8. いかそうめん

 季節は残暑が厳しい夏の終り。アサクラとジョージアが買い出しのために外を歩けば、セミたちが一行に向かって飛翔してきて、そのたびにジョージアが悲鳴を上げて逃げ惑う、地獄のような季節である。


 今日もアサクラとジョージアは、王とその家族……つまりデイジー姫のために、せこせこと食事を作っている。現在作っているのは夕食だ。


 この日アサクラは、ジョージアからひんしゅくを買うのもいとわず、この地方ではゲテモノと言っても差し支えない扱いを受けている、ある食材を仕入れていた。その大量に仕入れた魚介類を、今、アサクラはさばいているところである。


「……貴公」

「ん?」

「本気か……?」

「私はいつも本気だ」

「いやしかし……これ、化け物だろう……?」

「何を言うか。これはうまい食い物だ」


 横でドン引きするジョージアの目は気にせず、次々にその魚介類をさばいていくアサクラ。その包丁の刃には一切の迷いがない。


 アサクラがジョージアのひんしゅくも気にせず仕入れた化け物……それは、この地で『クラーケンの子供』と揶揄される海産物、スルメイカである。ちょうど夏が旬のスルメイカを、アサクラはわざわざ生きたまま大量に仕入れた。それらを使って、今日の夕食のメインはスルメイカのイカそうめんにしようというのが、アサクラの算段だ。


 ジョージアが顔をしかめる中、アサクラは実に鮮やかな手付きでイカをさばいていく。ゲソと胴体を分け、ゲソから墨袋を取り、胴体から耳を外して、皮を剥がしていく。その手付きは実に鮮やかだ。


「しかし貴公……これ、ホントにうまいのか?」


 そんなアサクラの鮮やかな手付きを、ジョージアは眉間にシワを寄せて眺めている。口を押さえて怪訝な顔を向ける。きっと心の中で、アサクラに対する不信が渦巻いていることだろう。


 そんなことはアサクラも分かっている。この土地ではイカは食べない。未知の食材には誰しもが及び足になるものだ。ましてや『怪物の子』などと揶揄されているものならば。だからアサクラも、ジョージアのこの態度を責めるつもりはない。


 だが、いくら腕がへっぽこといえど、ジョージアもいち料理人である。いずれは一人前に育ってほしい……そのためには、あらゆる食材を知り尽くす必要がある。そう考えたアサクラは、皮を剥がしたイカの耳を一枚、ジョージアに差し出した。


「……ん」

「……なんだ?」

「食ってみろ」

「いやだ」

「だめだ食え」

「なぜだ!? 私に化け物を食わせるとは一体どういうつもりだ貴公!?」

「いいから食ってみろって」

「……ハッ!? まさか貴公が三十路近くになっても結婚出来ない理由は、相方に化け物を食わせるというこの上なくハードコアな変態特殊性癖が原因だったのか……!?」

「お前のその変な方向に物事を妄想していく性癖は直したほうがいいぞ。いいから食ってみろ」


 アサクラから差し出されたイカの耳を、まるでばっちいものでもつまむかのように受け取るジョージア。イカの耳はキレイに皮が剥がれているため、透明に近い白色をしていてとてもキレイだ。


「……では……ふんうっ……ッ!!!」


 覚悟を決めたのか、グッと目を閉じて一気に口に含む。いやいやながらイカの耳を2、3回噛み締めたところあたりから、ジョージアの雰囲気が変わってきたことを、アサクラの眼差しは見逃さなかった。


「んー……?」


 しばらくの間、くにくにと口の中のイカの耳を堪能し、ジョージアはそれをごきゅっと飲み込んだ。その顔に浮かんでいたのは、戸惑いだった。


「……なぁ貴公」

「ん?」

「私の味覚はおかしくなったのだろうか?」

「どうしてだ?」

「クラーケンの子供がうまい」

「失礼なヤツだなお前は」


 どうやらジョージアもイカの美味しさに気がついたようだ。ホッとため息をついたアサクラは、引き続き目の前のイカをさばく作業に集中することにした。


 アサクラが、白に近い透明のイカの胴体を広げ、すいすいと細く切っていた、その時である。


「アサクラッ!!!」


 今日もデイジー姫が、毎度のごとくドアをドバンと開き、仁王立ちしていた。いつもなら鬼のような形相でアサクラの耳に怒声を刺してくるはずなのだが……今日は顔も穏やかだし、張り上げる声に緊張感も籠もっていない。


「お前か」

「ハッハッハーッ。今はお昼すぎ。勤勉なアサクラであれば、そろそろ夕食の準備でもしているだろう……ならば嫌がらせのチャンスと思い、厨房まで足を運びましたっ!」

「……今日の晩飯はお前だけ白米オンリーにするぞ」

「すみませんアサクラ様ごめんなさいもうしません許して下さい」


 といつもの通りの憎まれ口の叩きあいを行った後、デイジー姫はアサクラの手元をチラと見た。白く透き通ったイカの身が、アサクラの手によって極細のイカそうめんへと変わっていく様が見て取れる。


「おや。今日の晩ごはんはクラーケンですか」

「クラーケンて言うな。これはイカだと言ったろう?」

「イカだろうがタコだろうが、クラーケンであることに変わりはありませんよ?」

「なぜこんなうまいものを化け物というのか……お前らの文化は相変わらずわからん」

「とはいえ楽しみですねー」

「姫はクラーケンに拒否反応は示されないのか」

「はじめて見たときはドン引きしましたけどね。食べてみると意外と美味しいので、私は好きですよ。透き通っててキレイですし」


 そう言って、デイジー姫は舌なめずりをする。思い出の中のイカそうめんの味を反芻しているのだろうか。彼女の口は半開きにだらしなく開いていて、今にもよだれがたれそうになっていた。


 ここで、アサクラはフとあることに気付いた。


 いつもなら、デイジー姫がここに来るときは、いつもバル太にイタズラをやらかし、それが本人に見つかって逃亡を図っているときだった。


 それが今日は、どうやらまだイタズラを行っていないらしい。いつものように追い詰められて切羽詰まった様子もなければ、いつもならそろそろやってくるはずのバル太も今日はやってこない。


 アサクラの胸に、少しだけ不快な風が吹いた。アサクラが感じなくなって久しいこの不快感……これは、ヒノモトにいたときによく感じていたものだ。


「……姫」

「はい?」

「今日はバル太へのイタズラはどうした?」

「それが今日は忙しいらしいんですよねー。イタズラをしかけようにも、どこにいるかわからなかったんですよ」

「ほう……」

「それで騎士団の連中に白状させたら、どうも軍議が長引いているらしくて。今日はずっと姿を見せてないそうです」

「なるほど」


 アサクラの胸を抜ける風の勢いが、少し強くなった。バル太が出席している軍議が長引いている……その事実が何を意味するか、アサクラには心当たりがあった。


 そして、『バル太不在』の事実を聞いて、胸の内に気持ち悪い風が吹き抜ける人物が、ここにはもうひとりいる。


「そうか……バル太さまは今日はいらっしゃらないのか……」


 ジョージアである。がっくりと肩を落とし、うつむいて落ち込む今のジョージアからは、数分前にアサクラに楯突いていた勢いが微塵も感じられない。


「なんですかなんですか? バル太に会えなくて寂しいんですか? ニチャア……」


 そんなジョージアの様子を見て、デイジー姫の顔が醜く歪む。


「ああ……私は毎日バル太さまにお会いすることを楽しみにここに来ているからな……」

「あらー。完全に恋する乙女ではないですかジョージアぁー」

「ここにいれば、騎士団に入るよりもバル太さまのおそばにいられる……そう思って料理人になったのに……」

「おい。今なんか聞き捨てならない言葉を聞いた気がするぞ」


 そうである。実はジョージアは、あの『あなたをひっくり返したくて旅団』を一人で壊滅まで追い込んだ腕前を買われ、実は騎士団にスカウトされていたのだ。


 だがジョージアは……


――いや、私は料理人として雇われた以上、その職を全うするつもりだ


 と言い放ち、騎士団への加入を辞退して、料理人見習いとしてアサクラの下についた。


 ジョージアの言葉を聞いたとき、アサクラはジョージアのそのプロ意識の高さに関心したものなのだが……


「確かに、騎士団の下っ端にいるよりはアサクラの下で料理人としてここにいたほうが、バル太との接点は増えますからねぇ。世間話もしやすいし」

「ジョージアにとってこの厨房はその程度の存在でしかないのか……」

「まぁまぁ。愛する者ともっと仲良くなりたい……そばにいたいと思うのは、女の子の自然な気持ちですよアサクラ」

「姫……」


 と女心に理解を示すデイジー姫だが、そもそもこの女に女心というものがあったのかということ自体に、アサクラは驚いていた。


「そんなネタとしか思えな……げふんっ。純粋な理由でアサクラの下についた気持ち……私は理解していますよジョージア?」

「姫……恐れ多いッ!」

「これからも、その純粋な気持ちのまま、私のおも……げふんっ……このアサクラの元で料理人として頑張ってくださいね?」

「は、ははぁーッ」


 とこんな具合で、(表面上だけだが)デイジー姫はジョージアを励まし、ジョージアもそんなデイジー姫に尊敬の眼差しを向けていた。その様子を間近で見ているアサクラの頭に、偏頭痛というダメージを継続的に与えながら。


「……ッ」

「? どうしましたアサクラ?」

「貴公は頭痛持ちか」

「お前らのせいだと何度言えば分かる」

「「?」」

「……」

「それはそれとして……バル太さまが来られないのは寂しいものだ……」

「軍議が長引いてるから仕方ないですよねぇ」

「今日のところは我慢するしかないな」

「バル太さまぁ……しょぼーん」


 改めてがっくりと肩を落とし、うつむいて落ち込むジョージア。その八の字眉毛を見て、アサクラは笑いがふきだそうになるのを必死にこらえた。その隣では、同じくデイジー姫が口を押さえて笑いをこらえている。アサクラとデイジー姫……二人はまったく同じ動きで、ジョージアの不憫をあざ笑ってしまっていた。


「「ぶふっ……」」

「こらえきれてないぞ貴公ら」

「すまん……つい……」

「いや……あなたのことを思うと不憫で……ぶぶっ……」

「とても不憫に思っている者の反応ではないぞ姫……」


 ひとしきりジョージアの不幸をあざ笑った後、デイジー姫が急にキリリと顔を引き締めた。……その顔はアサクラから見ると、なにか良からぬことを企んでいるようにしか見えないが。


「ところでジョージア。あなたはバル太を待つだけなのですか?」

「待つだけ……とは?」

「言葉のままの意味です。あなたはただ、ここでバル太が偶然やってくるのを待つだけの女なのですか?」

「!?」


 ジョージアがハッとした。そしてその様子を見守るデイジー姫の口の端がほんの少しだけつり上がったことを、アサクラの目は見逃さなかった。


「つまり姫は……自分からバル太さまの元へ向かえと、そうおっしゃるのか!?」

「そのとおりですジョージア。たとえどのような障壁があろうとも、愛する男の元へ向かい、そして隣で見守る……それが女というものではないでしょうか」

「確かに……!!」


 確かに! ではない。まるで悟りを開いたかのように晴れ晴れとし始めるジョージアの顔に反比例して、アサクラの顔に虚無が広がっていく……。


「さぁ行くのですジョージア! 軍議がどこで行われているか分かりますか?」

「わからん! だがどうとでも調べられる!!」

「わかりました。ではあなたの気持ちを組み、あえて場所は教えません。……行きなさいジョージア!!! 愛するバル太の元へとッ!!!」

「ああ! 礼を言わせていただくぞ姫!!! あなたに言葉をかけられなければ、私はここでバル太さまを待ち続ける弱い女のままだった!!!」


 そう言うやいなや、深々とデイジー姫に一礼したジョージアは慌ただしく厨房から出て行った。あとに残ったのは、ニチャリといやらしい笑みを浮かべるデイジー姫と、ただひたすら虚無を浮かべるアサクラの二人のみだ。


「……姫」

「何ですか? ニチャア……」

「たとえ腕がたつといえどもジョージアは料理人だ」

「ですねぇ。ニチャア……」

「そんなあいつが、軍議に参加出来るのか?」

「出来るわけがないでしょうねぇ。ニチャア……」

「……」


 十数分後。意気消沈して肩をがっくりと落としたジョージアが力なく厨房に戻ってきた。そのさまを見て、デイジー姫が再度吹いたのは言うまでもない。


「姫……ダメだった……」

「ぶふっ……!!」

「軍議に参加出来るのは騎士団の部隊長クラスと大臣、そして議員だけだそうだ……」

「……一般人のお前が軍議に参加できると、お前は本気で思ったのか」

「まさか……だがその障壁を乗り越えてこそ、バル太さまのおそばにいられると思ったのだ……」

「……」

「アカン……おふっ……!!?」


 ジョージアから聞くところによると、軍議が開かれている会議室はすぐに分かったそうだ。その会議室前には見張りは特になかったらしく、安々と会議室に入ることが出来たとのことだ。


『バル太さま!!!』

『『『『『『!!?』』』』』』

『!? ジョージアさん!!?』

『このジョージア、もはや厨房でただあなたを待つことなど出来ぬ!!! あなたのおそばに、一秒でも長くッ!!!』


 そう言ってバル太の隣に行こうとしたところ、衛兵に捕らえられ、会議室から追い出されたとのことだ。


「お前、正々堂々としすぎだろ……?」

「私の覚悟をバル太さまに知っていただきたかったのだ。キリッ」

「やっばい……この子おもしろ……ぶふっ……ッ!?」


 キリリと顔を引き締めるジョージアの顔は、アサクラの心に塞ぎ難い空虚な穴を開けた。


「……」

「……貴公どうした?」

「いや……あとで上長の私の元に苦情が来そうでな……」

「?」

「ブフッ……ふぅ……ジョージア? キリッ」


 デイジー姫が落ち着いたようだ。再びキリリと顔をさせ……口の端っこが少しだけつり上がっているが……ジョージアの顔を見る。その眼差しはまっすぐにジョージアを射抜いており、見るものが見れば、その美しい眼差しに心奪われるであろう。その眼差しの真意に、アサクラは気付いているが……


「ジョージア。まさかこれで終わりではありませんよね?」

「もちろんだ」

「では今度は追い出されないような作戦を考えましょう。そうですね……差し入れとかどうですか?」

「差し入れ?」

「ええ。軍議も長くなってきました。ここらで厨房からの差し入れと称してなにか食べ物を持っていくということにすれば、バル太のそばにいられるのではないですか?」

「確かに……!!」


 酷いデジャブがアサクラを襲う。先程の悲劇がふたたび繰り返されるのかと、アサクラは質量が増加した自分の頭を抱えた。


「アサクラ!」

「なんだジョージア……今日も頭痛がひどい……」

「バル太さまのために何か作ってくれ!!」

「お前らの無謀な作戦に私を巻き込もうとするな」

「では私は一体何を持っていけばよいのだ!!?」

「知らん! 自分で作れよお前だって料理人だろうが!」

「貴公だって私の料理の腕は知っているだろうが!!!」

「……ジョージア。一つだけすべてを解決出来るすべがあります」

「!? ホントか姫!? 教えてくれ!!」

「……あなた自身が差し入れになることです!!!」

「!?」


 あまりに訳のわからないデイジー姫の提案に、アサクラは言葉の真意を問いただそうとしたのだが……


「それだ……!!」


 ジョージアのこの言葉を聞いて、アサクラは考えることをやめた。二人の中で共通認識があればそれでいい……自分が巻き込まれなければそれでいい……今、アサクラの心はすべてへの諦めが包み込んでしまっていた。


「ジョージア……あなた自身が差し入れになれば、軍議の出席者も認めざるを得ないでしょう。頭にかわいいリボンでも巻いて、『私が差し入れです!!!』とでもいえば、バル太も喜ぶに違いありません!」

「なるほど! 姫は冴えている!! さすが姫だ!!」

「……今日はいい天気だなぁ」

「では行きなさいジョージア!! 愛する男、バル太の隣で幸せを手に入れるために!!」

「分かった行ってくる!!!」


 そうして、再び気力を取り戻したジョージアは、力強い足取りで厨房から出て行った。


 そんなジョージアの背中を見送るアサクラとデイジー姫。姫は相変わらず凶悪な笑みを浮かべ、アサクラは先程以上の虚無を身にまといながら。


「……なぁ姫よ」

「なんですか。ニチャア……」

「あいつで遊ぶのもほどほどにしてくれないか」

「自分で考えることもせず、私の言うことを鵜呑みにする方が悪いのです。ニチャア……」

「……」


 十数分後、頭に真っ赤でポップで大きなリボンを巻いたジョージアが、意気消沈して戻ってきた。


「ダメだった……」

「ダメ……ぶっ……でしたか……んっく……」

「……」


 アサクラはもはや言葉をかける気力すら無くなってしまった。ただひたすら、無表情でジョージアを見守ることしか出来なかった。その、どう贔屓目に見ても似合っているとは言い難いポップでキュートなリボンが、アサクラの心を沈痛へといざなう。


 一方のデイジー姫の方はと言うと、もはや吹き出すのを隠してすらいない。がっくりと肩を落とし、八の字眉毛で泣きそうな表情を浮かべるジョージアを見ながら、ぶふぶふと吹き出してしまっている。その様子は、アサクラの脳裏に、厩舎で飼っている可愛らしい子豚を彷彿とさせた。本人は可愛らしくなどないが。


 意気消沈しているジョージア曰く……一度自分の部屋に戻り真っ赤なリボンを頭につけた彼女は、再び会議室に向かいドアを勢いよく開いたそうだ。


『バル太さま!!!』

『『『『『『『!!?』』』』』』』

『ジョージアさん!? また来たんですか!!?』

『バル太さま!! 長い軍議でそろそろお疲れのはずだ!! そこで、あなたに差し入れを持ってきた!!!』

『さしいれ……? でも、そんなのどこにもないですが……?』

『いや、ある!』

『?』

『私だ!! 私自身が差し入れだ!!!』

『は!?』

『さあ食べろ!!! 私を貪り食え!!!』


 そんなやりとりのあと、ふたたび駆けつけた衛兵たちによって軍議から叩き出されたと、ジョージアは泣きそうな顔を答えていた。


「ちょっと……おもしろすぎでしょ……ぶふっ……!!」

「……ちなみに、バル太自身はどんな顔をしてた?」

「ドン引きしていた……」

「当たり前だろうか! もっとちゃんと考えろ!!! なぜ常識的に考えないのだ!!!」

「だって……こうすればバル太さまも喜ぶと思ったからやったのに……」


 アサクラの叱責が少し効いたのか、ジョージアは八の字眉毛のまま、口をとがらせこう答える。


「ぶふっ……ジョージアさん……オフッ」

「姫……申し訳ない……せっかくあなたは色々考えてくださっているのに、私が不甲斐ないばかりに、そのチャンスをことごとくフイにしている……」

「いえ……んっく……あなたのそのくじけない心は、私もおもしろ……げふんっ……尊敬していますよ?」

「姫……!!」

「んっく……」

「……」


 アサクラは二人を理解することをやめた。先程から強い虚無感を胸に秘めるアサクラの耳には、そろそろ二人の言葉が届かなくなってきたらしい。二人が何かを話していることは分かるが、それが何を意味しているのかさっぱりわからないからだ。


 今、アサクラから見たデイジー姫とジョージアは、ちょうど猫のコロニーで何かを話し合っている猫たちに似ていた。何かを話し合っていることは分かるが、猫語がわからないゆえに、猫たちが何を話しているのかわからない……


「もう一度よく考えましょう。何をすればバル太が喜ぶのか。ニチャア……」

「そうだな。……おいアサクラ。殿方がうれしいことって何だ」

「……」

「? 何を呆けているのだ?」


 そんな状況に陥っているため、ジョージアが自分に語りかけていることに気づくのに、若干のタイムラグが必要だった。ジョージアから声をかけられたアサクラは、数秒ポカンと口を開けたままジョージアを見つめたあと、ハッとして口を開いた。


「……私を巻き込むなと言ったはずだぞ」

「お前は困り果てる部下を助けようとは思わんのか」

「酷い上司ですねアサクラ。そんなことではジョージアを安心して預けることは出来ませんよ?」

「そんな心づもりで部下を導くなど聞いて呆れる。恥を知れ貴公」


 だが、やっと会話の意味がわかったと思えば、自身に降りかかる火の粉を払っただけでこの言われよう……アサクラの心に、かつて無いほどの怒りがこみ上げてくるが、そこはグッとこらえる。


 物理的に無理なことを提案すれば、二人は諦めるかもしれない……アサクラはそう思い立った。


「そうだなぁ……膝枕して耳掃除とかしてやれば、バル太も喜んでくれるかもしれんぞ?」


 そう言えば、『それは無理だな』『仕方がない諦めよう』となるかもしれない……そんな淡い期待を込めたアサクラだったのだが……


「はぁー……軍議の最中に膝枕なんか出来るわけがないではないですかアサクラぁ」

「そうだぞ常識で考えてみろ。軍議の最中に女から膝枕だなんて、お前はバル太さまに恥をかかせる気か」

「!?」

「そもそも耳の中を掃除するなど聞いたことがありません。人に自分の耳の中を触らせるだなんて恐ろしくてできませんよ」

「一体どんなどえむプレイだ。これは貴公の趣味なのか。貴公はとんだ変態だな。まぁクラーケンのような化け物を人に無理矢理食べさせる時点で、常識はずれの凄まじいハードコアな変態であることは分かっていたが……ハァ……」

「耳掃除を提案しただけでまさかそこまで罵倒されるとは思わなかった……」

「まったく……百歩譲って変態なことには目をつむりますから、アサクラももっと真剣に考えてくださいよ」

「そのとおりだ。恥を知れ貴公」


 まさかここまで罵倒されるとは思ってなかった。これ以上は何を言っても無駄だと、アサクラは心を閉ざした。


「……そういえば、聞いたことがあります」

「何をだ、姫?」

「男の人は、出世をして成り上がっていくと、そこはかとない喜びを感じるものだと……!!」


 しかしいくら心を閉ざしたアサクラではあっても、ふたりの不毛なやりとりは嫌でも耳に入ってくる。このやり取りを聞いたとき、アサクラの心に、薄ら寒い木枯らしが吹き始めた。自身の膝枕から耳掃除のコンボはあれだけ否定されたのに、それ以上に不可解で意味のわからない提案がなされるとは……


「確かに……!!」


 そしてそれに同調するジョージアの一言も、アサクラの心のささくれをさらに逆撫でした。その痛みは、アサクラの胸にズキズキと鋭く刺さっていく……。


「確かに殿方は出世がうれしいと聞くな!!」

「そうでしょう? ここでバル太を出世させれば……」

「バル太さまは喜んで私を軍議に招き入れてくれる……そういうことだな姫よ!?」

「そのとおりです! そのとおりですジョージア!!」


 二人のそんな威勢のよい会話が聞こえてくる。もはや心を閉ざしたアサクラには、それらがどこか遠い世界から聞こえる、別世界からのノイズのように聞こえた。


「では行ってくる!! バル太さまをすぐに出世させればよいのだな!!」

「そうです!! がんばりなさいジョージア!!!」


 そして、三度繰り返されたそんな不毛なやり取りの後、ジョージアはまたもや力強い足取りで厨房を後にした。その様を見守るデイジー姫がニチャリと凶悪な笑みを浮かべる。そしてアサクラの心にはもはや秋風ではなく冬のごとき不毛で冷たい風が吹きすさんでいた。


「クックックッ……ニチャア……」

「ジョージア、何をするつもりなんだろうなぁ……」

「わかりませんねぇ……クックックッ……」

「……」


 その数十分後、意気消沈して肩をがっくりと落としたジョージアが、トボトボと厨房に戻ってきたのは言うまでもない。その姿を見たデイジー姫は、三度吹き出す笑いをこらえ、アサクラはこの世の悪意に蝕まれていく自身の心の悲鳴を感じずにはいられなかった。


 ジョージアが何をしたのか……それをアサクラが知るのは、深夜になってからのことだった。

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