赤い糸むすんだ

野良にゃお

終幕前)被害者の告白

 平凡な毎日。それは、僕が望んでいた日常の筈だった。世の中の大部分が再始動をする為の準備に取りかかるであろう朝、寝ぼけ眼の僕は僕なりのやり方で再びその世界の住人の一人となろうとする。そして、さしあたって変化と呼べるようなストレスなどなく、ただただなんとなくそこはかとなく決められた時間を過ごし、日が暮れるのを意識し始めるあたりでさて、そろそろ。と、その日の業務を締めくくる準備にとりかかる。さぁ、我が部屋に帰ろう。途中で何処かに立ち寄る事なく。つまり、何気ない日常に変化を及ぼすかもしれないような事などせず。簡単に言ってしまえば、朝起きて支度して職場に向かって仕事して休憩してまた仕事に戻り、そして時間が来たら終えて真っ直ぐ帰って夕飯を食べたり風呂に入ったりとかした後に眠る。そんな毎日。明日という未来が一瞬にも満たない程の現在を襲名してすぐ過去になる、所謂ところの時間という流れの中を、ただただ。そう、ただただ変化なく。刺激というストレスなく、ただただ。ただただ生きていく。


 そんな毎日を、

 僕はずっと望んでいた。


 結局のところ。不特定多数の人が刺激的な環境だという感想を述べるであろう筈のたぶんきっと特異な毎日は、全くと言って良い程に僕を魅了しなかった。いいや………正直に言えばそれなりに楽しかったのかもしれないのだけれど、僕の感情がある日を境に波打たなくなってしまった。そして、不特定多数の人にとっての非日常を数年間、それでもこれが日常と表現しても差し障りのない毎日として、それこそただただ心が波打たないまま過ごしていたのだけれど、再び波打つ事などないままどうにか許しを得てエンドマークを印した。心が波打たないままそれでも属したままでいなければならなかったその数年間というのは、属している側の諸々の事情でかなり引き止められたりとかした故のそれなのだけれど、そのあたりの内情も含めて今はもうあまり思い返したくはないというのが正直なところ。それでも今にして思えば、両足どころか全身をどっぷり踏み入れるまでの、度胸? が、なかったのだろう。もう引き返せないけれど構うもんかという、覚悟? も、なかったのだろう。


 ま、それは兎も角として。


 僕からしてみれば存分な紆余曲折の数年間を経て、晴れてとでも言うべきなのか平凡な毎日という日常を生きる住人の一人となり、僕は今いるこの世界を歩み始めた。僕はこのまま、この不特定多数の人がつまらないという感想を述べている世界に埋もれてしまうつもりだった。出来る事なら満喫したいのだけれど、そういう気持ちは全くないという事もないのだけれど、うん。残念ながら? 僕はまだ人生を振り返ってみるという年代に達してはいないし、何よりやっぱり感情が欠落している。だからなのだろう、誰の記憶にも残らないような平凡の中で、誰も記憶せずに生きようと思ったのは。


 唯一人、

 あの人を例外として。


 僕はきっと、たぶん、まだ子供なのだろう。諦めてはいるのだけれど、忘れてしまう事が出来ないのだから。諦めるという決断は僕の事情だけで済む問題ではないからこそ可能な事なのだけれど、忘れるという決心は僕自身のみの問題だから………なんて、最もらしい言い訳を思考して、だから仕方のない事だと先延ばしにする手立てを思いつける年齢にはなったようですね、どうやら。人間は言い訳をする生き物です。何故かと言えば単純明快。そうしないと自尊心を保てないような愚かな事を、性懲りもなく何度も何度も何度でも繰り返すからです。時として同じような事を、ううん。同じ事でさえも。けれど、だからこそ言い訳属性が発達したのだとも言えるワケで。と、すると。それに引っ張られる形で様々な欲求に気づき、色々な欲望を思いつき、様々で色々なそれ等を片っ端から具現化させようと目論み、そして試みるようになり、その結果として脳が進化した、と。そんなふうにも言えるワケで。ならば、欲望の具現化こそが人間の本質であり、欲望の体感こそが人間の欲求。そして、この僕もそんな人間のうちの一人ですから………。


 なんて、ね。

 戯れ言です。


「全く………」

 と、ぽつり。言い訳をする言い訳まで考えるとは、我ながら情けなくて声が漏れた。僕はどうやらまだ、あの人を求めているらしい。「らしい?」と、再び。ぽつり。そうだよね、らしいなんかじゃないのに。そんな事、自分自身でもはっきりと判っている。だから逃げようとしたのだから。逃げようとしているのだから。結局のところ、また同じ事を繰り返そうとしている。けれど今度は、以前のようにはいかない。上手く立ち回る方法が、何一つ。そう、何一つ思い浮かばない。浮かんでこない。同じ轍を踏み、同じ過ちを犯し、同じ愚かさを痛感し、そして………僕は。また傷つけてしまう。


「いってらっしゃい、アナタ。こんな雨の中を大変ですけど、無理はしないでくださいね? あ、そうでした。この雨は雪に変わるみたいですから、積もるようでしたら道中は特に注意してくださいね」

 彼女が僕の傍から離れない生活。その一秒一秒が続いてやがて一分となり、その一分が一時間となって更には一カ月となってそのまま、もうすぐ一年となるまでになりました。どうすればイイんだろうと自分自身を責める毎日が、振り返ればもう一年も続いていました。そして彼女にとってはそれは、この先もずっとずっと十年百年千年と未来永劫に渡って、淀みなく歪みなく続いていくんです。彼女に寄り添われながら日々の暮らしを営んでいくというこの生活は、それはもう間違いなく不変なくらいにこれから先も続き、だからこそ日常と表現するまでになります。それこそが普通で、これこそが当たり前で、詰まるところ兎にも角にも何はともあれ何よりも日常の一つであると表現しても何ら間違いではない。


 そんな世界。


「う、うん………じゃあ、いってきます」

 それが彼女の夢。彼女の願い。彼女の望み。彼女の欲求であり、全て。彼女の理想郷であり桃源郷。彼女の存在理由であり存在証明であり存在価値。まるでそのとおりだと言わんばかりの彼女が、そうに決まってるじゃないですかと当たり前のように答えるのであろう彼女が、今日も僕に満面の笑顔を見せる。


「あうう………いってきます。の、チュウは今日はシテくれないんですか?」

 この世に生命を宿した生きとし生ける全ての存在は、須く寿命という宿命を背負わされている。この世に形を成す全ての物体も悉く、寿命という運命を義務づけられてこの世に存在している。


「え、あ………んっ」


 人間もその内の一つ。

 いつか終わりがくる。


「んっ……ん」


 けれど、彼女は。

 永遠を欲しがる。


「じゃあ、いってきます………」


 僕を手放したくはないのではなく。

 永遠が欲しくてたまらないのかも。


「愛してますよぉー、アナタぁ………」

 そう思ってしまう程に。


「うん………ありがと」そう感じてしまう程に。


「えへへ、いってらっしゃい」

 大切に想ってくれている。


「うん………」それは伝わるのだけれど。


「今日も真っ直ぐ帰ってきてくださいね?」

 充分に伝わるのだけれど。


「うん………」


 けれど、でも。


 ………。


 ………。


 目的地なんてありはしない。そもそも目的が比例する場所が想像出来ない。それでも敢えて理由をつけてみると、たまたま歩いていた道でたまたま見かけたから。と、いった感じだろうか。何とも曖昧で説明になっていないかもしれないのだけれど、実のところ何一つ間違ってはいないそのとおりの心情を表している筈だ。そう、それは本当にたまたまだった。それ以上でもそれ以下でもなく、それ以外でもなかった。の、だけれど。意外ではあったかもしれない。路線図や時刻表など確認する事もなく、僕は停車場に停車していたバスに乗り込む。そこで降りた数名の見知らぬ人達と入れ代わりに乗る者はそれよりも更に少ない数人で、そして勿論の事………と、言う表現はたぶんきっと適当ではないのだろうけれど、これもまた見知らぬ面々だ。


 ただし、唯一人を除いては。

 ………ま、僕なのだけれど。


 その内の一人は僕。まさしく僕だ。勿論の事と表現してもこの場合は全く差し支えないくらいに僕。いいや、全く差し支えなく僕。よく知る人物だ。知らない仲ではない。ただ、気づいていない事は多々あるだろうと思われる。本人であるが故に。


 なんて、ね。


 そんな戯れ言は兎も角として。数段登った先の眼前下にあった小さなベルトコンベアに小銭を落とし、顔を上げつつ方向転換すると、視線の先にある視界に車内の様子が写り込む。新たに乗り込んだ数人の他に先客の姿が、ちらほら。僕は一番奥、つまり最後尾の椅子を目指して歩く。とてとて、と。これも勿論の事なのだけれど、空いている其処に座ろうとただ単に思ったからだ。


 とてとて。

 とてとて。


 その途中、ぷしゅー。と、ドアが閉まる音がしたのだけれど、ぷしゅー。と、すぐにまた開いたようだった。きっとたぶん、誰かが乗ろうと走ってきたのだろう。何にせよ僕には関係のない事だ。


 ぷしゅー。


 運転手さんによるアナウンスが車内スピーカーから聞こえ、直後に鼻息荒くとでも言おうか、それとも始め勇ましく終わり柔らかくとでも言うべきか、数種類の音を響かせながらドアが閉まった。


 そして、

 再びのアナウンス。


 それは丁度、僕が目指していた最後尾の座席に腰を降ろすかどうかのあたり。ルーティンワーク終了のサインと同時にバスは動きだす。車内が、がくん。と、後方へ揺れる。その揺れによって後ろへと圧された僕は、抗う事なく背中から背もたれに寄りかけた。


 ………。


 エンジン音の他は無言の世界。地球という規模の大きさでわざわざ表現するのはあまりにもお門違いなのだけれど、たしかに存在しているあまりにもミクロな世界。故に其処にも、つまり此処にも、様々で色々な荷物を背負った幾人かがたまたま乗り合わせたという世界はあり、そのようなミクロの世界がパズルのピースの如く一つ一つ連結された世界が地球という世界なのだ。


 さぁ、出発進行ですよ。

 バスが車の列に加わる。



 ふわぁああああーん!



 僕からすればそれは突然と言えば突然であり、唐突と言えば唐突でもあるのだけれど、鮮明なる音のクラクションが主に右耳を刺激した。貫かんばかりの音量のそれは、どうやら右側手前の窓から届いたモノらしい。


 僕は視線を移す。

 瞳をスライドさせる。


 もう既に過去の出来事となっているので定かではないのだけれど、それは対向車線での事だった。多分どうせ無茶な運転をした誰かに向けての意思表示だったのだろう。勿論の事、その何らかの行為に対して異を表明する為の………うん。


 ちょっと閑話休題。

 それにしても、だ。


 僕はもしかすると、勿論の事という言葉が好きなのだろうか? 先程から頻繁に出てくるワードだ。なので、其方に意識が向いてしまうくらいに気になってしまった。全ての思考を一旦停止して、その事に集中してしまったくらいだ。では実際のところは、はたしてどうなのだろう?


 と、考えてみる。

 が、しかし。


 すぐに飽きてしまった。


 どうでもイイ事ではないのかそんな事は………と、いう答えが圧倒的なチカラを持って僕にアピールをしてきたからだ。そして僕はそれに対して、そのとおりだよな全く。と、いう返答を満場一致で提示するに至る。


 いやはや、

 不思議なモノですね。


 端から見たらたぶんきっと何も言わずただただ、ぽけたん。と、しているだけにしか見えないだろうというのに、頭の中若しくは心は忙しなくアレやコレやと動き続けている。僕という個体の中では各器官が休みなく淀みなく動いている。と、言うか生きている。そう、生きているのだ。こうして座ってから先、一度は瞳を動かしたもののその他はたぶんきっと表情のない顔でバスの揺れに反応する以外はぴくりともしていない僕でもまだ、生きているのだ。アノ人もソノ人もコノ人もそう、そしてここからでは座席の背もたれで見えないのだけれどそこにいる事は判る一番前のそこに座っているたぶん女の人も、みんなみんなそれぞれに生きているのだ。


 僕等はみんな生きているのさ。

 以上、閑話休題を終わります。


 目的地は勿論の事、知らない。


 ………。


 ………。


 けれど。


 ………。


 ………。


 思わぬ所に辿り着いた。先程まで無遠慮に降り続いていた雨はその姿を消し、ぱらぱら。と、雪が降り始めていた。外を眺めていたワリにその外の様子の変化に気づかないなんて、どうやら相当疲れているのかもしれない。


 ………。


 ………。


 都会のバスは路線長いね。思わぬ所に辿り着いた僕は、思わぬままに思わぬ場所へと向かっていた。いいや、辿り着いてそこだと気づいてからはそこへ行こうと思っての事だったのかもしれないのだけれど、少なくとも意識して足を向けた自覚はなかった。ないまま向かっていた。そして、もう思い出を誘発するであろうアレやコレやの一切合切すら無くなってしまった筈の思い出深い部屋を素通りし、ハナからそこを目指していたかのような足取りで屋上へと足を運んでいた。


 ………。


 ………。


 ここへ来るのはどのくらいぶりになるだろうか。眼前の先にある視界に広がる光景は、その頃と何一つ変わっていないように思える。勿論の事、ここに来る度に細かく注視していたワケではないので、違いなんて判る筈もないと言えなくもないのだけれど。

「トモさん………ゴメンね」

 それは懺悔の念なのか、それとも。


 やっぱり。


 ………。


 ………。


「ヒロさん」



 その時………、

 後方から思いもよらぬ声が聴こえた。



「どうし、て………」


 どうして此処に?!



 驚いて振り向くと、


「でも、ちょうどイイか」



 彼女が。



 ………。


 ………。



 眼前の先にある視界に、

 由奈が立っていました。



             終幕前)おわり

             序幕へとつづく

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