存在

 あなたは珈琲に角砂糖を落としながら、タデウシュ氏の面影を想い、自分もタデウシュ氏のように自分を捨てて夢想に耽りたいものだと考えずにはいられなかった。自分を捨て去る。さながら外套のように今の生活を脱ぎ捨てて、人生を新調することができたら愉快に違いない。旅に出たいとあなたは思った。銜え煙草が重たく感じた。揉み消して、二本目の紙巻に火を点けた。その拍子に懐から手帳が落ちる。


 そういえば例の対策委員会の件はどうなったのだろうか。


 仕事のことを考えると頭が重たくなる。そもそも事の発端は何だったのか。とにかく何か問題が起きて、その問題を解決するべく対策委員会ができたことまでは把握している。そしてその対策委員会にも、ある重大な問題が発生し、その解決にあたるべく別の対策委員会が作られたのだったが、その対策委員会においてまたしても重大な問題が発生したために、つい先日新たな対策委員会が設けられたのだという話だった。人づてに聞いた話なので、どこまで正確な情報なのかわからない。新たな委員会の設置は執務室の指示だったはずだ。第七対策委員会――いや正確には第七対策室だったような気もする。名称などどうでもいいことだが。


 あなたの所属する組織には様々な部署がある。現在も次々と新たな部署が設けられている。一部署は厖大な課を擁し、その下にはさらに無数に枝分かれした係がある。そして前述の通り、何か問題が起こると、すぐさま対策委員会が作られることになる。その対策委員会に生じた問題に対する対策が必要なときは、対策委員会の対策委員会が作られる。そして無論、対策委員会の対策委員会の対策委員会も存在するわけだが、このようにして、どこまでも小さく拡大していく組織の螺旋構造に息が詰まると、あなたは旅に出たいと考えるのだった。どこでもないところへ旅に出たい。



 旅といえば――珈琲を啜りながらあなたは連想する――室長の顔が変わっていたことがどうにも解せないのだった。休暇をとって旅行をした室長は、帰ってくると別人になっていたのである。気のせいで済ませられるような変化ではなかった。その変貌は尋常ではない。室長が代わったのかと訊いたがそうではないという。相貌、背丈、声色、口吻、物腰、どれをとっても以前の室長とは別物なのに、周囲の人々は現室長について言及しようとしない。


「室長、すこし顔つきが変わったようですね」


 あるとき、あなたは訊ねてみた。


「顔が? さあ自分では気づかないな」


「別人のようですよ」


「旅行の効用かもしれない」


「効用」


「旅行はいいよ。日ごろの疲れを癒すことができた。ゆっくりと考え事をすることもできたし、それで自分自身を見つめ直す機会にもなった。それで顔つきが良くなったのかな」


 以前は見ることのなかった人懐こい笑みを浮かべて室長は言った。


「君も今の仕事がひと段落したら休暇をとるべきだ」


 しかし三泊四日ほどの旅行で顔つきが変わるものだろうか。いや骨格まで変わるということは有り得ない。室長は明らかに別人にとって代わられた。いずれ執務室に問い合わせてみる必要がある。と思ったものの、しかし、あなたはその行動を躊躇しないわけにはいかなかった。――室長の変貌について、実は誰もが勘づいてはいるが、しかし、敢えて口を噤んでいるのかもしれない。そんな気がするのだった。何故そんなことになったのか、それはまるでわからないが。ともかく、事実として、現室長の仕事ぶりは旅行前のそれと何ら遜色なく、業務にはまったく支障がない。記憶違いや、話が噛み合わないということもない。客観的にみて室長は室長のままだった。この動かしがたい事実を前にしてあなたの確信は次第に揺らぎ始めている。


 あなたは先刻の給仕の言葉を思い出した。


「人間とは、それに先立つ状態の結果として現在に存在する継続的な存在です」


 はたしてそうだろうか。


 室長ほど極端な例は稀だが、人間がそれに先立つ状態の結果として現在に至ることなく、その継続性を失って独立するのを、あなたは何度か見ている。たとえば行きつけの理髪店でいつも散髪してもらっている理容師がある日突然、左利きになっていた。たしか以前は右利きだった。「以前は右利きでしたね」あなたは確認してみた。


「いえ昔から左利きですよ。そのため鋏も特別製なのです」


「そんなはずはないと思いますが。先月の散髪では右手で鋏を使っていたでしょう」


「まさか。きっと気のせいですよ」


 その他にもいろいろある。ほくろの位置だとか、喫煙習慣だとか、宗教的信念だとか――そういったものがある日突然、変わってしまった人をあなたは幾人も見てきた。「その左頬のほくろは、以前は右頬にありませんでしたか」「筋金入りの喫煙家だったというのに一本も喫まなくなったのはどういうわけです」「以前は熱心に参拝していたはずでしょうが」しかし、たしかに以前はこうだったと主張しても、それを本人に否定されてはどうしようもない。あなたは存在に対する漠然とした不安を抱え、世界がひどく不安定なものに思えてならなかった。

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