聯想
【No.1】
天使。美しいが肌は罅割れ、その羽根はかつての純白など思いもよらぬほどに褪せている。この天使は一人の少女の前に姿を現す。少女は病に臥せており、その病はおそらく肺病である。ひっそりとした暗い私室で虚空を見つめているこの少女は植物のように微かで、重たい呼吸をする。少女の寝台には死が忍び寄っていた。
天使の登場。それにしても――この病身の少女が、驚くこともなく天使の登場を受け入れたのが解せない。空間を歪ませ、朽ちかけた羽根を広げて虚空から現れたその天使は悪夢のようにおぞましく、死神に見えないこともなかった。けれども少女はその天使の訪問に対して微笑さえ浮かべるのだった。もしかすると少女は、この天使を予感していたのかもしれない。
天使は細く長い指先で少女の顎を持ち上げると、薄く眼を開いたまま接吻した。すると背中の羽根は見る見るうちに朽ち果て、腐り落ち、砂のように流れてゆく。そして天使は掻き消えた。そこにはただ眼を閉じて半身を起している少女がいるばかりだった。
夕刻、母親が少女の私室へ様子見に行くと、一面に羽根が散乱している室の中心であたかも睡蓮のごとく昏々と睡る少女をそこに認めることになる。ここで何があったのか――おそるおそる少女を揺り起こすと、彼女は眼を覚まして大量の羽根をその場に嘔吐した。唾液に塗れた羽根を寝台に撒き散らしてから、僅かに水を飲み、ふと微笑んで答えた。「夢を見ていた」と。
……ここでイメージは途絶える。
この後、少女が死んだのか、はたまた奇跡的に恢復したのかはわからない。物語の結末としてはどちらも有り得るような気がする。
【No.2】
特に出入りを禁じられているというわけでもなかったが、その第二教員棟には誰も近づかない。時折、何か特別の用事があって高等部の生徒が訪れる以外は、いつも森閑としていて、黒いフロックコートを羽織った教員たちが静々とその古びた扉へと入っていくのを見るだけだった。池に面した東側には巨大な窓々が設計されていたが、その大半を蔦が覆っているので、内部の様子は窺えない。ひどく古い建物であった。高く聳える尖塔をいくつも持っていた。
ある尖塔には時計が嵌めこまれていた。よほど昔に壊れたということで時刻は21時15分で止まったまま。錆びついた短針がⅨを、歪んだ長針がⅢを指している。この21時15分という時刻に第二教員棟内で何らかの怪異が起こる……というのは校内においてよく囁かれる噂だったが、「何年も前に卒業した先輩が見た話」として語られるような根も葉もない話だった。
長い回廊。螺旋を描いて伸びる階段。目眩を覚えるほどの吹抜き。
エントランスはいつも薄暗い。
棟内には非実用的な空間が多く、怪談に怯える年頃でもない高等部の生徒ですら、ここを歩くときには不思議な緊張を感じるのだった。ひどく静かで、歩き慣れない来訪者は必ず耳鳴に悩まされた。それに、三段とか五段のささやかな階段が多く存在し、部屋と部屋を行き来する度にそれらを上る必要があるため、生徒にも教員にも、見かけ以上に広大な空間をそこに錯覚させているらしかった。この小迷宮とでも言うべき建築物に好んで出入りしている女生徒がいるということを、おそらく誰も知らなかっただろう。その老教員も知らなかった。彼は第二教員棟三階に二室を学校から与えられており、一方は書斎、一方は美術室として使っている。
書斎に入室した老教員は長椅子に腰かけて頭痛薬を飲んだあと、小箱から眼鏡を取り出して、先ほど届いたばかりの文芸誌に目を通していた。室内の静寂を破るものは、その最新号の頁を繰る微かな音だけだった。窓にかけられた薄いカーテンから、やわらかに差す朝日が、机上の水差しをきらきらと輝かせている。快い朝の時間だった。
――物音。
老教員は眼だけを素早く隣室に向けた。第二の音を待ったが、何も起こらないのでそっと腰を上げる。隣の美術室へと続く扉を開き、中を窺ってみると、画架が倒れていた。立てかけ方が悪かったのか。老教員は室内を見回したあと、その画架をまた壁に立てかけて、書斎に戻った。それからすこしの間、隣室が気がかりだった。しかし気にしないことして、また誌面に目を戻す。一行も頭に入らないまま予鈴が鳴り、仕方なしに老教員はフロックコートを羽織って、書斎から出て行った。
老教員が行ってしまったあと、隣室の陳列棚の陰からそっと姿を現したその女生徒は、画架を一瞥してから足早にこの室を出て行くのだった。
「美術室には、老教員が海外で買い求めた天使人形が置いてある。」
「それは夭折した少女作家の手によるものであるらしい。」
「女生徒はこの天使人形を見るために、毎日美術室へ忍び込んでいる。」
その年の冬、冷たい美術室で気絶している女生徒が発見される。幸いにも大事には至らなかったが、なぜかその場には純白の羽根が散乱しており、天使人形が消失していた。何があったのかと訊ねても女生徒は黙ったまま。
……ここでイメージは途絶える。
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