期日
【場面2962――書斎】
タデウシュの書斎にメリユが入室する。
メリユは制服のスカートの裾を両手で持ち上げ、膝を折って挨拶する。
メリユ ただいま、お父さま。
タデウシュ おかえり。向こうは寒かっただろう。
メリユ いいえこちらと同じくらい。だけど、何も変わりがないようで結構でしたわ。向こうでは色々とあって、学校のことですけれど、ずいぶんと忙しく毎日を過ごしていましたの。どうかしら、私はすこし大人びて見えるのではなくて。
タデウシュ いや夏のころと変わらないね、どうもおまえは子供のまま年齢を重ねるようなところがある。
メリユ そんなことはないでしょう。すこし髪が伸びてお母さまに似てきたと自分では考えているわ。
タデウシュ あれはもっと美しかったじゃないか。
メリユ いつもそう仰有るから別に気にすることもないのだけれど、なんだか可笑しいのね、とにかくお母さまの写真にもただいまを言って来ましょう。
タデウシュ そうしたらいいよ。
メリユ 言って来たけど、お母さまのお部屋はとても片付いているのね。
タデウシュ ハープシコードを調律したから、そのとき掃除もしたんだ。
メリユ あらそうなの。もう誰も弾くひとがいないのに。
タデウシュ そうなんだが、それでは寂しいから。
メリユ でも私が帰ってきたから嬉しいでしょう。
タデウシュ そうだ。いつまで居る。
メリユ 休みのあいだ、ずっと。
タデウシュ それがいい。自分の家なんだから寛ぎなさい。
メリユ どうも有難う。
タデウシュ おいで。
そして台本の指示するとおりに会話を続けたあなたは、同じく台本が指示するとおりにメリユの頸に口づけする。それがこの父娘の習慣であったのかは定かではないが、それを嫌がることもなく受け入れたメリユの態度に芝居じみたところは見受けられなかった。その後もメリユはいささか度が過ぎると言わざるを得ないほどあなたに甘えたがり、ことあるごとに媚びてみせるのだった。臆面も無く接吻や抱擁を重ねてあなたを父と慕うメリユの登場によって、あなたは、いよいよ自分をタデウシュ氏なのだと錯覚せずにはいられなかった。
快適な自邸、忠実な使用人、仇気無い愛娘、そして毎日配布される台詞。この生活がいつまでも続くならどんなに素晴らしいだろう。夕刻になれば台本によって翌日の凡ゆる事象が決定し、そこに不可能の闖入する隙は微塵も無い。タデウシュ氏を演じている限りは、その役柄は絶対であり、あなたが恐れる虚無――存在に対する不安――が襲ってくることもない。
そもそも――タデウシュ氏とは何なのだろうか? 氏は存在しているのだろうか? そんな疑問さえ湧いてきた。氏はどんな顔つきをしていただろうか? 声はどうだったか? 背丈は? 何も覚えていない。ただ記憶の奥底に氏の枯葉色の後ろ姿があるばかりだ。今やそれすらも消えかけた灯のように頼りない。日々送られてくる台本は相変わらず、あなたをタデウシュ氏に指定する。
しかし刻一刻と終幕は近づいていた。半年という歳月は長くもあり、短くもあった。ある日の夕刻に送られてきた郵便物は、いつもの分厚い台本ではなく、約束の金額を記した小切手と、これまでの演技を労う言葉を綴った手紙だったのである。いよいよタデウシュ氏の演劇は終りを迎えようとしていることをあなたは悟った。
あなたは初め、この劇の延長を申し出るつもりでいた。正直なところ、以前の生活に戻ってゆく自信がまるでなかったし、考えてみればそれは当然のことだと言えた。台本にすっかり慣れてしまった今の生活をそう易々と忘れられるものではない。たとえば台本生活を続けつつ、段階的に台詞の量を減らして、かつての生活に慣らしていくとか――そういった手順を踏んでもらわなければ困る。その要求は決して理屈の通らぬものではないはずだ。
朝が来た。台本に決定されない不安に満ちた朝。一秒後に何が起こるのかもわからない。いつものように執事が寝室を訪れて「おはようございます」と言ったが、あなたは咄嗟に出る言葉を有しなかった。台詞以外の言葉を話すのがあまりに久しぶりだったからだ。結局、タデウシュ氏が帰宅するそのときまであなたは沈黙を守らざるを得なかった。メリユはそんなあなたをひどく心配して、いろいろと世話を焼いている。
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