依頼
「そうです。タデウシュを演じてくれませんか。私の服を着て、私の部屋に暮らし、私のように振舞ってください。洋行中、あなたには毎日、一日分の台本を送ります。あなたにはその台本に従って生活していただく。その際、台本に無い台詞は一切口にしてはいけません。それを半年間です。これが仕事の内容ですが、いかがですか」
あなたはタデウシュ氏の顔を見る。いつ破顔して冗談だと明かすのか待ったけれどもそうではなかった。おそらく氏は本気で言っているのだろう。
「タデウシュ氏、私は生活に窮しています。その不可解な申し出に対して安易に頷いてしまうほどに」
「では引き受けてくださるのですね」
「何故そのようなことをするのか、伺っても構いませんか」
「いや何、疲れただけですよ。自分でいることに疲れたので一旦、自分を止して、旅に出ることにしました。つまりそういうことです。そのため、自分を私室に脱ぎ捨ててゆくという意味で、あなたに半年間、自分を――つまりタデウシュを――演じてもらいたいのです。そうしていただければ私は安心できる」
「よくわからない」
「私のための演劇です。あなたには何の意味もありませんから」
「その半年間の公演には、あなたの邸の方々も参加なさるわけですね」
「無論」
「先ほどの執事や家政婦の方々にも台本を?」
「そういう心配をあなたがなさる必要はありません。ただあなたは台本に従ってタデウシュとして生活してほしいのです」
「それにしても何故、私なのですか。他に適任の方がいるのでは? 私はあなたとは年齢も違うし、容貌も似ていない」
「だからこそあなたが適任なのですよ」
「おかしな話ですね」
「無理な頼みだと理解しています。それについては報酬の金額に反映させたつもりです。前金でいくらかお渡ししましょう。決して遊びではないのです」
「いつから始めるのですか」
「ええ明日にでも」
「明日」
「そうです。明日から。申し訳ないが、考える時間を与えることはできません。今ここで決断してください」
その言葉のとおり、翌日から唐突に始まったタデウシュ氏の奇妙な演劇は実に徹底したものだった。氏は事前に当日分の台本をあなたに手渡し、「この台本は朝までにできる限り暗記し、台詞はすべて正確に発話すること。指定した台詞以外のことは一言も喋らないこと。その日の台本は、その日のうちに焼却すること」等を厳しく言いつけた。そして鞄ひとつ持たずに旅立ってしまったのである。台本は朝の部、昼の部、夜の部の三構成で、とても丸暗記できる分量ではなく、演劇が開始した当初は台本を隠し見ながらでなければとても間に合わなかった。それにも関わらず、邸の人々は台本を見る素振りを見せず、完璧に台本の進行に従うので、すこし気味が悪いと感じた。そもそも、劇が開始する前に邸の人々と顔合わせするわけでもなく、何の挨拶も無いままにこうした生活が始まったので、何とも急なことである。
初日――タデウシュ氏の寝台で目を覚ましたあなたは、まだ半信半疑だった。本当に台本どおりにこれから半年間、生活を続けるのだろうか。案外、邸の使用人たちは主人の奇行に眉を顰めていて、「馬鹿げている。そんなことをする必要はありませんよ」と笑って答えるかもしれないではないか。と、そうした疑いはすぐに晴れることになる。台本に記されたとおりの時刻に寝室の扉を叩く音がして、台本に記されたとおり「旦那様、朝でございます」という声がしたからだ。そして猫のような眼をした男が入室した。「おはようございます」、その所作は実に自然である。
「朝食をお持ちしました。本日の予定ですが、13時に調律師が訪れることになっております」
「そうか。すぐに済むという話だったが」
あなたは台本を横目に応えた。
「長引くようなら来週にまた来てもらおう」
「かしこまりました」
「下がってよろしい」
「失礼します」
男が退室する際、あなたは曖昧に目配せしてみた。今後の演劇生活における共犯者めいた意味合いを含むものだったのだが、男は一瞬だけそれに気づいたものの、わけがわからないといった風で、ちょっと首を傾げてから深々とお辞儀して室を出ていった。
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