれも………。

 視界という眼前を実際に覆い尽くすかのように、携帯電話のディスプレイが見える。着信ありと表示されている。伝言メッセージが一件。天野薫子という表記が白い文字で見える。途端に僕の身体は震え始め、その震えがアッという間に増していく。心臓が激しく波打つ。端から見れば既にサイコパスな領域へと足を踏み入れているように見えるかもしれないが、この時の僕はまだサイコパスまでもう残り僅か数ミリといった所で立ち尽くしている状態だ。いいや、塊だ。それは詰まるところ、狂いかけているという事。狂う寸前で意識を失いかけているのだ。恐怖と言うべきか、懺悔と言い換えるべきか、言葉として文字として表現する事が出来ないような叫び声を上げてしまいたくなっている。いっその事そのまま叫び狂ってしまえば少しは楽になるだろうかという余裕すらこの時の僕には欠片ほども見当たらず、勿論の事探す余裕も持ち合わせてはおらず、終了を意味するエンドマークがテロップされる事もなく、優しさという計らいなど微塵もなく、トラウマはまだその終わりを見せてはくれない。

 僕は彼女が差し出してきた手を掴む事が出来なかった。僕は………彼女が発してきたサインを見逃してしまったのだ。悔やんでも悔やんでも、悔やんでも悔やんでも悔やんでも決して、時間は戻りはしない。悩んでも悩んでも、悩んでも悩んでも悩んでも決して、もう一人の僕が僕を許してはくれない。あの時この僕が見逃さず聞き洩らしもせずに彼女からの電話に気づいてさえいれば、そうすれば彼女は、きっと彼女は、たぶん彼女は、もしかしたら彼女は、今もまだ呼吸をしていたかもしれないのに………と、呟いてくる。それでも結局のところは悲しみや苦しみと闘う毎日だったかもしれないのだけれど、だけどいつかは乗り越えて笑顔を見せてくれていたかもしれないのに、それなのに………と、責めてくる。その声に僕は、抗う事が出来ない。それはそうだろう、僕自身の声なのだから。僕自身がそう思っているのだから。

 彼女がそうなってしまうに至って尚更にして、僕は僕自身の事をただ身体がデカいだけのちっぽけな人間だと、更に言えば何の役にも立たない人間だと、そう強く思うようになった。そうとしか思えなくなってしまった。だって、振り返ると僕は………彼女の話しをただただ聞く事しか出来なかったし、傍に居る事しか出来なかったし、一緒に笑ったり泣いたり怒ったりする事くらいしか出来なかったから。だから僕には、誰かを支えるチカラなんてない、誰かを守るチカラもない、何の取り柄もないんだと、そう思っている。

 それは、彼女はそうは思っていなかったという事を後になって知って確信となった。彼女がそう思ってくれていたからこそ、逆に確信となった。絶望や諦めによって精神のバランスを崩し、衝動的に発動してしまうバッドエンドに向かうフラグ立てを選んでしまっても、いつだって一旦はだったのだけれどでも、ひとまずはだったのだけれどそれでも、僕がそれを止めていたのだという事を、それが出来たのは僕だけだったという事を、僕は後になって知った。後になって、やっと。後になってしまってから。後になって漸く。

 そう………全てが手遅れとなってから知るに至ったのだ。彼女はそのルートを進みたくはなかったのに。だから僕に止めてもらおうと望んだのに。望んだからこそ僕に助けを求めたのに。願ったのに、期待したのに、それなのに。それなのに僕は、あろう事か彼女のその声に気づけなかった。繋がる筈だった携帯電話が繋がらない。繋がってほしかった携帯電話が繋がってくれない。繋がらない。繋がらない。繋がらない。繋がってくれない………彼女に成り代わって僕を何度も何度も何度も呼び続けていたのに、僕はそれに全く気づかなかった。

 それによって、フラグはフラグとして立ち上がってしまった。そして、ルートがルートとして出現してしまった。そして彼女は、その道を一直線に突き進んでしまった。そのルートにはもう分岐はない。引き返す術もない。辿り着く先には最悪のバッドエンドが待っている。それなのに………気づいた時には、もう手遅れだった。事は終わった後だった。僕は叫んだ。泣き叫んだ。泣き叫び狂いかけた。けれど、それでどうにかなるワケがない。リセットもセーブも出来ないし、復活の呪文なんていう救済措置も扱う手立てがないのだから。支えてくれる事や守ってくれる事を望まれていたのに役に立てず、僕は取り返しのつかないミスを犯してしまった。後悔の念で胸が締めつけられた。だってそうだろう、フラグを立てたのは僕なのだから………。

 そんな僕は、もう二度と動かない彼女の傍らで、彼女の母と姉に頭を深々と下げられた。僕の事をよく話していたと聞かされた。その時の彼女はとても楽しそうで、嬉しそうだったと言われた。そして、私達のせいで本当に申し訳ありません………と、謝られた。

 遅いよ。今になってこうなるに至ってからそれを知るなんて、そんなの遅すぎるよ。僕は底知れぬ怒りに震えた。けれどそれは直ぐに、自分自身に向かってきた。自分自身の事が不甲斐なかったからだ。だから、すぐに自分自身を襲い出した。僕自身が僕を罵り始めた。それはそうだ。僕は彼女から聞かされていたのだから。家族から貰えない温かな愛情を。家族から向けられる理不尽な激情を。それに耐えていた彼女を、諦めていた彼女を、僕はほぼ知っていたのだから。僕が電話に気づいてさえいれば、彼女は思い留まっていたんだ。絶望しかけた彼女を、引き戻す事が出来た筈なんだ。

 謝るのは僕の方だ。彼女に何度も謝った。何度も何度も謝り続けた。けれど、彼女はもう何も答えない。何も答えてはくれない。これでもう家族や周りの仕打ちに傷つく事はないだろう。悩む事も、悲しむ事も、嘆く事も、苦しむ事も、怯える事も、耐える事もないだろう。それはそれで悪い事ではない。寧ろ、良い事だ。それだけを見れば、その部分だけを見てそれ以外を見ないようにすれば、そう慰める事も出来なくはない。けれど、そんなワケがない。もう二度と笑う事もない。喜ぶ事もはしゃぐ事もないんだ。そうなる出来事に巡り逢う事もない。彼女の母と姉は僕に謝り、彼女にも謝っていた。と、言う事は。この先、笑いあったり喜びあったり励ましあったりはしゃぎあったり出来たかもしれないという事だ。それを奪ったのは、その機会を失わせたのは………僕だ。この僕なんだ。


 なぁ………聞こえるか?

 彼女からの返事はない。


 オマエは今、何を考えてるの?

 彼女は何も答えてはくれない。


 聞いてるのか?

 何も。


 起きてくれよぉ………。

 何も。


 どうして。

 顔は青く、


 どうしてだよぉ………。

 唇は白く、


 全てオレのせいだ。

 表情を変えず、


 そうだよな。

 目を閉じたまま、


 オレのせいだ。

 口も閉じたまま、


 オレが気づいてれば………。

 ぴくりともせず、


 オレが………。

 ただそのまま、


 オレが、さ………。

 横たわるだけ。


 ゴメンな………。

 横たわるまま。


 ………。


 彼女は、もう。

 二度と動かない………。


 ………。


 それからの僕は、笑う術を失った。笑い顔を作る事ならなんとか出来るのだけれど、その表情は僕の笑顔ではなかった。だって僕は、少しも僅かでも微かにも笑ってなんかいないのだから。笑い顔を作っているだけなのだから。笑い顔を作って見せていないと、周りに居る心ある人達や心ない人達さえもが気にしてしまうから。僕のこの傷を知らない人達が、悪気なくけれど如才なく僕の心を覗こうとしてくるから。僕の罪を知らない人達が、僕の脳を覗こうとしてくるから。僕はそれを受け入れるのがとても怖い。心を許すのが怖い。脳を見せるのが怖い。大切な人が死ぬのが怖い。悲しむのが怖い。傷つくのが怖い。怖いから少しも笑えない。いっその事、死んでしまおうかと考える事さえ何度かあった。耐えられないなら死んでしまおう。凌げないなら死ぬしかない。逃げ出したいのなら死んじゃえよ。なあ、死ねよ。ほら、早く。さっさと死ねばイイんだよ!


 さあ、さあ!

 ほら、早く!


 繰り返される声。それは、僕にしか聞こえない声。けれど、僕には死ぬ勇気がなかった。それこそ必死になって隈無く探してみたのだけれど、何処にも見当たらなかった。だから、振り絞る事さえ出来なかった。そんな勇気なんていらないと言う人がいるかもしれないが、そんなヤツは他者の苦しみを軽く捉えて勝手に上から目線で訳知り顔をするただのゴミ野郎だ。残される人の気持ちを考えろとか、死を選ぶなんて卑怯だとか言うヤツも同類だ。心配なんて欠片ほどもしていない。もっともらしい事を宣言する事で自尊心を満足させたいだけだ。決めつけたいだけのそんなヤツ等になんか判ってもらいたいなんて思わないし、判ってくれるとも思わない。ただ、ほっといてくれればそれでイイんだ………それこそが永遠に叶わない事だって充分に判ってはいるのだけれど。

 だって、自らの自尊心を満足する為なら他者の傷なんてどうでもイイ事なんだから、自身の自尊心を満たす機会を他者の願いでスルーするワケがない。判っているよそんな事。そんな事は判っている。だから僕はそんなヤツ等に出会う度に、待ってましたとばかりに躍り出てくる度に、殺してやろうかなとマジで思っていた。思案してきた。考慮した。揺れに揺れた。けれどここでも実行する勇気は見当たらず、僕は心の扉を更に頑丈に厚くして、更に頑強に施錠して、更に屈強に拒絶して壁を作る事だけで精一杯だった。表面上は穏やかに、作り笑顔を絶やさずに、上辺だけの関係を信条として時間を消化してゆけば良い。それで蓄積されたストレスは、そうだな、自傷でもしながら発散してしまおうか。それとも、吐くまで食べる事で発散してしまおうか。何かに没頭してそれで少しでも忘れられたら、それはそれで有意義な事な筈だから………。それは、間違いなく発散したフリでしかないのだけれどそれでも、その過程で自分自身がイヤになってイヤになってきてイヤでイヤで仕方なくなってきて漸く、死にたいという願望と一緒に死のうという勇気が毛ほどでも発見できたら、それを大事に育てて花を咲かせよう。そこまで育てれば実行出来る筈だ。それで全てが終わる。僕の罪ほろぼしは終演の時を迎える。言ってみれば、それまでは刑に服しているようなもので、懲役が何年なのかは判らないのだけれど、今も何処にあるのか判らない勇気という存在が鍵なのは間違いない。だからそれに頼るのみだ。頼る………いいや、そうではなくてたぶん依存しようとしているのかもしれないのだけれど。

 けれど、でも。そんな僕にもしもまた再び大切な人が現れたら、大切だと心から思えるような人が現れたら、その時は今度こそ傷つけたりはしない。その時こそは守れるようになっていたい………なんて、ね。そんな身の程を弁えてなどいない夢想が、無様な僕の眼前に紛う事なき現実として降臨してくれる筈がない。そんな事が起こるワケがない。僕の喜びは自身の喜びだと感じてくれる人。僕の悲しみは自身の悲しみだと感じてくれる人。その喜びは僕の喜びだと思える人。その悲しみは僕の悲しみだと思える人。僕の傷を自身の傷ですと感じてくれるような人なんて、その傷は僕の傷だと思えるような人なんて………もうこの世に存在するワケがないんだ。


 と、そう思っていた。

 由奈と出逢うまでは。


 ………。


 ………。


 僕がその着信の数々に気づいたのは、最後のそれが届いてから暫く経過した後の事だった。僕の愛機であるところのとあるトコのスマートフォンは、いつもであればバイブ機能を生かしたマナーモードに設定しておくのだけれど、この日は研修最終日の大詰めでもある大事なミーティングに出席していた関係で、別段何か他意があったワケではなく完全マナーモードに設定していた。詰まるところ、着信があっても無音であり無振動の状態であるという事だ。


 そして、その日の夕刻。


 それは研修を無事に終え、更衣室で私服に着替えていた時の事だった。着信を告げるランプが点灯している事にたぶんそれはきっと漸くというべきなのだろうくらいにそのとおり漸く気づいた僕は、愛機のメインディスプレイに注視してすぐさま軽い衝撃を喰らったような気分になった。そしてその後、確認するに至って今度はパニックに近い感覚に蝕まれてしまうという事態に陥ってしまう事になる。


 着信が13件。それら全てが、

 由奈からのものだったからだ。


 何となく。そんな心持ちではあったのだけれど、まだこの時はパニックの根幹を成す大きな理由が他の所にあったので、その言葉そのとおり本当に何となくでしかなかったのだけれど、これはヤバいかもしれないと直感的にそう思っ………いいや、これは思考の先に辿り着いた推測ではなく直感によるところが殆どな感覚なのだから、感じたと表現するべきかもしれないのだけれどそれは兎も角として、兎にも角にも僕は悪寒に似た寒気と震えに襲われながらもすぐさま彼女のモバイルフォンにコールした。


「ユナ………」

 1コール。

 鼓動がどんどん速くなっていく。


「今になって、どうして………」

 2コール。

 だんだんと息苦しくなっていく。


「ユナ、おい………」

 3コール。

 イヤな予感が増幅していく。


「まさかだろ、ユナ………おい!」

 4コール。

 それが脳内で映像化される。


「頼むよ、まさかだろまさかだよな!」

 5コール。

 何となくだった不安感が現実味を帯びて僕を抱きかかえ始める。


「ユナ………」

 ずっしりと乗り掛かってその存在感を知らしめる間も、6、7、8と無機質に続くコール。由奈からの応答は全く聴かれない。僕が覚えているかぎりにおいて殆どの場合、彼女は3コール以内で必ず出る。小さな両手で携帯電話を握りしめ、無表情に近い表情でメインディスプレイを見つめながら、そうしながらジッと待ち構えていたのではないかと想像してしまうくらいにすぐ電話に出る。が、しかし。出ない時はいつだって………。


 ………。


 今となっては、何コール目まで待ったのかは記憶に残っていないのだけれど、結局のところその間に彼女からの応答はなかった。


 が、しかし。

 その僅か後。


 彼女から着信が届く。

 この日、14回目の。


『ヒロさぁん………』

 その着信にまるで条件反射のように、若しくは早押し問題に答えるかのように、兎にも角にもそのような慌ただしさで応対すると、すぐさま彼女の声が耳に届いた。それは間違いなく彼女の声で、かなり久し振りの彼女の声で、だからとても懐かしい声ではあったのだけれど、しかしそこには安堵感を眠りから起こすような色は一切なかった。それどころか、どうやらヤバいかもしれないというイヤな予感がやっぱりという言葉に相応しいくらいに的中したらしいと受け入れなければならない類いの色を宿していた。あえて言うとすれば………彼女から洩れるその声色の方もまた、かなり久し振りでとても懐かしいものではあったのだけれど。


『さよなら、ヒロさん………』

「えっ、あ、ちょ、ユナ?!」


 途切れていた筈の糸が再び、

 僕を捕獲しようと動き出す。


 ………。


 しゅるる、

 しゅるる、


 しゅるる、と。


 ………。


 けれど、これが。

 これこそ、うん。


 ………。


 ………。


 本当の始まりの始まり。

 そのものだった………。



             序 幕)おわり

             第一幕につづく

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