7-3
ゆらりと、銀縁眼鏡のが現れた。男子トイレからだ。ワタルは初めて男を正面に捉えた。
いや、折角の有利な状況を、この男は何故みすみす無駄にするような真似を……?
刹那、女子トイレから素早く出てきた黒ずくめの男がナイフを振りかざしてきたのに気づく。ワタルは、ほんの少し動きが遅れてしまい、右側から背中にかけて、刃先を掠めさせてしまった。
「くっ……!」
しかし、すかさず胸ポケットに仕込んでいた護摩所お手製の小型テーザー銃で反撃。見事男に電極が命中し、動けなくなった隙を見てすかさずナイフを奪い、男に差し向けた。
「そうですか。油断していたようですね」
そう言って、男は両手を上に挙げた。
「もう一人のディレイド、高杉ミオリの身柄をアンタに渡したら俺を見逃してくれる。そんな上手い話、信用すると思ったのか」
「高杉ミオリは見つかっていないんですか?」
銀縁眼鏡の男は溜息を漏らした。
「どうします?ここで私を殺しますか」
「……ここから出ろ。俺の前を歩け」
「どうしろと?」
「二階にバルコニーがあるな? そこまで連れて行け。妙な真似をしたらすぐに刺す」
ワタルはテーザー銃を袖に忍ばせる。ため息をついた男は腕を下ろし、とぼとぼとトイレから退出する。ワタルもそこに付き従う。ホールでは、既にエリシアのライブが始まっていた。
階段を昇る男の斜め後ろを、ワタルはぴったりと付いていく。段を一つ一つ踏むごとに、背中の傷がヒリヒリと痛む。ワタルの肌には自然と脂汗が浮かんだ。
『ワタルくん、聞こえる? 画像検索にかけたんだけど、その男が由良と一緒に映ってる写真があったよ。由良の仲間で間違いない』
「分かった、ありがとう」
ワタルの声に、男が反応する。
「何か言いました?」
「ガーデンSAKIという花屋でリンドウを買ったのはお前だな」
「そうですよ。花屋にいるらしいという情報が入ったので、目ぼしい場所を探していました。当たりでしたね。あなたと同年代くらいの見た目をした女が、店を手伝っていました。まあヤクザとか半グレとは違いますから、
男は、とんでもないことを淡々と言ってのける。ワタルは苛立ちを顔に表した。
「ある日、高杉ミオリは花屋の息子の崎村勇太郎と花火大会に出かけました。我々も後を追いました」
「そこで拉致には成功した。そして太田殺害の後、リンドウの茎を勇太郎の下駄箱に入れた……花はどうした?遺体に仕込んだのか?」
「その通りですよ。よくお分かりですね」
「太田和征と名取均には接点がなさ過ぎる。同じ殺し方をされていたとしてもそれだけで連続殺人と断定するのは早計だ。だけどもし、同じ花びらが二人に仕込まれていたとしたら……警察が事件を連続殺人だと断定した早さにも納得がいく」
「頭もなかなか切れるようで」
階段を昇りきり、二階に到着していた。そのまま四つの会議室を通り過ぎれば、バルコニーへ繋がる出口だ。男は、聞いてもいないのに言い訳がましいことを言い始めた。
「古郡を相手に、既得権益に与る企業や政治家が立ちはだかったんだよ。由良さんもその一人だ。手の平を返して古郡を潰しにかかった。ソルアマゾネスが人体に悪影響を及ぼすということを証明できれば、藻類バイオマスの実用化にはストップをかけられる。そのために、あなたと高杉ミオリを、我々の勢力が狙ったんです。君たちディレイドの身体を調べて世間に公表するためにね。だから古郡は、その前にあなたを消してしまおうとしたんだ」
バルコニーにたどり着く。
「外へ出ろ」
「はい」
空はすっかり暗くなっているが、ワタルと男は赤坂の高層ビル群によって煌々と照らされている。
「ゴマちゃん、アレ頼むわ」
『わかった』
護摩所はドローンに黒いポーチを一つ取り付け、大使館へ向けて飛ばした。
「ひざまずけ」
ワタルに言われた通り、男はバルコニーの際で両手を後ろに回し、膝を地面に付ける。それをワタルは、用意していた縄で縛った。
ドローンが、バルコニーに黒い鞄を落としていった。
「それは何だ?」
ワタルは、厚手の手袋をはめて鞄を開け、中身を取り出した。
名取の飼っていた、毒蜘蛛。
「俺の母親を咬んだやつとは少し種類が違うが、こいつもまあまあ毒があるらしい。然るべき処置をしなければ、死ぬ」
「ちょっと待ってくれよ……」
ワタルは、蜘蛛を男に近づける。そして容赦なく、その牙を男の左肩に咬ませた。
「ああぁぁぁぁあぁっ!」
鞄に蜘蛛を戻したワタルは、溝呂木の前にしゃがみ込んだ。
「どうせ殺さないと思ってたか?甘かったな」
「頼むよ、助けてくれ、おい!」
「いいよ。ディレイドに関することを全て忘れると誓ってからの話だ。そしたら解毒剤を持ってこさせる。安心しろ。お前は男だから子供をディレイドにすることはない。多分な」
男は、全身から汗を滝のように流している。
「ああ、ああ。忘れる。忘れるから……」
「そうか。じゃあ由良にも決別の連絡を入れろ。今生の別れだ」
「え?」
「死ぬか?」
「分かった、分かった……するから、スマホを取ってくれ」
ワタルは男のポケットからスマートフォンを取り出し、ロックを解除させる。そこから連絡帳を開いた。
「『由良賢吾』これか。本名で登録してるんだな」
ワタルは発信ボタンを押し、男の耳にスマホを当てる。由良の声がした。
『
「あの……あの」
『なんだ、どうした?』
「俺もう、あなたとは組めません。すいません……足洗います」
『おい。何の冗談だ』
ワタルはスマホを榊から離し、通話を引き継いだ。
「よう。有根航彌だ」
『誰ですって?』
「とぼけるかよ。榊さん、このままじゃ死んじまうよ。早く来たほうがいいんじゃないか?」
『さあ……いや、私はサラベス大使館に急いで向かっていますが、榊なんて男は知りませんよ』
「じゃあお前が今話してるこの番号は誰のだよ!」
『間違い電話でしょうね』
そこで通話は切断された。
榊と呼ばれたこの男。コイツも結局、トカゲの尻尾か。
「惨めなもんだ」
榊は、過呼吸になりかけていた。
「血清は持って来させる。安心しろ」
俄かに、歓声が聞こえる。エリシアのライブがフィナーレを迎えているのだろう。
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