2. ぜんざい

「デイジー姫。ちょっとこっちに来てくれる?」

「はいお父様」


 王城、謁見の間。宮廷料理人として王城に雇われることとなったアサクラは、この日、後に宿敵といっても差し支えない関係となる女デイジー姫と、初めて顔を合わせた。


 玉座に座る王様に促され、デイジー姫はひざまずくアサクラの前に進み出た。歳は16歳だとアサクラは聞いているが、その年齢の割に目つきはキッとして意志が強い。澄んだ湖のように青い瞳と、キラキラと輝くクリーム色の長い髪が、とても目を引く。


「デイジー姫。紹介しよう。彼がこの城の料理人となった、アサクラ・ヒョウゴだよ」

「まぁ。この国始まって以来の宮廷料理人なのですね?」

「ハッ。以後、よろしくお願い申し上げます」

「なんでも極東からはるばる我が国まで旅をしてきたそうだよ」

「なるほど。それでこの国では珍しい黒髪と茶色の瞳なのですね?」

「左様でございます」

「でも、あなたの黒髪はとても美しいですよアサクラ?」

「恐悦至極に存じます……姫も、美しい髪と、瞳で……」

「ありがとうアサクラ」


 国王の説明を受け、デイジー姫は年相応に興味津々な表情でアサクラに話しかける。その様に、後の横暴さや傍若無人っぷりは感じることはなかった。


 国王の説明によると、アサクラが宮廷料理人となるまでは、この国には王様お付きの料理人というのは存在しなかったらしい。なんでも、食事の際には適当にテイクアウトや店屋物を食べていたのだとか。一国一城の主がそれでいいのかとアサクラは疑問に思った。お抱えの料理番の者に食事を作らせ、しかも毒味を何度も行ってはじめて口にしていたかつてのアサクラの主君とは、まったく異なる警戒心の無さだ。


「ではアサクラ、この国で存分に料理に励んでちょうだい」

「かたじけのうございます。料理など嗜む程度しかしたことはございませぬが、王のため、この腕存分にふるいましょう」

「そんなに肩肘張らなくてもいいのに……そんな扱いされたら、予は泣いちゃうよ……? 予とアサクラの仲じゃないの。もっとフランクに話してよぅ」

「いえ、やはり新しい主である以上、先日のように無礼を働くわけには……」

「えー……頼むよアサクラぁー……王である予がお願いしてるのにダメなの……? 頭が低いよぅアサクラぁ……」

「は、ハハァッ……」

「まぁまぁ父上。しかしアサクラもよい心がけですね。あなたのその心がけ、プロ意識を感じて私は好きですよ?」

「ハハァッ……」


 思いもかけぬ称賛を初対面の姫(しかも美少女)から受け、アサクラは恐縮しながら、うつむいていた顔を上げた。


 その時だ。


「……」

「……」

「……ニチャア」

「!?」


 隣で佇む国王からは見えない角度で、デイジー姫がほくそ笑んでいた。しかも、恐ろしく凶悪な笑みだ。広角を引き裂かれたかと思えるほど釣り上げ、ニチャアというオノマトペが聞こえてきそうなその笑顔は、今までアサクラが見てきたどんなものよりも凶暴で、恐ろしい。


「んん? アサクラ? どうかしたの?」


 国王がアサクラの様子に気がついた。異国の、しかも元傭兵といういやしい身分のアサクラに対しても、優しく、そして心配そうに声をかける。それが演技ではないことは、アサクラの顔を覗き込む彼の表情からも分かる。冷や汗を垂らしながら困り果てたような顔で覗き込んでくるその様は、彼が嘘や演技ではなく、本気でアサクラを心配していることをよく表している。後に『楽園の管理者』『史上最も称賛されるべき無能』と褒め称えられた人柄をよく表した表情だ。


「……な、なんでもございませぬ」

「そぉ? その割には、なんか顔真っ青だけど……」

「まぁまぁお父様。よいではないですか。彼自身がなんでもないと言っているのですから。ニチャァ」

「そうかなぁデイジー?」

「ええ。極東の者は、礼儀正しく主に対し忠実と伺ったことがあります。きっとその矜持が、アサクラをそうさせているのでしょう。ニチャァ……」

「……」

「そっかー。まぁ調子悪かったりしたら、ちゃんと予に言ってね? アサクラに何かあったら、予は泣いちゃうからね?」

「は、ハハァッ」

「クックックッ……」


 オロオロと本気でアサクラを心配する国王のその横で佇むデイジー姫は、最後まで、その凶悪な含み笑いをアサクラに向け続けていた。その様子を見て、アサクラの生存本能が『この女はマズい』と警鐘を鳴らしていたのは、言うまでもなかった。


……


…………


………………


「……忌まわしい過去を思い出した」


 土鍋で火にかけた小豆にザラメ砂糖を入れたアサクラは、しゃもじでそれをかき混ぜながら、苦虫を噛み潰した表情で冷や汗を垂らした。そのままひとつまみの塩を投入し、止まらない冷や汗を手ぬぐいでぬぐい、鍋の中の小豆をかき混ぜた。


 今は冬。アサクラは現在、午後三時のおやつとして国王から『アサクラぁ……予はぜんざいが食べたいよぉ』とおねだりされ、こうして小豆を煮ているさなかだ。


 おかげでお昼辺りからずっと火の前にいるため、冬だというのに熱くて仕方がない。額に汗が溜まる。アサクラはその都度、故郷から持ってきた手ぬぐいで汗を拭うのだが……デイジー姫との初対面の日を思い出したその瞬間から、額の汗が冷や汗に変わってしまったことを、アサクラは自覚していた。


 煮ている小豆の水分がだいぶ無くなり、いい塩梅に仕上がってきた。アサクラは土鍋からお玉で小豆を一人分すくうと、それをお椀につぐ。あとは準備している白くて小さな、シラタマと呼ばれる玉を2つほど投入すれば完成だ。前もって準備していたシラタマが入ったボウルに、アサクラが手を伸ばした、その時だ。


「アサクラっ!!!」


 厨房のドアが勢いよくドバンと開いた。悪寒を感じたアサクラがドアを振り返ると、そこにいたのは……


「ハァッ……ハァッ……」

「またお前か……姫……」


 デイジー姫である。毎度のことながら、美しいブルーの瞳をたたえたその顔を迫りくるプレッシャーで歪ませ、ハァハァと息を切らせている。


 これはまたろくでもないいたずらをやってきた……アサクラはそう思い、ため息をついて肩をすくめた。


「ハァッ……ハァッ……」

「今度はどこで何をやってきた?」

「そんなことよりもアサクラっ!!」

「ん?」

「か、隠れさせなさいッ!!!」


 アサクラが呆れて問いただすよりも、デイジー姫は早く動く。周囲をキョロキョロと見回し、古い木製の食料貯蔵庫のドアがデイジー姫の視界に入った。


 これは、かつて古の大魔法使いが『かき氷食べたい……』と言っておのが魔法を駆使して作り上げたマジックアイテムの一つ。扉を開いて中に入ると、食料の貯蔵に適切な低温が保たれており、まだ調理をしていない食料でも、長期間保存しておくことができるすぐれものだ。


 また、貯蔵庫の中は人が数人入り込めるほどの広さであり、一画には氷や氷結したものも保存できる、氷点下の温度に保たれた区画もある。


「……ッ!!!」


 貯蔵庫の存在を確認したデイジー姫は、自身が履いているロングスカートの裾を両手で持ち上げ、そのまま貯蔵庫まで一目散にバヒューンとかけていく。ドアを開き、ひょいっと中に入ってボフッとドアを閉じるその一連の動作を、デイジー姫は約0.2秒で完遂させた。


「……」


 あとに残ったアサクラは、怒りとも悲しみとも憤りとも困惑とも形容出来ない複雑な表情で、貯蔵庫のドアを見つめた。


「姫ッ!!!」


 再び厨房の扉が開き、今度はバル太が入ってきた。大急ぎでデイジー姫を追いかけてきたのであろう。デイジー姫と同じく息切れし、額が汗まみれだ。


 妙なのは、額だけでなく上着のシャツも汗まみれかのようにボドボドに濡れていることだ。その割には、バル太の周囲には汗の匂いはあまり漂ってこない。むしろミントの心地よい香りが、アサクラの鼻をスッと駆け抜けていく。


「おお、アサクラ様! ハァハァ……」

「ああ、バル太」

「いい加減、その呼び名はやめていただきたいと何度も申し上げておりますが……」


 アサクラが『バル太』と彼を呼ぶなり、不快そうにバル太は顔を歪ませた。それを見るたび、アサクラは胸のある一部分が申し訳無さでズキンと痛む。だがだからといって、バル太という呼び名を変えようという気は起こらなかった。


「それはそうとなにか用か」

「ええ。それが……ゼハァ……」

「……ヤツか」

「ええ。ゼハァ……そのとおりですアサクラ様。姫ですよ。また姫が俺に酷いいたずらをしたのです!」

「……」


 そうしてバル太は、頭のてっぺんの活火山からマグマを噴き出さんばかりの怒りを顔に浮かべながら、アサクラに事の次第を説明した。


 今日は、騎士団にとっては週イチの朝礼の日だ。この日は騎士団に所属する騎士全員が、中央広場に集まらなければならない。


 無論それは副団長のバル太も例外ではなく、バル太は今朝早起きをし、朝礼のために身だしなみを整え、朝礼に臨んだ。


 しかし、悲劇はバル太が儀礼用の鎧を身に着けたときに発覚した。


「ハッカ油?」

「はい……俺の儀礼用の鎧の内側に、たっぷりとハッカ油が塗ってあったのです」

「それはまた……大変だな……」

「えぐしっ……」


 そうである。バル太の鎧の内側には、何者かの手によって、純度の高いハッカ油が大量に塗られていたのである。その鎧を着てしまったバル太は、濡れた鎧を着込む不快感に耐えながらも朝礼に出たわけだが……


……


…………


………………


『ではこれより、朝礼を始める!!!』


 中央広場にバル太が出向いたとき、朝礼が今まさに始まろうとしているところだった。間に合ったことに安堵したバル太は、そのまま広場前方にいる団長の隣に佇んだのだが……その時、朝礼の進行をする御年50過ぎの団長の口から、信じられない言葉が飛び出した。


『今日の朝礼は、デイジー姫直々に我々を励ましてくださる!!』

『!?』

『では姫。こちらに……』


 突然のことでうろたえるバル太を尻目に、団長が中央広場上のバルコニーに視線を移した。そのバルコニーには、いつものピンクのドレスを着た青い目が美しいデイジー姫の姿がある。穏やかに微笑むその姿は、まさしく女神と言っても差し支えない美しさだ。


『騎士団の皆。おはようございます』

『おはようございます!!!』


 デイジー姫の朝の挨拶に元気よく返事をする騎士団の皆。あっけにとられ、胸に押し寄せる不安感と戦うバル太が改めてバルコニーを見上げると、微笑みとともにデイジー姫がこちらをジッと見つめている事に気づいた。


『……』

『……』

『……ニチャア』

『!?』


 その次の瞬間、凶暴な笑みを浮かべるデイジー姫。他の団員は決して分からないであろう。あの、可憐で女神のように美しいデイジー姫が、あんなモンスターの如き笑顔を見せるとは、誰も思わないであろう……しかし、バル太だけは見てしまった。バル太にだけは、見えてしまった。この国始まって以来の災厄と読んでも差し支えない女デイジー姫の、あの凶暴な微笑みを。


『……さて、騎士団の皆様』

『ひ、姫……』

『そのような鎧を着ているのでは、他の民や私たち王族とあなた達の間に、心の距離が生まれるというもの』

『ま、まさか……』

『この場だけで結構。皆、鎧を脱いで、くつろいで下さい。私は、あなたたちとより親密に語り合いたいと思っています』

『!?』

『さぁ皆! その鎧を脱ぎなさい! これは、この国の姫としての命令です!!』


 デイジー姫がこの台詞を言ったその直後、約一名を除き、騎士団の者たちは『さすが姫だ……私達のことを認めてくださっている』『あの優しいお心こそ、父上より受け継いだ王の資格なのだ……』と思い思いの称賛を口にしながら鎧を脱ぎ始めた。


 困ったのはバル太である。バル太の鎧の内側にはハッカ油が入念に塗られてしまっている。


 ハッカ油には、体感温度を劇的に下げる効果がある。そんなハッカ油まみれの今、もしこの寒空の下で鎧を脱ごうものなら……バル太は冷や汗を垂らしながら、再びバルコニーを見上げた。


『? 副団長バルタザール?』

『!? ハッ! ひ、姫!?』

『あなたは鎧を脱がないのですか?』

『い、いえ……』

『私はあなたにも鎧を脱ぎ、腹を割って触れ合ってほしいのですが……』

『し、しかし……ッ!』

『あなたは、私と心のふれあいなどしたくないと……くすん……そう、申されるのですか……?』

『い、いえ! 決して、そのようなことは……!』

『安心しました……あなたたち騎士団に自分が受け入れられていないと思うと、私……』

『……』

『……ニチャア』

『!?』


 そうして、姫の泣き落としと凶悪な微笑みのプレッシャーに負けたバル太は、鎧を脱ぎ、ハッカ油まみれの上半身をさらした。その瞬間、今まで吹いてなかった、極低温の冷たい北風が吹いた。


………………


…………


……


「ということがあったのです……」

「なるほど……ホントに災難だったなバル太……」

「だからバル太って呼ぶのやめて下さい……まじで……」


 そこまで言うと、バル太はがっくりと肩を落として意気消沈していた。彼の周囲に漂う、鼻を突き抜けるミントの香り。その香りの強さは次第に強くなり、バル太の鎧の内側に塗りたくられていたハッカ油がいかに大量に、しかも丹念に塗り込まれていたのかを物語っていた。


「……ちなみに着替えたのか」

「着替えましたよ!! 油まみれなんて気持ち悪いじゃないですか!!」

「着替えてなお、それだけの匂いがしてるのか」

「はい……」


 お料理を作る上で、アサクラもミントの葉そのものやミントリキュールを使うことがある。故にアサクラにとっては、ミントの香りは至極慣れ親しんだもののはずなのだが……


「……」

「……」

「……くっさ」

「アサクラ様ぁぁぁああアア!!?」


 慣れ親しんでいるはずのアサクラですら、顔をしかめるほどに強く香り立つミントの香り。その状態で寒空の下鎧を脱がなければならなかったバル太のことを思うと……アサクラの心に、バル太への同情心が芽生えた。


 アサクラの視線が、自然と食料貯蔵庫入り口へと向かう。


「……」

「……?」


 それにつられて、バル太の視線も食料貯蔵庫へと向かう。


「……」

「……」

『……』


 気のせいか、入り口ドアの向こう側から、沈黙を表す吹き出しが飛び出ているように、二人の目には映った。


「……」

「……」


 二人の目線が交差し、互いに目だけで会話を繰り広げる。言葉は発さない。なぜなら、その言葉が相手の耳に入った瞬間、すべてを察した標的が脱兎のごとく逃げ出すからだ。


 アサクラが止まっていた手を動かし始めた。バル太はわざとらしく咳払いをした後、これまたわざとらしく大きく背伸びをした。


「……あー、ここには姫はいらっしゃらないようですねぇ!」

「そうだなぁ! ここには姫は来てないぞ!?」

『……』

「いや失礼いたしましたアサクラ様!! 引き続き王のおやつ作りを続行してください!!」

「かたじけない! お前も姫の探索がんばってくれぇー!」

『……』


 アサクラはぜんざい作りを続行しつつ、バル太は抜き足差し足で食料貯蔵庫入り口に近づきながら、二人で寸劇を繰り広げる。そのどうでも良い日常会話に反して、二人の眼差しは、獲物を狙う猛禽類のようにするどい。


 アサクラがぜんざいの上にシラタマを2つ乗せ、バル太が音を立てずにこっそりと、しかししっかりとドアの取っ手を握った。


――行け バル太

――はいっ アサクラ様


 二人は視線だけで息を合わせ、そして……


「見つけましたよ姫ぇぇええええ!!!」


 バル太が鬼の形相で入り口ドアを勢いよく開いた。


「へ!?」


 そして開いたドアの向こう側には、二人の狙い通り、デイジー姫がいた。ドアの前で耳をそばだてていたらしく、姫にあるまじき間抜けな顔でびっくりしたデイジー姫は次の瞬間、顔を醜く歪ませた。


「くっさ!! バル太ミントくさッ!?」

「誰のせいだと思っているのですか!!」

「いやだって臭いし! バル太めっちゃミント臭いです!!!」

「全部あなたが蒔いた種でしょうが!!!」

「ちょっとまって! バル太くさい!! もはや黙示録レベルでくさいですよあなた!!?」

「ムハハハハ!!! ハルマゲドンレベルのミント臭はいかがですか姫!!!」

「痛い! くさすぎてもはや目が痛いですバル太ッ!!!」


 涙目で悶え苦しむデイジー姫の左手首を掴んだバル太は、そのまま貯蔵庫からズルズルとデイジー姫を引きずり出した。そんな自分が後にどういう目に遭うのか理解したのだろうか。強烈なミント臭で開かない涙目を必死に開き、デイジー姫は自由な右手をアサクラに必死に伸ばす。


「あ、アサクラッ!!」


 名前を呼ばれ、アサクラは自分の手元のぜんざいから視線をデイジー姫へと向けた。姫からは、死の恐怖に直面している者だけが見せる、必死の形相が見て取れた。


「助けなさいッ!」


 姫の必死のヘルプコールを受けたアサクラは、そのままぜんざいの付け合せである塩昆布のデコレーションに取り掛かった。アサクラの目の前の漆塗りのお盆の上には、今、ぜんざいのお椀と塩昆布、そして国王専用の先割れスプーンが、センスよく上品に並べられている。


「……よし。準備が出来た」

「バカなアサクラッ!?」

「ぜんざいの完成だ」

「こ、この私が!! この国の姫である私が!! 貞操の危機に晒されているのですよ!?」


 涙目で必死に助けを乞うデイジー姫は、今も現在進行系でズルズルと厨房出入り口まで引きずられている最中である。


「ムハハハハハ!!! アサクラ様は私の味方なのですよッ!!! さぁー説教の時間ですよ姫ぇぇええエエエエ!!!」


 一方、姫を引きずっていく側のバル太の表情は対象的だ。目を爛々と輝かせ、生きる喜びに満ち満ちている。むき出しの白い歯を輝かせて瞳孔を目一杯に開きながら『説教』と口走るバル太のその様子を見て、案外バル太にはどえすの気があるかもしれんと、アサクラは思った。


「あ、アサクラッ!!!」

「……」

「助けて下さいアサクラ!! 私は!! あなたの許嫁なのですよ!? 将来の夫なのですよ!!?」


 断末魔のようなデイジー姫の声が、厨房に響く。しかし、そんなデイジー姫の必死の助けにも、アサクラの心は反応しない。アサクラはお盆を見つめ満足げにうなずくと、それをキャスター付きワゴンの上へと、そっと移動させた。デイジー姫なぞどこ吹く風で。


「アサクラッ!! このままでは私は!! バル太の毒牙にかかってしまう!!?」

「さて。そろそろ王の元へとぜんざいを運ぶか」

「傷物にされてしまうのですよ!? よいのですかアサクラっ!!?」

「……」

「ああっ……騎士副団長に!!! 私の肉体が今まさにっ!!? 汚されようとしているッ!!?」


 誤解を招きかねない悲鳴を上げながら、アサクラに助けを乞い続けるデイジー姫。その台詞を聞けば、事情を知らない城内の者は騎士副団長が乱心したと思うかもしれないが……悲しいかな、この場にいるのは姫のいたずらに悩まされ続ける騎士副団長バル太と、そんな姫の将来の許嫁(アサクラにとっては迷惑な話だが)であるアサクラたった二人だけ。姫の悲鳴を聞いて誤解などするはずがない。


 アサクラが顔を上げた。


「……姫」

「あ、アサクラ……ッ」


 バル太が動きを止め、デイジー姫が涙目でアサクラを見つめる。


「やっと……やっと私を助けてくれる気に……」


 懇願の眼差しで自身を見つめてくるデイジー姫に対し、アサクラは軽くため息をついた。そして、あらゆる無表情よりも感情を感じない、もはや頭髪の生えた大理石とも言える顔を向けた。


「構わん」

「は!?」

「なんならそのままバル太に嫁にもらってもらえ。跡継ぎ問題も解決。お前は労せず許嫁を手に入れてバル太の将来も安泰。俺も安全にここで生活することができるし、誰も損をしない」

「アサク……ラ……ッ!?」


 アサクラがそこまで言い切ったあと、再びデイジー姫はバル太に力強く引きずられていった。その間もデイジー姫は『アサクラの裏切り者ッ!!』『ザ・人でなし!!!』『この私の純情を弄んだ罪は重いですよアサクラ!!!』などと言った罵声を浴びせ続けていたが……


「さぁあ〜姫ぇぇええええ。説教部屋まで俺とランデブーしましょうかぁぁあああ」

「ああッ!! アサクラッ!? アサクラぁぁあああ!!?」


 その最後の断末魔とともに厨房の外に連れ出され、ドアが閉じた。『ドバァァアアアン!!!』と鳴り響いたドアの音は、アサクラの耳には、普段よりも大きく響き、そしていつも以上の質量を感じた。


 デイジー姫とアサクラが出ていった途端、厨房には静寂が訪れた。しかもアサクラの耳に痛いほどの、一切の音のない、静寂である。


『あっ……しまっ……!?』

『むはははは!!! 姫であるこの私がミント臭いあなたに体を許すと思ったか!』

『それはあなたのいたずらが原因でしょうがッ!』

『待っていなさいバル太!! 今日という屈辱は忘れませんよ!!!』

『待て姫ッ!!! 逃しませんよ!!!』

『この恨み!! 必ず晴らします!! 待っていなさい我が許嫁のアサクラァぁあ……』


 ドアの向こう側から聞こえるそんな喧騒が、厨房の静寂さをより際立たせている。この静けさに、一種の侘び寂びのようなものを感じたアサクラ。このとき、アサクラの胸には、実に久しぶりに故郷への郷愁が訪れていた。


「そういやぁもうヒノモトを離れてだいぶ経つなぁ……」


 そんな言葉が口をついて出る。一度故郷に戻り、知り合いに生存報告でもしようか……そう思ったアサクラだったが、もはや知り合いと呼ぶにふさわしい人間など、故郷に残ってないことを思い出していた。


 ちなみにぜんざいは、王には好評だった。


「はぐっはぐっ……おいしいねぇアサクラ?」

「ハハッ……ありがたき幸せにございまする」

「そんなにかしこまらなくていいのに……頭が低いよアサクラ?」

「は、ハハァッ……」


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