第5話 急襲
自分の体が下へ下へと沈んでいく感覚がする。さっきまで耳元でうるさく渦巻いていた濁流の音も聞こえなくなり、完全なる無音。冷たく暗い世界で、このまま自分は死ぬのかと、とてつもない悲しみと後悔が押し寄せてきた。その後に訪れたのは諦め。全てを成り行きに委ねそうになった時、一筋の光が目を射った。とても温かな光だった。光の中から大きく温かな手が差し伸べられ、そして俺は……。
「湊!!」
突然意識が覚醒した。目の前にはいつかと同じように心配そうな大地と宗次郎の顔。
「良かった〜。変な所でもぶつけたのかと思ったよ〜」
宗次郎が泣き笑いのような表情で抱きついてきた。酷く恐ろしく、懐かしい夢を見ていた気がする。
「ごめん、大丈夫。それより、これってどういう状況?」
場所は先ほどの病院のエントランス。しかし様子が一変していた。
廃墟然とした病院の姿は一切なく、完全に往時の機能していたであろう病院に戻っている。今のような清潔感のある病院といった風情ではないが、昔はこういう姿であっただろうという様子だ。しかも何とも奇妙なのが、
「空が……赤い」
呆然と呟いた。窓から見えるのは、夕暮れというレベルではなく、本当に赤いインクを流したような雲一つない真紅の空だった。まるで血のような。その空の光を受けて、病院も不気味に赤色を帯びていた。
「わっかんねーよ! 俺達もさっき目が覚めたらこの状況だ!」
大地がイライラした様子で吐き捨てた。
「大ちゃんと脱出できないかやってみたんだけど、やっぱりドアは全然開かないし、携帯も繋がらない。でもって外、もっとちゃんと見てみなよ」
「え?」
窓から改めて外の様子を見てぎょっとした。地面がなかったのだ。雑草が生い茂っていた場所は完全になくなり、深い闇が見渡す限り続いていた。これでは外に出た所で奈落の底へ真っ逆さまだろう。
「これって閉じ込められてるよね?」
宗次郎が恐る恐る言う。
「おい! こんなことになるなんて聞いてねーぞ。俺が何したって言うんだよ?」
大地が壁を殴りつけた。
「大ちゃん、おちついて……」
「これが落ち着いてられるか!」
怒声に宗次郎がビクリとし、俺の後ろに慌てて隠れる。見かねて割って入った。
「大地、みんな不安なのは一緒だから、とにかく大声出すのはやめろ。あと物に当たるのもだ」
「ああ? 俺に指図すんなよ! やっぱり親父の言うことなんか聞かなきゃよかったぜ」
そう言いながら大地は奥へとズカズカと歩を進めた。
「おい! 大地! どこ行くんだ!」
慌てて呼びかける。
「決まってんだろ! 原因はさっきの看護師だ! あいつをボコってここから脱出する!」
やばい。完全にキレている。
大地を追いかけようとしたところで、突然耳を劈くとてつもなく耳障りな音が響いてきた。
「うわっ! なんだ!?」
思わず耳を塞ぎ座り込んだ。大地も宗次郎も同様に蹲っている。
よく聞くと音が割れてわかりにくいが、童謡のようなフレーズだ。元は子供向けの可愛らしい曲だったのだろうが、酷く不気味なメロディになっている。病院中のスピーカーから鳴り響いているようだ。
待合室の方で大地が何か叫んでいるが聞き取れない。耳を塞ぎながら宗次郎に目で合図し、なんとか一緒に待合室の方まで進んだ。
「なんだって!?」
大地の近くまで行き、大声で叫んだ。
「発信源があるはずだ! それを何とかするぞ!」
大地も大声で叫び返す。耳を塞いでいるが、近くに寄ればなんとか聞こえる。
その時、ぞっとする何か得体の知れない気配が奥の廊下から漂ってきた。全身に鳥肌が立ち、脳が警笛を鳴らす。大音響のせいで耳鳴りと眩暈がする中、とてつもない驚異が迫っていると自身の体が訴えかけていた。
「おい! 湊!?」
大地が異変を察知して俺の目線の先を辿る。
奥の暗がりから大きな禍々しい影が姿を現した。最初はさっきの看護師かと思ったが、それにしてはシルエットが大きすぎる。
不気味なメロディが反響する中、赤い光に照らされたのは異様な姿だった。
「うさぎ……?」
最初に目についたのは遊園地にいるようなコミカルな兎の着ぐるみだった。体には白衣を着ており、頭にだけ着ぐるみの頭部を被っている。そのがっしりとした体格から男性だという事がわかった。これだけでも異様だが、さらに俺達を戦慄させたのは、手に持った注射器と通常のものよりかなりの長さがあるメスだ。
そいつがゆっくりと、確実にこちらを目掛けて近づいてきている。どう考えても捕まればただでは済まないだろう。さっきの看護師といいなんなんだ!?
「逃げなきゃ!」
どうやら宗次郎にも大地にもあの異形の医者は視えているらしい。
「待て!」
慌てて逃げようとする宗次郎を俺は静止した。
「入り口は開かなかったんだろ!?」
エントランスに追い詰められたら袋のネズミでジ・エンドだ。しかし、他に逃げ道は……。
「おい!」
大地が耳を塞ぎながら壁の方へ顎をしゃくった。そこは最初に待合室に来た時、大地が力づくで開けようとしていたスタッフの詰所らしき部屋へのドアだった。
大地と俺は顔を見合わせうなずくと、一目散へとそこへ走った。もうこうなれば現状維持など気にしていられない!
助走をつけ思いきりドアにぶち当たる。開きはしなかったが手応えはある。
「「せーのっ!!」」
2人で声を合わせ再度タックルする。
ドアは勢いよく内側へと開き、俺と宗次郎は部屋へと雪崩れ込んだ。
「宗次郎!! 来い!」
大地が叫び、宗次郎も慌てて部屋へと入るなり、素早くドアを閉めた。
部屋の中も往時の様子で、薬品棚や、事務机がきれいに並べられていた。
「何でもいい! 持ってこられる物で扉を塞げ!」
大地の号令と共に机や椅子をドアの方に押しやり、簡易なバリケードを作る。その時、外側から思い切りドアが叩かれた。
「うわっ!!」
宗次郎が後ずさる。建物自体が振動したのではないか、という強さだ。
「野郎!!」
再び凄い力で叩かれる。力づくで破るつもりか!大地がドアに飛びつく。
「くそっ! このままじゃこじ開けられるぞ!」
俺も大地に加勢するが、数分も持たない事は目に見えた。考えろ!この状況を打開する方法を!あいつはなぜ現れたんだ?
「この音か……?」
この音楽が鳴り始めてからあいつは現れた、そしてここはスタッフルームだ、もしかしたら。
「宗次郎! 何かこの部屋に音響装置みたいなものはないか!?」
部屋の隅で怯えている宗次郎に大声で呼びかける。
「……そうか! あいつが現れたキッカケはこの忌々しい音楽だ! こいつを止めたらなんとかなるかもしれねぇ! 宗次郎! 死ぬ気で探せ!」
どうやら大地にも意図が伝わったらしい。馬鹿だが察しがよくて助かる。
「わ、わかった!」
宗次郎は弾かれたように部屋を探り始めた。その間もバリケートごとドアをこじ開けようと悪意に満ちた力で俺達は押されつつあった。勢いは益々強くなり、遂に隙間が開いた。兎の着ぐるみと目が合いぞっとした。もう寸分の猶予もない!
「たぶんこれだと思う! なんか古い機械みたいなのがあるよ!」
「何でもいい! そいつをぶち壊せ!!」
大地が叫んだ。
「えいっ!!」
背後でもの凄い音がしたと思った途端、耳障りだった音楽が止んだ。
そして、それと同時にドアの外の禍々しい気配もかき消えた。振り向くと机の上のよくわからない機械に椅子が叩きつけられており、ゴムが焦げたような匂いと共に煙が吐き出されたいた。
「た、助かった…のか?」
誰ともなく問いかける。しばらく身構えていたが、とりあえず難は逃れたとわかると、俺と大地はへなへなとその場に座り込んだ。
「やべ、腰抜けたかもしれねぇ」
大地が力なく笑った。
「うわ〜! あんなの初めて見たよ〜! 大ちゃん、ちゃんと撮ってた?」
宗次郎の呑気な発言に、大地の怒りスイッチが再び入った音が聞こえた。あ、やばい。
「てめぇ! ふざけてんじゃねーぞ! 肝心な時に手伝わねぇで、何が撮ってた?だ! 今そんな場合じゃねーだろ!」
「え〜折角こんな経験してるのにもったいないよ〜。それにさっきは僕がいて良かったでしょ? 感謝して欲しいぐらいなんだけどなぁ」
とりあえず元気そうで何よりだ。
「大地、カメラは?」
「湊まで何言ってんだよ?」
「そうじゃなくて、カメラは無事か?」
俺の意図を察したのか大地はバックパックから慌ててカメラを引っ張り出す。
「ああ〜〜!!」
大地な悲痛な声を聞いて宗次郎と一緒に背後から覗き込む。
「うわぁ〜大ちゃん、やっちゃったねぇ」
「仕方ねぇだろ! てか他人事かよ!」
カメラの液晶は縦横無尽に亀裂が走っており、再起不能なのは明らかだった。まぁ、あれだけ暴れ回ればいくら鞄で守られていようと関係がないだろう。
「あんな状況だったし、仕方ないよ。カメラは……残念だけど、またバイトして買おうぜ」
珍しく肩を落とす大地を慰めたが、あまり効果はないようだった。
「ママに言えば買ってもらえると思うよ?」
「大人の力は頼らねぇって言っただろ? クッソ! あのイカれ兎野郎、今度会ったらタダじゃ済まさねぇぞ」
「とりあえず一難去ったのはいいけど、元の世界に戻れたわけじゃなさそうだね」
変わらず窓の外は真紅に染まっており、病院の様子も変化がない。
「ん〜心霊話の定石だと、幽霊を成仏させると何とかなる事が多いけど、もっとこの病院の事とか、あの看護師さんとかお医者さんの事を調べてみた方がいいかもね。さっきからバタバタで、結局僕たち何も知らないわけだし」
宗次郎が並んだ棚を物色しながら言った。
「そうだね、さっきの医者も看護師も、また現れないとも限らない」
大地がビクリと肩を震わせた。
「こちらのカードが少なすぎる。やられっ放しってのも俺達らしくないだろ?」
大地と宗次郎の顔を見て笑って見せた。ほぼやけくそだったが、2人に対しては効果があったようだ。
「けっ! 湊のくせに。 ああそうだな、生きてる人間なめんじゃねーぞ!」
大地が尻を払い、立ち上がった。
「僕はこの病院に対して益々興味が沸いたよ〜。映像は撮れないけど、掲示板に書いたら祭りになりそう!」
宗次郎は意気揚々と棚を物色している。
1人ではきっと怖くて何もできなかっただろう。けれど3人なら、お互いに鼓舞し合い、進むことができる。短い活動期間で俺が知った事だ。それは大地も宗次郎もそうだと信じている。
この異界から脱出するため、俺達は再び進み始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます