手紙

 路面電車がのろのろとやってくる。電車内では何も見ないようにしている。公共の場が殊更おそろしくなった。数多くの顔がそこに浮かんでいる。その内のひとつと、自分の顔とが、何かの拍子で入れ替わってしまわないとも限らない。あるいは顔を置き忘れていくことだって考えられる。きっと駅の遺失物係には置き忘れられた顔が多くある。「顔はありませんか」あなたはいつの日か遺失物管理室を訪れてこう言うだろう。案内された場所には夥しい顔が保管されている。あれが自分の顔のような気がするし、それが自分の顔であるようにも思えて、いつまでもあなたは自分の顔を探して歩く。……悪夢のような空想は路面電車を降りると途切れた。あなたは鍵を鳴らしながら自室のあるアパートメントへと歩き始める。そんなはずはないじゃないか。自らに言い聞かせる端から、悪夢が忍び寄ってくる。


 そこで新聞を覗き込んでいる男は、もしかしたら自分ではないか? 

 あそこで目深に帽子をかぶっている男は、自分ではないか?


 あなたは足を早める。自室の扉に鍵を差し込むとき、すでに部屋には自分がいて、たったいま扉を開けたあなたを見ながら「お前は誰だ?」と驚愕するのを、これまでにどれだけ空想してきたことだろう。扉を開ける。室内には無論だれもいない。見慣れた私室――あなたの部屋は殺風景だ。蔵書も時計も何もかも質草となって消え、ただ寝台と椅子があるばかり。腰かけた椅子はいよいよ悲痛な声で啜り泣きをする。現実的な問題として、あなたには収入がなく、貯金は減るばかりで明日の生活もままならない。ここ数日というもの食事は顔が利く馴染みの店ばかりだった。こうした目先の生活苦は、それに頭を悩ませることで、存在に対する不安という観念的な恐怖を一瞬でも忘れるのに役立つのだったが、しかし、辞職してずいぶん経つわけで、そう言ってもいられないほど生活が困窮してきたのも事実である。旅に対する憧れは依然として抱き続けていたものの、先立つものがなければ旅になど行けそうもない。



 タデウシュ氏からの手紙を受け取ったのは、ついに電車代すら捻出するのに困るほど生活が追い詰められたある日のことだった。手紙によれば短期の仕事を紹介するという。興味があれば委しく話すから自邸に来てくれということだった。あなたはタデウシュ氏を訪ねることにする。

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