※この鼻血は悪い奴に殴られたからではありません

 一人の男子生徒が、路地裏で襟首を掴まれていた。僕はそこからつながるT字路の地点で、たまたま見てしまった。


「おい、金出せよ」

「嫌です」

「お前に拒否権があると思ってんの?」

「嫌なものは嫌なんです!」

 泣き叫びながら必死で拒否をするいたいけで、でもどこかひ弱そうな少年。彼は同じ工藤高校の制服を着ていた。坊主頭に二本の剃り込みが入ったいかにもな野郎も、その高校の制服を着ていた。こっちは不良らしくシャツを腰から出したりしていて派手に着崩しているが。


「なんだよ、親から入学祝いとかでお金それなりにもらってんじゃねーの」

「もらってません」

「ウソつくな」

「ウソじゃないですって」

 僕はこんなやり取りを聞いた後、巻き込まれることを警戒して何もなしに通り過ぎようとした。でも、動けない。足が平行に並んだまま動かない。やっぱり、目先の非常事態を見過ごすなんて、野暮だ。その考えが覆ることは、多分僕のなかで一生ないんだ。


「おい、カツアゲ!ソイツから離れろ!」

 気がついたら僕は、不良のもとへ一直線に走り、蛮行を止めるべく一喝していた。奴はひ弱な少年を放すかわりに、こちらへ向かってきた。今度は僕の襟首を掴み、引きずり上げた。もうちょっとで足が完全に地面から離れちゃうレベルだ。


「早く逃げて!」

 僕は冷静に少年に呼びかけると、彼は一目散に走り去っていく。


「ほお、お前が身代わりになるってか?」

「うるさい!お前に、お前に渡す金など、ここには1円もない。お金が欲しいなら、バイトしろよ」

「んだと?」

 不良が明らかに不機嫌を表す。襟首を掴む腕にさらなる力が入るのを感じた。でも僕は引き下がらなかった。


「こんなに僕を持ち上げられるなら、工事現場とかの力仕事とか似合ってるんじゃない?」

 僕はやせ我慢代わりに笑いながら指摘した。


「うるせえ!」

 不良は僕を地面に下ろしたと思いきや、いきなり鼻っ柱に拳を打ち込んできた。痛みと精神的ダメージでそのまま動けなくなる。無情にも、あのときのパンツを見たときとは違う意味で、鼻の奥から赤い筋が流れた。


 そのとき、不良は僕のブレザーのポケットに手を突っ込んだ。不幸にもそこから財布が一気に引き抜かれていく。動けない僕を尻目に、財布が物色されてしまう。


「小銭はいいや、お札だけもらうから。3万円?昨日ハントした奴は10万円ぐらい持ってたんだけどねえ」

 金額のことでも嫌味を言われ、財布から鷲掴みにした小銭を思いっきり投げつけられた。屈辱に屈辱を重ねられる感覚はたまらなかった。

「ふざけるな!」

 僕は怒りに身を任せて立ち上がり、奴に向かっていった。しかし、奴は財布を掴んだままの手で強烈なボディブローを決めやがった。臓器を潰されんばかりの一撃を受け、僕は再び地面にうずくまった。


「さあて、撤収しますか」

「何してるの?」

 女子の声が唐突に割り込む。その顔には見覚えがあった。間違いない、あのとき濃厚な桃色と魅惑の桜色という鮮やかなコントラストが魅力的なパンツ……いや、禁断の聖域がスカートの奥から見えるや否や、僕に謎の微笑みを見せたあの女子だ。


「お金、返してあげなさい」

「ああ?女のくせに生意気だぞ」

「私に『生意気』と言うなら、人から盗んだのではなく、働いて稼いだお金、つまりバイトの給与明細を見せてからにしなさい」

 女子は独特な言い回しでカツアゲを論破にかかる。


「お前まで簡単にバイトとか言いやがって。世の中真面目に働いたら負けなんだよ。仕事で稼ごうと思っても、偉そうな上司や先輩にこき使われるだけ。どいつもこいつも平気で仕事しろなんて戯言押しつけやがって。なめてんじゃねーぞ」

 カツアゲは突如、女子のスカートを掴む。まずい、またあの聖域が!

 僕は咄嗟に目を伏せた。しかし聞こえてきた呻き声は男のものだった。恐る恐る顔を上げると、女子がカツアゲの腕を掴み、スカートめぐりを阻止していた。食い止める力が強すぎて、カツアゲが痛がっている。屈強な手が、スカートから離れていく。


「はい、返してもらいます」

 女子はカツアゲの腕をさらにひねり、上腕のあたりに肘鉄を落とした。奴の手を離れた財布がボトンと地面に落ちる。


「くそ、覚えてろよおおおおおっ!」

 カツアゲは捨て台詞を叫びながら逃げていった。僕はすぐさま、大事な財布を取り戻した。続いて財布の小銭入れを開き、ばら撒かれた硬貨を拾い集めていく。

「あの、小銭拾うの、手伝ってくれません?」

「助けてもらったんだからまず『ありがとう』じゃないの?」

 女子はクールな目つきで僕を諫めた。


「どうもありがとうございます」

 僕は有無を言わさぬオーラを感じながら彼女に頭を下げた。

「それじゃあ小銭拾いを手伝いましょう」

 僕と女子での共同作業が始まった。小銭を一枚残さず集めたいけど、この得体の知れない緊張感は何だ。


 僕は女子が脇に停めてあった自転車のもとで四つん這いになり、その下を確かめているのを見た。

「うわあ、こんなところに限って500円玉なんかが。運悪く見逃すところ」

 次の瞬間、そこそこレベル高めな風が路地を吹き抜けた。女子のスカートはまんまと風に遊ばれ、再びあの聖域をあらわにした。


 間違いない。ロマンを感じる濃厚なピンクと、咲きたての桜のようにうっすらとしたピンクが交互に混ざった、純粋なストライプ柄だ。

 ……なんで僕はこんなものを冷静に頭の中で解説しているんだ!?

「ああああああっ!」

 僕はパニックのあまり、人目をはばからず叫んでしまった。


「どうしたの?」

「恥ずかしい!」

「何が?」

「ごめんなさい、でも何でもないんですよ。なんかちょっと急に強い風が吹いたからびっくりしちゃっただけです」

「本当?」


「本当です。だから気にしないでください」

 僕は必死の愛想笑いで凌ごうとした。

「気になるわ。だってアンタ……」

「えっ?」

「鼻がすごいことになってる」


 どんな凄いことなんだ?僕はついつい、鼻の下に指をつけた。飾り気のない深紅の液がべっとりとついた。

「鼻血が出てる。両方の穴から。これやるからさっさと押さえて」

 女子は小銭を一旦地べたに置き、ポケットティッシュから紙を取り出すとロケット状にまとめ、僕に差し出した。えっ、これを受け取るの?僕が今から受け取らなきゃいけないの?だって、そしたら、彼女の手に触れてしまう。そんな経験ない。


「ほら、緊急事態なんでしょ?それともアンタは何?鼻血垂れ流したまま外歩くの平気なの?」

 まごまごしているうちにディスられた。僕は意を決してティッシュに手を伸ばす。でもその手は震えている。自分の手がこんなに震える日がくるなんて思わなかった……!


 女子は業を煮やしたか、僕の鼻に直接ティッシュを押し当てた!?

 夢か悪夢か現実かわからない世界のなかで僕はフリーズした。さらに女子はもうひとつのティッシュロケットを作成すると何のためらいもなく……。


 僕の鼻の穴に詰め込んだああああああああああ!


 これはただティッシュロケット2つが鼻に詰められただけじゃない。これは告知だ。僕の人生を揺るがす、いや僕を別人そのものに変えてしまう告知だ。これから僕は、目の前の女子により清らかなる童貞の魂を新たなる色に染められる。今の僕は僕でなくなってしまうんだ!


「とりあえずこれだけ拾った」

 女子が拾った小銭を差し出す。僕はなかばパニックになりつつも財布の小銭入れを開けたまま突き出し、「ここに入れて」というサインを送った。女子は戸惑いながら、そこに入れる。僕はさっきよりも急ぎながら残りの小銭が落ちていないかあたりを見回った。


「本当に大丈夫なの?」

「大丈夫、あと全部自分で探せるから」

「あっそう。じゃあ私、帰るね」

「うん、じゃあ」


 僕は苦笑いしながら、何事もなかったかのように去る彼女を見送った。

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