ハンカチのダンス
僕は、洗濯機の中で1人踊るハンカチを眺めていた。
ハンカチの色は薄いピンク色で、花の刺繍がワンポイント付いている可愛らしいハンカチだ。もちろん僕のものではない。クラスメイトの女の子、三井さんのものだ。
三井さんの事が頭に浮かぶ。教室の窓際の席でいつも本を読んでいる、控えめな女の子。肩まで伸ばした髪の毛が時々風に揺られる。本をめくる小さな手、髪の毛の隙間から見える柔らかそうな耳、今までほとんど話した事が無くて、全然意識していなかったのに。
今日は学校のクラスマッチの日だった。小学6年生である僕の小学校生活最後のクラスマッチ。出来れば有終の美を飾りたい。そう意気込むクラスメイト達の熱気はすごかった。
僕は、少年野球をやっていて、エースピッチャーとして活躍している。自分で言うのもなんだけれど、そこそこ良い球を投げる。僕が投げる試合はチームを勝ちに導いていける。それぐらいの自信はあった。
だから、クラスメイトからも運動面では信頼されていて、クラスマッチでの活躍を期待されていた。悪い気はしない。人から頼られると言うのは。
僕はサッカーの選手に選ばれた。ついでにリレーの選手にも。
「田辺君、サッカーに出るの?頑張ってね。私、応援するから!」
クラスメイトの堀田さんに声をかけられた。堀田さんは、クラスの元気っ子グループに所属していて、いつも明るく、みんなの注目を浴びて、好かれている。そんな人気者。最近、やたら僕に話しかけてくる。僕の事が好きらしいと、誰かから聞いた。本当かどうかは知らないけれど。
自分ではそんなに格好良い顔をしているとは思っていない。けれど、野球部のエースというブランドは、かなり効果的らしく、女の子から告白される事は時々あった。バレンタイデーにもチョコレートをいくつかもらう。
でも、人を好きになるとか良く分からないし、女の子と話すよりも男友達と遊んだり、野球をしている方が楽しかったから、いつも断っていた。
クラスマッチの日、雲一つ無い晴天で、絶好の運動日和だった。少し暑すぎるかもしれないけれど。
僕は足の速さにも自信があるし、サッカーは習った事はないけれど、サッカークラブに入っているやつに引けを取らないぐらいの上手さはあると自負している。クラスにはサッカークラブのエースストライカーの服部君もいるし、他にも運動に自信のある子が何人か。だから今年は優勝を狙える可能性がかなり高かった。
一回戦の相手は、サッカークラブの子が3人いる2組だった。いきなりの強敵に僕ら3組のサッカーに出場する子の顔色も険しい。
「おい、お前らそんな暗い顔してどうしたんだ!気合入れていくぞ!」
服部君がみんなに声をかける。
「そうだな」
「やるぞ!」
服部君の声かけに少しずつクラスメイトは顔に力を取り戻していく。
試合が始まってみれば服部君の活躍で我らが3組の圧勝に終わった。さすがエースストライカー、相手に一切ボールの主導権を握らせず、翻弄しまくり、バンバン点を入れていた。僕も結構奮闘して、服部君とのツートップでゴールも決めた。応援席で堀田さんが手を振っているのが見えた。なんとなく僕も手を振り返してあげると、ただでさえ満開の笑顔だった堀田さんの笑顔が爆発した。こんなのでなぜ喜ぶのか、僕には分からなかった。
次の試合も危なげなく勝ち、3試合目。事件が起きた。
相手のチームのディフェンダーとボールを持っている僕が接触し、僕は激しく転倒。地球がグルグル回っているような気がしたら、いつの間にか地面に倒れていた。雲一つ無い青空が見える。そして、右膝に激しい痛み。膝を触ってみると、ヌルッとしていて、血が出ているのが分かった。
「田辺、保健室に行ってこい。後は、俺がなんとかしとく」
すぐに駆け寄って来た服部君が頼もしい事を言ってくれた。僕は試合途中で抜ける後ろめたさを感じながらも、服部君が言うのなら大丈夫だろうと、保健室に向かう事にした。
グランドから離れ、1人保健室のある校舎へ向かう。
グランドの熱気とは正反対で、校舎はシンと静まり返っていて、少し肌寒かった。
僕は保健室に向かう前に、下駄箱にある水道で傷口を洗う事にした。
水で膝の汚れを洗い流すと、綺麗になった傷口から新しい血が流れ出て来た。まだ血は止まっていないらしい。そりゃそうか。さっき転けたんだもの。
僕はポケットに手を突っ込む。しまった、ハンカチを忘れた。他に傷口を押さえるものは持っていないし、仕方が無い。このまま保健室へ向かう事にした。早く治療してクラスマッチに戻りたい。もしかしたらまだ今の試合に間に合うかも知れないし。
そう思って、水道から離れようとした時、突然ハンカチが差し出された。
「えっ?」
顔を上げると、少し固い顔をした三井さんがいた。伸ばした髪の毛の下に見えた眉毛がキュッと結ばれている。
「田辺君、これ使って」
良く耳を済ませないと聞こえないほどのか細い声で、三井さんは言った。
「いや、でも、絶対汚しちゃうし」
「良いの。それよりも、田辺君の怪我の方が心配」
「でも」
「良いから」
三井さんは、僕の手を握り、ピンク色のハンカチを押しつけた。
「あ、ありがとう」
「良いよ」
それだけ言うと、三井さんは背を向けて立ち去ろうとする。
「これ、明日洗って返すから」
「うん」
三井さんの背中に声をかける。返事は微かに聞こえた。
「あの、田辺君」
三井さんが固い動きで振り返る。体操服を着ているけれど、手には文庫本。こんな時にでも本を離さないんだなと思って、ちょっと笑ってしまう。
三井さんは文庫本を両手でぎゅっと握りながら言った。
「サッカー頑張ってね。私の分まで。私、出来ないからそう言うの」
「分かった」
「じゃあ」
三井さんは、走ってどこかへ行ってしまった。
手に残った三井さんのハンカチを見る。ほのかにシトラスの香りがして、その香りを嗅いだら、なぜだかすごくやる気になった。絶対に負けたくない。そう思った。
再びサッカーに戻った僕は獅子奮迅の活躍で、服部君よりもゴールを決めた。ゴールを決めるたびに応援席をチラッと見た。はしゃぎまくる元気っ子女の子グループのはるか後ろで、1人でサッカーの試合を見ている三井さんがいた。三井さんが小さく手を叩いてくれるのを見て、僕は嬉しくなった。
そんな感じで、気がつくと僕らのクラスは優勝していた。服部君もみんなもすごく喜んでいた。僕も喜んだけれど、優勝した喜びとは違う自分でも良く分からないふわふわした感じに少し戸惑っていた。
そして、洗濯機で踊るハンカチを眺める今にいたる。
あれから三井さんの事が頭に浮かぶようになった。これまで本当に意識した事なんてなかったのに。
三井さんがハンカチを渡してくれた時の緊張した顔、僕がハンカチを受け取った時の緩んだ安堵の顔、僕に「頑張って」と言ってくれた時の顔、全部鮮明に覚えている。そして、その三井さんの顔を思い出すたびに、心がくすぐったくなるのだ。
「はあ、なんかおかしいな自分」
ため息をつきながら、洗濯機の中のハンカチを眺める。
本当なら、家族の他の洗濯物と一緒に洗濯するのが節約的にも良いのだろうけれど、なんだか僕の洗濯物と一緒に三井さんのハンカチを洗濯するのは気が引けた。なんて言うか、三井さんのハンカチを余計汚してしまうのでは無いかと言う、そんな変な心配。
気にしなくて良いのだろうけれど、一度気になるともう止められなくて、結局、三井さんのハンカチだけで洗っている。4人家族の洗濯物を洗えるサイズの洗濯機に小さなハンカチ一つだけと言うのはもったいない気がするが、仕方が無い。
「はあ、明日、どうやって返そうかな」
いきなり、話しかけたらびっくりするかな。三井さんはいつも大体自分の席に座って本を読んでいるから、明日の朝、学校に行ったらすぐに渡せば良いかな。その時に、何を話そう。「ありがとう」だけじゃちょっと素っ気ないかな。天気の話とか。そんなのダサいか。
「兄ちゃん、なんで洗濯機覗きながらニヤニヤしているの?気持ち悪い」
気がつくと隣に弟がいた。弟も洗濯機を覗き込んでくる。
「なんでハンカチ一つだけで洗っているの?て言うか、こんなハンカチ持ってたっけ?」
「うるさいな、あっち行けよ」
僕は弟のおでこに軽くデコピンをした。
「痛いなぁ!なんなんだよ、まったく……」
弟はぶつぶつ言いながらどこかへ歩き去った。しばらく弟の去った方を眺めた後、僕はまた洗濯機の中のハンカチの観察に戻った。
窓際の席で、風に揺られながら、髪をかき上げて、本をめくる三井さんの姿が思い浮かぶ。
明日、三井さんと何を話そうかな。
僕の心は、今からもうワクワクしていた。
ショートストーリーず 朝月 @asazukisan
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。ショートストーリーずの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます