遠近法

 その枯葉色の紳士に再会したのは翌週のことである。とりとめもないことを考えながら、喫茶店の二階席で紙巻煙草を喫んでいると、その青い煙の向こうに例の枯葉色の後ろ姿を認めたのだ。思わず声をかけた。


「失礼、……あなたは先日、画のなかに入りましたね」


 すると窓の外を眺めていたそのひとは振り返って、不思議そうにあなたを見た。清潔に整えられた口髭にあなたは快いものを感じた。誰かに似ているようにも思われたが、しかしそれは見知らぬ顔に違いなかった。あなたは同じ質問をした。


「あなたは画のなかに入りましたね。――先週、街角の画廊であなたを見たのです。たしかにあなたは画のなかに入った」


「ああ。そうかもしれません」


「なぜです」


「なぜということもありませんがね」


「差し支えなければ教えてください」


「いや何、ただの遠近法ですよ」


「遠近法とは何のことです」


「空気遠近法。そう見えたというだけのことです。難しく考えることはない。もし驚かせてしまったのなら謝りましょう」


 彼は名刺を出して――あなたはそのときタデウシュという名を知ったのだ――あなたに上品な微笑を送った。


「タデウシュといいます。どうやら私は夢想家の性質があるのです。知らず識らず、夢を、他人に売りつけることもある。どうぞご憫笑下さい」


「夢想家、とはまた聞き慣れない言葉ですね。タデウシュ氏――ところで画のなかに入るには、何か秘訣があるのでしょうか」


「何でもないことですよ。深く考えるのは止しましょう」


「そう言わずに。この一週間というもの、ずっとあなたのことばかり考えていたのです。なにしろ画のなかに入るというのは普通のことではない」


「そうですか、では強いて言うならば、自分を捨て去ることです」


「というと」


「夢想するのです。誰でもない誰かとなり、ここではないどこかへ行く。そう考える。画のなかに入るということはね」


「夢想……」



 あなたはタデウシュ氏の言うことに釈然としない。全体、タデウシュ氏の口から零れるのはことごとく空論ばかりで、何の意味も無いように思われた。はぐらかされているような気もした。


「左様です。画のなかに入りたいと願っている限りそれは叶わないでしょう。ヒントを言います。自分ではない何者かになりたいと考えたとき初めて、あなたはあなた自身の輪郭を越えて額縁の内側へ縮小してくかもしれないのです。そして、ここではないどこかへ行きたいと考えたとき初めて、あなたはあなた自身の認識をやめて、どこにもいなくなるかもしれないのです」


「話が見えてきませんね」


「それはさておき、その状態を第三者が観測した場合、おそらく、まったく新しい『存在の予感』を見出すことになる。実は、先日の画廊の一件もその一例に過ぎません。私は本当に画のなかに吸い込まれてしまったわけではないのです。それはただそう見えたというだけのことです。その夢想の所有者は他ならぬあなたであり、だとすれば、それは、あなた自身が解釈すべき問題だということですよ」


「何が問題だと仰有るのですか」


「存在の揺らぎ――と言って差し支えないでしょう」


 タデウシュ氏は葉巻を銜えていた。その灰銀の煙がふと濃くなったかと思うと、ものの遠近が次第になくなっていくように思われた。あの夜と同じだ。――そのことに気づいたときにはすでにタデウシュ氏の輪郭がぼやけてしまっている。そうして引き止める間もなく葉巻の香りだけを残して氏は煙のごとく消失してしまうのだった。先週の夜と同じようにあなたはそこに取り残される。白昼夢を見ていたのだろうかとも考えたが、タデウシュ氏の気配がまだはっきりとこの場に残っていることは確かだった。夢ではなかったのだ。「お下げいたします」何事も無かったかのようにタデウシュ氏の使った皿を片づけ始めた給仕に、あなたは話しかける。


「君、いまのを見たか」


「ええ向こうから」


「彼は一体、何者なのだろう」


「さあ。夢のようなものだと僕は思いますね」


「夢とは――」


「わかりません。夢なのです」


「彼は常連か」


「忘れた頃にやってくるひとです。そしていつも夢のように消えてしまう。これは僕のきわめて個人的な見解ですが、あれは人間ではなく現象ですよ。こだわるのは止すべきです」


「現象……」


「そうです。現象ですよ。つまり人間とは、それに先立つ状態の結果として現在に存在する継続的な存在でしょう。ところがあのタデウシュという人物は、ある時点において独立する断続的存在なのです」


「ややこしい話になるね」


「口うるさくもなりますよ。なにしろ扉を開けずに入室し、扉を閉めずに退室する人物のことですからね。なんという非常識。だからそう、まさしく、あれは人間というより現象と呼ぶべきだ。一給仕として、あの客にはひどく閉口しているのですよ。いやはや」



 給仕は小さく嘆息し、厨房の方へ歩いて行った。

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