あなたは辞職してすぐに引っ越し、その狭い貸部屋で様々な活動を目論みた。そして悉く挫折した。まず初めにやったのが執筆で、19章から成る長篇小説の草稿を書き上げたが、しかし結局それは破棄してしまった。あるいは楽器を始めてみたり、標本や切手の蒐集を始めてみたりもしたが、どれも長続きしなかった。自叙伝の構想を膨らませ、遺書の作成に着手したこともある。それらも失敗に終わっている。自画像に凝ったこともあったけれど、室内に自分の顔が殖えていくのはおそろしいから、すぐにやめた。今は図書館に通って伝記と史書を読み耽り、気が向けば美術展に足を運ぶ毎日を送っていた。


 再就職を世話しようという知己は少なからずいた。けれどもそれは断って、ずっと部屋に篭っている。あなたは日記をつけるようになった。自分が昨日と違っていないか不安でならないから、日記にはその日の行動のみならず思考内容まで逐一記録している。自分の影がこわい。夢を見なくなった。いずれ旅に出ようと思っている。またかちりと鍵が鳴った。

 街を歩いている人々の顔に、大きな穴が空いているように見え始めたのがどういうわけなのか知らない。顔が多すぎる。どれがどれだか判別できない。何もかもよそよそしく感じられた。郵便配達夫、銀行員、裁判官、建築家、車掌、書店員、学者、学芸員、気象予報士、……すべての顔に虚無がある。あなたは不安を感じる。何も他人の顔だけじゃない、市街のどこかには大きな虚無が口を開けていて、いずれ自分はそこへ呑み込まれてしまうのではないか。鏡がおそろしい。隣室の男が「俺の隣には偏執狂が棲んでいる」と言っているのを立ち聞きしたことがある。隣人にも顔が無い。


「天使か」

 路面電車を待ちながら、あなたは考えた。


 ――あの店主が天使を見たとして、それがどうして有り得ないなどと言えるだろうか。彼がそうだと言うのなら、結局のところそうなるしかない。少なくとも彼にとっては。……いや天使がこわいのじゃない。彼も言っていたじゃないか。天使を見た自分がこわいんだ。天使に限らず、そういうもの、自分の生活する領域に『そういうもの』が闖入してくるのがおそろしいのだ。そうして、その闖入を許してしまった自分が、何よりもこわい。

 不可能の闖入――もっとも恐れるべき闖入者が自分自身であることは断言してもいいだろう。あなたは貸部屋に暮らしながらそのことを第一に憂慮している。扉を叩く音がして、その向こうにあなた自身が立っていたら。もし自分自身から電話がかかってきたら。もし自分自身から手紙が届いたら。そのときは自分の顔にも虚無が現れるかもしれない。やがて足元に大きな虚無が開いてそこへ呑み込まれてしまう。

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