迷い夢

 ここはどこだ。

 

 気づくと私は、暗い部屋に転がっていた。天井に一つ、とても小さな明かりがあるだけで、その明かりではこの暗い部屋の闇は取り払う事なんか出来ず、私は状況を何も理解出来ない不安に包まれていた。

 

 身体が動かない。どうやら手足を縛られているようだ。


 どうしてこんな事に。


「どうしてこんな事に、とか考えているんだね」


 突然声が聞こえた。男の声だ。若い男の。


「誰だ?」


 私は声が聞こえた方に向かって尋ねた。そちらを注意深く目を凝らしても何も見えない。


「僕が誰かなんてどうでも良いが、強いて言うなら、君たちが喉から手が出るほど欲しくて、そのために苦しみ、でも手に入れたらそんなに必要でも無いものかな」


 なんだそれは。


「訳の分からない事を言っていないで、この手足を縛っている縄を解け。私が誰か分かってこんな事をやっているのか?」


 私の精一杯の脅しも、この声の主には効かないようだ。


「君の事なんてほとんど知らない。何も見えていないくせに見えたフリしているだけの愚かな人間だと言う事以外はね」


「何を言っているんだ」


「何を言っているのか分からない?」


 男の声が近づいて来た、耳元に吐息を感じる。冷たい、鋭く尖った針のような、そんな吐息で私は耳が痛くなる。


「やあ」


 そんな呑気な声と共に、声の主が現れた。


「猫?」


「僕が猫に見える?」


 猫が喋っていた。茶色の縞々のある猫が。


「なぜ猫が喋っているんだ?」


 私は夢でも見ているのだろうか。


「ほら、君は何も見ていない。僕は猫ではないよ」


「そんなバカな……」


 そう思った時に、そいつは姿を変えた。猫から、犬へ。


「どういう事だ」


「何が?」


「お前、さっき猫だったろ?どうして今は犬に」


「ああ、そうなのか」


 犬は笑った。いや、犬では無い。今は、ペンギンだ。


「君は僕が犬に見えるのか」


「いや……」


「今は何に見えるの?」


 そう、カピバラが訪ねてくる。さっきまでペンギンだったカピバラが。


「お前は一体何者なんだ?」


「私は一体何者なのだろう」


 シルクハットをかぶったチンパンジーは言った。


「私は一体何者なのだろう。君はそんな事を気にしているが、私にはどうでも良い。私が何者なのかなんて。そんなの考えても分からない。君には分かるのか。君が一体何者なのかを」


「そんなの当たり前だろ。私は……」


 あれ?私は誰なんだ。


「私は……」


「『私は』どうしたんだ?」


「私は誰なんだ?」


「そんなの僕の知った事か」


 私は額に汗が浮かんでくるのが分かった。

 本当に、私が何者なのかが急に分からなくなった。数分前までは、私が何者で、どれぐらいお金を持っていて、どれだけの人の上に立ち、権力があり、自分の思い通りに世界を動かせたのか、それを知っていたのに。

 今ではそれがとても自分の事とは思えず、どこか別の人の話みたいで、私は、自分が何者なのか分からなくなった。


「どうしてだ?なんで私は全て忘れてしまったのだ?」


「忘れたんじゃ無いよ」


 優しい声がする。優しい女の人の声。


「えっ?」


 目の前に、女の人がいた。かつて、私が恋焦がれた、そんな気がするあの彼女。


「あなたは?」


「私は私。あなたは、自分を失って、焦っているの?」


「はい」


 私は素直に答えた。何者かが分からないと言うのは、とても怖い事だった。


「自分が何者なのか。自分がなぜ生きているのか。それが分からないと不安なの?」


「はい、その通りです」


「そう」


 彼女が、私の方に近づいて来た。そして、私の頬を撫でる。

 気がつくと、私の手足を縛っていた縄が無くなっていた。


「初めからあなたは縛られていなかった」


 そうか。手足を縛られているような気がしていただけなのか。


「何者なのかなんて必要無いんですよ」


 彼女が諭すように言う。


「そうなんだ」


 私は、小さな子供に帰ったような懐かしい気分になっていた。彼女の腕の中で、眠ってしまいたいような。


「存在理由なんて、必要無い」


「そうなの?」


「そう」


 彼女は私を包んでくれた。


「私が存在理由だよ」


 そう。彼女が私の存在理由。


「存在理由なんて、いくらでもどんな形にでも作り替えられる。それが私」


 気がつくと、目の前に中年の男性が立っていた。白髪が見え始めた髪の毛の彼は微笑んでいる。

 それは私だった。


「君、もう大丈夫かい」


「そうですね。なんだか頑張れそうです」


「分かった」


 もう1人の私が、私の目蓋に手をかけ、私に目を瞑らせる。


「じゃあ、もう一度頑張りな」


 その言葉と共に、私の意識は消えていった。


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