忘却

 台本の無い生活には存外、早く慣れた。そもそもあなたはタデウシュ氏となったのだから、あなたの話すことがタデウシュ氏の言葉であって、つまり台本など不要なのである。周囲の人々もあなたをタデウシュ氏と信じて疑わない。疑おうにも、あなたがタデウシュ氏を名乗る限りは、否定のしようがないではないか。台本によって予め世界が決定されていた以前の生活に較べれば、現在の生活に不安定な要素を認めないわけにはいかないけれど、それでもあなたは自分がタデウシュ氏であることへの確信に満ちている。それは揺らぐことがない。自らの一挙一動がいちいちタデウシュ氏を表している。それを何故と思うこと自体がひどく馬鹿げていると思った。


 ただ――あるひとつの懸念が、あなたにはある。


 目の前で自分の存在を放棄した『あれ』を見たという記憶。おそらく以前『あれ』はタデウシュ氏だった。旧タデウシュ氏、今となっては証明しようのないことだが、とにかくある存在がその継続性を失って揺らいでゆく様を目の当たりにしたことだけは、はっきりと覚えている。それは忘れようにも忘れられなかった。目の前には郵便配達夫がいて、銀行員がいて、それと同時に電話機があり、百科事典があり、さらにあなた自身がそこに立っていた。

 このことがあなたの日常生活に深刻な影響をもたらし始める。たとえば煙草を持っているとき、これは煙草だろうかと思う。目で見て鼻で感じてどうやら煙草らしいと考える。だが確証は持てない。煙草と灰皿の違いとは何だろうか。煙草と雨傘の違いとは何だろうか。



 あるとき、あなたは書斎から出られなくなってしまった。扉という存在を忘却したのである。電灯が扉かもしれないし、書架が扉かもしれなかった。すべての存在に扉としての可能性があり、それを排斥することができなかったのだ。

 あなたの悲鳴を聞きつけて、書斎に入って来た執事は、そこで暴れ回るあなたを発見する。「部屋から出られない!」、――執事が指差してこれは扉だと示し、手で触らせ、それでようやくあなたは、ひとまず扉の存在を再び認めることができた。しかしそれも曖昧なものでしかなく、世界はますます不確かなものへと変わっていくようだった。

 ――変わっていく? いや世界とは元来、不確かなものではなかったか。世界とは揺らぎ続ける波のようなものだ。青は赤かもしれないし、水は草かもしれない。その逆もまた然り。そんな気がするというだけのことだ。ただそれを見つめている自分だけがそこに在るばかりだ。もしかしたら、あなたがここにいるというのも存在の揺らぎのひとつに過ぎず、未だにあの夜の画廊で、あなたはタデウシュ氏の枯葉色の背中を眺めている最中なのかもしれない。不案内な画廊、壁に飾られた風景画、タデウシュ氏の面影――記憶の奥底に沈んだ一片の印象。


 もはや使用人や愛娘でさえ、その存在に揺らぎが生じていた。それを回避することはできそうになかった。邸を歩き回る人々が無機物に見える。彼らは甲斐甲斐しくあなたの世話をしてくれる。

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