娘
その日以降、台本は毎日夕刻に届いた。そこには翌日の台詞がこと細かに記されており、すべてタデウシュ氏の肉筆であった。台本の冒頭には赤字で「この台本に従って一日を過ごすこと。台本に無い台詞は、一言でも喋ることを許さない」と、強調して書いてある。
基本的に台本上のタデウシュ氏は外出をしなかった。いつも書斎にいて読書か書き物をしている。たまに訪問者があると階下の応接室で応じた。訪問者はさまざまで、すべて知らない顔だったが、相手は当たり前のようにあなたをタデウシュ氏として認め、台本に指定された通りの会話を行う。だとすれば、これら訪問者はすべてタデウシュ氏が用意した役者なのだろうか?
【場面92――応接室】
雨が降っている。
タデウシュと訪問客の会話。
訪問者 気が滅入りますな。こうも雨続きだと。
タデウシュ ……ええ。
訪問者 どうかなさいましたか。
タデウシュ すこし目眩が。いえ、大丈夫です。
訪問者 顔色が優れませんな。
タデウシュ 雨です。
訪問者 雨。
タデウシュ ええ。雨の所為でしょう。このところずっと降っている。薄暗い部屋で雨音を聞いていると、ふと扉の向こうに、フラウが佇んでいるような気がするのです。
訪問者 そういえばこの時候でしたか。奥様を亡くされたのは。
タデウシュ そのときも雨が続いておりました。
訪問者 突然のことだったそうで。
タデウシュ もともとあれは虚弱でしたから。……それにしても、このように雨が降る邸内にあっては、未だにフラウの幻影を見ますよ。時折、ハープシコードの音色が響きます。それを奏でる者は生前のフラウしかいなかったというのに。ええ気のせいだと仰有るのでしょう。それは承知しています。
訪問者 しっかりなさってください。
タデウシュ ええ――
このまま台本に従って生活していると、いずれ自分はタデウシュ氏になってしまうのではないかと思うことがあった。空想――このままタデウシュ氏は自邸に戻らず、いつまでもあなたに台本が送られ続ける。ひょっとすると、それこそがタデウシュ氏の目論みなのではないか。いや、まさかそんなことが。
けれども台本に従って行動する生活は、慣れてしまえば何と言うこともなかった。むしろ快適だと感じることもあった。一日の事柄がすべて決定しているなら何を心配することもなく過ごせるじゃないか……そうだ、気がつけば、仕事を辞めてからあれほど悩まされていた言い知れぬ不安が薄れている……もしかするとこの奇妙な演劇に自身を没頭させることには、何か好ましい効用があるのではないだろうか。あなたはそう考えるようになった。そうしていつしか、一日の台詞が自然と頭に入るようになり、台本を持ち歩かずとも台詞を諳んじることができるようになってしまう。それどころか、台詞のみならず、その所作にもタデウシュ氏らしさが伴うように思われた。
ある日、生活に新しい要素が加わることになった。冬休みになったということで、タデウシュ氏の令愛が寮から帰ってくるというのである。名をメリユといった。メリユの容貌については既に写真で知っている。タデウシュ氏の書斎には二葉の写真があり、ひとつは亡妻、もうひとつが愛娘メリユのものである。書斎机の抽斗にはメリユからの手紙や贈物が大切に保管されており、その寵愛ぶりが窺われた。この娘もまたタデウシュ氏の演劇に関わってくるのだろうか? 彼女にも台詞が配られているのだろうか? 写真に映るメリユは氏の亡妻に似てひどく美しいがどこか不機嫌そうでもあり、その灰色の瞳は、この世界におもしろいものなど何ひとつない――とでも言いたげに暗く澱んでいた。写真の印象からは、彼女がこのタデウシュ氏の狂言芝居に付き合うような性格ではないように思えてならなかった。邸の使用人はともかく、メリユはいよいよ「馬鹿げている。こんなことをする必要は無い」と言い出すかもしれない。
しかし、あなたのその心配は杞憂に終わることになる。なぜならメリユの学校が冬休みとなる前日に送られてきた台本には、あなたとメリユとの会話も他と同様に詳細に記されており、帰宅したメリユは、驚くほど従順にその台本に従ったからである。
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