9. 手作りパン
夕食も終わり、デイジー姫が眠りについたその日の深夜のことである。
『明日は焼きたてのパンが食べたい』そう思ったアサクラは、夜中のうちにパン種を仕込んでおくべく、厨房にいた。
強力粉や牛乳、バターや卵などによって出来たパン種をこねる。元々が兵士だったアサクラの屈強かつしなやかな手によって、ボソボソだったパン種がまとまっていき、やがてひとかたまりの大きな種になった。アサクラは昼間の不毛な出来事を忘れるため、一心にパン種をこねた。
不意に、厨房にノックの音が鳴り響いた。
「誰だ」
アサクラが静かに問いかける。その問いに答えることなく、キイと静かにドアが開いた。
「……アサクラ様」
「バル太か」
ドアの向こう側にいたのはバル太だった。鎧は着ておらず、騎士団の平服を着込んでいる。バル太は何も言わず厨房に入り、腰掛けに腰を下ろした。
「今日は疲れました……」
「ずっと軍議だったらしいな。変な来客があったからだろう。すまなかった」
「あなたのせいではないでしょう。確かにジョージアさんには驚かされましたけど」
「まぁ、なぁ……」
ひとしきり笑い合う二人。バル太の笑顔が、心持ち影を落としているように、アサクラには見えた。軍議で疲れたのだろう……準備したお茶をバル太に差し出しながら、アサクラはそう思った。
「しかし驚きました。まさか3回もジョージアさんが乱入してくるとは」
「バル太に迷惑はかからなかったか?」
「大丈夫です。皆、気のいい連中です。笑ってくれました。ただ、3回目だけはその笑いも引きつってましたけど」
「……やつはなにをやらかした?」
「『貴公を出世させてやる! 手始めに騎士団長だ!!』といいながら剣を抜きました。団長を亡き者にすれば、繰り上がりで俺が団長になると踏んだのでしょう」
「あのアホ……」
「気持ちはうれしいのですが……彼女には、もうちょっと常識的に振る舞って欲しいものです」
「素直に“迷惑だ”と言ってもいいんだぞ」
「それはさすがにいいすぎですよアサクラ様」
アサクラから受け取ったお茶を、バル太は静かにすする。ホッと一息ついているところを見ると、軍議は相当に長く、そして負担が大きかったようだ。故郷のヒノモトでは領主の家臣団の一員として軍議に出る立場だったアサクラには、それが手にとるように理解できた。
アサクラはそのまま、パン種の仕込みを続けた。アサクラから見て、バル太が何か言い辛いことを言おうとしていることは分かっている。なら、自分はパン種を仕込み続けたほうが良い。その方が、バル太も口を開きやすかろう……そう判断したのだ。
そしてアサクラのその判断は、間違ってなかった。
「……アサクラ様」
ポツリと口ずさんだあと、バル太は疲れた笑みを向けながら、言いづらそうに口をもごもごと動かした。
「どうした?」
パン種をこねながら、アサクラは静かに問いかける。言うか言うまいか……そんな二択を選びそこねているように、バル太は口をもごもごと動かすだけだったが……やがて心を決めたように、バル太は静かに、しかしハッキリと、こう口にした。
「戦争になるかもしれません」
その言葉を聞いた瞬間、アサクラの手は、パン種をこねるのを止めた。
「……本当か」
「ええ。ジョージアさんがここに来た元凶の旅団、覚えてますか?」
「ああ。確か『あなたをひっくり返したくて旅団』だったか」
「はい。商店街へのイタズラすら困難を極めるあの旅団が、なぜジョージアさんを城に派遣出来たのか、やっと理由が分かりました」
「ほう。……しかし、それを一介の料理人の私に話してもいいのか?」
「ご冗談を。その気になれば、俺はおろか騎士団長すら安々と斬り伏せることが出来るあなたが……」
「買いかぶりすぎだ」
「そうしておきましょうか。大丈夫です。俺も副団長です。それぐらいの権限は持っています」
『あなたをひっくり返したくて旅団』は、バル太が先日説明を行ったとおり、商店街への嫌がらせすら困難を極めるほどの超弱小組織だ。人員も規模も、そしてその運営資金も微々たるものだ。
一方で、ジョージアは凄腕の傭兵である。どのような契約で旅団と手を組んだのかは知らないが、彼女を雇うのは、旅団のような超弱小組織の資金力では難しいだろう。無論、ジョージアにも事情聴取は行ったが、資金源までは彼女も把握していなかった。
旅団には、必ず後ろ盾がある……ジョージアの騒動からこっち、バル太率いる騎士団はずっと調査を行っていた。そして……
「アサクラ様。あなたは極東の方ですが、この国周辺の地勢はご存知ですか?」
「あまり知らんな。この国に流れ着いてからはずっとここで料理をしていたし」
「我が国の東に、マナハルという国があるのは?」
「商店街で話題に上がる程度だな。あそこのナツメヤシが美味しいと噂だ」
「大きな国です。ですが我が国との交流は無いに等しい。人的交流も少なければ、経済的なつながりもない。本当に、タダの隣国……我が国から見たマナハルとは、そんな国です」
「……」
「旅団の後ろ盾を探っていたところ、マナハルの王家が旅団に多額の資金援助をしていたことを突き止めました。マナハルは、我が国の内政を突き崩そうとしたのです」
「……」
「マナハルは、我が国にとって敵性勢力です」
お茶を見つめながら、微笑みを浮かべるバル太。その笑顔は、疲れが隠しきれていない。
そもそも、この国の行政の中枢が軍議を行っているという事実が、アサクラにはどうしても気になっていた。何か国家の重大な問題が起こったのではないだろうか……アサクラが昼間感じていた不安感の正体は、実はこれであった。
「……王はご存知なのか」
「ご存知です。先程報告を上げました」
「何と言っていた」
「『民の生活を守ることを第一に』とおっしゃっていました」
「言っている姿が目に浮かぶ」
「ええ。アサクラ様が想像している通りのお姿だと思いますよ」
「だろうな」
二人で声を揃え、クククと笑う。二人は王が好きだ。いやこの国の人間が皆、あの、情けなくて何も出来ない、でもそれでいてとても優しく人懐っこい王のことが好きなのだ。
「バル太」
「はい」
「私は、極東ですべてを棄ててこの地に来た。理由は分かるか」
「分かりません」
「戦ですべてを失ったからだ。守るべき主君も、愛すべき民も……家も、家族も、仲間も……何もかもを失った」
「そうだったんですか……」
「だから私は、ここに来た」
「……」
「言ってみれば、これは売られた喧嘩だ。我々自身の生活を守るため、避けられぬのなら刃を交えるだけだが……」
「……」
「戦は、嫌だな」
そこまで言うと、アサクラは再びパン種をこね始めた。先程までと同じ手付きでこねるアサクラの頭の中には、かつてのあの苦い思い出が何度も再生されていた。
――すまぬ……そなたにおはぎをつくってやることは……もう、叶わぬ……
そんな彼女の声が、何度も何度も繰り返される。故郷のヒノモトを離れてから何度も繰り返された幻聴。
その声はアサクラの心に焦燥感を植え付けた。あの日……アサクラ自身がすべてを失ったあの大きな戦の日と同じことが、ひょっとすると、新しい故郷とも言うべきこの地でも起きるかもしれない。あの日の悲劇が、この地でも繰り返されるのかもしれない。
繰り返すわけにいかない。すべてを失いすべてを棄てたあの苦い思いを、もう一度味わいたくない。
なにより、愛すべき王に気のいい仲間……この地には故郷と同じく、失いたくないものがたくさんある。それらを再び失いたくない……
だが、かつて守りたいものを守ることが出来なかった自分に一体何が出来るというのか……おのが主君も家も親友も、そして守りたかった幼馴染も……何一つ守ることが出来なかった自分に、一体何が出来るのか……この、アサクラの胸に渦巻く悔恨にも似た疑問は、その後しばらくの間、アサクラの心を蝕み続けた。
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