役者

『白い船』の扉を押すと、扉の鈴が涼しい音を立てた。階段のそばの奥まった席にタデウシュ氏の背中を見つけた。氏の姿を見つけるときはいつも決まって後ろ姿だなと考えながら、あなたはその席に向かう。


「こんばんは。気が向いたので来ましたが、よろしいですか」


「ようこそ」


 タデウシュ氏は微笑んだ。あなたの前にグラスを寄越して食前酒を注ぐ。


「待っていましたよ。仕事が忙しいのではないですか」


「ええ。しかし今夜は偶然にも予定が変更になったのです」


「それは結構。お仕事は公務でしたね」


「それに近い仕事です。おや以前に話しましたか」


「なんとなくそんな気がしただけですよ」


「あなたの仕事は何なのです」


「何でも、どんなことでも」


「はぐらかさなくてもいいでしょう。また夢想家なんて言うのは勘弁してください」


「役者というのが最も的確かもしれませんね」


「役者ですか。何と言う舞台に出演なさったのです」


「世界とは一冊の落丁本に過ぎない」


「――それが作品名ですか」


「いえ私の持論です」


「どうも要領を得ませんね」


「あなたは納得のいかない顔をしている。それも無理はありませんね。私は街頭役者なのです。劇団に所属せず、依頼を受けずとも気まぐれに他人の人生に押しかけて出演する。――あなた、死んだことは?」


「失礼、何と仰有いましたか」


「死んだことはありますか。私は百回ほど死にましたよ。役者として」


「ずいぶん死んだのですね」


「並大抵のことではありません」


「どうなるのです」


「自分を殺すようなものです。他人になりすまして、それで死ぬわけです」


「どうして役者になったのですか」


「さあ、とても一言では。……昔、若かったころ、誰もいない部屋の壁に映った自分の影を見て思った。これからも自分は自分のままなのだと――当たり前のことだが――だから役者になって他人になりすますことにした」


「楽しそうですね」


「ある程度はね。上演ごとに自分を止して他人になる。もっとも、上演が終ればまた自分に還るわけで、そのときは虚しさを感じることもある。語るべき台詞もなく、ただ残酷なほどそのままの自分がいるだけです。そこには観客もいない。ただ暗闇があるばかり――目下、このことに頭を悩ませています」


「あなたは自分がお嫌いですか」


「いいえ。嫌っているわけではない。たぶん自分というのは、自分を自分だと思い込んでいるから自分なのであって、そう思わなければ自分ではならなくなる。そう考えると気が楽です。現時点では私はタデウシュで、あなたはあなただが」


「ちょっと理解できそうにないな」


「すべて気のせいだということですよ。あなたに指示を与えた執務室の連中もそう考えているはずだ」


「タデウシュ氏、どうしてそれを知っているのですか」


「あなたの所属する組織の執務室が果たす役割は非常に興味深い。その意味するところはこうです。過去も未来も存在せず、ここに在るのはただ現在だけだと。我々は瞬間を生き、一秒ごとに滅びながら甦る」


「それは、あなたの演劇哲学か何かですか」


「現段階ではそうだとお答えしておきましょう。つまり実践してみると、このように、世界の片隅で静かに呼吸すること。静かに自分を、世界から遠ざけてしまう――そうこんな具合です」



 沈黙。タデウシュ氏はまるで死んだように動かなくなる。ふと頬を撫でると冷たい。息をしていない。肩を揺さぶってみたが、まるで動かなかった。そして数分が過ぎた。果たしてそれが名演なのか、本当に死んでしまったのか、あなたには判断できなかった。背の高い給仕が前菜を運んでくる。そして食前酒のグラスとタデウシュ氏を担ぎ上げて「こちらはお下げ致します」と言う。


「それをどうするのですか」


「お済みのようですから」


 給仕は粛々と奥へ歩いていく。

 あなたは、その後、次々と運ばれてくる料理を口に運びながら、自分でもよくわからないが突然、今の仕事を辞めようと思ったのだった。そしてしばらくは何もしないで暮らそうと考えた。主菜にフォークを突き立てながら、以前から漠然と抱えていた存在に対する不安と、旅に対する憧れが強まるのを感じた。――と、その夜は仕事を辞めようと突発的に決心したものの、しかしそれを易々と実行に移すほどあなたは感情的でもなかった。対策委員会での一件も片付いたことだし、同僚や上司に不満があるわけでもない。ただ漠然とした不安があるというだけで職を辞するのは軽率であると考えて思いとどまった。それは賢明である。そんなあなたが結局、辞表を提出することになった経緯は次のとおりだった。


 つまり、ある日出勤すると部長の身長が縮んでおり、昨日までなかった顎髭が蓄えられている。室長の変貌に比べればそれは誤差の範囲内で済ませられそうだったから、特にこだわりはしなかった。問題は部長があなたに伝えた話の内容である。曰く、近くあなたの昇進が正式に決定し、と同時にF社の調査が打ち切られる云々。その突然の昇進や調査打ち切りには執務室が関係しているらしく思われたが、それについては部長も明確に否定はしなかった。訳がわからなかった。昇進にも調査打ち切りにも心当たりはない。特にF社の調査は急務のはずで、それは今後の計画に重要な意味を持つものであったはずだ。それを易々と中止していいのだろうか。


 あなたは自分のデスクでしばらく考え込んだ。

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