タデウシュ氏

「旦那様」


 猫眼の執事は怪訝な顔をして、ノックもせずにあなたの書斎に現れた。


「たった今、玄関に――旦那様を名乗る方が現れまして、これは全体どうしたことかわけがわかりませんが、とにかく妙なのです」


 あなたは黙ったまま、手で合図して、応接室に通すように指示する。応接室の様子は、あなたが最初にこの邸を訪れたときと同じく、窓の外が真昼で明るすぎるために、部屋の四隅に薄闇が蟠っている。ものの陰影がこわいくらい明瞭で、嫌な気持がした。

 タデウシュ氏が来た。いやタデウシュ氏の気配が来たというべきか。その枯葉色の外套には確かに見覚えがあったが、氏の顔には何の印象も無かった。「顔が無い」。それはまさしく虚無と言うべきで、何も見えないものがそこにあるのだった。タデウシュ氏はタデウシュ氏らしさをそこの外套に残すのみで、あとは何も氏を保証していない。タデウシュ氏は郵便配達夫のように見えたし、銀行員のようにも見えた。あるいは電話機のようにも見えたし、百科事典のようにも見える。そしてあなた自身にさえ見えるのだった。氏の存在はそこに確定せず、すべてをあなたの解釈に委ねている。こうなることがタデウシュ氏の狙いだったのか。ふとすべてを理解したが、その理屈がわからなかった。とにかく氏は自分を忘れてしまったに違いない。そこにあるのは存在の揺らぎでしかなかった。

『それ』は枯葉色の外套をあなたに手渡そうとする。


 ――タデウシュ氏を押しつけられてしまう。


 咄嗟にそう思ったが何もできなかった。そのあとは、もう、そこには何もない。タデウシュ氏は、だれでもないだれかとなり、ここではないどこかへ行ってしまったのだ。

 タデウシュ氏の外套を抱えて、あなたは、自身に与えられた二つの選択肢について考えている。ひとつはこの外套を置いて立ち去ること。タデウシュ氏の小切手によってしばらくは無為徒食を続けることも十分に可能だし、あてもなく旅に出ることもできるはずだ。もうひとつはこの外套を着てタデウシュ氏になること。実際、あなたはもうタデウシュ氏のことを忘れている。ただこの外套の枯葉色が氏のイメージを想起させるだけだ。いや違う。タデウシュ氏はきっと――試しに袖を通してみると、それは実に自然で、自分の曖昧な輪郭に力強さが与えられたように感じた。そのときすでに予感してはいたが、鏡を覗くとあなたはすっかりタデウシュ氏になっている。それはどう見てもタデウシュ氏だった。異論の余地はまるで無かった。



 こうしてあなたはタデウシュ氏になった。

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