紅茶一杯分の一歩

「いらっしゃい、ミルキーウェイ君」

 お洒落な焦げ茶色の木の扉を開け店内に入った僕に、喫茶店のマスターが気さくに挨拶をしてくれる。

「僕の事を変なあだ名で呼ばないでください」

「なんで?カッコいいじゃん」

「カッコよくないでしょ……」

 僕はいつもの席に座った。

 マスターは慣れた手つきでおしぼりとお冷やを置いてくれる。その手際の良さを見ていると、日頃は呆けた顔をしてよく分からない事を言っているが、やっぱりプロなのだなと感じる。

 ここの店のマスターは変わっている、と思う。何を考えているのか分からないし、人に変な名前をつける。

 僕の学校の先輩である星川さんも、マスターに変なあだ名を付けられている被害者の一人だ。星川さんはマスターに「スターリバー君」と呼ばれている。そう呼ばれた星川さんは、とても渋い顔をしていた。

 「星川」だからそれをそのまま英語にして「スターリバー」。安直すぎるし、ダサい。星川さんも「恥ずかしいからやめて欲しい」と本気の顔で言っている。かっこいいと思っているのはマスターだけだ。マスターのセンスはおかしいし、ネーミングセンスが無さ過ぎる。

 ちなみに、なぜ僕が「ミルキーウェイ」なのかと言うと、僕の苗字が「天野」だと知ったマスターが「天野と言えば『天の川』だな。天の川は英語で『ミルキーウェイ』と言うんだ。だから、今日から君はミルキーウェイ君だ」と僕の返答も待たずに謎の理論で勝手に決めてしまったからだ。

 まあ、別に「ミルキーウェイ」と呼ばれるのはこの喫茶店だけだし別に良い。マスターも悪気があって言っているわけではなく、本当にカッコいいと思っているみたいだし。

 マスターは世間とはズレているけれど、良い人だ。決して人を否定したりしない。僕の周りの大人はすぐに「ああしなさい」「こうしなさい」「それはダメだ」と否定ばかりする。その上「こうしたら良くなる」と自分の考えを押し付けてくる。成功する方法は人によって違うのに、自分の方法こそが正しいのだと信じて疑わない。それで失敗したら、僕の努力不足のせいにするのだから、やってられない。でもマスターは違う。何の役にも立たない説教はしないし、どんなアホみたいな事を言ってもちゃんと話を聞いてくれる。そんな僕の周りにいる大人と少し違う存在だから、僕はこの店に通いたくなるのかもしれない。

「そういえば、星川先輩って、今でもこの店に来ています?」

「ああ、来ているよ。この前はいつ来たかな。忘れちゃった。飲み物はいつもので良い?」

「はい」

 マスターは僕の好きな紅茶のアールグレイを入れ始めた。

「星川先輩、最近学校で見ないんですよね」

「彼は君と違って不良だからね。ここにも、平日の学校のある時間帯に来る。逆に、今日みたいな休日は家で堂々と人生をさぼっているよ」

「確かに、星川先輩はそんな感じか」

 星川先輩の学校での様子を思い出す。いつもぼーっとしていて、寝癖まみれの髪をした頭を少し傾けて、窓の外を眺めている。

 それは、檻の中から外を眺めているライオンのようで、その力を発揮する事なく閉じ込められて、ただ無意味に怠惰に時間を過ごしているような、そんな感じ。勉強をしている所を見た事が無いし、高校三年生だというのに進路もまだ決まっていない。そんな自由な人。

 ただ、自由には見えるけれど実際は檻の中のライオン。檻の外にある自由をただただ眺めている事しか出来ない。

「星川先輩、将来はどうするんですかね?」

「さあ。彼が決める事だからね」

 マスターが入れたての紅茶を僕の前に置いてくれた。サービスのクッキーも一緒だ。

「いただきます」

「どうぞ」

 僕は紅茶を一口飲む。アールグレイに含まれるベルガモットの良い香りが口の中いっぱいに広がり、僕の心を落ち着かせてくれる。

「美味しいです」

「茶葉が良いからね」

 僕の素直な感想に、マスターは謙遜して答える。

「星川君と違って、君はしっかり進路が決まっているからすごくちゃんとしているよね。偉い偉い」

「本当に偉いと思っていますか?」

 からかわれているような気がする。マスターの顔を見ると、能天気に笑っていた。考えが読めない。

「まあ、医者になるのが僕の小さい頃からの夢ですからね」

「医者か。すごいなぁ」

 マスタがー腕を組んで、感心している。

 そうだ。僕は医者になりたい。

 小さい頃に医者が主役のドラマを見て、人の病気をズバズバ治していく医者の事をカッコいいと思った。人の苦しみを知識と技術で取り除いていくその仕事ぶりに憧れ、いつしか僕の将来は医者以外考えられなくなった。そのために県内で一番の進学校にも入学したし、毎日勉強に励んでいる。今日もこれから塾に行く予定だ。

「目標に向かって脇目も振らずに進んでいく感じ、すごいと思うよ」

 マスターは純粋にそう言ってくれているようだ。だけど、僕の心には少し引っかかる部分があった。

「まあ、そうなんでしょうけどね」

「そうなんでしょうけど?」

 僕が誰に聞いてもらおうとも思わずに放った小さい言葉をマスターが拾った。

「なんか、このままで良いのかなって思う事があります」

「そうなの?」

「そうですよ。だって、高校生で自分の将来を決めるのって、早くないですか?」

「そうかなぁ。でも、だいたい高校生で決めるでしょ?そんなもんじゃん」

「そうなんですけど」

 僕は紅茶を飲む。ベルガモットの良い香りも先ほどのように僕の心を落ち着かせてはくれなかった。

「今の僕は、他の事には目もくれず一心不乱に医者を目指しています。だけど、時々『自分のもっと他の可能性を考えなくて良いのかな』と思うんですよ。もしかしたら僕には医者よりも才能のある事が他にあるかも知れない。それなのに、今、医者一本に絞って良いのかと考えてしまうんです」

「ふーん、なるほどね」

 マスターは自分の分のコーヒーを自分で入れて飲み始めた。マスターの飲むコーヒーはマスターのオリジナルブレンドで、マスターのためだけに作ったもので、店では出していないらしい。自分が一番良いと思ったのなら、店で出せば良いのにと思う。商売なら尚更だ。だけど、マスターは店に出さない。プライドらしい。変なプライドだ。

 僕の医者という夢は、叶えるために色々なものを犠牲にしなくてはいけない。時間も労力も。ただの凡人である僕には高校生だからと言って、青春とかしている時間は無い。早いうちからしっかり目標を定めて勉強をしなくちゃいけない。だから、医者になりたい僕は他の可能性なんか考えずに医者だけを見てやらなくてはいけないのだ。だけど、どうしても、ふとした瞬間に別の可能性を考えてしまう。

「星川先輩がうらやましく感じます。将来何も決めていないという事は、これから何にでもなれる可能性があるという事だから」

「そうかな」

「そうですよ。星川先輩の将来は自由です」

「君はまだ若いな」

 マスターが皮肉気に笑う。

「人生が、せめて数百年あるなら、そんな考えも良いかも知れないけれど、人生は短いからね。星川君みたいにしていると何者にもなれないまま人生が終わっちゃうかも知れないよ」

 マスターはクッキーを一つ掴むと口に放り込んだ。「君も食べる?」と一つ渡してくれたけれど、僕は断った。

「星川君には言った事がある。進むべき道が分からないなら、みんなが進む道を歩いておけって。みんなが進む道を歩くのは楽だから。しかも、それなりの人生を歩める。保険みたいなもんだ。それで、みんなが進む道を歩きながら自分が進みたい道が無いか探しなよって。自分が進みたい道が見つかれば今までみんなと一緒に進んでいた道を捨てて、そこを進めば良いだけの話だからね」

「へえ、そんなアドバイスを」

「そう。だから、星川君、とりあえず大学に行くって」

「えっ、そうなんですか!?」

 あの星川先輩が誰かのアドバイスを聞く事も驚きだが、まさか進路まで決めていたとは。

「星川先輩もちゃんとしているんですね」

「まあね。自由過ぎるというのも困りもんだから、少しぐらい縛られとかなきゃね」

 コーヒーを飲み終えたマスターはカップを洗って片付け出した。僕も紅茶を飲む。紅茶はもう冷めていた。

「君の場合は逆だよ。君が感じている通り、少し自由になった方が良い」

「そう、ですよね」

 でも、今、自由になると、医者になれないのではという怖さもある。

「何事も自分の考えにこだわり過ぎると人生迷子になっちゃう事もある。そういう時は、自分の考えと真逆の事をやってみると上手くいくかも知れない。とにかく、君の場合は行き詰まった時には自分の思う事と逆の事をやってみなよ」

「はい。でも、自由か。どうやったら良いんですかね?」

「まあ、とりあずは色々な事に興味を持ちなよ」

「いや、そんな時間は……」

 僕が言い終わる前にマスターは僕の鼻にデコピンをした。

「痛い!何をするんですか!?」

「時間なんてやろうと思えば作れるんだよ。作りなさい」

 マスターはそんなわけのわからない事を言う。

「あっ、もうこんな時間だ。そろそろ行かなくちゃ」

「塾?いってらっしゃい」

 僕はお代を払うと店の出口に向かう。

「おーい、ミルキーウェイ」

「えっ、なんですか?」

 振り返るとマスターが優しく笑っていた。

「天の川が何で綺麗に見えるか分かる?」

「えっ?」

「たくさんの星があるからだよ。それぞれがちゃんと光っているからだ」

「はぁ」

 何を言っているのか良く分からない。

「だから、人の事なんか気にしないで、自分を輝かせる事だけ考えな」

 マスターにもっと詳しく聞こうと思ったのだが、マスターはもう別の作業を始めていた。

「まあ、良いか」

 僕は店を出て塾へ向かう。寄り道をせずにまっすぐと。

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