執務室
「あの」
給仕が声をかける。頬杖をついたままそちらを向いた。
「なんです」
「お電話です」
「電話」
「店の電話にかかってきたのですが、あなたをお呼びです」
「だれですか」
「タデウシュ氏です」
あなたは席を離れ、階下の電話まで歩いていく。
「もしもし。私です」
「タデウシュです。先ほどは挨拶もせずに失礼して申し訳なかった」
「いえお構いなく――」
「次の土曜日は『白い船』で食事をする予定です。21時ですが、もしよければご一緒にいかがです。いま返事を頂かなくても結構。気が向いたら来てください。では」
「もしもし」
それで電話は切れてしまった。力なく受話器を置く。ふと耳鳴がした。喫茶店の客たちの話し声が上階から渦となってあなたの肩に落ちてくる。粉々になって意味を失った会話の断片があなたの肩上で散った。ふと見上げると、二階席の欄干から給仕が顔をのぞかせている。彼は嫌々をするように首を振って、顔を引っ込めた。あなたは席に戻ることなく会計を済ませて外に出る。
白い船というのは大通りにあるレストランの名だった。次の土曜、午後九時――手帳を繰ってしらべると、その日は対策室へ赴かなければならないことになっていた。おそらく仕事は夜遅くまでかかるだろう。どうやらタデウシュ氏との会食は実現しそうもない。手帳を閉じた。あなたの外套にはまだタデウシュ氏の葉巻の香りが微かに残っている。
執務室から予定の変更を知らされたのは土曜日のことだった。
室長が、書類を鞄にまとめているあなたに声をかけ、第七対策委員会はなくなったということを告げた。あれほど難航していた第七対策委員会が――と訝ったあなたは、すぐに執務室が関係したのだろうと勘づく。室長に確認すると、はたしてその通りだった。執務室は、組織に生ずる様々な問題を一手に引き受けて処理するダストシュートのような部署であり、執務室の指示ひとつであなたの仕事は容易く変更になる。それをあなたは不可解に思うことがある。しかし、組織に所属するということは、上の指示に従って行動するということ。その方針にいちいち口を挟むべきではない。それがあなたの考え方だった。とはいえ第七対策委員会が突如として消えたことには少々面食らってしまう。
「やはり執務室ですか」
「連絡があった。いつものことだ」
「いよいよと思っていましたが、どうにかなったわけですね」
「そういうことになる」
「長引くばかりで、解決の糸口が一向に掴めなかったというのに」
「さすが執務室といったところだな」
「しかし、そうなると、執務室も意地が悪い。もっと早く関わってくれたらよかったと思わないわけにいかない」
「そういうわけにもいかないのだろう。執務室には執務室の事情があるだろうし。あれもこれもと各部署が問題を持ちこんではどうしようもなくなる」
「それはそうですが。それで完全に解決したわけですか」
「執務室がそう言うのだから」
「どうも納得できませんね」
「だからと言ってどうすることもできないだろう」
「しかし」
「とにかく、そういうわけだから、今日の会議は中止だ」
「ええ」
あなたは時計を見る。図らずもタデウシュ氏が指定した時刻に間に合いそうだった。帰り支度を済ませてビルを出たとき、空にはまだ夕日の色が残っていた。その配色はいつかの画廊で見た『田園』という画に描かれた夕暮にどこか似ていた。昼と夜とが溶け合う市街のなかを等間隔に並ぶ街灯達が一斉に灯ると、ふと哀しくなった――街灯達に切り抜かれたあなたの輪郭は影として街路に磔にされる。交差点で路面電車が菱形の灯りを窓から撒き散らして目の前を走り抜けていくと、道行く人々の夕闇に塗れた顔は一瞬だけ明るくなった。人形のようだった。そしてまた夕闇に顔を盗まれる。――風がつめたい。
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