12. おはぎ(3)

 大陸に渡る数日前のその時、朝倉は自陣にいた。


 目の前には、朝倉と同じく小田家家臣団の一人にして友である男、今河正澄が立っている。その手に持っているのは血まみれの太刀。そして着込む鎧とその顔には、返り血がべっとりとついていた。


 そして今河正澄の足元には、小田信義の死体が転がっている。この戦の総大将にしてこの領土の君主、そして朝倉と正澄の主である。背中から一太刀で斬られており、本人は何もわからないまま絶命したのであろう。ただ、表情だけは『なぜ?』と問うていた。


「なぜだ正澄!!! なぜ信義様を斬った!? 裏切ったのかッ!!!」


 朝倉は今河正澄に叫んだ。左手は自身の太刀に添えられている。


 正澄は朝倉の目の前で、小田信義……自身の主を背後から斬った。他の家臣は全員戦場に出払っており、ここにいるのは小田信義と正澄、そしてたまたまその時本陣に戻っていた朝倉の三人だけだった。正澄は小田信義が自分に背中を見せたその瞬間、朝倉に勝るとも劣らない疾さの抜刀で、一刀のもと斬り伏せた。


 朝倉の問いに正澄は答えない。無表情で、ただ己の太刀についた血を拭う。


「なぁ朝倉。俺とともに来ぬか」

「……?」

「お主は殺すには惜しい。お主なら、きっとお館様のよき力となるだろう。共に泉澤に行かぬか」

「正澄キサマ……やはり敵方と……ッ」

「この戦。もとより勝敗は決している。この弱小の小田が、今勢いに乗って諸国を統一しつつある泉澤を退けられると、お主は本気で思っていたのか」

「それでも我らは戦わねばならん! 信義様が戦うと決めたのなら、我らはそれに従い、泉澤を退けねばならんのではないのかッ!!」

「……」

「違うか正澄! 友であるお前が、それを分からぬはずがないッ!!」


 朝倉の怒声を、正澄は涼しい顔で聞いていた。己が顔についた血を手で拭い、鎧についた血を乱暴にゴシゴシと拭い去るその様は、まるで朝倉の言葉に興味がないようにも見えた。


「答えろ正澄!! お前は信義様に忠義を誓ったのではないのか!?」

「忠義か……」

「一度主に仕えれば、死を賭して主に従う……それが忠義というものではないのか!?」

「ブッ……」

「……?」

「ブァハハハハハハハハハハハ!!!」


 突如、正澄は顔を醜く歪ませ、大笑いした。それを聞く朝倉の背筋に怖気が走るほどの冷たい笑い声が、二人だけの自陣に響く。戦場から聞こえる怒号や悲鳴すらかき消すほどの正澄の笑い声は、朝倉の耳に強大な重圧を与えた。


 ひとしきり大声で笑った後、正澄は血まみれの指で自身の目尻を拭いた。あまりに笑いすぎたせいなのか、その目はうっすらと涙で滲んでいた。


「ハッハッハッ……フッフ……はぁー……笑わせてくれるなぁ朝倉よ」

「何がだ!? 何がおかしい正澄!!」

「お主のそういうところよ」

「……?」

「お主も気付いておろう。この世は乱世。強き者が上にのし上がり、立ち塞がるものは主君であれ親兄弟であれ、容赦なく斬り伏せる……それが今の世よ」

「……ッ」

「分かるか朝倉。今の世は、強くなければ生き残れぬ。強くなければ……強い者に付き従わねば、生きて行けぬのだ」

「それは分かっている……だからこそ! 我らが主に忠義を尽すことに、意味があるのではないのかッ!!」


 正澄の言葉には、朝倉自身も納得せざるを得ない部分はあった。今の世は実力だけが物を言う下剋上の時代。強い者がのし上がり覇権を握る時代だ。自身が生き残るためなら、たとえ親兄弟や己が主でさえ、容赦なく潰し、のし上がる……朝倉家が没落したのも、そんな非情な戦乱の世に巻き込まれたからに他ならない。


 しかし、だからこそ朝倉は己の義を通したかった。いくら再興が朝倉家の悲願といえど、その人柄に触れ生涯をかけて仕えると心に決めた主を裏切ってまで、朝倉家を再興させる気など毛頭なかった。己が定めた道を外れてまで……主を裏切り、友を裏切り、過去の自分を裏切ってまで、汚く生き、そして悲願を成就しようという気持ちには、まったくならなかったのだ。


 故に朝倉は、正澄の誘いを拒絶した。己が仕える主は、小田信義様ただ一人。この方のために生き、命を賭して仕える……それが、この混迷した力だけの世界で、朝倉が定めた生きる道だった。


「ふっ……フハハ……」


 正澄は力なくほほえみ、そしてため息にも似た笑い声をこぼした。不思議とその笑みは、朝倉の心に、一抹の侘しさを印象づけた。


「ハッハッ……なぁ朝倉……」

「何だ!!」

「お主は純粋すぎる……その真っ直ぐな心が、時に羨ましい」

「……」

「聞け朝倉よ。俺には、今河家を存続させるという使命があるのだ」

「……」

「幼き頃より、父上に何度も説かれた。『何としても今河家を守れ。それがお前が生まれた理由だ』とな。俺が泉澤に付いたのは家を守るためよ。父上の教えに従い、家を守るために、小田を裏切り泉澤に付いたのだ」

「使命なら私にもある! 朝倉家を再興させるという悲願が……だが主を裏切ってまで……」

「それはお前に、まだそこまでの覚悟がないということだ。違うか?」

「違う!! ただ、己の道を踏み外してまで成就させる気にはなれんだけだ!!」

「それを覚悟がないと言っているのだ!!! それを成し遂げるためならば、己の主を斬り捨て、友であるお前から『裏切り者』と蔑まれ、新しい主とその家臣から『信用が置けぬ』と捨て石のように扱われようが一向にかまわぬ……怨敵に尻尾を振り己が額を地にこすりつけて頭を下げ、嘲笑の的となり泥水をすすってでも成就させる……それが!  俺にとって今河の存続でありお主にとっての朝倉の再興ではないのか!!? それこそが真の悲願というものではないのか!!」


 ハッとした朝倉は、正澄の顔を見た。目の周囲の返り血は、いつの間にか流れていた彼の涙の跡に沿ってテラテラと輝いている。その様が、まるで正澄が血の涙を流しているように、朝倉には見えた。


 不意に巨大な爆発音が鳴り、朝倉と正澄の身体を大きく揺さぶった。


「な……!?」

「始まったか……」


 正澄の背後に見える、小田の居城を見る。天守閣の一角から黒い煙が上がり、城が敵襲に晒されていることを朝倉に伝えていた。


「馬鹿な……この大戦の最中に、城にまで攻め入る兵力があるのか……ッ」

「今の泉澤の全力を持ってすれば、戦と城攻めを同時に展開することなど容易い。ましてや相手が小田なら、なおさらだ」


 その時、朝倉の頭をよぎった光景があった。


 それは、まだ自分が幼い頃……徳山に剣術を学び、そして朝倉家の再興と小田信義の側近として仕えることを夢見ていた、まだ年端も行かない少年だった頃の、自身の記憶。


――ふふ……そっかぁ〜……あさくらは、私の隣にいてくれるか……


「亜矢ッ!!!」


 そうである。あの城には、朝倉の幼馴染にして腐れ縁の姫、亜矢がいる。戦に出た自身の父親と朝倉を出迎えるために、今も城の中で待ち続けているのだ。


 朝倉は逸る気持ちのままに、その場から城に向けて駆けようとしたが、その前に正澄が立ちふさがる。


「行かせんぞ朝倉」

「退け正澄!! あの城には亜矢がいる!! 助けねばならん!!! 約束したのだッ!!!」

「将来に禍根を残さず泉澤の基盤をより盤石とするため、小田の血は残らず断て……そういうご命令だ」

「……!?」

「無論、亜矢姫も殺す。今頃は城内に泉澤の乱破衆が侵入し、亜矢姫の喉笛を搔き切らんと徘徊していることだろう」

「正澄……ッ!!!」

「姫を助けたくば、この俺を斬れ。……今ならまだ間に合うかもしれんぞ」

「……ッ」


 朝倉の意識が次第に熱を失い、周囲を冷静に認識しはじめた。周囲に味方はおらず、敵もいない。右手を腰にある己の太刀に持ってきて、必殺の抜刀術の構えを取った。戦場から聞こえる怒号と悲鳴も、城から聞こえる爆発音も何もかもが、朝倉の耳に届かなくなった。


 正澄もまた、己の太刀を上段に構えた。静かにゆっくりと持ち上げられた刀は、血まみれの刀身に陽の光を反射させ、赤黒く輝いている。


 朝倉の意識が、自身の認識の、その先へと走る。向かってくる正澄の足が、朝倉の剣の結界を侵食する……抜く……振り下ろされる……意識が再び朝倉の認識の元に戻ってきた。


「お主の覚悟……己の道を進み朝倉家を再興させ亜矢姫を守る……」

「……」

「その覚悟をここで見せよ。見事、俺を斬り伏せて見せよ」

「……」

「朝倉ぁぁああアアアアアッ!!!」


 上段の構えのまま、正澄が駆けてきた。朝倉の右手に力はまだ入らない。


 正澄の足が、朝倉の認識の結界線に踏み込んだ。その瞬間、朝倉の目に冷たく硬質な輝きが灯る。


 朝倉が太刀を抜き放ったその瞬間と、正澄がその太刀を振り下ろしたのは、ほぼ同時だった。



 親友の正澄を斬り捨てた後、朝倉は必死に城まで駆けた。正澄が撤退をする際に騎乗するつもりでいたと思われる早馬で駆ける。一秒でも早く城に駆けつけ、そして亜矢を助けるため……朝倉は息をするのも忘れ、ただひたすらに駆けた。


「ハッ……ハッ……クソッ……亜矢……ッ」


 朝倉の眼前に広がる小田の居城は、すでに瓦解寸前だった。度重なる砲撃によって、もはや天守閣はその体を成さないまでに崩れ落ちている。誰かが火を放ったのだろう。崩れた城のいたるところから、黒い煙が上がっている。その様は朝倉にとって、形として見える『小田家の最期』そのものであった。


 城内に侵入した朝倉を待っていたのは、城内に潜伏する泉澤方の忍び『乱破衆』と呼ばれる連中だった。彼らは崩れ落ちた天井や壁の裏側、瓦礫の向こう側に潜伏し、死角から次々と朝倉に襲いかかってくる。


 しかし、朝倉もまた歴戦の武士である。襲いくる乱破衆どもを、朝倉はことごとく斬り捨てた。距離をつめられれば抜刀で斬り伏せ、距離を取られれば刺突で胸を貫いた。背後を取られれば甲冑術で投げ捨てた後に刀を突き立て、あるいは逆に背後を取った後、頚椎を折るか喉を掻き切った。


 そうして亜矢を探しながら城内をさまよい、もはや崩れ落ちそうな天守閣に足を踏み入れたときだった。


「亜矢!」

「……?」

「亜矢ッ!!」


 たくさんの乱破衆どもと小姓たちの死体の中、朝倉は亜矢を見つけた。比較的損傷の少ない柱に、力なくぐったりともたれかかっていた。室内着の着物は血で赤黒く染まっている。右手には脇差を持ち、その脇差の刃にも乾いた血がまんべんなくこびりついていた。


 顔と髪も血で汚れており、その見事なまでにつやつやと輝いていた黒髪も、今はもう見る影もない。口からも血が垂れている。その理由は、遠目から眺める朝倉には分からない。息も絶え絶えで、浅い呼吸に合わせ、亜矢の胸は上下していた。


「亜矢!!」


 朝倉は亜矢の元に駆けつけ、彼女の肩を抱きかかえようとした。だが、朝倉が亜矢の体に触れた途端……


「……ッ!!!」


 亜矢の顔が、憤怒に歪んだ。


「この、下郎がッ……まだ来るかッ!」

「!?」


 そしてそのまま勢いをつけて立ち上がった。右手に持った脇差を振りかざし、喉の奥から絞り出した声を上げながら、亜矢は朝倉に襲いかかる。


「!?」

「おのれ下郎ッ!!!」

「ま、待て!」


 朝倉は思わず後ろに飛び、亜矢と距離を取った。亜矢の顔を見る。憤怒に歪んだ亜矢は目を閉じていて、そこからは血がダラダラと流れ出ていた。口からも血が垂れている。荒い息遣いをする度にまだ乾いてない血が唾液と混ざり、亜矢の口から飛沫となって飛んでいた。


 全身を見る。着物は誰のものかもわからない血で汚れきっている。左手は着物の袖から不自然にダランと垂れ下がっていて、まったく力が入っていない。


「もしやお前……目が見えておらんのか……?」

「フーッ……フーッ……!!」

「あ、亜矢……」

「寄るな下郎ッ!! 私は、身も心も朝倉兵庫の女じゃ!!!」

「!?」

「故に他の者が私に触れることは絶対に許さぬ!!! 性懲りもなく再び私の体に触れでもしてみよ! この脇差で、お主の喉を掻き切ってくれる!! それとも先程のように、肉を噛み千切られたいか!!!」


 口から血と唾液を吐き飛ばしながら、亜矢は必死に朝倉を牽制していた。それが誰であれ、朝倉以外が自分の身体に触れることは許さないという、とても強く、そして今にも消え入りそうな儚い気迫が、亜矢の身体からは発せられていた。


 血まみれの脇差を必死に振り回す亜矢の様子を目の前に突きつけられた朝倉。その目には、次第に涙が溜まってきた。こんな状態になっても襲いかかるすべてに抵抗し、自身の帰りを待ち続けた亜矢の姿が、朝倉の心に、強烈に焼き付けられた。


「亜矢!! 私だ!!! 朝倉だ!! 朝倉兵庫だ!!!」


 たまらず叫んだ。もう気を張らなくていい。脇差を振り回さなくとも、知らない男の肌に噛みつかなくてもいい。その思いを込め、自身の名前を、一心に叫び届けた。


 朝倉が叫んだ声は、怒りにまみれた亜矢の顔から、その歪みを取り去った。


「あさ……くら……?」

「そうだ私だ! 朝倉だ!」


 亜矢の右手から、脇差がボトリと落ちた。まるで憑き物でも落ちたかのように気が抜け、膝からぐしゃりと崩れ落ちる。朝倉はサッと亜矢のそばにかけより、倒れる亜矢の肩を抱きかかえた。


「あさくら、あさくら……」

「亜矢……ッ」


 亜矢の右手が、まるで探るように朝倉の顔を撫で回した。


「あさくら……ハハ……あさくらじゃ……この鼻、このほっぺ……あさくらじゃ……私の、あさくらじゃ……」

「亜矢……目はどうした……?」

「下郎どもに潰された……お前の顔はおろか何も見えぬ……真っ赤じゃ……」


 己の顔を撫で回す亜矢の手を取り、朝倉は改めて彼女の身体を見た。袖に隠れた亜矢の左手の状況がやっと掴めた。亜矢の左手は皮一枚でつながっており、今にもちぎれ落ちそうだった。


「亜矢……こんなになるまで……」

「ハハッ……私はあさくらの女ぞ。他の者には、絶対に許さぬ」

「初耳だぞ。いつの間に我らは結ばれた……?」

「ずっと昔じゃ……幼少の頃、私が初めてあさくらにおはぎを作ってやったあの日……あさくらは、覚えておらぬか?」


――もし、私のおはぎを食べたいのなら、ずっと私のそばにおれ!


「覚えている。あの日から亜矢は折りに触れ、私におはぎを作ってくれたな」

「あの日、私はお前のものになると決めた……お前が喜んでくれるのなら、お前の隣で、お前のために、おはぎを作り続けてやろうと思うたのじゃ」

「……」

「でも……」


 亜矢の左手がもぞもぞと動いた。二の腕からバッサリと切断されたその腕には、紐がキツく巻かれている。そのおかげなのか血はしっかりと止まっていた。


 亜矢の顔が歪んでいく。悔しそうに歯ぎしりをし、閉じているはずの目からは、血に滲んだ涙がとめどなく流れていた。


「許しておくれあさくら……すまぬ……あさくらぁ……」

「……なにがだ」

「この腕では……この目では……すまぬ……そなたにおはぎをつくってやることは……もう、叶わぬ……」

「……」

「くやしいよぉ……あさくらぁ……あさくらが好きじゃと言うてくれるのに……うまいと言うてくれるのに……もう、作れぬ。作ってやれぬ。くやしいよぉ……あさくらぁ……」

「……ッ」

「また……あさくらにうまいと言って欲しいよぉ……なぁあさくら……また、笑ってるあさくらが見たいよぉ……あさくら……あさくらぁ……!」


 たまらず、朝倉は亜矢の身体を抱きしめた。そして亜矢の額に自分の額を重ね、目を閉じる。もはや体の感覚が鈍っているのか、亜矢はそれには反応しない。ただ、無事な右手は、朝倉に呼応するように、彼の首に回された。


「何を言うか亜矢……ッ!」

「……?」

「お前と私の仲ではないか! 左手が無ければ、私がお前の左手になる! 私がお前の手になって、お前のおはぎを作ってやるわ!」

「……本当か? あさくらが、私の手になってくれるのか?」

「もちろんだ……ッ!」

「でも、私の目はもう、あさくらの顔を見ることは出来ぬぞ……?」

「目が見えぬというのなら、私がお前の目になる! お前の代わりに美しい景色を見て、それをお前に伝える!! 笑顔が見たいというなら、隣で大声で笑ってやる!!」

「そうか……ぷっ……まるで、本当の夫婦のようじゃ……」

「今更何を言う。お前が私の女だったのなら、私はずっとお前の男だったはずだ。違うか?」

「そっか……そう言ってくれるか……お前は、ずっと私の男だったのか……」

「我らはずっと、夫婦だったのだ亜矢」

「そっか……私とあさくらは、ずっと……夫婦だったのか……なら……」


 亜矢が、その潰された目を静かに、ゆっくりと開いた。少しだけ開かれた瞼のその向こう側は、血と涙で様子がわからない。ただ、朝倉の目には、亜矢の美しい茶色の瞳が、しっかりと映っていた。


「私の方から、三行半……じゃ」

「亜矢……?」

「あさくらには、もう……会いとう、ないっ。離縁じゃ。私に、付いて来なくて済むよう……離縁、してやる。私から、出ていけ……」

「意味が……わからんぞ……?」

「わからん……か……?」


 朝倉の目からいつの間にか流れていた涙を、亜矢の右手が優しく拭った。力のないその右手と亜矢の顔からは、普段の彼女から感じられる温かさは、もう失せている。


 亜矢は目を閉じ、そしてにっこりと微笑んだ。


「さらばじゃ朝倉兵庫。大義で、あった」

「あ、や……?」

「次に会うとき、我らは元の主従ぞ。その時は、お主の自慢の妻の話を……聞かせて、おくれ……」


 亜矢の手がぽとりと落ちた。着物も顔も血まみれ。口から血を流し、左腕も二の腕からバッサリとない。


 なのに。


「……」


 亜矢の顔は穏やかだ。微笑んですらいる。朝倉の胸の内で、『さらば』と己から三行半を突きつけた男の胸に頬を寄せて、穏やかに微笑んでいる。


「ん……っく……」


 もはや冷たくなった亜矢の頬に、朝倉は自分の顔をこすりつけた。驚くほど冷たい亜矢の顔は、微笑んだまま、ピクリとも動かない。


「っく……亜矢……私はまだ、お前のおはぎに、飽きておらんぞ……」


 朝倉の涙で、亜矢の顔の血が落ちた。そこから見える亜矢の肌は、すでに血色を失って青白い。


「なぁ……返事をしろ……腹が減った。あのおはぎを……いつものあの、ぶっさいくでうまいおはぎを、作ってくれ……亜矢……」


 亜矢は答えない。ただ、微笑んでいる。


「答えろォォオオオ!!! 亜矢ぁぁああああ!!!」


 亜矢は答えない。ただ、微笑んでいる。


「答えないかァァァアアア!!!」


 亜矢は答えない。


 ただ静かに、穏やかに微笑んでいるだけだった。



 それから、何時間かたった夕方ごろ。


 打ちひしがれた朝倉は、壊れた壁から夕日を見た。そこには、亜矢の身体から流れた血のように、真っ赤な陽の光があった。


「……」


 微笑んだまま動かない亜矢をその場に寝かせ、朝倉は天守閣を降り、城を出た。乗ってきた馬にまたがり、戦場に向かう。


 戦場に近づくにつれ、朝倉の鼻に届く臭いがあった。それは血の臭いと屍臭。これから自身が向かう戦場がかつてないほど凄惨で、そしてすでに勝敗が決していることを、その臭いが物語っている。


 だが朝倉の心は今、あらゆることに反応しなくなっていた。心の中の、もっとも敏感で、もっとも尊い部分を、朝倉はごっそりと失ったからだ。


 今はただ、戦の次第を見届けその目に焼き付けるために、朝倉は馬を走らせていた。

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