美術館を出たのは正午だった。


 空腹を覚えたあなたは坂道を下って馴染みのレストランへ向かう。まだ開店時間には早かったが、頼んで入れてもらった。


「仕事を辞めてからずっとその調子だね。昼間だというのに栓を抜く」


 パスタを茹でながら店主が言う。すこし迷ったものの、結局開けた白ワインの瓶を目の前に置いて、あなたは苦笑いした。開店前の店内に点在する五つの卓は無人で、カウンター席に腰掛けているあなたが唯一の客である。


「とても芳い香りだ」


「そうかい」


「さっき天使展に行って来たよ」


 あなたはグラスを置き、紙入れから特別展の半券を出して見せた。


「でも期待したほどではなかった」


「そうか。友達はよかったと言っていたんだが」


「いや画の評価はさておき、私のイメージする天使像と展示物とが食い違っただけのことだ。店主、あんたは天使を見たと言ったね」


「ああ。見たよ」


 こともなげに言う。


「画学生の頃にね。留学先の画材屋で天使を見た。……おまちどうさま」


「ありがとう。それでその話、委しく話してみないか」


「だって正午だよ。これから混み始めるというのに」


「本当の開店時間はまだ先だろう」


「それもそうだが。では話すが、しかし皆が冗談話だと決めつけるのに、君はすこし妙だね。仕事を辞めたとも言うし、何かあったのか」


「それより天使をみた話を」


「うん」


 店主はカウンターの向こうから出てきて、あなたの隣に腰掛ける。


「もう十数年も前の話になる。青の絵具が無かった」


「絵具」


「それがその画材屋を訪れた理由だった。小さな店で――小奇麗な店内で目当ての絵具はすぐに見つかった。だが買い求めたくても店主がいない。私は店主を呼んだよ。誰も出てこない。それなら机に代金を置いて帰ればよかったのに、私は階段を上がった。というのも、上階に人の気配がしていたからね。上階には二室あり、奥の方で風の吹く音がした。窓が開いているのだろう。なんとなくそこを覗くと天使がいた」


 店主は遠い目をして話を続ける。


「それは天使だったよ。すぐにそれと知れた。なぜだろうね。室の真ん中に静止しているそれは生きているわけでも死んでいるわけでもなかった。私は奇妙に落ち着いていて、ああ天使がいるなと思った。それから待っても一向に店主が現れないのに痺れを切らして、代金を置いて店を出た。こわくなったのはその夜、ベッドに入ってからさ。どうして画材屋の二階に天使がいたのだろうと今さら不思議になったわけじゃない。天使を見た自分自身がこわかったんだ」


「それでどうした」


「天使の画を描いて名声を得たとでもすれば、ちょっとした奇談だが、現実はそうではない。その後、自分に画才の無いのを悟って帰国した。それで料理人になって、自分の店を持つようになり、今そのことを君に話しているというわけさ。生憎、事の顛末みたいなものはないが――ただ時々こわくなるね。誰もいない静かな場所で一人きりでいると、あの天使のことを思い出すよ。あれは今でも鮮明に覚えている。それを見た自分自身のことも」


「不思議な話だな」


「信じるのか」


「たぶんね。世界には不思議なことが数多くあるのだろう。あるはずのものが無かったり、ないはずのものが在ったりして」


「変なことを言うじゃないか。君は別人のようだ」


 別人と聞いて、あなたは店主の顔をまとも見た。――別人? ふと以前の職場を思い出して嫌な気持がした。


「いま別人と言ったね」


「言ったよ」


「私は以前と何か違うか。顔や声が変わっていたりするだろうか」


「いやそういう意味じゃないよ。ただ変なことを言うからさ。以前の君は天使を見たなどという話は一笑に付していたじゃないか。それなのに妙だと思って、別人と言っただけだ。そんなに周章えて一体どうした」


「なんでもない。ちょっと疲れているんだ」


 再び口をつけた白ワインは味気なかった。早々に食事を済ませて、何ということなしに窓の外を眺めていると、やがて開店時間になって客が大勢やってきた。挨拶も程々にして店を出る。


「ごちそうさま」


「また来てくれ」


「ありがとう」



 店の前で煙草を取り出そうとすると、かちりと音がした。あなたの外套のポケットには鍵が入っている。仕事を辞めてから、新しく借りた部屋の鍵だ。この鍵によって入室できる部屋はまるで屋根裏部屋のように狭いのだが、見晴らしはよく、とても気に入っている。

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